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73 夏の夜 - Julkus; la nuit de l’été -
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国王直筆の婚姻証明書を手にルドヴァンへ戻った二人を待ち受けていたのは、じっとりした笑顔で凄味を利かせるデルフィーヌだった。
アルヴィーゼは白々と自分たちの自由意志に母親がしゃしゃり出てくる権利はないと反駁したものの、最終的にはデルフィーヌによる「罰則」を甘んじて受け入れることになった。
トーレに帰郷している間は、イオネに会いに来てはならないというものだ。
イオネは娘として母親の最後の言いつけを守るつもりでやむなく首を縦に振った。
王城の書庫で母のことなど忘れて終日欲望を満たし続けたことにも少々後ろめたさを感じるし、そうでなくても、ただの母と娘でいられる時間はあまり残されていない。
アルヴィーゼはコルネール家の護衛とソニアの同行を条件に、これを受け入れた。
イオネはアルヴィーゼが何か企んでいるような気がしたが、何も訊かないことにした。知ってしまったら、またしても母を出し抜くことになる。
ユルクスに戻ってからの日々は、多忙を極めた。
学生への講義に加え、夏季休暇前の試験作りや課題の設定を行い、入学を控えたバシルへの個人授業もした。中でも重要な仕事が、ユルクス大学での仕事を後任に引き継ぐ準備だ。
後任は、ジョアンナ・ルクリス夫人である。
イオネは既にひと月ほど前から手紙で打診を始めていた。
当初ジョアンナはかつて不正に関わったことや夫への遠慮で躊躇していたが、イオネが嫁ぎ先のルクリス家まで説得にやって来ると遂に肚を決め、翌日からイオネの仕事に同行するようになった。
夫には、離婚してでもこの仕事を受けると強く出たらしい。結果、彼女はジョアンナ・ルクリスとして教授職に就くことになった。
ジョアンナの夫であるルクリス氏にしてみれば、トーレの領主一族で公爵夫人でもあるイオネへの遠慮があったことは間違いないが、ジョアンナが初めて家という縛りから自由を勝ち取ったことは疑いようがない。
ユルクスが、夏を迎えた。
六月の最後の日、卒業する学生の最後の一人の背中を見送り、イオネはユルクス大学での教職を終えた。
夕陽に輝く講堂には、少し開いたアーチ型の窓から肌を優しく撫でるような夏の風が吹き込み、机が長く使い込まれた木材とインクの匂いを放っている。これほどユルクスの思い出に相応しいものはない。
そしてその翌日には、バシルがイオネからの最後の課題を終えた。イオネはひどく感傷的な気分になって、バシルを思い切り抱き締めた。
「あなたを誇りに思っているわ。ずっとわたしの一番弟子よ、バシル」
バシルは顔を真っ赤にしてジタバタしていたが、イオネの言葉を聞くと小さな子供のようにしゃくり上げて泣き出してしまった。
少年の淡い初恋は空中分解してしまったが、それ以上に深くイオネを敬愛している。かけがえのない恩師と離れなければならないことが、どうしようもなく寂かったのだ。
「俺、ブロスキ先生のとこでたくさん勉強して、絶対にまたイオネ先生の助手になるから」
幼い弟と引き離され、移ってきたユルクスで最初に言葉を交わしたのが、同じ年頃のこの少年だった。弟のような存在というだけではない。イオネに教える喜びを与え、教育者としての道を示してくれた最初のひとだ。
「待っているわ。約束よ」
イオネは顎を震わせながら、目の奥が熱くなるのを耐えてまぶたを閉じた。
数日後の夜、イオネはトランクひとつに里帰りのための荷物を詰め終え、家族の肖像画を取り外して布に包んだ。そのほかの荷物は、アルヴィーゼと共にひと足先にルドヴァンへ移されることになる。
ユルクスの屋敷で暮らす最後の晩だ。
「パンタ・レイね…」
「何?」
アルヴィーゼは唇をイオネの首筋から僅かに離し、寝衣の紐を引いた。暴いた肌が夜闇に白く浮かび、イオネの肌がやわらかに熱を帯びる。
