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72 パンタ・レイ - panta rhei -
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結局、イオネの里帰り期間は二か月の予定に落ち着いた。
イオネへの教育はまだしも、ドレスをはじめ嫁入り道具の準備はひと月ではとても間に合わないとデルフィーヌが文句を付けたためだ。
「でも、母さまはトーレに長くいても平気なの?エリオス伯父さまとの仲は最悪じゃない」
イオネの最大の懸念点は、それだ。
父が死んだ時に二人は完全に訣別したはずだった。が、デルフィーヌは呆れたように首を振った。
「いつの話をしているの?わたくしとエリオスはとっくに和解しています」
初耳だ。八年前から時が止まっていたのは、自分だけだったのかもしれない。
「わたしは夫を亡くし、エリオスは当時の恋人と別れさせられて当主の座に据えられたばかり。あの頃はお互いに相手のことを思い遣る余裕なんてなかったのよ。でも、パンタ・レイと言うでしょう」
「ああ。それ、好きな言葉よ」
万物は流転している。
天体ほどに無数の未知なるものが、その流転の先々に転がっているのだ。
「お前もこの一年ほどでずいぶん変わったわ」
と、デルフィーヌは柔らかく微笑んだ。
「そうかもしれないわ」
世界の景色が変わってしまうほどの出逢いを、何と呼ぶのだろう。
夏の終わりにアルヴィーゼが自分を見つけなかったら、今頃はまだ大学で講義の準備に勤しんでいたかもしれない。愛すべき人生に、別の愛すべき人生が加わった歓びは、アルヴィーゼとの出逢いがもたらしたものだ。
「アルヴィーゼといると新しい世界が見えるの。波に攫われて見たことのない場所に流されてみるのも悪くないって、あの人と心を通じて気付いたわ」
「厄介な旅の伴侶を選んだものね」
デルフィーヌが可笑しそうに言った。
「それなら尚更、旅支度に手を抜けないわよ」
間もなく訪れる二か月が、故郷で暮らす最後の日々になる。
失われたトーレでの時間ではなく、これから過ごすであろうトーレが恋しく思えることも、アルヴィーゼがもたらしたものだ。
アルヴィーゼは、イオネの二か月の里帰りを不承不承受け入れた。イオネと母親の意向が一致しては、夫として承諾せざるを得ない。
「その代わり――」
と、アルヴィーゼは条件を付けた。
「先に王都へお前を連れて行く」
「謁見のために?」
「ああ」
アルヴィーゼはさっさとイオネを国王の御前に連れ出し、公式にルドヴァン公爵の妻であると認めさせるつもりだ。
ところが、イオネは難色を示した。
「うぅん、どうかしら…」
イオネにとっては順序などそれほど重要ではないが、デルフィーヌは嫁入りの準備が整ってから謁見すべきと考えているはずだ。イオネとしては、絶対的規範である母親を出し抜くことになることが気がかりだったのだ。
しかし、そんなことはアルヴィーゼの想定の範囲内だ。
「アストレンヌ城の書庫で一日過ごす権利があるとしたらどうだ」
「行くわ」
目の色を変えたイオネを、アルヴィーゼは苦笑しながら抱きしめた。
なんともちゃっかり者の、可愛い女だ。
アルヴィーゼにしてみれば、イオネ・アリアーヌ・クレテがルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールの妻であるという国王のお墨付きを得ることで、離れている間にイオネに近づこうとする不届き者を徹底的に牽制しようとしているのだが、イオネ本人にはそんな自覚はない。
(まあ、それでいい)
知らぬ間に掌の上で転がされていると知った時のイオネの顔を想像するのも、愉しみのうちのひとつだ。
空が白み始めた頃、騎兵隊に囲まれた一台の馬車がルドヴァン城を発った。
「あなたがいなくなったと知ったらみんな慌てるんじゃない?」
イオネが眠たそうにアルヴィーゼの肩に頭を預けたまま言った。アルヴィーゼの寝台で眠っていたところを叩き起こされたばかりだ。
「手紙は残してきた」
「逃避行みたいね。みんなには悪いけど、ちょっとわくわくするわ」
「何から逃げるんだ?」
アルヴィーゼが悪童のような顔で笑った。
