つわもの -長連龍-

夢酔藤山

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四 復讐の鬼

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                    一


 孝恩寺宗顒の復讐の念は、生きて怨嗟の如し、と例えるのがよい。その生涯を怨みに捧げたような、喜怒哀楽の欠落した不気味さを漂わせた男と化した。
 僧の名でありながら、剃髪せず、悪鬼羅刹の雰囲気を漂わせ、部下もない独立した陣借りの体だった。北陸勢に組み込まれたが、処遇に困った柴田勝家は
「又左に一任する」
と、前田利家に丸投げした。
 前田利家は戦さをするために生まれた男だ。それゆえ、孝恩寺宗顒には同情的でもあったし、彼の前なら宗顒も本音で語った。
「怨みは果てしない。世の中の全てを呪ってもキリがねえだがや。お前ぁさん、一族を騙し討ちにした卑怯者だけを怨むことにせい」
 利家の言葉に、孝恩寺宗顒は頷いた。
「遊佐と温井だけは、皆殺しだ」
「そうか、ならばそれだけを心掛けりゃいい。儂に出来ることしかしねえ、なんでも云え」
「能登へ攻めるときは常に先陣へ」
「わかったでや」
 前田利家はにこりと笑った。男惚れする、いい笑顔だ。こういう男の部下になった者は、幸せだ。事実、細やかな幸せだと、孝恩寺宗顒は心の底から思った。
 年が改まった。
 越後で大きな騒動が起きたのは、三月のことだった。上杉謙信が没した。この情報の事実確認に、日本中の戦国大名が奔走した。
 生きているか、死んだか。
 それだけで、こののちの戦国絵巻は大きく塗り替わる。織田信長は正確な情報を求め、そのための財すら惜しまず用いた。そして、死を、確実なものとして認識した。
「謙信入道さえ死ねば、北陸には恐いものもねえ。やらいでか」
 北陸の進撃を決した信長に、柴田勝家は呼応した。
 石山本願寺も謙信との和睦がなければ、とても加賀が支えられないと割り切った。地元の信徒を放り出して、派遣している幹部には、石山へ退くよう密命を出した。顕如がいうのならば、誰も逆らえない。
 ようやく、世の潮目が動いた。
「この世とは、よく出来ている」
 孝恩寺宗顒の胸は高鳴った。

 上杉謙信が死する三か月前。
「皆に申しておくことがある」
と、謙信は宣言していた。それは、関東大遠征の企画である。
 これまで謙信は十数度、越山し関東へと出兵した。最初の遠征は小田原城をも包囲し、関東の諸将が襟を正して迎えた。このとき関東管領職を継ぎ、関東への出兵に大義名分を得た。そのときを除けば、以後の遠征は小競り合いばかりである。
 漁夫の利を重ねて、関東を統べるのは北条家だ。関東管領などという絵に描いた肩書きよりも、実効支配の方が民衆にとっては余程尊い。
 しかし、建前はやはり必要だった。
 上杉謙信は権威を重んじ秩序を守ることを是とする武将だった。ゆえに、いつかは大遠征を行ない北条を圧倒して上杉家に関東を復す野望があった。
 越中が平定された。能登も、静謐を取り戻した。そして、石山本願寺とも和睦をしている。
「後顧の憂いなし」
 この盤石で臨む関東出兵は、過去に一度もない。
「今度こそ、小田原の北条を攻め滅ぼす好機なり」
 多くの者が、その言葉を聞いていた。
 関東出兵が正式に決し、それに越中の軍勢が組み込まれたのは正月過ぎのことだ。
「このこと、どう思うか」
 織田信長は諸将に質した。武田信玄でさえ、西上作戦のときは間際まで秘して、電撃的に出陣した。
「こんなことを聞けば、北条が供えを厚くする。わざわざ自らを苦戦させるために公表するなど、尋常とは思えぬ」
 諸将にも計り知れなかった。才智のある者にも忌憚のない考察を述べさせたが、腑に落ちぬ言葉ばかりだった。
「坊主、お前ぁなら何と思うか?」
 孝恩寺宗顒への問いは、戯れだ。しかし、その答えこそ、信長の腑に落ちるものだった。
「いま一度申せ」
「ですから、加賀に出れば一向宗徒を従えることで軍勢は膨らみましょう。近江に入れば、一気に安土へ」
 この答えを導き出したのは、孝恩寺宗顒ただひとりだった。
「よう申した」
 信長は納得し、丹羽長秀と明智光秀だけを呼んで密儀を凝らした。もともと安土城を普請した目的は、対上杉謙信のためである。構造物の装飾美などはついでのこと、ここは北陸への街道が通ずる要衝でもあるのだ。
「関東など、でまかせだがや。本命は、儂を討って上洛する腹だで」
「まさか」
「そのまさかを、攻め手の儂は選択してきた。ゆえにここぞで勝ちを拾ってきたこと、お前ぁらは忘れておるまいよ」
「しかし」
「備えろ。いや、先の先も必要だ。乱波を春日山へ差し向けよ。あわよくば、謙信入道の寝首を掻いてしまうべし」
 安土から放たれた乱波は三〇。腕利きの刺客といってよい。

