雲間の眼

中野ぼの

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 閉店時間の朝が来て、僕らは店を出た。午前四時半の空は白白と明るくなりかけていたが、曇っていたので夜明けというよりも日没時のような空だった。まだ街灯にも灯がともっている。まばらな人波と控えめなスズメの囀りだけが、早朝だということを教えてくれた。
 駅までの短い道の間、僕は空の眼を探した。だが雲は分厚くて月と一緒に空の眼も隠れているようだった。空の眼なんて見てないよと、すずに伝えたかったが、彼女は絶対空を見まいとするかのようにつま先を見て歩いていた。眠気と疲労もあるのだろう、口数も少なかった。飲み屋で手を握り合ったあの時間のことも、当然話さなかった。
 僕はまたすずの利用する電車のホームまで彼女を見送ることにした。ホームには既に始発電車が待機していて、あと二十分ほどで発車時刻だった。

「この電車乗ると、帰れるんですけど、乗り換え多くて面倒なんですよね」

 すずといられるのもあとわずかな時間か、と名残惜しく最後の雑談を細々としていたら、残り五分というところで突然そんなことを言い出した。

「次の電車待っても大丈夫ですか」
「ああ、それは全然大丈夫だけど」

 大丈夫だけど、僕の方は三十分も前に始発が出ている。僕はいつでも帰れてしまう。すずの次の電車まで僕は彼女と一緒にいていいのか、不意打ちを食らったせいで急に自信がなかった。すずは優しい子だから、名残惜しさがバレバレの僕の顔に気づいて、もう少しだけ一緒にいてくれようとしてるんじゃないか。ただの同情。後輩としての気遣い。そうも思えてしまう。顔も、言葉も、仕草も、どこか危うい静けさを纏っていて、彼女の心の中がまるで読めなかった。
 ホームにはベンチが設置されていなかったので、とりあえずどこか座れるところはないかと階段を下りた。しかし都心のターミナル駅の一つでもあるここの改札内にはどこにも落ち着ける場所がなかった。疲れ気味のすずをあまり連れ回すわけにもいかず、仕方なくシャッターの降りたキオスクに並んで背を預けることにした。
 ふう、と一息ついて、僕はリュックを、すずはトートバッグを、足元に置く。

「いっぱい話していっぱい飲みましたね。楽しかった。ういさん飲み過ぎてましたけど、大丈夫ですか?」
「あれくらい、全然だよ。すずちゃんも四杯も飲んだね」

 酔い潰れるのはごめんだったのでさすがにラスト一時間くらいは僕もウーロン茶をちびちび飲んだ。でも、こうなると、酔いが醒めていくのが口惜しい。もっと余韻に浸りたい。

「はい。うー、さすがに眠いですね」

 くてっ、とすずは後頭部をシャッターに預けた。

「お、肩貸そうか?」
「……まだ理性があるのでだいじょうぶです!」

 冗談で言ったつもりだったのに、すずは冗談で返さなかった。キオスクが電気ショックでも浴びせてきたかのように背中を離し、若草色のスカートの裾をぱたぱたさせた。
 理性? じゃあ、仮に理性がなかったら、肩、借りたのか? あの時、手を握り合った時間は理性なかったのか? 僕ももう、冗談で返せなかった。
 少しの間沈黙が流れた。構内のそこかしこから、ぽーん、と定期的に何かの電子音が鳴る。あれ一体何の音なんだろうなぁとかどうでもよく考える。改札を行き来する人の数が次第に増えてきて、一日が少しずつ始まってきているらしかった。どこか神妙だった始発前の駅内の光景がありふれた姿になっていく。僕は逆に一日が終わっていくのを感じる。
 立っているのが疲れたのか、すずはしゃがんでスマホを見ている。スマホを見ているのなら、すずが待つといった電車なんてもうとっくに過ぎ去った時間であるのもわかっているはずだ。午前六時。もうすぐで通勤ラッシュに片足を突っ込む頃合いだ。