「そうね…曖昧な規範とか、今まで無意識に守ってきた不文律とかかしら。例えば、夜が明ける前には外に出ないこと」
「お前らしい」
この時、後ろの空が金色の光を放って街道を照らし始めた。窓の向こうに見える山の稜線はまだ黒く、群青の絵の具で塗りつぶしたような空に赤みが差して、ちょうど朝と夜の狭間を彷徨っているようだった。街路樹に囲まれた石畳の道が、見えなくなるほど遠くに続いている。
「百年前に造られたとは思えないほど綺麗ね。美しくて、長い道」
「ガイウス街道。表向きには王家との関係の深さを誇示するために造ったとされているが、実は曽祖父が王都の友人に会いたがる曽祖母のために造ったそうだ」
アルヴィーゼの声は、どことなく誇らしげだ。
「あなたのひいおじいさんっぽい」
イオネはくすくす笑って長い石畳の先を見た。
四日掛けて、馬車は王都へ着いた。
イオネは二度目に訪れた王の居城アストレンヌ城で、王太子ルキウスに出迎えられた。
「衛兵からコルネール家の馬車が近付いてくるって聞いた時は何事かと思ったけど、本当に何事?ルイ」
と、ルキウスは嬉しそうにアルヴィーゼと同じ緑色の目を細め、じゃれつくように抱擁した。この国に於ける立場は王太子だが、兄のように慕っている再従兄の前ではまだ十代の人懐こい少年だ。
「アリアーヌ教授。あなたにもまた会えて嬉しいよ。ゆっくり話してみたかったんだ」
ルキウスが淑女への挨拶のためにイオネの手を取ろうとすると、アルヴィーゼがそれとなくルキウスの手を押さえて向きを変えさせた。
「イオネとの挨拶はこっちだ、リュカ」
イオネとルキウスは苦笑しながら互いに握手を交わした。
「ルイのことで困ったら僕を頼るといい。その気になれば彼に命令できる立場だから」
「貴重な味方だわ。ルキウス王太子殿下」
イオネが大真面目に言うと、アルヴィーゼが幼い弟を咎めるように片方の眉を吊り上げた。
この夜開かれた王家の晩餐会で、イオネは自分が既にアルヴィーゼの妻として認識されていることを知った。
席順のない私的な食堂の円卓で、王は当然のようにイオネの隣に腰掛け、「妹が一人増えた」などと冗談を言った。
「図々しいですね、父上。妹にしては歳が離れすぎだ。せいぜい娘でしょう」
ルキウスが父王を揶揄うと、アルヴィーゼはニヤリと笑ってイオネを挟んだ隣に鎮座するレオニード王に視線を向けた。
「あなたが姪と言えば姪になる。そうだろう、イオネ」
イオネは顔を赤くして顎を引き、唇をむずむずとさせた。
「竜を学問で制圧しようとする者を一族に加えたいと思ってくださるなら、姪になりたいです」
イオネが冬の宴でのことを口にすると、レオニード王は豪快に笑い声を上げた。
夜半。――
ガタガタと揺れる寝台の横には、獣皮紙が置かれていた。
『横着者の我が甥ルドヴァン公爵どのと竜を学問で制圧する学者どのの婚姻を認める』
という走り書きとエマンシュナ国王レオニード・アストルの公的な署名がされた婚姻証明書に、イオネとアルヴィーゼの署名が記されている。
「あっ――!」
夜の静寂を裂いたのは、イオネの短い叫びだった。
「こら」
アルヴィーゼ背後から腕を伸ばし、イオネが咄嗟に噛み締めた唇をつまんで開かせた。
「抑えなくていい。人払いはした」
「そういう問題じゃ…」
抗議を最後まで口にすることは叶わなかった。
後ろから強かに腰を打ちつけられて、イオネは寝台に突っ伏した。
「んぁっ…!いや。だめ…加減して」
「無理な相談だ。初夜だぞ」
「初夜はもうしたでしょう」
「何度あってもいいだろ」
アルヴィーゼの与える衝撃が、腹の奥に甘く響いてイオネから世界の一切を奪っていく。
快楽に抗いきれず絶頂に達した後、イオネはごろりと仰向けに横たわってアルヴィーゼの身体を抱き寄せた。
この荒海のような男を、もっと深く、身体中で感じたい。
「イオネ・アリアーヌ、俺の妻――」
アルヴィーゼが柔らかく目を細めてイオネの頬に触れた。
「この世の最果てまで俺と共に在る覚悟はできているな」
いつもの自信に満ちた傲岸さはない。どこか懇願するような響きさえあった。
故郷の海に似たエメラルドグリーンの瞳が、月明かりを孕んで鈍く光っている。吸い込まれそうだ。
「氷山の上でも、海の底でも、あなたと一緒なら大丈夫だって確信しているわ。アルヴィーゼ」