「この一年で想像もしていなかったことがたくさん起きたわ」
「それは同感だ」
アルヴィーゼが吐息で笑い、イオネの肌を撫でた。
こうしてイオネが自分の手の中に存在していることも、アルヴィーゼにとっては空から海が降ってきたようなものだ。
たった一輪の花を求めて必死に氷山の頂へ駆け登る自分を、どうして想像できただろう。
アルヴィーゼはどんなに多忙でも一日の終わりには必ず家へ帰り、妻の身体を腕に抱いて眠りにつくようになった。ドミニクはこの天変地異と言ってもいいほどの変化に大層驚いていたが、アルヴィーゼの視点で見れば、これは自然の摂理だ。
イオネの姿を初めて見た時から、こうなることは決まっていた。他ならぬアルヴィーゼ・コルネールが自らの運命をそう定めたからだ。
そしてイオネもまた、自ら運命の溟海に飛び込んだ。
イオネはアルヴィーゼの頬を両手で挟んで引き寄せ、自ら口付けをした。
こんなふうに自分から触れて感じる悦びも、そのうちのひとつだ。淫らな気分になる自分のことは、今はまだ恥ずかしいと感じてしまうが、相手がアルヴィーゼならそれもいい。
イオネはそろそろと手をアルヴィーゼの胸へ這わせ、筋の目立つ首筋に口付けし、なだらかに隆起する硬い胸へと唇で辿って行った。
イオネの長い髪がアルヴィーゼの肌を絹のように滑る。
アルヴィーゼの息遣いが、夜の静寂の中で微かに熱を帯びた。
イオネはアルヴィーゼのズボンの前を寛げ、待ち侘びたように現れたアルヴィーゼの一部をそっと手に包んだ。
熱くて、滑らかで、硬い。人間の身体の一部がこんなに硬くなるなんて、なんだか奇妙だ。こんなものをいつも身体の奥に受け入れていることも、こうしてみるとひどく淫らで、現実離れしているように思える。
イオネがその先端に口付けすると、アルヴィーゼが息を呑んで、イオネの頬を撫でた。
「…ッ、イオネ」
声色には、驚きと期待が混じっている。
「あなたのすべてを、全身で覚えておきたいの」
イオネは今までにしたことがないほど大きく顎を開き、アルヴィーゼのものを口の中に含んだ。
アルヴィーゼのがびくりと舌の上で跳ね、頭上から聞こえる息遣いが次第に荒くなる。
イオネの胸に奇妙な恍惚が生まれた。あのアルヴィーゼ・コルネールを、自分の掌で転がしているような気分だ。
触れられてもいない脚の間がじりじりと熱くなって、欲望が腹の奥から溶け出し始める。
イオネが歯を立てないよう深い部分から浅い部分へと上下を繰り返し、唾液が垂れないように舌を根本から先端へ這わせた時、アルヴィーゼの呻き声が聞こえた。
顔を上げると、アルヴィーゼの目が激しい情欲を孕んでイオネを見つめていた。
イオネの胸の奥が、どくと跳ねた。
「どこで覚えた」
「秘密」
「夫に秘密を持つつもりか?」
アルヴィーゼの淫らな笑みと官能的な声色が、イオネの欲望を深くした。
こんなに大胆な自分がいることも、今まで知らなかった。
イオネは寝衣を裾からめくりあげて裸体になり、蛇が這うように素肌を触れ合わせながらアルヴィーゼの胸へと上がって、するするとアルヴィーゼの膝に跨った。
「暴いてみせて」
イオネがアルヴィーゼの唇に触れそうな位置で囁いた瞬間、アルヴィーゼはこの誘惑に堪りかねてイオネの腰を強く掴み、奥まで突き上げた。
「あぁっ!」
「お前には驚かされるな。触れてもいないうちからこんなにしたのか?」
繋がった部分が淫らな音を立てて熱を帯び、アルヴィーゼが乳房の先端に吸い付くと、イオネから現実を奪い去った。
(ふた月もこれがなくて耐えられるかしら)
ふとそんなことを考えてしまった自分がおかしくなった。
アルヴィーゼがイオネの身体を押し倒して肉体の神殿の最奥部を開き、イオネは際限なく迫り来る快感に恍惚の悲鳴をあげた。
「…っ、くそ。離したくない…」
「わたしも…」
ぴったりと重なったアルヴィーゼの肌から、いつもより少し速い鼓動が伝わってくる。
ふたりの境界が曖昧になり、甘く溶け合って、何度も忘我が襲ってくる。
アルヴィーゼはこれを快楽の妙なるところと言っていたが、胸が痛くなるほどの歓びを生むのは、愛の妙なるところと言えるかもしれない。愛が欲を生むのだ。