「……ういさんて」

 スマホをバッグにしまいながら、すずは立ち上がった。

「ん?」
「ういさんて、こういうのドキドキしたりするんですか?」

 僕はとっさに反応ができなかった。すずの方を向くこともできず、遠くの改札機を眺めながら、目の端で彼女の横顔を見つめた。

「シチュエーション萌えのところあるからなぁ僕は」

 そして意味不明な返しをしてしまう。すずは笑ってくれた。

「さっきの続きじゃないですけど、ういさんて浮気とかしたことあるんですか?」
「ええ?」

 今度は反応できた。というか、勝手に口から驚きが漏れた。あはは、うーん今かな? って、いつもならそんな言葉が続いたはずなのに。はずなのに、この空気を逃げみたいな戯れで汚したくなくて、喉につっかえる。

「ういさんすごく優しいからなぁ」
「……優しいだけの男を女は好きにならないんだぞ。所詮いい人止まりなんだよ僕みたいなタイプはね。なんだ、優しい男は勘違いで浮気しそうってかー?」
「いえいえ。……あの、でもたまにわたし……いや、やっぱりやめときますっ」

 なにかきっと大事な台詞を言いかけて、再びすずはしゃがみこんだ。膝の上で頬杖をついて、ほっぺたをつんつんしている。今のは失言だったと後悔するように可愛い声で唸っている。僕は、失言の続きを問いただそうとはしなかった。しても彼女が困るだけだし、きっと頑なに話さないだろう。なにより僕には彼女の言葉の続きが想像できたのだ。

「……実は、今帰ると、ですね」

 僕も隣にしゃがむと、すずは言いづらそうに口を開いた。

「時間的に、彼氏の出勤時間とぶつかりそうで」
「うん」
「なんか微妙に気まずくて嫌なんですよね」
「ああ、俺はこれから出勤なのにお前はカラオケオールで朝帰りかよ、っていう?」
「はい。絶対イヤミ言われるだろうなーって思うと」

 なるほど。それで帰ろうとしなかったんだな。良かった、帰るの寂しそうな僕を気遣ってたわけじゃないんだ。まだここで僕と一緒にいたかったんだ。そう納得したら、痰みたいに喉元でからまっていたアルコールの塊がストンと胸に落ちてきて、口の中が突然すっきりした。緑色の、口内洗浄液。緑は、得てして毒をイメージする色。

「彼氏は何時くらいに家出るの?」
「そうですね、だいたい八時前には」
「ここからすずちゃんの駅までは一時間くらいだから、確かに忙しく準備してる彼と遭遇しそうだね」
「はい。ちょっとでもイヤミ言われたら、わたしもなんかむかついて見送る前に寝ちゃいそう。子供みたいでだめだめですけど」
「そっか。じゃあ八時過ぎるくらいまで、どこかで時間潰そうか」

 立ち上がる僕を、すずは目をまるくして見上げていた。

「どこかって……?」
「うーん。でもあと二時間もここで待つわけにはいかないだろ」
「でも、駅のカフェとかまだ開いてませんよ」
「とりあえず改札出よっか。どこか休めるところいこう」

 すずの大きな瞳がびくっと更に見開かれて、それで僕は自分の発言の危うさに気づいた。僕の検索履歴にはない。映画とかで見たことがある、ホテルに女の子を連れ込む誘い文句のテンプレート。僕は自分で自分の頬をビンタした。これは、あえてオーバーなアクションをして空気を打ち消す、僕のポーズ。

「いやっ、変な意味じゃないよ? まったく今のはだめだろ自分。さすがに。物理的な意味だからね? 外ならマックもファミレスもあるし」

 すずはしゃがんだまままだ僕を見ていた。本当に大きな目だな。本当に可愛い顔してるな。くすっと笑って、すずは立ち上がった。

「うーん、でもお腹はいっぱいだし、ごはんはもういいかな……。どこかで映画でも借りて観ますか?」



 映画? 映画を観るのか? どんな映画を、どこで、どんな空気で、すずと二人きりで?
 これは、もう少しお酒の力が必要だと思った。
 すずがどういう心模様なのかはわからない。僕の検索履歴には、さっきすずと調べた『浮気』って言葉がまだ残っていて、この先はきっと、僕の紡ぐ一字一句や僕が行う一挙手一投足で、なにもかもが変わる。僕の気持ち、すずとの関係、調べた浮気って言葉の意味。

