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第五話 持たざる者の生存戦略
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夜が明けた。
森の湿った空気が、朝露と共に肌にまとわりつく。
昨夜の襲撃で、荷運び人が三人減っていた。
一人は僕の目の前で闇に引きずり込まれた男。あとの二人は、逃げ遅れて泥人形の群れに食われたらしい。
「出発だ! 遅れるな!」
騎士の怒号が飛ぶ。
死者の埋葬などない。
食い散らかされた骨と、誰かの血を吸って黒ずんだ泥をそのままにして、遠征隊は動き出した。
減った荷物の分は、生き残った僕たちに分配された。
僕の背中の荷物は、さらに十キロほど重くなっていた。
「……ッ」
荷物を背負う際、右手に激痛が走った。
僕は歯を食いしばり、悲鳴を飲み込んだ。
歩きながら、僕は自分の右手を見た。
酷い有様だった。
泥人形の体内で魔法を暴発させた代償だ。手のひらの皮が焼けただれ、赤黒く変色している。水ぶくれがいくつもでき、少し動かすだけで体液が滲み出る。
(……治療してもらわなきゃ、腐る)
一瞬、前を行く白石の姿が目に入った。
彼女は『聖女』の称号を持つ勇者であり、最高ランクの治癒魔法の使い手だ。
彼女なら、こんな火傷、一瞬で治せるだろう。
だが、僕はすぐにその考えを捨てた。
(無理だ。頼めば殺される)
治癒魔法を行使するための魔力は、神宮寺(ジングウジ)や他の勇者たちが負傷した時のために温存されるべき、極めて貴重な資源だ。消耗品である荷運び人ごときに、聖女様がその力を割くわけがない。
それどころか、「怪我で役に立たないなら置いていこう」と判断されるのがオチだ。
この遠征において、「怪我」は「故障」と同じ。
壊れた道具は修理されない。廃棄されるだけだ。
「……自分でやるしかない」
僕は歩調を緩めないように気をつけながら、懐から昨日もらった「油を染み込ませた布」の残りと、水筒を取り出した。
まず、水筒の水で傷口の泥を洗い流す。
貴重な飲み水だが、破傷風にかかって腕を切り落とすよりはマシだ。
冷たい水が焼けた肉に染みて、目の前がチカチカする。
次に、油布だ。
本来は武具の手入れや、着火剤として使うための油だが、これには空気を遮断して乾燥を防ぐ効果がある。
僕は油でベトベトになった布を、震える左手と口を使って右手に巻き付けた。
強く縛ると血流が止まる。緩すぎるとズレる。
痛みに耐えながら、適度な強さで固定する。
「……ふぅ」
応急処置完了。
見た目は汚いボロ布を巻いただけだが、空気に触れなくなった分、痛みは少し引いた。
(……さて)
物理的な痛みが遠のくと、今度は昨夜の「感触」が蘇ってきた。
泥の中でナイフを突き立て、熱を加えた時の、あの手応え。
僕は歩きながら、包帯を巻いた自分の右手をじっと見た。
僕の魔力回路は細く脆い。普通に【着火】を放っても、ライターの火程度の熱しか出ない。
それなのに、泥人形の体は内側から破裂した。
(……泥の中の水分だ)
理由は単純だ。
密閉された体内に熱を送り込んだことで、泥に含まれる水が沸騰し、行き場を失った蒸気が爆発した。
やかんの空焚きや、密閉容器をレンジにかけた時と同じだ。
つまり、僕は「魔法の威力」で勝ったんじゃない。
魔法を種火にして、自然の法則を利用しただけだ。
(……これだ)
神宮寺たちのように、強大な魔力で敵をなぎ倒すことはできない。
けれど、知識と物理現象を組み合わせれば――僕のちっぽけな生活魔法でも、殺すための武器になる。
熱膨張。急激な冷却。燃焼。
使えるものは、全部使う。
僕は泥だらけの顔を上げ、前を見据えた。
***
数刻後。
一行は、深い谷に阻まれて足を止めた。
「見えたぞ! あれが祠だ!」
神宮寺の声に、兵士たちが歓声を上げる。
遥か彼方、切り立った岩壁の中腹に、目的の古びた石造りの神殿が見えた。
だが、そこへ至る道は断絶していた。
眼下には、底の見えない深い峡谷。
そこにかかっているのは、太古の昔に崩れ落ちたと思われる、一本の巨大な石柱だけだった。
幅は一メートルもない。
表面は湿った苔に覆われ、ヌルヌルと光っている。
谷底からは強烈な吹き上げ風が吹き荒れ、一歩踏み外せば奈落の底だ。
「……道が、ない」
「こんなの渡れるわけが……」
荷運び人たちが絶望の声を上げる。
だが、勇者たちは違った。