「お前を愛している、イオネ」
アルヴィーゼの低い声が直接の耳に響く。この男に愛を乞わせることができるのは自分だけだ。
そして、愛を与えたいと思うのも――
「愛しているわ、アルヴィーゼ」
アルヴィーゼのエメラルドグリーンの瞳が、故郷の海のようにきらきらと光彩を放った。
「忘れるな。どこにいようがお前は俺のものだ」
「あなたもよ」
イオネはアルヴィーゼの熱情を全身で受け止め、降りかかってくる優しい口付けに夢中になって、いつしか糸杉に似たアルヴィーゼの匂いに包まれたまま眠りに落ちた。
ユルクスの夏の夜は、甘美な歓びに満ちていた。
トーレでの二か月は、多忙ではあったものの、予想外に楽しい日々だった。
母の厳しい目は光っていたが、イオネにとっては大貿易都市トーレの女主人であるラヴィニアに経済学と商学の教えを請う好機でもあったからだ。
帰郷から数日経つ頃には、デルフィーヌによる作法教室とエマンシュナの社会構造に関する座学を終えた後で、ラヴィニアの助手として領主夫人の実践教育を受けるという日々のパターンができた。
デルフィーヌとラヴィニアは驚くほど相性がよく、時間ができると度々二人で買い物や観劇に出掛けていた。交流を始めてからそれほど時間が経っていないのに、長年の知己のようだ。
イオネがもっとも心配していたエリオスとデルフィーヌの仲も、意外にも良好だった。友人とまではいかないが、互いに礼儀正しく尊重し合っているのがよくわかる。
エリオスはイオネに対してはひどく罪悪感があったらしく、クレテ家に戻ってから暫くは腫れ物のように扱われていたが、シルヴァンがクレテ家へふらっと遊びに来て共に食事をして以来、一般的な伯父と姪くらいの関係性が築けている。
変化は、それだけではなかった。
イオネが家族の肖像画をクレテ家の居城に戻した時、かつてそれを捨てた母には悲しい思い出が蘇るのではないかと心配していたが、デルフィーヌは「娘たちに出し抜かれたわ」と、どこか誇らしげに言い、壁に掛けられた絵を見て愛おしそうに目を細めた。
「川に同じ水が流れることはなくても、北極星の位置はいつも同じだわ」
イオネは母の目に映る父への愛を思った。
「そうよ、イオネ。決して変わらないものは、いつも心にあるの」
デルフィーヌは滅多に見せない優しい顔で笑いかけた。
一度は捨てた故郷での暮らしも、存外悪くない。
しかし、夜一人になると、毎晩のようにアルヴィーゼを思い出した。そういう時は、枕元に置いてあるアストロラーベを手に取って天体の位置を測る。今頃アルヴィーゼの寝室の窓からどの星が見えているかを推察し、自分も窓からそれを探すことで、寂しさを紛らわせた。
そして八月のある晩、その窓から三人の権力者の目を盗んでアルヴィーゼが現れた。
「ユルクスからルドヴァンに向かう途中だ」
と、城の二階にあるイオネの寝室の窓から忍び込み、白々と言い放った。旅塵にまみれた黒い外套を頭から被り、月明かりの少ない晩を選んで忍んで来るなど、誰がどう見ても盗賊だ。
「目的地と真逆の方向にやって来るなんて、方向感覚が狂ってしまったの?」
イオネが苦笑しながらアルヴィーゼのフードを外すと、アルヴィーゼは噛み付くような激しい口付けでイオネを襲い、その身体を担ぎ上げて寝台になだれ込んだ。
「目的地はルドヴァンじゃない」
その先が何と続くかは、聞かずともイオネにはわかっていた。
「次はわたしがあなたに会いに行くから、待っていて」
「もうじゅうぶん過ぎるほど待っている」
アルヴィーゼは屋敷が朝を迎える前に、寝台で眠るイオネに口付けを残して、トーレを後にした。
多くの領民に見送られながら花嫁行列の豪奢な船団がトーレ港を出港したのは、九月の冷たい風が吹き始めた日のことだった。船は二日間の穏やかな航海の後、ルドヴァン港に着いた。
イオネは港の近くにあるコルネール家の別邸で旅装を解き、繊細な絹のトレーンが美しい真珠色のドレスに着替えた。胸の下から流れるように広がるスカートは、胸から足元にかけてアルヴィーゼの目と同じエメラルドグリーンの色味が徐々に濃くなり、裾には淡い紫色の糸でスミレの花が刺繍されている。
