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第八話 魔女は発情と恋の区別がつかない
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しおりを挟むキルケは常日頃から日常生活については無関心な性質だ。彼女なりにちゃんとまじめに生きているつもりなのだが、はっきり言って生活無能力者の部類であると自分でも気づいていた。
なにかを取りだすことはすれしまうことはない。あるべき生活の基準が漠然としているので、常人であれば気になることが気にならないし、寝食の優先順位も低い。
そんな彼女であったので、扉は開ければ閉めない。さすがに玄関ぐらいは閉めるが、それだって鍵をかけることはほとんどなかった――結界を張った森の中の一軒家なので、それでも問題はなかったがルーにはしょっちゅう怒られていた。
だが今日、キルケは扉を閉めて研究室に閉じこもっていた。
重要な研究をしていたわけではない。むしろなにもしていなかった。ただ椅子に座って足をぶらぶらさせ、天井を眺めていたのだ。
(……もうすぐ昼ご飯の時間だ……)
普段は時間の経過のことなど気にしない。いつの間にか昼になって、夜になっている。
彼女に時間を報せるのはいつだってルーだった。
そして、それこそが問題なのだ。
――キルケはルーと顔を合わせるのを避けて、こそこそと逃げている最中だった。
昨夜の濃密な交合から一夜明けた。
昨夜の、という言い方は正確ではないかもしれない。なぜなら朝にもさんざん時間をかけて犯されたからである。
朝方におかしな快楽で目が覚めたと思ったら無断で挿入されていて、三回。
その際に再び恋人宣言をし、ルーのことが好きだとなんども繰り返し、最終的にはルーのことも気持ちいいことも両方大好きだと(絶叫しながら)認めていた。
そんなことがあったので、正気に戻った彼女はたいそう動揺した。全部ルーがそう仕向けたとは言え、確実に自分の意思でやったことだったので、本当に恥ずかしかったからだ。
(ルーのことは好きだ。だが……)
二時間ほど考えて、キルケはようやく彼に対する好意を冷静に認めることができていた。罪悪感とか奴隷とか過去の経緯とかを抜きにしてみれば、それは間違いない。
なにしろキルケのはじめての男だし、情もあるし……なにより、彼女の生活から彼がいなくなることなど考えられない。もしルーがほかの女に好意を向けたらと思うと、絶望すら感じるのだから間違いない。
(だが……やっぱりあれは恥ずかしい……!)
あれとは、もちろんルーとの行為のことである。
気持ちよくなるのは別に恥ずかしいことではないと彼は言うが、どう考えても恥ずかしい。
ルーの前では、しっかりした年上の女でいたかった。これまでそうであったように、ルーを教え諭す存在でありたかったというか……ともかく、恋人になるならなるでもっとまともな女のように振舞いたかったのだ。
それが、あのありさまだ。
キルケの自尊心はずたずたになっていた。
研究室に隠れているのはそのせいだった。彼と顔を合わせるだけでいてもたってもいられなかったのだ。
(もちろんルーが悪いわけじゃない。わたしがいけないんだ)
キルケは机の上に置いた、例の東方魔術の本を手で手繰り寄せた。淫靡で悪魔的な秘術ばかりが載ったその本だが、ルーとのセックスにくらべれば子どもの絵本の内容のような内容にすら思えてくるから不思議だ。
(もう少し快楽をコントロールできるようにならなければ……)
大まじめに考えながら、キルケは本を膝の上に載せた。そのヒントが、この本のどこかにあると信じていた。
少なくとも今のように泣き叫んでルーの一突きごとに翻弄されているようでは話にならない。気持ちがいいのはともかく、あそこまで我を忘れるほどではなくてもいいといううか。
キルケはそこまで考えて、もじもじと腿をこすり合わせた。
(……情けない)
考えただけで、もうこれだ。さんざんなぶられた下腹部が熱を持っているのがわかる。魔女熱病のせいばかりとは言えないだろう。
キルケは頭を振り、頭の中で学生時代の実験の失敗のことを考えた。植物を使ったごく初歩的な実験のはずだったが、ペアを組んでいたファウストの失敗でとんでもないことになり、最終的には謎の汚物を撒き散らしながら植物が爆発したのである。
キルケは冷静になった。その時のにおいのことを思い出し、火照りから気を逸らすことに成功したからだ。
(とにかく、これでは日常生活に支障をきたす)
魔女はうんうんとうなずいた。
(少なくともルーと顔を合わせることぐらいは、平然とできるようにならないと……)
とてつもなく低い目標を設定しつつ、キルケは背もたれに預けていた身体をぴんと伸ばした。
(よし、そうとなればこの本をもっと本格的に研究するぞ)
「キルケ?」
「わあっ!」
唐突に扉が開いて、キルケは飛び上がりそうになった。膝の上に置いた本が音を立てて床に落ちる。
扉を開けたのは、当然彼女の人狼だった。向こうもキルケの驚きぶりにびっくりしたようで、扉の取手をつかんだまま目を丸くしている。
「ど……どうしたの」
「お……お前がノックもしないで入ってくるから!」
「ごめん」
ルーは素直に謝った。普段扉が閉まっていることがほとんどなく、よってノックをする機会がないせいでその習慣がないことには触れずに。
(お……落ち着け)
キルケは騒ぎ立てる心臓を落ち着けながら、冷静を装って本を拾い、咳払いする振りをした。
「な……なにか用か?」
「いや、お昼ごはんができたから……というか、大丈夫? 顔が赤いけど……」
「……」
さっと顔をそむける。どうやら、気づかないうちに赤面していたらしい。
(落ち着け!)