「ういさん、お酒はもうやめよ?」

 立ち寄ったコンビニでストロング缶を掴もうとした僕の手を、すずが掴んだ。ういさん、お酒に頼るのはやめよ? そう言ってるように聞こえた。僕は僕の手首を握った彼女の繊細な指先を見つめ、唾を飲んだ。机に墜落して手を握り合ったほんの数時間前を思い出す。頭をぐるんぐるん回っていたあの時のアルコールの熱も、こみあげてくる。
 この手は、お酒を制止するための手。でも、どうせ握るんなら。あの時の手みたいに。

「すず」

 僕はすずの手を軽く振りほどき、自分の手をパーにして突き出した。

「すず、手は?」

 束の間の逡巡。伝わる。でもすずは、おずおずと僕のてのひらに自らを重ねた。握り返すと、握り返された。飲み屋の時よりも確かな弾力だった。
 僕らは手をつないだまま駅前を歩いた。手をつないでいること、どちらも異を唱えないこと、この状況を言葉でごまかさないこと、それはまるで急に生まれたルールのようだった。朝もやの街の香りに包まれて、僕らはとても自然だった。
 レンタルビデオ屋ですずが観たいと言ったディズニー映画を借り、外に出た。ここから左に向かって歩けばホテル街で、右に行けばネットカフェ等がある繁華街に出る。

「どこで映画観ようか」
「うーん。ネカフェとかで観れるんですかね?」

 僕がこの前使ったネカフェなら観れるだろう。他の部屋より少し割高になるが、防音設備が完璧なVIPルームがある。けれど、僕らは今もまだ手をつないでいる。

「すずちゃんを汚いネカフェには連れていきたくないな。ラブホにしよう」
「ええーっ」

 僕は堂々と告げた。駅で意味深なことを言った時はもちろんそんなつもりはなかったが、今僕はホテルに行く以外の選択肢は考えていなかった。すずは当然、驚いてためらいの反応を見せた。けれど、拒絶されるとも僕は考えていなかった。

「それ、それは、まずいのでは……」
「でも落ち着いてDVD観れるところなんて、どうしてもそういう密室しかないよ」
「そう、そうですけど、映画観ようって言ったのもわたしですけどっ」
「大丈夫。なにもしないよ。映画観るだけ」

 実際僕は彼女になにかするつもりはなかった。そもそも、そんなことこれまで考えもしなかったことであり、今もたぶん考えてはおらず、まったく嘘は言っていなかった。僕はすずの手を握りしめて左の道に向かった。すずは「うう」とか「なんてこった」とかぼそぼそ嘆いてたが、手を離して引き返そうとはしなかった。


 貧相でも高級でもない、すずが気後れしてしまわないような無難な外観のホテルを選び、受付で三時間の休憩を取った。彼女は「わたしのわがままなので」とお金を半分払おうとしてきたが、飲み屋とは違ってホテル代というのは割り勘すら男が許さないものだ。同棲する前はそこそこの頻度でマヤとラブホを利用していたのでそれくらいはわきまえている。すずも、経験上ここは僕のプライドを優先すべきと悟ったのだろう、僕が財布からクレジットカードを出すのをもう止めようとはしなかった。
 禍々しい柄の廊下を進み、キーで部屋を開けると、ラブホテル特有の妖しい色と灯りと匂いが飛び込んできた。サイコロのような密室の中にガラスのテーブルと必要最低限の電化製品と巨大なベッドが詰め込まれている。暖色の照明は何段階も薄暗く設定されていて、コンドームもティッシュもゴミ箱もベッドに添えられ、すぐにでも行為に及べますようにとのルームメイクの意図を感じる。