コルネール家の紋章が掲げられた豪奢な馬車に乗り込み、イオネは領民の歓声の中、ルドヴァン城へと進んでいく。
夕陽が山の稜線を黄金色に染め、東の空に夜の色が深まった頃、アルヴィーゼはルドヴァン城の門前でイオネの乗っている馬車を迎えた。この夜アルヴィーゼが纏っているのはエマンシュナにおける貴族の正装で、今夜は家紋が縫い取られたシルバーグレーの丈の長い上衣に、青みがかった紫色のクラバットを締めている。
馬車の扉を開けるなり、アルヴィーゼは苦笑を漏らした。
「まったく。俺の妻は豪胆な女だな」
夫の手を取って馬車を降りるべき花嫁が、気持ちよさそうに眠っている。
続いて後ろの馬車から降りてきたソニアと主人に付き従うべく下馬した護衛たちも、互いに顔を見合わせて静かに笑った。
アルヴィーゼはイオネの身体を横向きに抱き上げて城の門に入り、
「父と弟に今夜の晩餐会は欠席すると伝えろ」
と、ドミニクに短い指示を出して、さっさと自分の寝室へ上がっていった。
イオネが目を覚ましたのは、二時間後のことだ。
(やってしまった…)
ルドヴァン公爵夫人として初めて入城した瞬間に深く寝入っていたなんて、情けないことこの上ない。
そろそろとまぶたを開くと、目の前にはずっと恋しく思っていた顔があった。燭台の灯りが頬の上で踊り、機嫌良く微笑むアルヴィーゼの顔を優しく照らしている。
この瞬間に情けなさや後悔がきれいに霧散してしまったのは、或いはこの男の比類なき端整な顔立ちが不思議な力を秘めているからかもしれない。
「帰ってきたな」
「ええ。帰ってきたわ」
じりりと熱くなったイオネの頬にアルヴィーゼの手が触れ、唇が重なり合う。ふた月前と変わらないアルヴィーゼの温もりを肌で感じると、イオネも口付けをやめることができなくなった。
最後に口付けをしたときと違うのは、もうアルヴィーゼから離れなくてもよいということだ。
そして、イオネの中で起きている小さな出来事も。――
「馬車の乗り心地がずいぶんよかったようだ」
「ここのところやたらと眠たいの」
「長旅で疲れたんだろう。ゆっくり休め」
そう言いながら、アルヴィーゼの手はイオネの腰へ這い、背中の留め具を外し始めている。
「休ませる気あるの?」
イオネはくすくす笑って身体に巻き付いてくるアルヴィーゼの腕をピシリと叩いた。
「仕方ないだろう。離れているあいだ四六時中これを考えていたんだ。お前は違うのか?」
「わたしには他にも考えることがあったのよ」
「なんだ」
アルヴィーゼはちょっと不満そうに言うと、イオネの首に吸い付き、ドレスを剥いで、シュミーズの上から乳房を手のひらで覆った。
「名前を――」
イオネはアルヴィーゼの不埒な手をそっと包んで胸から引き剥がすと、鳩尾へ滑らせ、更に臍の下へと導いた。
「…名前を考えていたの」
時が止まったように固まってしまったアルヴィーゼの顔に、じわじわと笑みが広がった。イオネが今までで見たこともない顔だ。
「本当か」
「わたしの一番はあなたじゃなくなるわ」
イオネが大真面目に言うと、アルヴィーゼは飛び起きてイオネの身体をきつく抱きしめ、とびきり優しい口付けをした。
「取り戻すから問題ない」
アルヴィーゼも大真面目だ。イオネはおかしくなって、アルヴィーゼの腕に包まれながらくすくすと笑った。
「子育てが落ち着く頃には大学も落成するだろうから、教授職も問題ないな」
「何の話?」
「先日、ルドヴァン大学が着工した」
アルヴィーゼは悪戯っぽく眉を上げた。
「理事と教授職を兼任するのに最適な人物が、俺の目の前にいると思わないか」
イオネは目をキラキラと輝かせ、飛びつくように口付けをして応えた。
「ますます忙しくなるわね!あなたがわたしの一番を取り戻すのは難しくなるわよ」
「いや、イオネ。何をしようが、何者になろうが、俺は一日の終わりまでにはお前を必ず手に入れる。お前は未来永劫俺のものだからな」
「傲慢ね」
