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アンバランスなキスをして
6-2 夢
しおりを挟む暗い雑木林の中。
知っている。ここは、祖母と住んでいた家の近くにある山の中だ。
近所の男の子達が秘密基地を作っていた場所。
祖母に買ってもらった新しい自転車を、彼らに取られて、乗って行かれたのだ。それを追いかけて行って、逆に追われて右も左も分からない山の中を、小さな夏清は泣きそうになりながら走って逃げた。
躓いて転んで、そのまま斜面を滑落した。
たった二メートルほどの崖だったけれど、落ちて泣き出した夏清に驚いた少年たちは、夏清を置いて帰ってしまった。
遅くなっても帰ってこない夏清を心配した祖母が、乗り捨てられた自転車を見つけて、近所の消防団が山狩りに出てくれて、朝まで放置されることはなかったけれど、真っ暗になっていく山の中で、ものすごく心細かった。
あの時は助けてもらったのに、誰も助けに来てくれない。
助けが来ない理由は知っている。これは夢だから。夏清がたった一人で見ている夢だから。
すぐに場所が変わる。
まだ新しい建物の匂い。絨毯の床。きれいな黒板。ロッカーからはみ出した置きっぱなしの教科書。ブルーグレーの絨毯を透明なオレンジに染める秋の色の夕日。
誰もいない二年一組の教室。
夏清たちが二年の夏休み明けに校舎が新しくなった。
中学の修学旅行も、京都と奈良だった。二泊三日だったけれど。
夏清は、行かなかった。
行きたくもなかった。
班を分けるとき、夏清が行かないことを知って、あからさまにほっとした顔をしたクラスメイトたち。根拠のない濡れ衣は、あっさりととけたものの、みんなが夏清のことを扱いかねていることは、いつも人の印象を気にして生きている夏清には、痛いくらい良くわかった。
夏清のほかにも、修学旅行に参加しなかった同級生は何人かいて、一応出席日数に数えられるイベントのため、こうして誰も来ていない教室に、夏清は来ていた。
行かなかったことを後悔はしない。それよりも、遠い場所で、クラスメイトたちが、夏清のことなど忘れて、思い出しもせずに笑っているのだと思うと、そちらのほうがよっぽど悔しかった。
じっと、長く伸びた自分の影を見つめていた。もうこんなところに居たくないのに。惨めな自分を見たくないのに。
灰色の影がどんどん大きく、濃くなっていく。その影に飲み込まれた瞬間、夏清はまた別の場所にいた。
叔父の家。
まるで人事のように、夏清は逃げている夏清を上空から見ているだけだ。
時々、視界が逃げる夏清に変わる。迫ってくる荒い息。足音。掴まれる腕。振りほどけない。圧し掛かられて、思い出したくもない卑猥な言葉を浴びせられる。
いつもいつも、見る夢。
誰か助けてと叫んでも、誰も助けに来てくれない夢。
悪夢は、終わるまで終わらない。
いつもきっちりと、最後まで。
夢は痛くないと言うのはウソだと、夏清は知っている。夢だって痛い。苦しい。
殴られた痛みを覚えているから。
縛られた痛みを覚えているから。
いっそ記憶喪失にでもなって、何もかも忘れられたらいいのにと、何度思ったことだろう。
それでも、夢の中で夏清は助けを求める。
それでも、夢を見ている夏清は、夏清を助けてと叫ぶ。
過去が変わらないように、この夢の未来は変わらない。
夢の中で助けを呼ぶ夏清を、助けることができない夏清が泣きながら見ている。
服が裂ける音が聞こえて、傍観者の夏清が目を閉じて耳をふさぐ。
祖母を呼んでいた。
もういないのに、わかっているのに、夢の中でいつも。
でも今は、違う人の名前を呼びたかった。頭の中に浮かぶのはたった一人。でも呼べなかった。唇が、動かない。
そうだ。だって自分から大嫌いなんて言ったのに、都合のいいときだけ呼ぶなんて、できない。
襲われている夏清が、悲鳴をあげる。
目を閉じても、耳をふさいでも、襲われているのは夏清自身だ。全部覚えている。
耐えられなくて、泣きながら、夏清が震える唇を動かす。
「…………っ!」
塩野が宿に帰ったあと、井名里はどうせ傷もあるので眠れないからと病院に残った。屋上でバカほど入った伝言を聞き、ついでに北條の家に電話をかける。真っ先に出たのは誰あろう実冴で、開口一番バカバカどうせあんたのせいでしょう!? と怒鳴られた。
今回はさすがに、井名里には嘘も言い訳もできなかった。
殊勝にハイハイと一通り怒鳴られ尽くし、電話が北條に代わった。めったなことで怒らない人だが、瞬間冷凍されそうなくらい静かな口調で帰ったら絶対に夏清を連れてくるように言われ、こちらは本気で怖そうなので、まじめにはいと答えて電話を切った。
正統派の優等生の夏清を、北條は一目で気に入ったらしい。なにかと面倒を見てくれている。二人が一緒に暮らすという現状を一番心配してくれているのは、北條だろう。
北條は、頭ごなしに反対する実冴を制して普通に暮らすのならと許してくれた。それは、夏清が望んだからだったのかもしれない。こんな事態を知れば、恐らく北條も、本気で夏清を自分の元に置こうとするだろう。
バイトから帰ってくる夏清はいつも、楽しそうに北條や実冴や、その子供たちの話をする。井名里が内心嫉妬してしまいそうなくらい、楽しそうに。もうバイトに行くなと、何度言いかけて飲み込んだだろう?
こんなことを頼めるのは、北條以外にいなかった。北條なら、夏清を受け入れてくれるだろうと自分が頼んだのに、北條になつく夏清を引き止めたかった。他人であるのに、北條には迷惑をかけっぱなしだ。
つくづく自分の大人失格っぷりに井名里は久しぶりに、本当に、へこみそうだった。
へこんでいても仕方がないので、院内に戻ってそっと夏清の病室に入ると、歯軋りに似た低い唸り声が聞こえて、思わず近づいて夏清の顔を覗きこんだ。
形のいい額に、べったりと脂汗をかいて、眉間に深く二本、シワが刻まれている。とじられた長いまつげが、小刻みに動く。
名前を呼ぼうとした時、あえぐように、それまで歯を食いしばるように引き結ばれていた夏清の唇が開いて、震えながら動く。
ぎこちなくゆっくりと。けれど、確実に、夏清が声にならない声で呼んだのは。
あきら。
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