破顔したアルヴィーゼが夕立のように口付けを降らせ、イオネの胸に甘やかな痛みを走らせた。
こういう痛みなら、悪くない。ずっと感じていたいと思うほどに。
イオネへの教育はまだしも、ドレスをはじめ嫁入り道具の準備はひと月ではとても間に合わないとデルフィーヌが文句を付けたためだ。
「でも、母さまはトーレに長くいても平気なの?エリオス伯父さまとの仲は最悪じゃない」
イオネの最大の懸念点は、それだ。
父が死んだ時に二人は完全に訣別したはずだった。が、デルフィーヌは呆れたように首を振った。
「いつの話をしているの?わたくしとエリオスはとっくに和解しています」
初耳だ。八年前から時が止まっていたのは、自分だけだったのかもしれない。
「わたしは夫を亡くし、エリオスは当時の恋人と別れさせられて当主の座に据えられたばかり。あの頃はお互いに相手のことを思い遣る余裕なんてなかったのよ。でも、パンタ・レイと言うでしょう」
「ああ。それ、好きな言葉よ」
万物は流転している。
天体ほどに無数の未知なるものが、その流転の先々に転がっているのだ。
「お前もこの一年ほどでずいぶん変わったわ」
と、デルフィーヌは柔らかく微笑んだ。
「そうかもしれないわ」
世界の景色が変わってしまうほどの出逢いを、何と呼ぶのだろう。
夏の終わりにアルヴィーゼが自分を見つけなかったら、今頃はまだ大学で講義の準備に勤しんでいたかもしれない。愛すべき人生に、別の愛すべき人生が加わった歓びは、アルヴィーゼとの出逢いがもたらしたものだ。
「アルヴィーゼといると新しい世界が見えるの。波に攫われて見たことのない場所に流されてみるのも悪くないって、あの人と心を通じて気付いたわ」
「厄介な旅の伴侶を選んだものね」
デルフィーヌが可笑しそうに言った。
「それなら尚更、旅支度に手を抜けないわよ」
間もなく訪れる二か月が、故郷で暮らす最後の日々になる。
失われたトーレでの時間ではなく、これから過ごすであろうトーレが恋しく思えることも、アルヴィーゼがもたらしたものだ。
アルヴィーゼは、イオネの二か月の里帰りを不承不承受け入れた。イオネと母親の意向が一致しては、夫として承諾せざるを得ない。
「その代わり――」
と、アルヴィーゼは条件を付けた。
「先に王都へお前を連れて行く」
「謁見のために?」
「ああ」
アルヴィーゼはさっさとイオネを国王の御前に連れ出し、公式にルドヴァン公爵の妻であると認めさせるつもりだ。
ところが、イオネは難色を示した。
「うぅん、どうかしら…」
イオネにとっては順序などそれほど重要ではないが、デルフィーヌは嫁入りの準備が整ってから謁見すべきと考えているはずだ。イオネとしては、絶対的規範である母親を出し抜くことになることが気がかりだったのだ。
しかし、そんなことはアルヴィーゼの想定の範囲内だ。
「アストレンヌ城の書庫で一日過ごす権利があるとしたらどうだ」
「行くわ」
目の色を変えたイオネを、アルヴィーゼは苦笑しながら抱きしめた。
なんともちゃっかり者の、可愛い女だ。
アルヴィーゼにしてみれば、イオネ・アリアーヌ・クレテがルドヴァン公爵アルヴィーゼ・コルネールの妻であるという国王のお墨付きを得ることで、離れている間にイオネに近づこうとする不届き者を徹底的に牽制しようとしているのだが、イオネ本人にはそんな自覚はない。
(まあ、それでいい)
知らぬ間に掌の上で転がされていると知った時のイオネの顔を想像するのも、愉しみのうちのひとつだ。
空が白み始めた頃、騎兵隊に囲まれた一台の馬車がルドヴァン城を発った。
「あなたがいなくなったと知ったらみんな慌てるんじゃない?」
イオネが眠たそうにアルヴィーゼの肩に頭を預けたまま言った。アルヴィーゼの寝台で眠っていたところを叩き起こされたばかりだ。
「手紙は残してきた」
「逃避行みたいね。みんなには悪いけど、ちょっとわくわくするわ」
「何から逃げるんだ?」
アルヴィーゼが悪童のような顔で笑った。
「そうね…曖昧な規範とか、今まで無意識に守ってきた不文律とかかしら。例えば、夜が明ける前には外に出ないこと」
「お前らしい」
この時、後ろの空が金色の光を放って街道を照らし始めた。窓の向こうに見える山の稜線はまだ黒く、群青の絵の具で塗りつぶしたような空に赤みが差して、ちょうど朝と夜の狭間を彷徨っているようだった。街路樹に囲まれた石畳の道が、見えなくなるほど遠くに続いている。
