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第五章
朔空の思考
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一年も経てば、千弦との生活パターンにも慣れてくるし、千弦は千弦なりに努力はしているようだった。
朔空君は、「ぼくが出来る事は、ぼくがやれば済む事」だと千弦を尊重していたし、何よりも彼女の行動力と決断力は、のんびりやの朔空君にとってお互いを補い合う必要な存在、大切な存在だと強く認識したようだった。
千弦は無事に教員採用試験に合格し、このまま順調にいけば、小学校の先生になる。
それよりも、さすがのぼくの意表を突いたのは、この朔空君が博士課程二年目にして大学院を辞め、システムエンジニアとして企業に就職した事だった。敢えて、お父さんや香椎隼矢と同じ数字教師の道は選ばなかった。
「サクラ、この答えは正しいの?」
見守るぼくは、じりじりと見守るしかないのだ。
千弦は大学生最後の年を楽しみ切るように、暇さえあれば友人を引っ換えとっかえ彼方此方に出掛け、その半分以上は朔空君は留守番だった。
朔空君にしてみれば、ひとりになれる静かな時間は貴重だったし、全く問題はなかったが、さすがにフランス旅行で置いて行かれた時には、先を越されたと、少し羨ましがっていた。
「ぼくは『モナ・リザ』が観たいんだ」
中学生以来の朔空君の希望のひとつだった事を、ぼくは憶えている。
「私が大学卒業したら結婚するでしょ」
千弦は、ぼくの鉢に水やりをしている朔空君に纏わり付く。
「私ね、昔から二十三歳までに絶対結婚するって決めているの」
「相手がいなかったらどうするの?」
「今、目の前に居るからいいの」
答えになっていないが、千弦の揺るぎない決心を感じる。
「朔空君、私の事、好き……なんだよね」
「ああ。千弦はぼくより年下だけどしっかりしていて頼りになる。でも頼りない所もたくさんあって、守りたくなる」
「それで?」
「……うん、好きだよ」
「良かったぁ!」
いきなり朔空君に抱きつくものだから、手に持ったコップの残り水が、床に溢れてしまった。そんな事はお構いなしに、千弦は続けた。
「パパとママが会いたがってるから。キイにも会いたいでしょ」
「……わかったよ」
じりじり……
2
朔空君は、五年振りの自動車学校行きのバスに揺られていた。三ヶ月間、運転に興味を持てないまま通っただけだったが、今となっては懐かしい気もする。
ぼんやりと車窓から雲を眺めて、あの時の飛行機雲とドーナッツ状の興味深い雲の形を思い浮かべる。
「そうか、あの日に千弦と偶然会ったんだっけ」
ピンポン……降車ボタンが押された。
「次、降りるよ」
千弦が振り向いて朔空君に告げる。いよいよ、千弦の家が近づいてきた。
「何も考えてきていない。なるようになれだ」
朔空君は、自分でも驚くほど緊張はしていなかった。
千弦ははしゃいで、朔空君の前をくるくる回りながら走って行く。
「まるで無邪気な子供、というか猫みたいだ」
朔空君は目を細めた。
千弦の家は、同じ形の並ぶ二階建て住宅のうちの一戸で、ブルーの車が一台止まっていた。
「いらっしゃい。お待ちしていました」
にこやかに出迎えた千弦の母親は、千弦が年を重ねたら、絶対にその顔になるだろうと思うほどよく似ている。
母親ほどの年齢の女性には失礼だが、可愛くてどこか懐かしくて親しみ易い感じがして、朔空君は三白眼の大きな目でじっと見てしまった。
「あ、初めまして。柊朔空です」
ようやく名乗って空気が動き始めたが、母親はまるで涙を堪えているかのように瞳が潤んでいた。
居間に案内されると、白い猫を抱いた気さくな父親が、
「いらっしゃい、お会いしたかったですよ。わがままな千弦がお世話になっちゃって、ありがとうございます」
「やめてよ、パパ。私だって朔空君をお世話してるんだから」
「いや、お前みたいなわがまま娘を受け入れてくれるなんて、中々いるもんじゃない」
「だからパパ、嫌いなのよ!」
父親は酔っているわけではない。きっと正直者なのだろう。
朔空君の想像していた父親像とはだいぶかけ離れていたけれど、如才ない信用出来そうな人物で、とにかく朔空君を気に入ってくれているのがストレートに伝わってくる。
母親がティーセットを用意して居間に入ってくると、千弦が待ち切れないように三人の紹介を始めた。
「では、改めまして、こちらがふたりの待ち焦がれていた私の彼、柊朔空さんです。元塾の先生でした」
「なんだ、この恥ずかしい紹介は」と心の中で思いながら、朔空君はぺこりと頭を下げた。
白猫が朔空君の足に絡みつく。
「キイが懐いてるな」
父親が言うと、
「昔一度だけ会ってるもんね、キイ」
千弦は朔空君に相槌をうながした。
「朔空君、こちらが私のお調子者のパパ、征吏。そして、こちらがいつまでも女の子みたいなママ、環です」
「えっと、はい、改めまして、千弦さんとお付き合いさせて頂いている柊朔空です。ご挨拶が随分と遅れてしまって申し訳ありません。今後ともよろしくお願いします」
「こちらこそだよ、朔空君。これからも娘を頼みますよ。朔空君がそばにいてくれれば安心だ」
父親の征吏は、すでにふたりの結婚が決まっているかのような口調だったが、少しも嫌味を感じなかった。
母親の環は堪えかねたように涙を零す。
「ちょっと、やだ、ママったら。今日初めて会ったばかりなのに、涙は結婚式の時にしてよね」
どうやら結婚という二文字から、すでに朔空君は逃れられないのかもしれない。
それでもこの早とちり家族に、朔空君は好感を抱き、すっかり朔空君を気に入ってしまった白猫キイを抱きながら、来て良かったな、と思っていた。
この日朔空君は、雨宮家に思った以上の歓迎をされたのだった。
じりじりじり……
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