「面倒くさいな。……【風歩】」
神宮寺が短く詠唱すると、彼の体がふわりと浮き上がった。
彼は腰に佩いた黄金の剣の柄を、愛おしそうに撫でた。
王城で授かった、伝説の聖剣。
今回の目的は、この祠に眠るという『聖なる鞘』の回収だ。
伝承によれば、その鞘に剣を納めることで、聖剣は真の力を解放し、魔王をも滅ぼす光を宿すという。
「先行します」
続いて、白石が白いローブを翻し、透明な足場を作り出して空を駆けた。
残る二人の勇者も、それぞれ身体強化魔法で跳躍し、数メートルある距離を軽々と飛び越えていく。
彼らは全員、選ばれた「勇者」だ。
得意な魔法に差はあれど、この程度の悪路は障害ですらない。
対岸に着地した彼らは、こちらを振り返りもしない。
残されたのは、騎士たちと、僕たち荷運び人だけ。
魔法も、超人的な身体能力もない「持たざる者」たち。
「お、おい……どうするんだ」
「助けてくれ! ロープくらい渡してくれよ!」
男たちが対岸へ叫ぶ。
だが、騎士の一人が冷たく言い放った。
「甘えるな。祠の奥には鞘を守る『守護者(ガーディアン)』がいる。我々の魔力は、その戦闘のために温存せねばならん。貴様らの移動ごときに浪費できるか」
「だ、だからロープを……」
「ロープを張る手間と時間を誰が負担する? ただでさえ遅れているんだ。自力で来い」
「そ、そんな……」
「嫌なら置いていく。ただし、荷物は置いていけよ。……もっとも、食料を持たずにここで置き去りにされれば、待っているのは餓死か、魔物の餌食だがな」
騎士は嘲笑った。
連れて行ってやる義理はない。
荷物を運びたいなら、自分たちの足でついてこい。
それが、彼らの理屈だった。
「……くそっ、行くしかねぇのか!」
一人の男が意を決して、苔むした石柱に足をかけた。
四つん這いになり、慎重に進む。
だが、半分ほど進んだところだった。
ゴォォォォッ!!
谷底から突風が吹き上げた。
「う、わっ!?」
男の手が、濡れた苔で滑った。
「あ――」
短い悲鳴。
男の体はあっけなく宙に投げ出され、巨大な荷物と共に霧の濃い谷底へと吸い込まれていった。
ドサッ、という音すら聞こえなかった。
「チッ……」
それを見た騎士が、不快そうに舌打ちをした。
「おい、今の荷物には予備のテントが入っていたんだぞ。使えん奴だ」
人が一人死んだことより、テント一つ失ったことの方が重大らしい。
その言葉に、残された荷運び人たちは凍りついた。
落ちれば死ぬ。
そして死んでも尚、ゴミ扱いされる。
「……若いの。お前だけでも行け」
隣で、肩を貸していた爺さんが力なく笑った。
その顔は、死を受け入れていた。
「わしは元傭兵でな。若い頃ならいけたかもしれんが……この足じゃ、どうせ渡れん」
「……」
僕は爺さんの言葉を無視して、石柱を見つめた。
表面は水気を含んだ苔でヌルヌルだ。
摩擦係数はほぼゼロに近い。
普通に歩けば滑る。
這っても滑る。
魔法で乾かすか?
いや、僕の微弱な魔力じゃ、数十メートルもある石柱を乾かし続けるなんて不可能だ。
途中で魔力が尽きて倒れるのがオチだ。
(……考えろ)
全部を乾かす必要はない。
それに、魔法だけが武器じゃない。
「……爺さん、そのマントの裾、切ってもいいですか」
「え?」
「僕の服じゃ足りないんです」
僕はナイフを取り出し、爺さんの許可を得て古びたマントを帯状に切り裂いた。
それを、自分のブーツと、爺さんの靴の底にきつく巻き付ける。
さらに、水筒の水を少量含ませる。
「……布が水を吸って、苔に食いつく。裸のゴム底よりはマシなはずです」
気休めかもしれない。
でも、何もしないよりはいい。
「……爺さん、僕の腰にしっかり掴まっててください」
「な、何を……」
「帰るんです。……僕には待ってる相棒がいる」
僕は厩舎で待つ相棒(馬)の顔を思い浮かべた。
あいつに約束したんだ。必ず戻るって。
「爺さんにも、待ってるお孫さんがいるんでしょう?」
「……ああ、まだ五つになる」
「なら、意地でも帰らなきゃ」
僕は爺さんの手を強引に引き、自分の腰帯に回させた。
「僕が合図したら、絶対に手を離さないでください。……いいですか、絶対にです」
僕たちは石柱に足をかけた。
布を巻いた靴底が、苔の上でギュッと音を立てる。
滑る感覚はある。
けれど、踏ん張りは効く。
一歩。
二歩。
慎重に進む。
風が吹き荒れるたび、体が宙に浮きそうになる。
背中の荷物と、しがみつく爺さんの重みが、体幹を揺さぶる。
(……ッ、滑る!)
