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第四話 泥と光の格差
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気配は、僕のすぐ側まで迫っていた。
心臓が早鐘を打つ。
僕はブーツの底に隠したナイフの柄に指をかけ、全身を硬直させていた。
来る。
何かが来る。
この腐った泥のような臭い。間違いない。
だが、焚き火を囲む男たちは誰も気づいていない。
僕が起こした火に手をかざし、だらけた顔で欠伸をしている。
「……ふぁあ。あったけぇな」
「おい、薪を足せよ。火が弱まってるぞ」
彼らにとって、この静寂はただの休息だ。
僕だけが、冷や汗で作業着を濡らしている。
「……おい、ションベン行ってくるわ」
不意に、隣にいた男が立ち上がった。
さっき、僕の魔法を鼻で笑った男だ。
彼は無防備に背中を向け、闇の濃い林の方へと歩き出した。
「待っ……」
僕が声をかけようとした、その時だった。
ズブッ。
濡れた雑巾を絞るような、鈍く、湿った音が闇の中で響いた。
「……あ?」
男の声は、そこで途切れた。
悲鳴はなかった。
ただ、闇の中からヌルリとした「何か」が伸びて、男の足首に巻き付いたのが見えた。
次の瞬間。
ドサッ、ズルズルズルッ!!
男の体が、信じられない速度で地面を滑った。
枯れ葉を巻き上げ、僕の目の前を横切っていく。
男は目を剥き、何かを叫ぼうとして口をパクパクさせたが、そのまま音もなく闇の奥へと引きずり込まれていった。
「――ッ!?」
僕は息を呑み、反射的に焚き火のそばから飛び退いた。
周囲の荷運び人たちは、まだ事態が飲み込めていない。
「おい、どうした?」
「あいつ、何転んでんだ?」
その能天気な声が、僕の神経を逆撫でする。
逃げなきゃ。
だが、どこへ?
ガサガサガサッ!!
林の全周囲から、一斉に草木が揺れる音がした。
腐った泥の臭いが、爆発的に膨れ上がる。
「敵襲ぅぅぅぅぅッ!!」
見張りの騎士が叫んだ。
それと同時に、闇の中から無数の影が飛び出した。
泥だ。
人の形をした、ドロドロの泥人形たち。
目も鼻もないのっぺらぼうの顔に、裂け目のような口だけがパカリと開いている。
(……あれは!)
あの兵士Aとの会話が脳裏をよぎる。
『いいか小僧。湿地帯で泥が動いたら、それは【泥の捕食者】だ。剣で斬っても再生する。集団で張り付かれたら窒息死だ』
下級の魔物だが、物理攻撃が効きにくく、集団で獲物を窒息させる厄介な敵だと言っていた。
「う、うわあああああっ!!」
「助けてくれぇぇぇッ!」
恐慌が連鎖した。
武器を持たない荷運び人たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
だが、遅い。
泥人形たちは粘液を撒き散らしながら飛びかかり、逃げる男たちの背中にへばりついた。
重みで転倒した人間に、さらに二体、三体と覆いかさなる。
骨が砕ける音と、泥に塞がれたくぐもった断末魔が響く。
「ひっ、あ、あ……」
僕の足元にも、這いずるような影が迫っていた。
動かなきゃ殺される。
分かっているのに、足が竦んで動かない。
訓練用の木の棒を振るのと、本物の殺意を向けられるのとでは、世界が違いすぎた。
「チッ、邪魔だ!!」
怒号と共に、横から強い衝撃を受けた。
ドンッ!
僕は泥濘みの中に突き飛ばされた。
「盾になれ、ゴミ共!」
蹴り飛ばしてきたのは、味方の騎士だった。
彼は逃げ惑う荷運び人たちの襟首を掴むと、迫りくる泥人形の方へ強引に投げ飛ばした。
「ぎゃあああっ!?」
「な、なにを……!」
「勇者様の天幕を守れ! 時間稼ぎくらいにはなるだろう!」
騎士たちは手慣れた様子で盾を構え、僕たち非戦闘員を「肉の壁」として前線に押し出した。
守るためじゃない。
天幕で寝ている英雄たちが起きるまでの、捨て石にするためだ。
(……ふざけるな!)