 天正六年(1578)三月一五日。出陣の予定日が決した。
 が、その矢先の三月九日。上杉謙信は厠で倒れた。
「御酒が過ぎたのではございませぬか」
 典医は酒量を前々から指摘していた。ゆえに中風もしくは卒中という診立てをしていた。実際、昨夜も遅くまで酒を飲んでいる。
 施す手立てはなかった。関東出陣は中止と触れられた。越後国内は、上に下に、大騒ぎとなった。
 三月一三日未の刻(午後二時)、上杉謙信は息を引き取った。
 謙信ひとりの死は、戦国の世を左右した。
 そして越後国内も、内乱へと誘った。上杉謙信には実子がない。四人の養子がいる。甥の景勝と、北条からの人質だった景虎。村上義清の子・景国と、能登畠山からの人質・義春。後継者争いに名乗り出たのは、血縁上もっとも近い景勝と、前関東管領・上杉憲政お気に入りの景虎だった。
「どっちに付く?」
「どうする?」
 誰もが担ぐ相手に苦慮した。重臣が、更には陪臣が、上杉謙信の後継者を誰に担ぐかと声に出した。話し合いで済まぬことは明白だった。
 越後国内は二分して、双方の支持者が対立する状況となった。こうなると、上杉謙信が築いた版図は大きく揺らいだ。
 支配地である越中の混乱は、目を覆うものだった。この内乱に乗じた権力争いが醜く繰り広げられた。謙信の信頼も厚く智謀に秀でた河田長親が幅を利かせているため、越中を追われた神保一族は、復権の機であった。いや、後継者争いなどと悠長なことを云ってる場合ではない。
「越中を取り戻す」
と叫んだ神保一族は、織田信長に与した。上杉家や、ましてや河田のみでは、越中蜂起の鎮圧など容易ではあるまい。こうなると、もはや越中は国の体など為していなかった。
 能登はどうか。
 謙信は七尾城に鯵坂長実を城将として据え、遊佐・温井をその下に付けた。しかし、謙信が死ぬと、情勢が大きく変わる。鯵坂長実は能登の諸将を七尾城に集めて、血判誓詞を呈出させた。が、肝心の越後は後継者争いで内乱状態。統制など出来よう筈がなかった。
 六月、越前から海路で羽咋郡富来に着いた孝恩寺宗顒は、懐かしき故城である穴水をめざした。前田利家からは腕利きの兵を五〇も借りている。
「穴水を盗る」
 策は、練ってある。すでに在地の一揆衆とは連携ができていた。長続連の子というだけで、能登では孝恩寺宗顒に寄せる信頼は絶大なものがあった。
 珠洲郡正院川尻城で一揆が生じた。孝恩寺宗顒と気脈を通じた五〇〇人余りの連中だ。正院川尻城の城主は、畠山を裏切った〈黒滝長〉こと長景連である。領内に漲る不平の声を抑えきれずにいた。
 この援軍のため、穴水城から長沢筑前守が出陣した。この機を待っていた孝恩寺宗顒は、勝手知ったる地の利で、たちまち留守の穴水城を奪い取った。