「うぅ、本当に来てしまった」

 部屋に入るなり、押し殺した声で叫びながらすずはベッドに倒れこんだ。瀕死の状態で形見の品を預けるみたいにスマホを枕元に置き、スカートから伸びる脚をうつぶせのままバタバタさせた。
 本当に来てしまった、か。まるでいずれこうなることを覚悟していたかのような口ぶりだ。だとしたら、いつから覚悟していたのだろう。いつから『もしかしたら』が脳裏をよぎっていたのだろう。さっき手をつないだ時から? 飲み屋を出た時から? 映画館に行った時から? わからない。ただ、ラブホテルの魔力は、部屋に入った瞬間から想像以上に僕を刺激した。性の営みしか感じられないこの密室で、今すずは僕と二人きりで、どちらかがどちらかを拒否することもなくこの場所にいる。すずが僕のすべてを受け入れてくれた気がして、嬉しかった。
 僕もベッドに入り込んで、メガネを外して彼女のスマホの隣に置いた。形見の品を現世に預けていくみたいに。

「映画観ないとね」

 そのまま後ろからすずを抱きしめた。言ってることとやってることが違う。我ながら可笑しかったが、はじめて抱きしめたすずの身体は見た目以上に小さくて繊細で、ぬいぐるみのようだった。

「うぅ……ぎゅーまでされてしまった」

 突然の刺激に少し身を強張らせるだけで、彼女はやはりもう抵抗しない。

「嫌?」
「うぅ」
 
 どうしていちいち反応がこんなに可愛らしいのか。嗜虐心が疼かされる。

「ぎゅーしちゃったから、ちゅーもしていいよね?」

 抱きしめている存在が子供のようにちっちゃいから、自然と口調があやすものになる。

「……ちゅー……するの?」
「しないの?」
「それはだめっ、だめなんだ」

 ダメダメとすずは頭を振った。その後頭部に僕は鼻を押し付けて、抱きしめる力を強めた。上下の力に屈してすぐに彼女は大人しくなった。僕はそれを了承と受け取った。腰に回している腕を少しずつ上にずらし、両手で彼女のほっぺたを包んだ。ふわふわのマシュマロでも触ったかと思うほどだった。そのまま優しく力を加えて彼女の身体をひねらせ、仰向けにさせた。優しい力で十分なくらいもう彼女はされるがままだった。覆いかぶさって、僕は黙って口づけた。

「すず、もう一回」

 唇を離したら僕の腕の中で暴れて逃げようとしたので、また両手で顔を包んだ。僕らは数秒、そのまま見つめ合った。すずは汗で少し湿った髪を額にはりつけて、「これからどうするの」とでも言いたげなうるんだ瞳で僕を見上げていた。黒目が大きい。哀しい仔犬みたいだ。僕の腕に包まれて組み敷かれた入木すずはあまりにも可愛く、あまりにも僕のものだった。
 もう一度顔を近づけて、口づけた。今度は息を止めて、離さなかった。すずも息を止めて、逃げなかった。僕は冷静だった。冷静に狂っていた。ひとつひとつ、すずに踏み込む度に、黙ってすずの返事を待った。彼女が嫌がらないように。彼女が僕の行為を認めてくれるように。僕は口づけたまま舌を出して、ちろっと彼女の唇を舐めた。彼女は少し驚いてくぐもった息を漏らしたが、逃げなかった。次は舌先で、少しだけ彼女の唇を割った。吐息とともにピンクの扉が開いて、遠慮がちに舌を絡めてきた。僕は夢中になって彼女の唇をむさぼった。吐息と吐息と唾液と唾液が混ざって、背中に回されるすずの両腕を感じた。僕と同じ速度と熱度ですずも唇をむさぼってきた。僕は唇以外に、彼女の耳や首筋にも口づけていったが、性的な快感よりも強く僕を陶酔させたのはすずに愛されているという幸福感だった。この時、僕ははじめて自分の気持ちを察した。僕はすずのことが好きだったんだ。いや察するというよりは、はじめからあったものをすぐそばで見つけた感慨だった。
 繰り返す僕の愛撫にすずは幼女のような声で喘いだ。耳元で何度も好きと囁いた。僕はとっくに激しく勃起していたが、隠すことなくジーンズの上からすずの身体に押し付けていた。彼女のシャツをたくし上げながら、現世に置いてきたスマホとメガネの隣にあるコンドームを手に取った。

