冥界からのラブソング

ルサルカ

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第五話

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 『この前にお話ししたCDを送ります。

 これは、わたしには必要の無いものです。
 いえ、わたしが持っているべきものではないのでしょう。
 これはわたしの知らない誰かに、捧げられているのですから。
 多分、このミナコという女性は彼が渡米する前につきあっていた恋人なのでしょう。
 わたしとアキオは、サンフランシスコで初めて出会いました。
 それ以前の彼をわたしは知りませんし、アキオは決して過去を語りませんでした。

 このCDの演奏を聞いて、わたしはわたしたちが初めて会った時のことを思い出しました。
 会ったといっても彼はステージの上で、わたしはただの観客でしたが。
 それは、薄暗く麻薬の香りのするライブハウスでした。
 演奏よりも客の怒鳴り声のほうが大きいようなところです。
 そこに来る者は音楽を聞くというよりも、そこで買ったドラッグを試してみたり、ガールフレンドと愛を交わしたり、くだらないおしゃべりをすることが目的のようでした。

 わたしはその時とてもうんざりした気持ちで、そこにいました。
 言い寄ってくる男を壁のように無視し、どこかここでは無いところに視線を向けていました。
 あのころわたしの魂は泥沼の底に沈んでいましたから。

 その時、突然ライブハウスが静まり返ったのです。

 アキオの電子ピアノが鳴り始めた瞬間でした。

 アキオはピアノとヴァイオリン、プレシジョンベースにドラムから編成される奇妙なバンドにいました。
 東洋人はアキオだけのようでした。

 それはなんとも奇妙な瞬間でした。
 闇の闇の果てで、突然自分の見ていたものより遙かに広大で無限の宇宙の闇に出くわしてしまったような。
 あるいは、全てのものが形を失い原初のカオスへ還ってしまい、その無定型の渦の中で途方にくれてしまったような。

 そんな演奏でした。

 彼らは、予言者であるにも関わらず行くべき道を指し示さず、ただわたしたちから言葉を奪い思考を停止させたのです。
 彼らの音楽は何にも似ていませんでした。
 ただシンプルな、どこか見知らぬ国での宗教的儀式に使われるような、そんな印象をもたらす音楽です。

 わたしたちはそのライブハウスでクラッシックコンサートを聞く聴衆のように、沈黙したままその演奏を聞きました。
 彼らが嘲るような笑みを浮かべ、無言で立ち去るまでその静寂は続くのです。
 そして、演奏が終わった瞬間には拍手も起きず、彼らが立ち去った後、何事もなかったように喧噪が甦りました。
 ただそこにいた人々の意識の底には、彼らの演奏が暗く深い澱のように残っているのです。

 そのバンドでピアノを弾いていた東洋人がわたしと同じアパートに住んでいることを知ったのは、その少し後です。
 わたしはアキオを訪ね、そのまま彼と暮らすようになりました。

 アキオはバンドをやめた後、もっと無機的で現代音楽として判りやすい演奏をするようになります。
 彼は次第に認められるようになりましたが、わたしは彼の曲から初めて彼の演奏を聞いた時のような衝撃を受けることはありませんでした。

 でも、このCDは違います。

 いえ、演奏だけをとれば、最近のものです。

 バンドに所属していたころとは、全く違う曲です。

 けれど、わたしの受けた印象は、あのライブハウスでの奇妙な瞬間そのままでした。

 わたしは、彼がなぜ拳銃で頭を打ち抜いたのかは判りません。
 わたしは結局彼の何を知っていたのでしょうか。
 ただ、わたしが彼を愛していたことだけは真実のつもりでした。

 でも、それすら今では不確かに思えます』

 アキオは変わっていなかった。
 稲妻旅団が終わり、わたしが日常にしがみついていた時にも、アキオは変わっていなかったようだ。
 アキオは魔術師である。
 文字通りの意味での。
 彼はその魔術を使っていたのだ。