 城兵の余りの少なさに、孝恩寺宗顒は愕然となった。城を落としたのはいいが、降伏させた城兵がこうも少ないと、今度は守り切ることが難しくなる。
「いつでも落とせるということが解っただけでも良しとしなければいかんか」
 前田の援兵たちに、孝恩寺宗顒はせっかく落した城を捨てると宣言した。
「よろしいのか」
「よろしい!」
 迫る温井・三宅氏や上杉勢を尻目に、宗顒は脱出した。むしろ一つ所に留まるよりも、能登を転戦すれば、民衆はこちらへ付くことになる。民衆が味方になれば、没落した武士たちも参加する。
 神出鬼没という風聞は都合がいい。ここは奇襲を重ねることが一番だ。
「前田の助っ人には、面白くない戦さだ。どうする、帰るか?」
 孝恩寺宗顒の問いに、五〇人の兵は笑いながら答えた。
「結果的に能登を分捕ればいいんだがや」
 彼らの漢気に、孝恩寺宗顒は感謝した。
 八月、宗顒は越中氷見の守山城に赴き、神保宗五郎氏張を頼った。神保氏張は早くから信長と結んで上杉に対抗していた男で、佐々成正の与力でもあった。この動きは前田利家に報告し、それを経由して信長に知らされた。
 織田信長は愉快だった。
「あの坊主、せっかく盗った城を、守り切れないという理由で捨てたそうだ。仕切り直して奪うのだという。面白い男だがや」
 傍らの細川兵部大輔藤孝に、そう語りかけた。
「武辺者らしくて、よろしいかと」
「ああ、又左の下に付いているそうだが、こういう奴に任せておくと、収まるところに収まるものだ」
 信長は、この状況を楽しんでいるようだ。
「にしても」
「はい」
 摂津で荒木村重が不穏な動きをしている。その様子を、細川藤孝は報告に来たのだ。
「あいつも武辺の者だ。噛み合わないと、こうも上手くいかない。人とは勝手なものだ」
 信長は荒木村重の謀叛の意を全く介していない。当然だ。これは誤解に過ぎない。誤解ひとつで噛み合っていたものが簡単に壊れるものだと、どこかで信長は諦めてもいた。修復しないなら、それもまたよし。
 極めて合理的である。
 感情に左右されない考え方を、当時の日本人は理解していない。信長のような人物は、常に誤解されやすいのだ。
「坊主はどうかな」
「は?」
「いつか、儂に刃を向けたりするのかな」
「面倒は御免です」
 やはり、信長はこの状況を楽しんでいるのだ。程なく、北陸方面の軍勢へ信長からの指図が飛んだ。孝恩寺宗顒のやること、出来る限り助けてやるべし。越中の輩は努めて支えよ。こういう指図は、異例だった。
「命令ではないからな」
 柴田勝家は難しい顔で呻いた。
 前田利家は、何となく信長の云いたいことが理解できた。能登を落とせば、越中の上杉勢力を駆逐し易い。信長はそう云いたいのだろう。
「神保のところは佐々内蔵助のところにて、修理殿に御沙汰をお願いしたい」
 前田利家と佐々成政は仲が悪い。こういうことは柴田勝家の責任だった。


