高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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66 春の宵 - la nuit douce -

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 春の花々が綻び始めたある日、講堂に残っていた最後の学生を見送ったイオネの元へ、毛織物の外套に身を包んだアルヴィーゼが現れた。顔を合わせるのは、三日ぶりだ。
「早かったのね。おかえりなさい」
「つれないな、イオネ。俺は百年にも感じた」
「おおげさね」
 イオネはくすくすと笑って、教本と学生たちの課題を揃えている。
 事実、アルヴィーゼの帰還は予定よりも一日早かった。陸上貿易で協力体制にあるルメオの領主との会合に出ていたが、自らその場を主導してさっさと切り上げ、食事の時間も惜しんで帰路についたのだった。
 アルヴィーゼは優しく目を細め、イオネの目の前にゆったりと歩み出て、立ち止まった。
「…何してるの?」
「お前の口付けを待ってる」
「いやよ!仕事場でそんなことしないわ」
 イオネは顔を赤くしていきり立った。
「俺の仕事場ではするだろう」
 厳密には、口付けだけではない。
「あなたは、公私の境が曖昧なのよ。わたしにとって大学は神域と同じなの。だいたい、誰がいつ来るかもわからないのに、するわけないでしょう」
「仕方ないな」
 アルヴィーゼは溜め息混じりに言うと、イオネの腰を強く引き寄せて外套の中に閉じ込め、抵抗する暇も与えず身を屈めて、とても慎ましいとは言えない口付けをした。
「んんー!!」
 イオネは怒ってドンドンとアルヴィーゼの背を拳で叩いたが、アルヴィーゼは意に介さずイオネの口の中を舌で蹂躙した。アルヴィーゼを引き剥がそうとするイオネの手から力が抜け、吐息が甘く変じ始める。
「んぁ、ちょっと…だめ」
「ダメじゃないだろ。肌が熱くなってきたぞ。この中はどうだ?」
 アルヴィーゼの手がドレスの上で腰を這い、下腹部に触れた。イオネがびくりと身体を強張らせた瞬間、がたがたと物音が聞こえた。
 唐突に我に返ったイオネは飛び上がるようにアルヴィーゼを押しのけ、身体を離した。
 物音のした方を振り返ると、講堂の扉の前に、先ほど出て行った女学生が立ちすくんでいた。哀れなほどに顔を赤くしている。
「フィ、フィオリさん…忘れ物?」
 平静を装ったつもりだが、声が裏返った。そうでなくても顔が火を吹きそうなほど熱いから、遠目にも真っ赤になっているのが一目で分かってしまうだろう。無駄な抵抗だ。
「あ、あの…わたし、アリアーヌ教授にまだ質問があったのを思い出して…で、でも、でも、大丈夫です。明日訊きます。全部、まるっと忘れてしまいましたので……で、で、では」
 最後の方は殆ど聞き取れないほどか細い声だった。女学生がスススと扉の向こうに姿を消すと、居たたまれない沈黙がイオネを襲った。講堂の木の机やよく磨かれた床の匂いでさえ、イオネを責めているように感じる。
 アルヴィーゼは、顔を背けて肩をブルブル震わせ、声を殺して笑っている。
「し…っ、信じられない!こんな…場所も弁えずに!あなた頭おかしいわ!」
「ははは!」
 アルヴィーゼが堪らず声を上げて笑った。
「笑い事じゃないわよ!もう、あなたなんか知らない。せいぜいそこで楽しく笑っていなさい。永遠に」
「まあ、待て」
 アルヴィーゼは機嫌良く笑いながら、イオネが机から持ち上げようとした鞄をヒョイと取り上げ、イオネより先に扉を開けた。
「俺はお前を食事に誘いにきたんだ。婚約者どの」
「こん…」
 イオネは顔を赤くして、口を噤んだ。反射的に否定しようとしたが、数週間前から左手の薬指に嵌めている婚約指環が自己主張をし始めた。
 確かに今のイオネは、なんだかわけもわからぬうちに囲い込まれた気もするが、アルヴィーゼ・コルネールの婚約者であることに間違いない。
「それで、旅装も解かずに来たの?」
「そうだ。拒否はできないぞ。屋敷には今日の食事は不要だと使いを出してある」
「勝手な人ね!」
 イオネは扉を開けて待つアルヴィーゼをぷりぷりと詰りながら講堂を後にした。
 青春時代の四年を学生として、それから四年余りの日々を教授として過ごしてきたこの場所も、過去の居場所になる日が近付いている。

 アルヴィーゼがイオネを連れて行ったのは、共和国政府の要人や政治的な影響力を持つ豪商たちが多く通う高級料理屋だった。
 それも、普通の料理屋と違って、歌劇や演奏を楽しみながら食事を堪能できる。