泥水を飲み込みそうになりながら、僕は必死で顔を上げた。
目の前では、投げ出された荷運び人が、泥人形の群れに飲み込まれている。
食われる。
僕も、ああなるのか。
その時。
天幕の中から、まばゆい閃光が走った。
「――ったく、うるさいな。安眠妨害だよ」
気だるげな、しかしよく通る声。
神宮寺だ。
彼は純白の寝間着の上に銀の鎧を軽く纏い、あくびをしながら現れた。
その手には、白銀の聖剣が握られている。
「下がっててくださいよ、雑魚の皆さん。……巻き込まれても知りませんからね」
神宮寺が剣を真横に薙いだ。
――【聖雷】!!
バチチチチッ!!
夜の森が、真昼のように白く染まった。
剣先から放たれた極太の雷撃が、扇状に広がり、群がる泥人形たちを一瞬で呑み込む。
ジュッ、という水分が蒸発する音。
断末魔すら上げる間もなく、数十体の魔物が炭化し、崩れ落ちた。
「す、すげぇ……」
「一撃だ……!」
生き残った荷運び人たちが、腰を抜かしたまま感嘆の声を上げる。
圧倒的な暴力。
選ばれし者の力。
神宮寺はフッと前髪を払い、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「こんなものか。……おい、死体の掃除しとけよ」
その背中は、あまりに遠く、輝いて見えた。
誰もがその光に見とれていた。
――僕以外は。
(……ッ!)
僕は光に目を奪われてはいなかった。
まぶしすぎて目を細めた瞬間、視界の隅、光の届かない天幕の影から、這い出てくる「一匹」が見えたからだ。
神宮寺の攻撃範囲から完全に外れていた、無傷の一体。
焦げ跡一つない元気な泥人形が、音もなく神宮寺の背後――ではなく、その脇で震えている僕の方へ向かってきていた。
目が合った(ような気がした)。
泥人形は、強そうな英雄ではなく、一番弱そうな獲物を本能で選んだのだ。
「……!」
声が出ない。
神宮寺は気づいていない。
騎士たちも、勝利の余韻に浸っている。
助けは来ない。
こいつと僕、一対一だ。
ヌルッ。
泥人形が跳躍した。
腐臭が鼻先まで迫る。
(死ぬ)
思考が白く染まる。
逃げろ。
背中を向けて走れ。
本能がそう叫ぶ。
けれど、脳裏にあの兵士Aの声が蘇った。
『引くな。引けば肉が千切れる』
『どうしようもなくなったら、懐に入れ』
(……クソッ!)
僕は奥歯が砕けるほど噛み締め、逃げる代わりに、泥人形の懐へと一歩踏み込んだ。
恐怖で足がもつれる。
それでも、体を前に投げ出す。
ドサッ!
泥人形のタックルと、僕の体当たりが空中でぶつかり合う。
体重差で負けた。
僕は背中から地面に叩きつけられ、その上に重たい泥の塊がのしかかってくる。
「ぐ、ぅぅ……ッ!」
重い。
臭い。
ヘドロのような体液が顔にかかる。
泥人形の腕が、僕の首を絞めようと伸びてくる。
僕はブーツから引き抜いたナイフを、逆手で握りしめた。
狙うのは関節じゃない。
こいつに骨はない。
兵士Aは言っていた。『核を潰せ』と。
胸の中央。
そこに魔石があるはずだ。
ドスッ!
ナイフを突き立てる。
だが、手応えが悪い。
分厚い泥の層が刃を阻み、核心まで届かない。
泥人形が不快そうに身をよじり、僕の顔面に泥の腕を押し付けてくる。
息ができない。
視界が黒く霞む。
(硬い……届かない……!)
力が足りない。
神宮寺なら、こんな泥、豆腐のように切り裂けるだろう。
でも、僕には錆びたナイフと、細い腕しかない。
死ぬのか。
ここで、誰にも気づかれずに。
嫌だ。
あいつ(馬)に、帰ると約束したんだ。
「……ぁ、あ゛あ゛あ゛ッ!」
僕は獣のような唸り声を上げ、突き刺したナイフの柄を両手で握りしめた。
物理でダメなら。
僕には、もう一つだけ武器がある。
身を削る、欠陥品の武器が。
(イメージしろ……指先じゃない……!)
ナイフの切っ先。
泥の奥深く。
そこに熱を送り込む。
――【着火】!!
