高嶺のスミレはオケアノスのたなごころ

若島まつ

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67 選ぶべき運命 - le destin -

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 甘く秘めやかな声だ。
 高音を震わせて空気に響くソプラノ歌手の歌声などよりも、アルヴィーゼにはよほど美しく聞こえた。
 アルヴィーゼは急いたようにイオネの身体を強く抱きしめ、細い顎をつまんで唇を重ねた。
「抵抗しないのか?」
 大学でした時は拒んだくせに、今はしどけなく甘えてくるような仕草で口付けに応じている。イオネをその気にさせることには、どうやら成功したらしい。
「わたしだって、あなたが思っているより寂しかったのよ」
「誘惑が巧くなったことだ」
「本心を言っただけで誘惑しているだなんて言われたら、何も言えないじゃない」
 アルヴィーゼは不満そうに尖らせたイオネの唇に噛み付いた。舌を絡め、熱く上がる吐息を呑み込み、ドレスの裾から手を滑り込ませて脚に触れると、イオネは小さく唸って唇を浮かせた。
「…料理が冷めるわ」
「熱いものはお前で充分だ」
「あ…!」
 下着の隙間から指で触れたイオネの中心は、既に濡れていた。
 熟れた突起を円を描くように撫でると、イオネが唇を結んで腰を震わせ、袖にしがみついてくる。
「会えないあいだ、自分で慰めていないだろうな」
「しないわ。そんなこと…」
「俺はした。毎晩、お前を思いながら」
「へ、変態!一日も我慢できないって言うの?」
「シィ。劇の途中だぞ」
 アルヴィーゼが意地悪く言って指を奥へ埋めた瞬間、イオネが喉の奥で呻いた。
 イオネの内側が熱く、柔らかく熟れて、アルヴィーゼは自らの体内で発する脈動を更に強く感じた。
 三日間、その残り香や書面の上の筆跡をよすがに思い起こしていたイオネの肉体が、今確かな熱を伴って腕の中にある。
 観劇と食事を楽しむだけのつもりだったが、もはや歌など耳に届かない。秘めやかに喘ぐイオネの声ほど、アルヴィーゼの心を動かすものはない。
「我慢できない、イオネ。今すぐ欲しい」
「ん。だめ…」
 昇り詰める直前で指を抜かれたイオネは、呼吸を荒くしてとろりと溶けたまなこをアルヴィーゼに向けた。
「拒むなよ」
 アルヴィーゼはイオネの腰を掴んで抱き上げ、向かい合うように膝の上に座らせた。
 男女の歌声が空気を震わせ、弦楽器のわななくような音色が美しい旋律を奏でている。
 イオネの瞳が暗くなり、アルヴィーゼだけを映した。紅潮した頬、乞うように開いた唇、乱れた髪から僅かに覗く耳――イオネのすべてがアルヴィーゼの世界の中心だ。
「悪魔」
「だが俺だけは赦してくれるんだろ?」
 アルヴィーゼは機嫌よく微笑んで、恨めしげに膨れたイオネの赤い頬に口付けをした。
 ベルトを外して前を寛げ、イオネのドレスの襞を掻き分けて下着の隙間から蜜の滴る泉に触れた時、イオネが焦れたように唸った。
「本当に憎たらしいひとね」
 掠れた声でイオネが言い、首に腕を巻きつけてきた。ざわざわと胸に興奮が上ってくる。
「惚れた弱みにつけ込むなんて、狡猾だわ」
 ふつと何かが頭の中で切れた気がした。
 アルヴィーゼはドレスの下でイオネの腰を掴み、その中心に熱くなった自身の一部を突き立てた。イオネの悲鳴は、歌手の歌声にかき消えた。
「…ッ、ああ、イオネ。惚れた弱みと言うなら、俺がどれほど不利な立場にあるかわかっているんだろうな」
 柔らかく狭い快楽の熱源に包まれると、世界の一切が消えて無くなってしまう。たったひとつ、イオネを残して。
 この世にただ二人だけが存在し得る瞬間があるとすれば、この時だ。
「嘘よ…いつも余裕そうな顔して、振り回すじゃない…!今だって…」
「余裕のあるやつが場所も弁えず盛ると思うのか?十代のガキみたいに醜態を晒して」
「あ…」
 イオネの甘い吐息が首をくすぐる。身体の最も熱い部分を包むイオネの肉体が狭まり、無意識のうちに自ら感じやすい場所に当てようと腰を揺らして、アルヴィーゼを恍惚の渦へいざなった。