イオネは笑って、優しい引力に導かれるまま、アルヴィーゼともう一度唇を触れ合わせた。
この傲岸不遜な男の愛に落ちてしまったのなら、その中でたゆたい時には抗って泳ぐのも、また一興だ。
アルヴィーゼは白々と自分たちの自由意志に母親がしゃしゃり出てくる権利はないと反駁したものの、最終的にはデルフィーヌによる「罰則」を甘んじて受け入れることになった。
トーレに帰郷している間は、イオネに会いに来てはならないというものだ。
イオネは娘として母親の最後の言いつけを守るつもりでやむなく首を縦に振った。
王城の書庫で母のことなど忘れて終日欲望を満たし続けたことにも少々後ろめたさを感じるし、そうでなくても、ただの母と娘でいられる時間はあまり残されていない。
アルヴィーゼはコルネール家の護衛とソニアの同行を条件に、これを受け入れた。
イオネはアルヴィーゼが何か企んでいるような気がしたが、何も訊かないことにした。知ってしまったら、またしても母を出し抜くことになる。
ユルクスに戻ってからの日々は、多忙を極めた。
学生への講義に加え、夏季休暇前の試験作りや課題の設定を行い、入学を控えたバシルへの個人授業もした。中でも重要な仕事が、ユルクス大学での仕事を後任に引き継ぐ準備だ。
後任は、ジョアンナ・ルクリス夫人である。
イオネは既にひと月ほど前から手紙で打診を始めていた。
当初ジョアンナはかつて不正に関わったことや夫への遠慮で躊躇していたが、イオネが嫁ぎ先のルクリス家まで説得にやって来ると遂に肚を決め、翌日からイオネの仕事に同行するようになった。
夫には、離婚してでもこの仕事を受けると強く出たらしい。結果、彼女はジョアンナ・ルクリスとして教授職に就くことになった。
ジョアンナの夫であるルクリス氏にしてみれば、トーレの領主一族で公爵夫人でもあるイオネへの遠慮があったことは間違いないが、ジョアンナが初めて家という縛りから自由を勝ち取ったことは疑いようがない。
ユルクスが、夏を迎えた。
六月の最後の日、卒業する学生の最後の一人の背中を見送り、イオネはユルクス大学での教職を終えた。
夕陽に輝く講堂には、少し開いたアーチ型の窓から肌を優しく撫でるような夏の風が吹き込み、机が長く使い込まれた木材とインクの匂いを放っている。これほどユルクスの思い出に相応しいものはない。
そしてその翌日には、バシルがイオネからの最後の課題を終えた。イオネはひどく感傷的な気分になって、バシルを思い切り抱き締めた。
「あなたを誇りに思っているわ。ずっとわたしの一番弟子よ、バシル」
バシルは顔を真っ赤にしてジタバタしていたが、イオネの言葉を聞くと小さな子供のようにしゃくり上げて泣き出してしまった。
少年の淡い初恋は空中分解してしまったが、それ以上に深くイオネを敬愛している。かけがえのない恩師と離れなければならないことが、どうしようもなく寂かったのだ。
「俺、ブロスキ先生のとこでたくさん勉強して、絶対にまたイオネ先生の助手になるから」
幼い弟と引き離され、移ってきたユルクスで最初に言葉を交わしたのが、同じ年頃のこの少年だった。弟のような存在というだけではない。イオネに教える喜びを与え、教育者としての道を示してくれた最初のひとだ。
「待っているわ。約束よ」
イオネは顎を震わせながら、目の奥が熱くなるのを耐えてまぶたを閉じた。
数日後の夜、イオネはトランクひとつに里帰りのための荷物を詰め終え、家族の肖像画を取り外して布に包んだ。そのほかの荷物は、アルヴィーゼと共にひと足先にルドヴァンへ移されることになる。
ユルクスの屋敷で暮らす最後の晩だ。
「パンタ・レイね…」
「何?」
アルヴィーゼは唇をイオネの首筋から僅かに離し、寝衣の紐を引いた。暴いた肌が夜闇に白く浮かび、イオネの肌がやわらかに熱を帯びる。
「この一年で想像もしていなかったことがたくさん起きたわ」
「それは同感だ」
アルヴィーゼが吐息で笑い、イオネの肌を撫でた。
こうしてイオネが自分の手の中に存在していることも、アルヴィーゼにとっては空から海が降ってきたようなものだ。