本来は、枯れ木に火を点けるだけの小さな魔法。爆発なんて起きるわけがない。
だが、ここは密閉された泥の中だ。泥には水分が含まれている。
逃げ場のない熱で、泥の中の水分が沸騰し、気化する。
たったそれだけの、物理現象。
ボコッ。
ナイフの切っ先で、熱湯が沸くような鈍い音がした。
内部で発生した蒸気が泥を押し広げ、一瞬だけ、刃を締め付けていた圧力が緩む。
「ギッ!?」
泥人形が驚いたように身をすくませた。
その隙を、逃さない。
蒸気で緩んだ泥の隙間に、僕は渾身の力でナイフを押し込んだ。
ガリッ。
硬い何かが砕ける感触。
泥人形がビクンと痙攣し、次の瞬間、ただの汚い泥の山へと崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ」
静寂。
僕は泥の山の上で、肩で息をしていた。
心臓が破裂しそうだ。
鼻から垂れた血が、顎を伝って泥に落ちる。
右手は火傷で真っ赤に腫れ上がり、感覚がない。
勝った。
神宮寺が一撃で数十体を消し飛ばした戦場の片隅で、僕はたった一体を殺すのに、死ぬ思いをした。
「……なんだ、まだ残ってたのか」
頭上から、呆れたような声が降ってきた。
顔を上げると、神宮寺がこちらを見下ろしていた。
その白銀の鎧には、泥一つついていない。
「運がいいな、カズヤ。俺の魔法の余波で弱ってたんだろ? ……ま、怪我しないうちに下がってなよ」
彼は爽やかに笑うと、僕のことなどすぐに忘れ、騎士たちの方へ歩いていった。
騎士たちが「さすが勇者様!」「あの反応速度、神業です!」と群がっていく。
僕は何も言い返せなかった。
言い返す気力もなかった。
ただ、震える手でナイフを引き抜き、泥を拭ってブーツに戻す。
余波で弱ってなんか、いなかった。
こいつは無傷だったし、本気で僕を食いに来ていた。
でも、彼らにはそう見えるのだろう。
泥にまみれて地べたを這う僕と、光り輝く英雄。
その間には、言葉では埋められない絶望的な断絶があった。
僕は痛む右手を握りしめ、誰にも見えないように泥を吐き捨てた。
生きてる。
今は、それだけでよかった。
心臓が早鐘を打つ。
僕はブーツの底に隠したナイフの柄に指をかけ、全身を硬直させていた。
来る。
何かが来る。
この腐った泥のような臭い。間違いない。
だが、焚き火を囲む男たちは誰も気づいていない。
僕が起こした火に手をかざし、だらけた顔で欠伸をしている。
「……ふぁあ。あったけぇな」
「おい、薪を足せよ。火が弱まってるぞ」
彼らにとって、この静寂はただの休息だ。
僕だけが、冷や汗で作業着を濡らしている。
「……おい、ションベン行ってくるわ」
不意に、隣にいた男が立ち上がった。
さっき、僕の魔法を鼻で笑った男だ。
彼は無防備に背中を向け、闇の濃い林の方へと歩き出した。
「待っ……」
僕が声をかけようとした、その時だった。
ズブッ。
濡れた雑巾を絞るような、鈍く、湿った音が闇の中で響いた。
「……あ?」
男の声は、そこで途切れた。
悲鳴はなかった。
ただ、闇の中からヌルリとした「何か」が伸びて、男の足首に巻き付いたのが見えた。
次の瞬間。
ドサッ、ズルズルズルッ!!
男の体が、信じられない速度で地面を滑った。
枯れ葉を巻き上げ、僕の目の前を横切っていく。
男は目を剥き、何かを叫ぼうとして口をパクパクさせたが、そのまま音もなく闇の奥へと引きずり込まれていった。
「――ッ!?」
僕は息を呑み、反射的に焚き火のそばから飛び退いた。
周囲の荷運び人たちは、まだ事態が飲み込めていない。
「おい、どうした?」
「あいつ、何転んでんだ?」
その能天気な声が、僕の神経を逆撫でする。
逃げなきゃ。
だが、どこへ?
ガサガサガサッ!!
林の全周囲から、一斉に草木が揺れる音がした。
腐った泥の臭いが、爆発的に膨れ上がる。
「敵襲ぅぅぅぅぅッ!!」
見張りの騎士が叫んだ。
それと同時に、闇の中から無数の影が飛び出した。
泥だ。
人の形をした、ドロドロの泥人形たち。
目も鼻もないのっぺらぼうの顔に、裂け目のような口だけがパカリと開いている。
(……あれは!)