                    二


 一〇月四日、斎藤新五郎利興は神保長住の援軍として、越中国太田本郷城に入った。元々、太田本郷城は河田長親が築いた上杉の付城だ。しかし上杉家の内乱で維持できなくなり放棄されたため、斎藤利興は難なく入城した。周辺勢力の城生城主・齋藤次郎右衛門尉信利は信長に鞍替えし、斎藤利興と連携していた。
 斎藤利興は津毛城を攻略すると、神保勢に守備を任せ、さらに北進して河田長親・椎名小四郎景直の籠る今和泉城下まで押し寄せ、放火を働いた。そして未明に軍勢を返そうとしたところ、城兵が兵を出して追尾してきた。
 これは、想定するところだった。
 斎藤利興の退いた先は、地形の複雑な月岡野。ここで軍勢を立て備えて一戦に及んだ。
 斎藤新五郎利興は美濃の蝮と異名をとる道三入道の末子だ。才覚は勿論、武辺も達者である。この戦いで越後勢の首級三六〇を討ち取り、三千人以上捕捉し勝利を得た。勝ちに乗じた斎藤勢は、そののちも勢いを休めず駆けまわり各所の土豪たちから人質を取り固めていった。そして人質を神保長住に引き渡したのち、帰陣の途についたのであった。
 織田信長や嫡男の信忠は、感状と加増を斎藤利興に与え功を称えた。
「さすがは蝮の子よ」
 信長が絶賛したのである。
 この戦功には大きな意味があった。日和見な越中侍が、上杉から離れて織田へ心を寄せ始めたのである。齋藤信利が同心したことも大きい。このことで越中国衆の大半が織田へ味方し、加賀や能登に影響し始めたの。
「孝恩寺宗顒のやること、出来る限り助けてやるべし。越中の輩は努めて支えよ」
 北陸勢に飛ばした信長の指図が、この一戦で、俄然輝きだしたのである。
 当時、織田包囲網が上杉・毛利・本願寺で敷かれていた。これも、この戦いで瓦解した。乾坤一擲のことだった。
 上杉家の内紛は、天正七年(1579)に入って、ようやく終息に向かった。しかし、一旦乱れた国内には火種が燻り、それは越後のみならず、越中・能登の回復を不完全なものとした。
 織田勢の進撃は、その機に乗じた、合理的なものだ。
 天正七年、能登にとって、大きな転機が訪れた。神出鬼没で七尾城の上杉勢力を翻弄してきた孝恩寺宗顒の努力の賜物か。能登の多くは上杉家の内紛で景虎に与した。そのため景虎が敗れたことで追い詰められていた。七尾城将だった鰺坂備中守長実も景虎派である。勝ちをおさめた景勝に恭順の意を示しても、冷淡な仕打ちをされるだけだ。
 驚愕の事件が生じたのは、この年九月。三宅長盛・遊佐続光ら畠山の旧臣たちが上杉勢を追い出す謀叛を起こした。温井景隆はこれに同調しなかったため、鰺坂長実ともども越後へ追放された。
「畠山旧臣により、七尾城を取り戻したぞ」
 威勢を挙げる遊佐続光に従う者は少なかった。能登の者たちは知っている。長一族への仕打ちは、生々しい記憶だ。
 この年の冬。
孝恩寺宗顒は能登侵攻を開始し、羽咋郡敷波宿に陣を据えた。七尾城の勢力は畠山旧臣を名乗りつつも民意は得られない。長一族を討った事実は拭えず、孝恩寺宗顒の仇討にこそ味方するのが人情というものだ。
 棚木城には〈黒滝長〉こと長景連がいた。孝恩寺宗顒はこれを攻めた。長景連に仕えていた小林平左衛門は、思うところがあり孝恩寺宗顒に付いた。
「不義の重ねにて」
 小林平左衛門の謝罪を孝恩寺宗顒は許した。
 もともと小林平左衛門は長続連の家来だった。七尾城で続連が横死したため、やむをえず景連に仕えて生き恥を晒していた。
「辛い想いをさせた」
「若」
「知っているぞ。我らの扇動に人知れず加勢していた者がいる。お前だったのだな、平左衛門」
「恐れ入ります」
「ともに一族の恨みを晴らそうじゃないか。なあ、平左衛門」
 孝恩寺宗顒の言葉に、平左衛門は男泣きした。
 棚木城は落城し、景連は珠洲郡へ落ち延びた。その途中、民衆に討たれたが、その采配も小林平左衛門の手配りだった。