 国際都市のユルクスだけあって、歌劇は共通言語のマルス語の他、ルメオ語やエマンシュナ語、その他 の地域で話される言語で上演されることもある。
 マルス大陸で話される言語はどれも強い方言程度の違いがあり、通常は異なる言語の意味を完全に理解することは困難だが、観客は殆どがルメオの教養人だからどの言語で上演されても何となく意味が通じるのだ。その上、オペラは歌曲が中心でその他の部分はあまり重要視されないということも、人気の理由の一つとなっている。
 半円形のホールの一階部分が一般席で、それよりも高価な二階部分の枡席、更に格式高い三階部分の枡席と、階層が高くなるにつれ、内装の豪華さも料理の格も上がっていく。
 ルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールともなれば、用意されるのは最上位の枡席だ。
 この日の演目は人気の劇作家によるエマンシュナ語のオペラで、敵国の王太子と王女が恋に落ちる物語だった。
 王子役の歌手が派手な装いで伸びやかなテノールの歌声を披露し、顔も知らぬ王女を海の神殿へ探しにくる場面から物語が始まる。
「これって、あなたのひいおじいさまとひいおばあさまの話?」
 とイオネが訊ねたのは、三代前のエマンシュナ国王レオネと王妃ルミエッタのことだ。元は敵同士だった二つの王国が王子と姫の婚姻によって和平の道を歩み同盟を結んだという史実は、今やこの大陸における一般教養であると同時に、子供から大人まで親しまれるロマンティックな恋の物語として広く流布している。
「そうらしいな。曽祖父は海の怪物など倒していないが」
 ニヤリと笑ったアルヴィーゼの視線の先では王子が剣を抜き、波打つ青と白の布の海から現れたぐねぐねと蠢く張りぼての大蛇に飛びかかっていった。
「大衆演劇には大胆な脚色と空想が必要だもの。ちょっと派手だけど、王子さまのエマンシュナ語の発音はとても美しくて官能的だわ」
 アルヴィーゼの眉がピクリと動いたことに、イオネは気付かなかった。
「…官能的?」
「これは私見なのだけど、エマンシュナ語の発音の難しさと優美さは独特の鼻母音に拠るところが大きいわ。あの王子さまは鼻母音の発音がとても美しいの。甘みのある低音がいっそうそれを際立てているわね」
 イオネは給仕が運んできた白身魚のムニエルを切り分けて上機嫌に口に運んだ。
「俺は?」
「何?」
「俺の声はどうだ」
 アルヴィーゼは大真面目だ。イオネは何だか可笑しくなってしまった。
「張り合わないで。彼は美しく声を響かせる専門家なのよ。それにわたしには、あなたの方がずっと…」
 と、イオネは口を噤んで麦わら色のワインを飲んだ。
「ずっと?」
 アルヴィーゼの声を聞くと、強い蒸留酒を喉に流し込んだ時のように身体の内側が熱く灼かれ、酔ったという意識もないうちに正気を失っている。
 初めて会った日から、この声の響きは変わらない。静かな夜の海に広がる霧のような、心をざわつかせる声だ。
「せっかく観劇に来たんだから、集中させて」
 イオネは咳払いをしてオペラグラスを取り、舞台の方へ顔を向けた。背中に刺さるアルヴィーゼの視線がじりじりと痛い。
「イオネ」
 アルヴィーゼの声が耳に直接触れた。思わずオペラグラスを落としてしまいそうなほど、官能的な響きだった。
「膝の上に座れ」
「いやよ」
 イオネの顔が耳まで真っ赤に染まった。
 アルヴィーゼ・コルネールはまったくタチが悪い男だ。どんな声で、どんな目で誘惑すればイオネが抵抗する気をなくしてしまうか、知り尽くしている。
「三日ぶりに会えたというのに触れさせてもくれないのか?婚約者どの」
「いっ、いちいち強調しなくてもいいでしょ」
 イオネは差し出された手を取り、椅子から立ち上がった。下の舞台では王女が美しい高音で王子の武勇を讃え、「かの人は月神かしら」などと歌っている。
 イオネはそろりと腰をにじり寄せてアルヴィーゼの膝に座り、階下の一般席からこちらが見えてしまわないかと気もそぞろで舞台へ目を向けていた。
「誰にも見えない」
 アルヴィーゼはイオネの腰に腕を巻き付け、ふわふわの髪の毛に口付けをした。
 じわりと伝わってくるもどかしい熱が、広い劇場から半ば隔離された枡席の閉塞感と美食の器から漂う溶けたバターの匂いを強く感じさせ、イオネを少しだけ大胆にした。
「わたしも…」
 イオネは腰に巻き付いたアルヴィーゼの手に触れ、その肩に頭を預けて首を僅かに傾けた。
 鼻先がアルヴィーゼの顎に触れ、麝香の香水とアルヴィーゼの肌の香りがイオネの感じやすい器官をくすぐった。
「会いたかったわ。婚約者さん」
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