あの兵士Aとの会話が脳裏をよぎる。
『いいか小僧。湿地帯で泥が動いたら、それは【泥の捕食者】だ。剣で斬っても再生する。集団で張り付かれたら窒息死だ』
下級の魔物だが、物理攻撃が効きにくく、集団で獲物を窒息させる厄介な敵だと言っていた。
「う、うわあああああっ!!」
「助けてくれぇぇぇッ!」
恐慌が連鎖した。
武器を持たない荷運び人たちが、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑う。
だが、遅い。
泥人形たちは粘液を撒き散らしながら飛びかかり、逃げる男たちの背中にへばりついた。
重みで転倒した人間に、さらに二体、三体と覆いかさなる。
骨が砕ける音と、泥に塞がれたくぐもった断末魔が響く。
「ひっ、あ、あ……」
僕の足元にも、這いずるような影が迫っていた。
動かなきゃ殺される。
分かっているのに、足が竦んで動かない。
訓練用の木の棒を振るのと、本物の殺意を向けられるのとでは、世界が違いすぎた。
「チッ、邪魔だ!!」
怒号と共に、横から強い衝撃を受けた。
ドンッ!
僕は泥濘みの中に突き飛ばされた。
「盾になれ、ゴミ共!」
蹴り飛ばしてきたのは、味方の騎士だった。
彼は逃げ惑う荷運び人たちの襟首を掴むと、迫りくる泥人形の方へ強引に投げ飛ばした。
「ぎゃあああっ!?」
「な、なにを……!」
「勇者様の天幕を守れ! 時間稼ぎくらいにはなるだろう!」
騎士たちは手慣れた様子で盾を構え、僕たち非戦闘員を「肉の壁」として前線に押し出した。
守るためじゃない。
天幕で寝ている英雄たちが起きるまでの、捨て石にするためだ。
(……ふざけるな!)
泥水を飲み込みそうになりながら、僕は必死で顔を上げた。
目の前では、投げ出された荷運び人が、泥人形の群れに飲み込まれている。
食われる。
僕も、ああなるのか。
その時。
天幕の中から、まばゆい閃光が走った。
「――ったく、うるさいな。安眠妨害だよ」
気だるげな、しかしよく通る声。
神宮寺だ。
彼は純白の寝間着の上に銀の鎧を軽く纏い、あくびをしながら現れた。
その手には、白銀の聖剣が握られている。
「下がっててくださいよ、雑魚の皆さん。……巻き込まれても知りませんからね」
神宮寺が剣を真横に薙いだ。
――【聖雷】!!
バチチチチッ!!
夜の森が、真昼のように白く染まった。
剣先から放たれた極太の雷撃が、扇状に広がり、群がる泥人形たちを一瞬で呑み込む。
ジュッ、という水分が蒸発する音。
断末魔すら上げる間もなく、数十体の魔物が炭化し、崩れ落ちた。
「す、すげぇ……」
「一撃だ……!」
生き残った荷運び人たちが、腰を抜かしたまま感嘆の声を上げる。
圧倒的な暴力。
選ばれし者の力。
神宮寺はフッと前髪を払い、勝ち誇った笑みを浮かべた。
「こんなものか。……おい、死体の掃除しとけよ」
その背中は、あまりに遠く、輝いて見えた。
誰もがその光に見とれていた。
――僕以外は。
(……ッ!)
僕は光に目を奪われてはいなかった。
まぶしすぎて目を細めた瞬間、視界の隅、光の届かない天幕の影から、這い出てくる「一匹」が見えたからだ。
神宮寺の攻撃範囲から完全に外れていた、無傷の一体。
焦げ跡一つない元気な泥人形が、音もなく神宮寺の背後――ではなく、その脇で震えている僕の方へ向かってきていた。
目が合った(ような気がした)。
泥人形は、強そうな英雄ではなく、一番弱そうな獲物を本能で選んだのだ。
「……!」
声が出ない。
神宮寺は気づいていない。
騎士たちも、勝利の余韻に浸っている。
助けは来ない。
こいつと僕、一対一だ。
ヌルッ。
泥人形が跳躍した。
腐臭が鼻先まで迫る。
(死ぬ)
思考が白く染まる。
逃げろ。
背中を向けて走れ。
本能がそう叫ぶ。
けれど、脳裏にあの兵士Aの声が蘇った。
『引くな。引けば肉が千切れる』
『どうしようもなくなったら、懐に入れ』
(……クソッ!)