 天正八年(1580)閏三月、織田信長と石山本願寺が和睦した。
 三宅長盛・遊佐続光も、織田信長に向けた降伏の意を示した。五月、信長はこれに応じた。しかし、孝恩寺宗顒は認めなかった。
 六月、菱脇の戦いで孝恩寺宗顒は八代肥後守らを討ち取り、金丸・東馬場・小竹の砦を乗っ取って、布陣している羽咋郡福永へ帰陣し徹底抗戦の態度を崩さなかった。その後、温井三左衛門・三宅主計らが金丸に迫ったが、孝恩寺宗顒はこれを撃退した。
 人の怨みは重くて暗い。
 状況でコロコロと変えられるものではないのだ。これは、一族滅亡を強いられた者にしか解るものではない。
「あれは狂っている。七尾城を差し出すので、どうか除いて欲しい」
 三宅長盛からの訴えに、織田信長も思案せざるを得なかった。信長は柴田勝家の与力である徳山孫三郎則秀に因果を云い含めて、能登へ下向させた。
「上様の顔を立ててくれ」
と、徳山則秀は孝恩寺宗顒を切々と諭した。宿憤を残さず信長の命令に従うこと、この言葉に対し
「奴らを殺害して仇を報じることだけが、我が願いなり」
と、聞き届けようとはしなかった。
「坊主め」
 呆れたものだと、信長は溜息を吐いた。
 九月、これまでの戦功を賞して、孝恩寺宗顒に鹿島郡の半分を宛て行った。居城は福光がよかろうとも指示をした。その代わり、私怨を捨てよという意味だ。
 孝恩寺宗顒は迷った。
 これは、信長なりの最後通牒だ。もしも、これさえ蹴れば、科ありとみなして孝恩寺宗顒が討たれるだろう。仇討ちも出来ないのに処罰されては、元も子もない。
(上っ面だけでも)
と、しぶしぶ孝恩寺宗顒は同意をした。七尾城は織田方に引き渡され、菅谷九郎右衛門長頼が城代として派遣された。
 七尾城を引き渡すことで織田家臣に取り立てて貰おうとした三宅長盛・遊佐続光の考えは甘かった。追放という処分で、彼らは追われる立場となった。
「こんなことなら七尾城を渡すのではなかった」
という悪態も、負け犬の遠吠えに違いない。
 三宅長盛は兄の温井景隆がいる越後へと向かった。遊佐続光の一族には、行くべきところもなく、どうしたものか、野に潜伏して行く末を案じていた。能登国鳳至郡小石村の狂言師・翁新五郎のもとに身を寄せることとした。
 が。
「遊佐がいるぞ」
かつては小石村からも多くの男たちが七尾城に出仕させられた。ある者は長の一族ともども討たれた。遊佐の一族を快く思わぬ者は多い。このことは福水の孝恩寺宗顒に密告された。ただちに兵が差し向けられた。
「いたぞ」
 声が響いた。屋敷の離れにいた遊佐盛光に向けて、小林平左衛門が槍を構え睨んだ。
「みつけたぞ」
 狂気に満ちた笑みで、孝恩寺宗顒は年端もいかぬ盛光の子・十松の首根っこを掴んだ。
「やめろ、子供に何をするか」
 続光が叫んだ。笑わせるなと、孝恩寺宗顒が吐き捨てた。
「子供の竹松さえも、お前らは殺した」
 真っ赤な目で、宗顒は睨んだ。
「子供は、子供だけは」
 遊佐盛光が縋り、十松は泣いて抗った。
「外道のくせに、自分の子は可愛いのか?」
 孝恩寺宗顒の言葉に、盛光は云い返せなかった。この悪鬼羅刹を世に誕生させたのは、自分たちだ。長一族を葬り去ることを最初に画策したのは、遊佐の一族だった。そのために、ひとり残された孝恩寺宗顒は、怨みはらさで置けぬ化物となったのだ。
 これが、因果応報だ。
 六月二七日、遊佐美作守続光をはじめとする四郎右衛門盛光・その子・十松・伊丹孫三郎・遊佐長門・片山三郎兵衛・奥田帯刀左衛門光宗が、七尾池田の館において首を刎ねらた。盛光三男の鶴松と伊丹孫三郎の男子一人も、追って処刑した。
「悪の報い、思い知れ」
 孝恩寺宗顒は不服そうに薄笑いを浮かべた。
 まだ、温井景隆を殺していない。殺し足りないのだ。思いは未だ満たされていない。このことは菅谷長頼を経て、信長へ報告された。
「やりおった」
 咎めはない。懇ろの書が発せられた。温井・三宅も、重畳の奸兇なれば
「同じく誅戮を加えるべき」
という信長の下知が下された。越後に蓄電したからには、両名も容易に探せまい。ひとまずは鉾を収める建前が必要だった。

