京に忍んで

犬野花子

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序章

タキという娘

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 タキは言われた通りに太陽が紅葉色へ変わる頃、村長むらおさの屋敷を訪れた。
 床板に正座して待つと、ほどなくして老婆は現れ真正面に座る。
 艶やかな黒髪を後ろ高くひとつにくくり背筋を伸ばしたタキの美しい佇まいに、一瞬目を細めるとすぐに口を開いた。

「おぬしには京に入ってもらう」
「京、ですか?」
「内大臣の娘の女房にょうぼうとなるのじゃ」

 タキはあまりにも重要度の高そうな仕事内容に驚きを隠せず、小さく紅い唇を開けたまま正面の村長を見つめ返した。

 タキはこの里で産まれ育った訳ではない。
 つまり、幼少の頃から様々な訓練を積んできた里の者達とは、横一列にはなれなかった。そして良くも悪くもその美しい容姿が仇となり間者になることも難しい。よって今までも、子供達が請け負うような簡単な仕事や、風太郎の薬作りの手伝いしかしたことがなかったのだ。

 それが間者の仕事であろうその対象者が、内大臣の、さらに娘の女房である。
 内大臣と言えば、泰平京でみかどの元、政務を行う左右両大臣に次ぐ官職であり、こんな隠れ里に住む者には雲の上の人種である。
 さらにその娘の女房となると誰でもなれる訳でもなく、高い地位と教養を持たねばならない。

「あの……私には無理ではないでしょうか?」
 おずおずと口にするタキに村長は首を振る。
「これはおぬしにしかできん仕事じゃ。案ずるな、すべての手筈は整えておる。いいか、よく心得よ。おぬしが女房として潜ることが目的ではない。……東宮とうぐうに近づくことがおぬしの課題じゃ」
「え?!」
 タキはさらに目を見開いた。
「そんなっさらに無理でございますっ」

 内大臣の娘だけでも別世界の話だというのに、さらにそのはるか上の存在であるその名におののく。
 東宮とはつまり、今上帝きんじょうていの息子であり、時期帝となるべく者を指すのだ。

 しかし村長は余裕の笑みを浮かべたままであった。
「いいや、おぬしほどの美しいおなごがこの里のどこにいようか? ほれ、風太郎なぞ腑抜けになっとるではないか」
「いえ……それは……」
 タキは気恥ずかしく俯く。
「申し訳ありません」
 老婆は豪快に笑った。
「なんぞ謝ることがあろう! 褒めておるのじゃ。出立は明日じゃ。まずは京に入る前に女房としての訓練を。ツテのある所に頼んどるからの」
「はい」

 なんにせよ村長に否と答える権利は、この里の誰にもないのだ。言われた通りにするしかない。タキは素直に答えた。

「そしてもうひとつ」
 老婆は続ける。
「この事は風太郎には言っておらん。あやつはすでに別件で里を出ておる」
 タキは一呼吸置いたのち「はい」と頷いた。


 村長の屋敷から自分の小屋へ戻る途中で、里を見渡せる裏山の小さな崖に登った。
 タキはこの小さな里を瞳に刻むように見つめる。

 雅な京の町とは違って下の者達には年月を数えるという概念や執着もなく、自分の年齢さえあやふやなままである。
 だから、『数年』としか言い様のない年月ではあるが、ここで過ごした毎日だけはタキには確かなものであった。

 数年前のある日、タキは記憶を無くした状態で村長に拾われた。滝の近くだったということで付けられた名前「タキ」である。
 自分がどこの誰だったのかもわからず、捨てられたのか人さらいにあっていたのかもわからないままだが、里で人として生きていく機会を与えてくれた村長に感謝しかない。

 そしてその村長が、含ませていた最後の言葉。
 つまりこれにて風太郎と縁を切れ、ということだ。

 風太郎はいい男であった。少なからず恋をしていたのだと思う。あの熱く凛々しい瞳で燃えるように見つめてくる彼を、どうして拒めようか。
 しかし、彼はその身の為に誰のものにもなってはならないのだ。少しでも多くの女に、子をもうけさせねばならない。だが、村長は風太郎に黙ってタキに薬を渡し続けていた。子種が着かぬ薬だ。
 タキはこの里にずっといることは叶わないのだと、その時悟ってしまった。
 つまり、里との縁も今かぎりだと解釈した。

 ふと無意識に触る左腕にくくられた紐。ずっと肌身離さず身につけていたそれは、くすみ汚れて元の色が何色だったのかもわからない。
 だが知っている。これを授けてくれたのは夢の中の君であることを。

 いつも風太郎には「お花畑かよ」と茶化されていたが、その夢の中の女童めのわらわは優雅な佇まいで筒井筒つついづつの君と契りを交わすのだ。その印として少年は自らの裾を引き裂き、こよりを作りその女童の腕に巻いた。

(自分を繋ぎ止めるものは、もうこれだけしかない)

 タキは身軽に崖を降りていった。




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