「百年前に造られたとは思えないほど綺麗ね。美しくて、長い道」
「ガイウス街道。表向きには王家との関係の深さを誇示するために造ったとされているが、実は曽祖父が王都の友人に会いたがる曽祖母のために造ったそうだ」
アルヴィーゼの声は、どことなく誇らしげだ。
「あなたのひいおじいさんっぽい」
イオネはくすくす笑って長い石畳の先を見た。
四日掛けて、馬車は王都へ着いた。
イオネは二度目に訪れた王の居城アストレンヌ城で、王太子ルキウスに出迎えられた。
「衛兵からコルネール家の馬車が近付いてくるって聞いた時は何事かと思ったけど、本当に何事?ルイ」
と、ルキウスは嬉しそうにアルヴィーゼと同じ緑色の目を細め、じゃれつくように抱擁した。この国に於ける立場は王太子だが、兄のように慕っている再従兄の前ではまだ十代の人懐こい少年だ。
「アリアーヌ教授。あなたにもまた会えて嬉しいよ。ゆっくり話してみたかったんだ」
ルキウスが淑女への挨拶のためにイオネの手を取ろうとすると、アルヴィーゼがそれとなくルキウスの手を押さえて向きを変えさせた。
「イオネとの挨拶はこっちだ、リュカ」
イオネとルキウスは苦笑しながら互いに握手を交わした。
「ルイのことで困ったら僕を頼るといい。その気になれば彼に命令できる立場だから」
「貴重な味方だわ。ルキウス王太子殿下」
イオネが大真面目に言うと、アルヴィーゼが幼い弟を咎めるように片方の眉を吊り上げた。
この夜開かれた王家の晩餐会で、イオネは自分が既にアルヴィーゼの妻として認識されていることを知った。
席順のない私的な食堂の円卓で、王は当然のようにイオネの隣に腰掛け、「妹が一人増えた」などと冗談を言った。
「図々しいですね、父上。妹にしては歳が離れすぎだ。せいぜい娘でしょう」
ルキウスが父王を揶揄うと、アルヴィーゼはニヤリと笑ってイオネを挟んだ隣に鎮座するレオニード王に視線を向けた。
「あなたが姪と言えば姪になる。そうだろう、イオネ」
イオネは顔を赤くして顎を引き、唇をむずむずとさせた。
「竜を学問で制圧しようとする者を一族に加えたいと思ってくださるなら、姪になりたいです」
イオネが冬の宴でのことを口にすると、レオニード王は豪快に笑い声を上げた。
夜半。――
ガタガタと揺れる寝台の横には、獣皮紙が置かれていた。
『横着者の我が甥ルドヴァン公爵どのと竜を学問で制圧する学者どのの婚姻を認める』
という走り書きとエマンシュナ国王レオニード・アストルの公的な署名がされた婚姻証明書に、イオネとアルヴィーゼの署名が記されている。
「あっ――!」
夜の静寂を裂いたのは、イオネの短い叫びだった。
「こら」
アルヴィーゼ背後から腕を伸ばし、イオネが咄嗟に噛み締めた唇をつまんで開かせた。
「抑えなくていい。人払いはした」
「そういう問題じゃ…」
抗議を最後まで口にすることは叶わなかった。
後ろから強かに腰を打ちつけられて、イオネは寝台に突っ伏した。
「んぁっ…!いや。だめ…加減して」
「無理な相談だ。初夜だぞ」
「初夜はもうしたでしょう」
「何度あってもいいだろ」
アルヴィーゼの与える衝撃が、腹の奥に甘く響いてイオネから世界の一切を奪っていく。
快楽に抗いきれず絶頂に達した後、イオネはごろりと仰向けに横たわってアルヴィーゼの身体を抱き寄せた。
この荒海のような男を、もっと深く、身体中で感じたい。
「イオネ・アリアーヌ、俺の妻――」
アルヴィーゼが柔らかく目を細めてイオネの頬に触れた。
「この世の最果てまで俺と共に在る覚悟はできているな」
いつもの自信に満ちた傲岸さはない。どこか懇願するような響きさえあった。
故郷の海に似たエメラルドグリーンの瞳が、月明かりを孕んで鈍く光っている。吸い込まれそうだ。
「氷山の上でも、海の底でも、あなたと一緒なら大丈夫だって確信しているわ。アルヴィーゼ」
破顔したアルヴィーゼが夕立のように口付けを降らせ、イオネの胸に甘やかな痛みを走らせた。
こういう痛みなら、悪くない。ずっと感じていたいと思うほどに。
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