たった一輪の花を求めて必死に氷山の頂へ駆け登る自分を、どうして想像できただろう。
アルヴィーゼはどんなに多忙でも一日の終わりには必ず家へ帰り、妻の身体を腕に抱いて眠りにつくようになった。ドミニクはこの天変地異と言ってもいいほどの変化に大層驚いていたが、アルヴィーゼの視点で見れば、これは自然の摂理だ。
イオネの姿を初めて見た時から、こうなることは決まっていた。他ならぬアルヴィーゼ・コルネールが自らの運命をそう定めたからだ。
そしてイオネもまた、自ら運命の溟海に飛び込んだ。
イオネはアルヴィーゼの頬を両手で挟んで引き寄せ、自ら口付けをした。
こんなふうに自分から触れて感じる悦びも、そのうちのひとつだ。淫らな気分になる自分のことは、今はまだ恥ずかしいと感じてしまうが、相手がアルヴィーゼならそれもいい。
イオネはそろそろと手をアルヴィーゼの胸へ這わせ、筋の目立つ首筋に口付けし、なだらかに隆起する硬い胸へと唇で辿って行った。
イオネの長い髪がアルヴィーゼの肌を絹のように滑る。
アルヴィーゼの息遣いが、夜の静寂の中で微かに熱を帯びた。
イオネはアルヴィーゼのズボンの前を寛げ、待ち侘びたように現れたアルヴィーゼの一部をそっと手に包んだ。
熱くて、滑らかで、硬い。人間の身体の一部がこんなに硬くなるなんて、なんだか奇妙だ。こんなものをいつも身体の奥に受け入れていることも、こうしてみるとひどく淫らで、現実離れしているように思える。
イオネがその先端に口付けすると、アルヴィーゼが息を呑んで、イオネの頬を撫でた。
「…ッ、イオネ」
声色には、驚きと期待が混じっている。
「あなたのすべてを、全身で覚えておきたいの」
イオネは今までにしたことがないほど大きく顎を開き、アルヴィーゼのものを口の中に含んだ。
アルヴィーゼのがびくりと舌の上で跳ね、頭上から聞こえる息遣いが次第に荒くなる。
イオネの胸に奇妙な恍惚が生まれた。あのアルヴィーゼ・コルネールを、自分の掌で転がしているような気分だ。
触れられてもいない脚の間がじりじりと熱くなって、欲望が腹の奥から溶け出し始める。
イオネが歯を立てないよう深い部分から浅い部分へと上下を繰り返し、唾液が垂れないように舌を根本から先端へ這わせた時、アルヴィーゼの呻き声が聞こえた。
顔を上げると、アルヴィーゼの目が激しい情欲を孕んでイオネを見つめていた。
イオネの胸の奥が、どくと跳ねた。
「どこで覚えた」
「秘密」
「夫に秘密を持つつもりか?」
アルヴィーゼの淫らな笑みと官能的な声色が、イオネの欲望を深くした。
こんなに大胆な自分がいることも、今まで知らなかった。
イオネは寝衣を裾からめくりあげて裸体になり、蛇が這うように素肌を触れ合わせながらアルヴィーゼの胸へと上がって、するするとアルヴィーゼの膝に跨った。
「暴いてみせて」
イオネがアルヴィーゼの唇に触れそうな位置で囁いた瞬間、アルヴィーゼはこの誘惑に堪りかねてイオネの腰を強く掴み、奥まで突き上げた。
「あぁっ!」
「お前には驚かされるな。触れてもいないうちからこんなにしたのか?」
繋がった部分が淫らな音を立てて熱を帯び、アルヴィーゼが乳房の先端に吸い付くと、イオネから現実を奪い去った。
(ふた月もこれがなくて耐えられるかしら)
ふとそんなことを考えてしまった自分がおかしくなった。
アルヴィーゼがイオネの身体を押し倒して肉体の神殿の最奥部を開き、イオネは際限なく迫り来る快感に恍惚の悲鳴をあげた。
「…っ、くそ。離したくない…」
「わたしも…」
ぴったりと重なったアルヴィーゼの肌から、いつもより少し速い鼓動が伝わってくる。
ふたりの境界が曖昧になり、甘く溶け合って、何度も忘我が襲ってくる。
アルヴィーゼはこれを快楽の妙なるところと言っていたが、胸が痛くなるほどの歓びを生むのは、愛の妙なるところと言えるかもしれない。愛が欲を生むのだ。
「お前を愛している、イオネ」
アルヴィーゼの低い声が直接の耳に響く。この男に愛を乞わせることができるのは自分だけだ。
そして、愛を与えたいと思うのも――
「愛しているわ、アルヴィーゼ」