「すず」

 すずは息を荒げて、上気した顔で、異世界の避妊具と現実の僕を見比べた。

「僕は散々言ったけど、すずからもちゃんと言葉で聞きたいな」

 乱れた彼女の髪を撫でつけながら、言った。

「すずは僕のこと好き?」
「うっ」

 すずは布団をかぶって逃げようとした。が、キスで捕まえた。まったく、さんざん「好き」以上の行為をしておきながら、それを言葉にするのをためらう。でもその気持ちはわからないでもなかった。それを実際に言葉にしてしまうことによって、彼女の中でいろんなものが崩れていく恐怖があるのだろう。

「はい逃げない。ほら、好きっていいなよ」
「それなんか映画のタイトル!」

 久々にいつもの調子で笑った。でも、コンドームの包装紙を破る僕の指先が、いつもどおりのまま終わるのを認めない。

「ちゃんと答えなさい。僕のこと、好き?」
「……好きです」

 しゅきです、って、聞こえた。キスのしすぎで舌がまともに機能しないのか、さしすせそがしゃししゅしぇしょになってしまった彼女は、恥ずかしさをこらえきれないように布団で半分顔を隠した。それでも、半分だった。すずは熟した視線を僕から離さなかった。

「ありがとう。いま人生で一番嬉しい瞬間だったかも」
「大げさですっ」
「ひとつ言っておくと、僕セックスがあまり得意じゃないんだ。ちゃんと出来なかったらごめんね」
「わたしも、あまり気持ちよくさせてあげられなかったら、ごめんね」

 あ、敬語とれてるね。そう茶化した僕の言葉が、現実での最後の言葉だった。


 すずの中を僕で搔き乱しながら、僕は何度も同じ言葉を囁いた。息切れして、かすれて、ほとんど金切り声で何度も。『ここにいるのは、ほんとにすず?』。全身の、中から外まで揺さぶられて声にならない声ですずも何度も答えた。『ほんとだよ。なんでだろう』。僕らは互いの身体を、存在を、不安がった。こうして身体を重ねている現実を何度も疑った。夢じゃないとわかってる、嘘でもないとわかってる、けれど互いを激しく確かめ合わずにはいられなかった。だから僕は僕の栓を放つその瞬間まで彼女の唇を一心に求めた。放たれるのは白濁の精子だ。知ってる。それは子供を作るものだったり、快感をもたらすだけのものだったりするんだろう。でも僕はそのどちらも求めていなかった。ただすずの好意を感じたくて、僕の好意を感じさせてあげたかった。だから純粋なキスを求めた。純粋に求め合った。下卑た感情なんてこれっぽっちもないんだと、真っ白に遠ざかる意識の中でそれだけは確かだった。彼女の中で、人工の膜の中で、最後に僕が撃ち放った液体は、きっとそんな僕を満たしていた毒のエメラルド色だった。

「ういさんのことは、ずっと前から好きだったんだなぁって、思うんです」

 すべてが終わった後、シャワーから出てきたすずがそう言った。いつから僕のこと意識してたの、という質問への答えだった。

「なんでこの先輩こんなに可愛がってくれるんだろうなって。イベントで何度も同じチームになったり、はじめてリーダー任されたわたしを心配して、何度も支えてくれて。すずちゃんすずちゃんって、ういさんはいつもふざけてわたしに絡んできて。それが当たり前になって、みんなも入木すずは初生谷さんのお気に入りだからなぁってなって。なんだかそういうのも嬉しかったんです。嬉しいって思うと同時に、なんだか戸惑って。ういさんはわたしのこと後輩として可愛がってるだけ、お互い付き合ってる人がいる、へんなふうに考えちゃだめって。でも毎日シフト確認して、ういさんがいると嬉しかった。だからういさんが三月で辞める時はほんとに悲しかった。もうあまり会えなくなるのかなって」