僕は奥歯が砕けるほど噛み締め、逃げる代わりに、泥人形の懐へと一歩踏み込んだ。
恐怖で足がもつれる。
それでも、体を前に投げ出す。
ドサッ!
泥人形のタックルと、僕の体当たりが空中でぶつかり合う。
体重差で負けた。
僕は背中から地面に叩きつけられ、その上に重たい泥の塊がのしかかってくる。
「ぐ、ぅぅ……ッ!」
重い。
臭い。
ヘドロのような体液が顔にかかる。
泥人形の腕が、僕の首を絞めようと伸びてくる。
僕はブーツから引き抜いたナイフを、逆手で握りしめた。
狙うのは関節じゃない。
こいつに骨はない。
兵士Aは言っていた。『核を潰せ』と。
胸の中央。
そこに魔石があるはずだ。
ドスッ!
ナイフを突き立てる。
だが、手応えが悪い。
分厚い泥の層が刃を阻み、核心まで届かない。
泥人形が不快そうに身をよじり、僕の顔面に泥の腕を押し付けてくる。
息ができない。
視界が黒く霞む。
(硬い……届かない……!)
力が足りない。
神宮寺なら、こんな泥、豆腐のように切り裂けるだろう。
でも、僕には錆びたナイフと、細い腕しかない。
死ぬのか。
ここで、誰にも気づかれずに。
嫌だ。
あいつ(馬)に、帰ると約束したんだ。
「……ぁ、あ゛あ゛あ゛ッ!」
僕は獣のような唸り声を上げ、突き刺したナイフの柄を両手で握りしめた。
物理でダメなら。
僕には、もう一つだけ武器がある。
身を削る、欠陥品の武器が。
(イメージしろ……指先じゃない……!)
ナイフの切っ先。
泥の奥深く。
そこに熱を送り込む。
――【着火】!!
本来は、枯れ木に火を点けるだけの小さな魔法。爆発なんて起きるわけがない。
だが、ここは密閉された泥の中だ。泥には水分が含まれている。
逃げ場のない熱で、泥の中の水分が沸騰し、気化する。
たったそれだけの、物理現象。
ボコッ。
ナイフの切っ先で、熱湯が沸くような鈍い音がした。
内部で発生した蒸気が泥を押し広げ、一瞬だけ、刃を締め付けていた圧力が緩む。
「ギッ!?」
泥人形が驚いたように身をすくませた。
その隙を、逃さない。
蒸気で緩んだ泥の隙間に、僕は渾身の力でナイフを押し込んだ。
ガリッ。
硬い何かが砕ける感触。
泥人形がビクンと痙攣し、次の瞬間、ただの汚い泥の山へと崩れ落ちた。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ」
静寂。
僕は泥の山の上で、肩で息をしていた。
心臓が破裂しそうだ。
鼻から垂れた血が、顎を伝って泥に落ちる。
右手は火傷で真っ赤に腫れ上がり、感覚がない。
勝った。
神宮寺が一撃で数十体を消し飛ばした戦場の片隅で、僕はたった一体を殺すのに、死ぬ思いをした。
「……なんだ、まだ残ってたのか」
頭上から、呆れたような声が降ってきた。
顔を上げると、神宮寺がこちらを見下ろしていた。
その白銀の鎧には、泥一つついていない。
「運がいいな、カズヤ。俺の魔法の余波で弱ってたんだろ? ……ま、怪我しないうちに下がってなよ」
彼は爽やかに笑うと、僕のことなどすぐに忘れ、騎士たちの方へ歩いていった。
騎士たちが「さすが勇者様!」「あの反応速度、神業です!」と群がっていく。
僕は何も言い返せなかった。
言い返す気力もなかった。
ただ、震える手でナイフを引き抜き、泥を拭ってブーツに戻す。
余波で弱ってなんか、いなかった。
こいつは無傷だったし、本気で僕を食いに来ていた。
でも、彼らにはそう見えるのだろう。
泥にまみれて地べたを這う僕と、光り輝く英雄。
その間には、言葉では埋められない絶望的な断絶があった。
僕は痛む右手を握りしめ、誰にも見えないように泥を吐き捨てた。
生きてる。
今は、それだけでよかった。
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