アルヴィーゼのエメラルドグリーンの瞳が、故郷の海のようにきらきらと光彩を放った。
「忘れるな。どこにいようがお前は俺のものだ」
「あなたもよ」
イオネはアルヴィーゼの熱情を全身で受け止め、降りかかってくる優しい口付けに夢中になって、いつしか糸杉に似たアルヴィーゼの匂いに包まれたまま眠りに落ちた。
ユルクスの夏の夜は、甘美な歓びに満ちていた。
トーレでの二か月は、多忙ではあったものの、予想外に楽しい日々だった。
母の厳しい目は光っていたが、イオネにとっては大貿易都市トーレの女主人であるラヴィニアに経済学と商学の教えを請う好機でもあったからだ。
帰郷から数日経つ頃には、デルフィーヌによる作法教室とエマンシュナの社会構造に関する座学を終えた後で、ラヴィニアの助手として領主夫人の実践教育を受けるという日々のパターンができた。
デルフィーヌとラヴィニアは驚くほど相性がよく、時間ができると度々二人で買い物や観劇に出掛けていた。交流を始めてからそれほど時間が経っていないのに、長年の知己のようだ。
イオネがもっとも心配していたエリオスとデルフィーヌの仲も、意外にも良好だった。友人とまではいかないが、互いに礼儀正しく尊重し合っているのがよくわかる。
エリオスはイオネに対してはひどく罪悪感があったらしく、クレテ家に戻ってから暫くは腫れ物のように扱われていたが、シルヴァンがクレテ家へふらっと遊びに来て共に食事をして以来、一般的な伯父と姪くらいの関係性が築けている。
変化は、それだけではなかった。
イオネが家族の肖像画をクレテ家の居城に戻した時、かつてそれを捨てた母には悲しい思い出が蘇るのではないかと心配していたが、デルフィーヌは「娘たちに出し抜かれたわ」と、どこか誇らしげに言い、壁に掛けられた絵を見て愛おしそうに目を細めた。
「川に同じ水が流れることはなくても、北極星の位置はいつも同じだわ」
イオネは母の目に映る父への愛を思った。
「そうよ、イオネ。決して変わらないものは、いつも心にあるの」
デルフィーヌは滅多に見せない優しい顔で笑いかけた。
一度は捨てた故郷での暮らしも、存外悪くない。
しかし、夜一人になると、毎晩のようにアルヴィーゼを思い出した。そういう時は、枕元に置いてあるアストロラーベを手に取って天体の位置を測る。今頃アルヴィーゼの寝室の窓からどの星が見えているかを推察し、自分も窓からそれを探すことで、寂しさを紛らわせた。
そして八月のある晩、その窓から三人の権力者の目を盗んでアルヴィーゼが現れた。
「ユルクスからルドヴァンに向かう途中だ」
と、城の二階にあるイオネの寝室の窓から忍び込み、白々と言い放った。旅塵にまみれた黒い外套を頭から被り、月明かりの少ない晩を選んで忍んで来るなど、誰がどう見ても盗賊だ。
「目的地と真逆の方向にやって来るなんて、方向感覚が狂ってしまったの?」
イオネが苦笑しながらアルヴィーゼのフードを外すと、アルヴィーゼは噛み付くような激しい口付けでイオネを襲い、その身体を担ぎ上げて寝台になだれ込んだ。
「目的地はルドヴァンじゃない」
その先が何と続くかは、聞かずともイオネにはわかっていた。
「次はわたしがあなたに会いに行くから、待っていて」
「もうじゅうぶん過ぎるほど待っている」
アルヴィーゼは屋敷が朝を迎える前に、寝台で眠るイオネに口付けを残して、トーレを後にした。
多くの領民に見送られながら花嫁行列の豪奢な船団がトーレ港を出港したのは、九月の冷たい風が吹き始めた日のことだった。船は二日間の穏やかな航海の後、ルドヴァン港に着いた。
イオネは港の近くにあるコルネール家の別邸で旅装を解き、繊細な絹のトレーンが美しい真珠色のドレスに着替えた。胸の下から流れるように広がるスカートは、胸から足元にかけてアルヴィーゼの目と同じエメラルドグリーンの色味が徐々に濃くなり、裾には淡い紫色の糸でスミレの花が刺繍されている。
コルネール家の紋章が掲げられた豪奢な馬車に乗り込み、イオネは領民の歓声の中、ルドヴァン城へと進んでいく。