 彼女の告白はとても意外で、何より僕の胸を打った。行為が無事終わった瞬間よりも、すみずみまで心が芯から満たされていった。
 まさか、という思い。僕は当時決して下心を持ってすずを可愛がっていたわけではない。今すずが言ったようにお互い同棲までしている伴侶がおり、僕が彼女にどれだけ優しくしたところで万に一つも男女の仲に発展することなどありえなかった。考えもしてなかった。しかし、だからこそ僕は無遠慮に自分を解放できたんだろう。すずへの愛情は下心なく直情的だった。彼女がそれを、僕の向けた愛情を、僕が込めた以上に深くとらえ、悩んでいたなんて、思いもしなかった。
 そうか、最初から好きだったんだ。だから二人で飲みに行けた。映画に行けた。毎日話せた。朝まで一緒にいられた。手をつなげた。あの時も、この時も、すずは悩みながら僕のことを特別な目で見ていたんだ。映画を観にいった翌日の、戸惑いと不安を隠しきれなかったスマホ上のすずの姿を思い出す。それならば僕は。僕はどうだったんだ。今日の今日まで本当に彼女はただの後輩だったか? 僕もすずと同じではないのか。お互い別の人と同棲しているから、なんて、免罪符だったんじゃないのか。そう、最初から僕のすずへの愛情は、見え見えなほど真っ直ぐだった。

「すず、好き」

 いそいそとベッドにもぐりこんできたすずを、座った姿勢で抱きしめた。バスローブ越しに肌の感触が伝わって、生乾きの黒髪からはリンスの澄んだ香りが漂った。

「うぅ、好きです」

 すずは僕の肩に顎を乗せ、僕も驚くくらいの力でしがみついてきた。それから体を離し、見つめ合って、僕の照れた微笑みを奪うように唇を重ねてきた。

「困ったなぁ。好きだよう」

 そんなことを言いながら、泣きそうな顔でキスと抱擁を交互に繰り返してくる。熱いものが押し寄せてきて、僕は思わず彼女を押し倒した。

「もうごまかせないね。これは完全な浮気だ」
「うう、なんてこった。なんてこったです」
「浮気の意味、もう検索する必要ないね」
「なんてこった。これから、どうしよう」
「そうだね。僕もまったく未知の領域だよ。これから、どうなるんだろ」

 でもこれきりじゃない。僕らはセックスがしたくて、身体が欲しくて、快感が欲しくて、繋がってしまったわけじゃない。好きだよという言葉を纏う接吻は、おそらく検索履歴に残ってる浮気という単語の意味そのもの。僕とすずの始めた『浮気』がこれからどんな中身を持つのか、とてもじゃないがお互い考えられる心境になかった。
 結局二時間も時間を延長してしまい、最後はフロントの電話に急かされる形で僕らはホテルを出た。外は灰色で、予報通り小雨がぱらついていた。僕は念のため持ってきていた折り畳み傘を開き、観なかったDVDを返すためレンタルショップに向かって歩き出した。狭い傘の中、身を寄せ合って、傘の柄を握る僕の手にすずの小さな手が重なっていた。
 今知り合いに見つかったらやばいね、そう言いかけた瞬間、なにか強い力に引っ張られて僕は傘を落とした。すずが凄まじい勢いで背後を振り返ったのだった。まさか本当に知り合いに見つかったのかと、戦慄して僕も振り返った。
 そこには、もっと戦慄すべきものがあった。

「わたしたち、見られてます」

 空の眼だった。濃厚な雲が雨を降らせているから太陽も月も隠れているはずなのに、なぜか空の眼が浮かんでいる場所だけ雲がひらけていた。
 石化していくかのように、僕もすずも固まって動けなかった。僕がこんなにも空の眼の視線を感じるのははじめてのことだった。こんなにも不気味に思うのもはじめてのことだった。雲間から刺す、黒い楕円の中のぎょろりとした黒目は、確実に僕らだけを見つめていた。実際はそうじゃない、ただ偶然雲間から謎の天体がこちらを覗き込んでいるように見えるだけ、そう思いたくても思えないほどの目力だった。睨むわけでも、蔑視するでもない。ただ見ているだけの巨大な瞳に、僕とすずはその場に磔にされた。
 我に返るみたいに、浮気という罪が現実としてのしかかってくる。大切な人を裏切ったという事実だけが僕らのまわりを取り囲む。見られていた、見られていた。最初から見られていた。こんな視線を常に感じながら、僕らはこれからも罪を重ねていけるのだろうか。
 やがて雲間の眼は、強くなる雨とともに、暗雲の中に姿を消していった。
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