 曾祖父母の物語のように、顔も知らない女を探しに敵国まで乗り込んだ王子の妄執とも言える情熱は、正直なところずっと理解不能だと思っていたが、今なら分かる。
 クレテ家の調書に記されたイオネ・アリアーヌ・クレテの名を見つけたときから、岩肌に僅かに生えた苔のような好奇心が絶えず腹の底に居座り続けていた。ただの文字の羅列が舌の上で音を持ち、その音に似つかわしい女の空想が頭の中で霧のように現れた時、既に苔は岩を覆い尽くしていた。
 そして、女は空想ではなくなった。
 思えばあの出逢いは、奇妙な偶然ではなかったかもしれない。
 アルヴィーゼは今まで一度も運命というものを信じたことがなかった。しかし、自らが選び取ったものが結実し、それまでの生き方を変えてしまうほどの鮮烈な影響をもたらしたとすれば、自ら運命を変えたと言っていいかもしれない。
 夏の終わりの講堂で、探究心に満ちあふれたスミレ色の瞳を目にしたとき、好奇心は抗いようのない執心に変わった。
 これが愛と呼べるものだと気付くまで、長い時間は必要なかった。
 イオネ・アリアーヌという名の女は、この世で最も価値のあるものだったのだ。
「イオネ――」
 人生の終幕には、ここにいたい。
 このおんなの中に。
「愛してる、イオネ。もういいだろう。婚約期間など無駄だ」
「んんっ…!」
 ぎゅう、とイオネがアルヴィーゼを締め付けた。
 歓喜が、巨大な白波となって迫ってくる。
「今すぐ妻になれ。神や国などどうでもいい。俺に誓え。俺をお前の夫にすると。この場で」
 イオネが律動に耐えかねて全身を震わせ、アルヴィーゼにしがみ付いた。
「…っ、いいわ。アルヴィーゼ…」
 アルヴィーゼは、温かくふっくらした唇が耳に触れる距離で囁いた秘めやかな言葉を、法悦に震えるイオネの中で聞いた。
「誓うわ。妻になってあげる」
 アルヴィーゼはイオネの腿を抱えて身体を反転させ、夢中でその奥を突いた。すぐにイオネが再びの絶頂を迎えてアルヴィーゼの身体を腕に包み、小さく愛の言葉を囁いた。高らかな歌声と楽団の奏でる音色が響く中、何よりも明瞭に聞こえた。
「愛してる、アルヴィーゼ。わたしの夫…」
 愉悦、歓喜、至福――無様にもアルヴィーゼはあらゆる感情に肉体を支配されて、獣のようにイオネの身体を貪った。
「はッ、イオネ――俺のイオネ」
 その胎を自分のもので満たしたとき、壮大な旋律の高まりと共に第一幕が終わった。
 信じがたいほどの幸福が全身に満ちる。イオネの目にも同じ熱が映っていた。
「お前を連れて行くぞ。ルドヴァンに」
「わたしの覚悟はもうとっくに決まっているのよ」
 イオネの目が柔らかく弧を描いて、細い指がアルヴィーゼの髪に触れた。
 アルヴィーゼは長く甘い口付けをし、イオネの息遣いと甘美な味に夢中になりながらその中から出た。
 まだここにいたいが、ちょうど幕間だ。やるべきことがある。
「立てるか」
 アルヴィーゼはさっさと服と髪を整え、くたっとしたイオネのドレスの下に手を入れて下着を直してやった。
「どこか行くの?」
「元首が来ている」
「それが?」
「ちょうどいい機会だ」
「え…ひゃっ!ちょっと!」
 イオネが叫んだのは、アルヴィーゼがイオネが立ち上がるのを待たずにその身体をヒョイと横向きに抱き上げてしまったからだ。
「おっ、下ろして!」
「歩けないだろう」
「何も今じゃなくても…挨拶なら劇が終わってからでもいいじゃない」
 イオネはアルヴィーゼの意図を完全には理解していない。
「いや、今だ」
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