 わたしが稲妻旅団で与えられた役割は、歌をうたうことだった。
 ミツオの作った詩をある時は朗読のように、ある時はアキオの曲に併せて歌う。

 稲妻旅団では、あまり演劇の練習はしなかった。
 ただ、コンセプトを固めるためのディスカッションばかりを繰り返していた。
 しかし、わたしの歌とアキオのピアノはある程度の練習が必要だった。
 アキオの両親は実業家で資産家らしく、アキオは音楽室のある大きな屋敷に住んでいた。
 わたしたちはその音楽室でよく練習した。

 アキオと二人の時もあったが、大抵はミツオが顔を出す。
 その日、アキオの祖父から音楽的魔術の話を聞いたのは、アキオと二人きりの時だった。

 アキオの祖父の父親は亡命ロシア人だったらしい。
 その男は、グルジェフの弟子であり、スタニラフ・スタヴローキンという名だ。

 スタニラフ・スタヴローキンは、グルジェフの理論を音楽の分野において展開することを目的として研究を行っていた。
 アキオの祖父は、戦前の満州でスタヴローキンから彼の研究の成果を教えこまれる。
 戦後、日本に戻ったアキオの祖父は、スタヴローキンの理論、感情をコントロールする音楽を大学の研究設備を利用して科学的に立証しはじめる。

 アキオの祖父は、スタヴローキンから受け継いだ自分の理論をこういった。

「この音楽は、魔法のように作用する」

 よく晴れた、穏やかな日差しの差し込む日だった。
 アキオの祖父は、柔和な笑みを浮かべながらわたしたちに語る。

「この音楽は、ようするに脳内シナプス発火パターンを変容させてしまう。
 その結果、この音楽を聞いた人間の脳内分泌に変化がおきる。
 鬱病や精神分裂病もある意味では、脳内分泌の異常によって起こるものだ。
 ドーパミンやノルアドレナリンといった快楽物質の分泌や不安を増幅する分泌物質などの代謝異常がおこれば、人間の精神は破壊されることになる。
 逆にそうした分泌の代謝異常から引き起こされた精神異常は、分泌が正常に戻ればなおるということだ。
 いいかね、脳の動作とは、シナプスの発火によってコントロールされている。
 そのシナプスの発火を音楽によってコントロールできれば、脳内分泌は自在に変化させることができる」

 わたしたちは、それを聞いた時に大笑いした。
 音楽が、脳内分泌を変容できる訳が無い。
 その理屈でいくと麻薬は必要なく、音楽さえあればいいということになるはず。
 アキオの祖父は穏やかな調子で説明を続ける。

「魔法というものは元々そのようなもの、つまりシナプスの発火ネットワークをコントロールすることで脳内分泌を変化させるものだったといえる。
 例えば、ピタゴラスは音楽を使って医療を行ったが原理的には同じなんだ。
 原始キリスト教であれば、霊操と呼んだもの。
 ある一定のパルス信号は、脳内でのシナプス発火とシンクロし、コントロールできる。
 別の例をあげるとクンダリーニ・ヨガでは、マントラを音楽として利用してセロトニンやメラトニンの分泌を促進するということをやっている。
 そもそもシナプス発火は量子力学的には波動関数の収縮と共にあり、それはある波動の周期と密接に繋がっているんだ。
 いいかえると、脳内でおこる波動関数の収縮はある種の音楽的な事象であり、それを脳の外で再現したのがわたしたちの知る音楽なのだともいえる。
 スタヴローキンはそれこそ魔法的直感によってそれを見抜き、理論化したのだ。
 わたしは、大学病院の設備を借りてその仮説を裏付ける試みを行っている。
 しかし、まだ完全に解明することはできていない。
 わたしの実証されていない仮説はこうだ。
 人間の脳には特定のパルス信号に、反応するような機能がある。
 そこから脳内分泌をコントロールし、魔法的現象を引き起こすテクノロジーがかつてあった。
 それは、精密に演奏される音楽によって再現可能だ」

 アキオはそのとき祖父からひとつの譜面を、受けとる。
 その譜面には「プラジュニャー・パーラミター・ナヤ」というタイトルが、つけられていた。
 それは多分、サンスクリットで最高の真理へと至る道といった意味だったと思う。
 アキオはなぜかそれを、ミツオには秘密にしていた。
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