夕陽が山の稜線を黄金色に染め、東の空に夜の色が深まった頃、アルヴィーゼはルドヴァン城の門前でイオネの乗っている馬車を迎えた。この夜アルヴィーゼが纏っているのはエマンシュナにおける貴族の正装で、今夜は家紋が縫い取られたシルバーグレーの丈の長い上衣に、青みがかった紫色のクラバットを締めている。
馬車の扉を開けるなり、アルヴィーゼは苦笑を漏らした。
「まったく。俺の妻は豪胆な女だな」
夫の手を取って馬車を降りるべき花嫁が、気持ちよさそうに眠っている。
続いて後ろの馬車から降りてきたソニアと主人に付き従うべく下馬した護衛たちも、互いに顔を見合わせて静かに笑った。
アルヴィーゼはイオネの身体を横向きに抱き上げて城の門に入り、
「父と弟に今夜の晩餐会は欠席すると伝えろ」
と、ドミニクに短い指示を出して、さっさと自分の寝室へ上がっていった。
イオネが目を覚ましたのは、二時間後のことだ。
(やってしまった…)
ルドヴァン公爵夫人として初めて入城した瞬間に深く寝入っていたなんて、情けないことこの上ない。
そろそろとまぶたを開くと、目の前にはずっと恋しく思っていた顔があった。燭台の灯りが頬の上で踊り、機嫌良く微笑むアルヴィーゼの顔を優しく照らしている。
この瞬間に情けなさや後悔がきれいに霧散してしまったのは、或いはこの男の比類なき端整な顔立ちが不思議な力を秘めているからかもしれない。
「帰ってきたな」
「ええ。帰ってきたわ」
じりりと熱くなったイオネの頬にアルヴィーゼの手が触れ、唇が重なり合う。ふた月前と変わらないアルヴィーゼの温もりを肌で感じると、イオネも口付けをやめることができなくなった。
最後に口付けをしたときと違うのは、もうアルヴィーゼから離れなくてもよいということだ。
そして、イオネの中で起きている小さな出来事も。――
「馬車の乗り心地がずいぶんよかったようだ」
「ここのところやたらと眠たいの」
「長旅で疲れたんだろう。ゆっくり休め」
そう言いながら、アルヴィーゼの手はイオネの腰へ這い、背中の留め具を外し始めている。
「休ませる気あるの?」
イオネはくすくす笑って身体に巻き付いてくるアルヴィーゼの腕をピシリと叩いた。
「仕方ないだろう。離れているあいだ四六時中これを考えていたんだ。お前は違うのか?」
「わたしには他にも考えることがあったのよ」
「なんだ」
アルヴィーゼはちょっと不満そうに言うと、イオネの首に吸い付き、ドレスを剥いで、シュミーズの上から乳房を手のひらで覆った。
「名前を――」
イオネはアルヴィーゼの不埒な手をそっと包んで胸から引き剥がすと、鳩尾へ滑らせ、更に臍の下へと導いた。
「…名前を考えていたの」
時が止まったように固まってしまったアルヴィーゼの顔に、じわじわと笑みが広がった。イオネが今までで見たこともない顔だ。
「本当か」
「わたしの一番はあなたじゃなくなるわ」
イオネが大真面目に言うと、アルヴィーゼは飛び起きてイオネの身体をきつく抱きしめ、とびきり優しい口付けをした。
「取り戻すから問題ない」
アルヴィーゼも大真面目だ。イオネはおかしくなって、アルヴィーゼの腕に包まれながらくすくすと笑った。
「子育てが落ち着く頃には大学も落成するだろうから、教授職も問題ないな」
「何の話?」
「先日、ルドヴァン大学が着工した」
アルヴィーゼは悪戯っぽく眉を上げた。
「理事と教授職を兼任するのに最適な人物が、俺の目の前にいると思わないか」
イオネは目をキラキラと輝かせ、飛びつくように口付けをして応えた。
「ますます忙しくなるわね!あなたがわたしの一番を取り戻すのは難しくなるわよ」
「いや、イオネ。何をしようが、何者になろうが、俺は一日の終わりまでにはお前を必ず手に入れる。お前は未来永劫俺のものだからな」
「傲慢ね」
イオネは笑って、優しい引力に導かれるまま、アルヴィーゼともう一度唇を触れ合わせた。
この傲岸不遜な男の愛に落ちてしまったのなら、その中でたゆたい時には抗って泳ぐのも、また一興だ。
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