 八月、孝恩寺宗顒は復讐を遂げ多年の鬱憤を散じたることを、申し述べる御礼のため、安土へ向かった。
「祝着だがや」
 信長は執念深さを誉めた。そして、こののちは人らしく生きることを勧めた。神保氏張の妹を正室にしろとの仰せに、孝恩寺宗顒は畏まった。
「坊主、還俗したからには長の家を絶やすことなかれ。こののちは〈九郎左衛門連龍〉と名乗れ」
「は」
「子は多くて困ることなし。正室だけでは足りなかろう、側室も用意してある」
 信長が指し示した先には、行方知らずだった兄・綱連の娘がいた。宗顒の姪だ。七尾城から脱出した菊末丸と一緒に隠れていたのを、保護されたのだ。
 宗顒あらため長九郎左衛門連龍。正室である神保氏張の妹とは、あまり縁が続かなかった。しかし、姪の若い肢体は相性も良く、たちまち子を孕んだ。
「長の一族を、いっぱい産んでくれ」
 それこそが死んだ者たちへの供養だと長連龍は信じていた。
 神保氏張は佐々成政との結びつきが強く、その後、前田利家に与する連龍との間が離れたこともあり、正室は神保家に戻された。姪は継室として引き上げられ、大事にされた。
「怨みのことも、暫くは忘れられよう」
 天正九年(1581)一〇月、長く忘れていた安らぎに連龍は感動を覚えていた。

 この年、織田信長を中心に世は回り始めていた。越後はもはや敵ではなかった。最後の強敵は毛利だった。これに羽柴秀吉を充て、天下取りの総仕上げが進んでいた。死に体の戦国大名がいた。武田勝頼、信玄の遺産である人材を損なった勝頼は、先細りで苦慮していた。信長は武田攻めの準備を急いでいた。

 一〇月。能登国は前田利家に与えられた。利家は七尾城に入り、能登の内政強化に努めた。鹿島半郡は既に長連龍が信長から与えられている。しかし、利家の与力である立場からいえば、格下だ。そのためここだけは、二重知行となった。こういう割振りは珍しいことではない。
 年明け、前田利家は七尾城を出て、小円山城に移った。
 七尾城は戦国に必要な、戦う城だ。しかし、内政には不向きである。そこで七尾港に近い所口村の小丸山に城を築いたのだ。これからは戦いだけで優劣を決める時代ではないと、信長の意を汲む利家は弁えていた。
「天下布武を為し、一統がされたとき、武士は戦さのない世で治世を競うであろう」
 そう考える者は、このとき、まだ多くは存在しない。現に、天下は未だ定めったわけではないのだ。武辺は世に必要な技だった。
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