別にルーとはじめてセックスしたわけでもないのに、なにを今更こんなに動揺しているのか。キルケは深く息を吸って、吐いた。
「……今日は昼ごはんはいらない……」
深呼吸をしたにもかかわらず、声がわずかに震えてしまった。それに、まだ頬が熱い――ルーの方を見ることもできず、キルケは膝の上に置いた本の表紙を指でいじった。
「ねえ……そんなに動揺しなくても」
ルーが言った。
もちろんごまかせるはずもなく、彼女の混乱を見抜かれていたようだ。
「……無理だ! 動揺しないでいられるか、これが……!」
とうとう、彼女は虚勢を張ることすらできずに机に突っ伏した。こうして頭をかかえていれば、少なくともルーの目からは隠れることができる、ような気がする。
「お前にあんな情けないところを見られて、どうしたらいい……」
「別に僕はなんとも思ってないし、むしろうれしかったけど」
「お前はよくてもわたしがだめなんだ」
「……あの、まさかやっぱり恋人はなしとか言い出さないよね?」
「……言わない……」
キルケは首を振った。
「恋人になること自体は、別にいいんだ……それに、それを今否定したとしてもまた今日の夜辺りにいろんな手を使ってお前の望む通りの言葉を言わされるだけだし――そうだろう」
「そう、よくわかってるね」
キルケは顔を上げた。ルーが近づいてきたのがわかったからだ。
少しぎくりとしたが、彼はただキルケの机の反対側に腰掛けただけだった。
こうして見ると、本当に成長した。はじめて会った十二歳のころとは全然違う。
ルーが机に肘をつく。先ほどまで昼食の支度をしていたらしき彼の袖は腕までまくられていて、ただ肘をついただけで男性らしい筋肉の流れが明らかになった。
(……)
たったこれだけの仕草でルーの男っぽさにぼーっとなってしまうとは……重症だった。
むしろ、魔女熱病になるまでなぜ彼を男性だと認識していなかったのか不思議なぐらいである。もちろん生物学的に男だと知ってはいたが、それだけだった。
ルーは彼女の様子には気づいていないのか、先ほどの話を続けていた。
「ここでまた関係を撤回するなんて言うとしたらそれは僕に対する裏切りみたいなものだしね。言ってしまえば、ヤリ逃げと変わらないよ」
「ヤリ逃げ」
「そうだよ。その場の欲望を満たしたらお払い箱みたいなものだろ」
ヤリ逃げ。頭の中にぐるぐると単語がまわる。
(ヤリ逃げ……)
その単語の意味どうこうというよりは、性的なものを連想させる言葉であったのがまずかった。キルケは再び、下半身が熱を持ってうずくのを自覚した。
先ほどまで恥ずかしがってルーの目も見られなかったかと思えば、これだ。自分のことながら、感情の振れ幅が大きすぎてどうしたらいいかわからない。
「……キルケ?」
ルーもキルケの様子がおかしいのに気づいたようだった。
「キルケ? どうしたの?」
「え……いや」
「さっきから変だよ。……いや、今朝からずっとおかしかったけど、なんていうか……」
ルーは目を細め、見極めるようにキルケをじっと見つめた。
「発情してる?」
まなざしは真剣だったが、あからさまな言い方だ。
「そっ……」
キルケは喉を詰まらせた。
……なぜなら、まさしく彼女は発情していたからだ。
「……そうだ……わ、わたしは」
キルケはうなだれ、認めた。
「発情してるんだと思う……」
言うだけで恥ずかしかったが、ごまかすだけ無駄な気がしてキルケは白状した。
そう、ようするにそういうことに違いない。
ルーから逃げ、研究室で現実逃避してきたのは、全部そのせいだ。
人狼がやさしく言った。
「昨日、あれだけしたのに?」
「……」
もう黙るしかない。キルケは両手で顔を覆った。
ルーも別に責めるつもりではなかったらしく、むしろ同情すらしているような口ぶりだった。
「……かわいそうにね。魔女熱病のせいだよ」
「そ……そうだといいんだが」
「そうだね」
ルーの意味深な同意に、キルケはぞくりと震えた。
(本当に、わたしはどうしてしまったんだろう……)
なぜこんなことで期待感を燃え上がらせているのか、自分で自分がわからない。
ルーが突然立ち上がって、彼女ははっと身体をこわばらせた。
「どっちにしろ、昨日あれだけお腹が減ることをしたんだから、ご飯は食べないと」
が、人狼は心配そうにこう言っただけだった。
(……)
早鐘のように心臓が波打っているのがわかる。
キルケはルーが机のこちら側にまわってきて、彼女の手を捕らえることを想像した。抱き寄せられて、口づけをされ――。
そして、そんなことは起こらなかった。
「僕と食べづらいんだったら、ここにご飯を持ってくるから。そっちの方がいい?」
「……い、いや」
「だったら台所へおいでよ。いっしょに食べよう」
キルケは促されて、のろのろと立ち上がった。
(本当になにを考えてるんだ、わたしは……)
後悔が湧き上がってくる。
それなのに、重い期待感だけは渦巻いて彼女を苛む。どうしたらいいかわからず、キルケは途方に暮れた。
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