中間地点。
特に苔が分厚く、水が溜まっている場所で、足が大きく流れた。
布の摩擦だけじゃ耐えきれない。
「ヒッ……!」
爺さんが息を呑む気配がした。
このままじゃ落ちる。
僕は歯を食いしばり、右手を苔に向けた。
魔力を使うな。
温存しろ。
理性が警告するが、死んだら意味がない。
ジュッ。
【着火】。
指先から放った極小の熱が、足元の水分を一瞬だけ飛ばした。
乾いた一点に、無理やり踏み込む。
「が、はっ……!」
右腕に、焼けるような痛みが走った。
視界が明滅し、鼻から温かいものが垂れる。
たった一回。
それだけで、ボロボロの回路が悲鳴を上げている。
(……まだだ、まだ倒れるな……!)
何度も使えば、腕が炭になるか、脳が焼き切れる。
だから、本当にダメな時だけ。
死ぬ一歩手前の瞬間だけ。
僕は血の味を飲み込みながら、次の一歩を踏み出した。
布の摩擦で進み、
死にかけた時だけ命を削って魔法を撃つ。
その繰り返し。
あと五メートル。
三メートル。
最後の一歩。
僕は渾身の力で地面を蹴り、対岸の固い地面へと転がり込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ!」
地面の冷たさが、こんなにも愛おしいなんて。
僕は仰向けになり、泥だらけの空を見上げた。
生きてる。
渡りきった。
「……遅いな、カズヤ」
見下ろす声。
神宮寺だった。
彼は髪一本乱さず、涼しい顔で立っていた。
後ろには、白石や他の二人の勇者も並んでいる。
彼らは僕がどうやって渡ったかになど興味もないようだった。
「みんな待ちくたびれてるんだ。さっさと荷物を運べ」
神宮寺は冷たく言い捨てると、踵を返し、祠の方へと歩き出した。
僕は泥を吐き出し、ゆっくりと体を起こした。
隣では、爺さんが腰を抜かしたまま、拝むように僕の手を握りしめて泣いている。
空の青さが、やけに目に沁みた。
彼らにとってはただの散歩道。
僕たちにとっては命懸けの綱渡り。
その絶望的な格差を噛み締めながら、
僕は再び重い荷物を背負い直した。
森の湿った空気が、朝露と共に肌にまとわりつく。
昨夜の襲撃で、荷運び人が三人減っていた。
一人は僕の目の前で闇に引きずり込まれた男。あとの二人は、逃げ遅れて泥人形の群れに食われたらしい。
「出発だ! 遅れるな!」
騎士の怒号が飛ぶ。
死者の埋葬などない。
食い散らかされた骨と、誰かの血を吸って黒ずんだ泥をそのままにして、遠征隊は動き出した。
減った荷物の分は、生き残った僕たちに分配された。
僕の背中の荷物は、さらに十キロほど重くなっていた。
「……ッ」
荷物を背負う際、右手に激痛が走った。
僕は歯を食いしばり、悲鳴を飲み込んだ。
歩きながら、僕は自分の右手を見た。
酷い有様だった。
泥人形の体内で魔法を暴発させた代償だ。手のひらの皮が焼けただれ、赤黒く変色している。水ぶくれがいくつもでき、少し動かすだけで体液が滲み出る。
(……治療してもらわなきゃ、腐る)
一瞬、前を行く白石の姿が目に入った。
彼女は『聖女』の称号を持つ勇者であり、最高ランクの治癒魔法の使い手だ。
彼女なら、こんな火傷、一瞬で治せるだろう。
だが、僕はすぐにその考えを捨てた。
(無理だ。頼めば殺される)
治癒魔法を行使するための魔力は、神宮寺(ジングウジ)や他の勇者たちが負傷した時のために温存されるべき、極めて貴重な資源だ。消耗品である荷運び人ごときに、聖女様がその力を割くわけがない。
それどころか、「怪我で役に立たないなら置いていこう」と判断されるのがオチだ。
この遠征において、「怪我」は「故障」と同じ。
壊れた道具は修理されない。廃棄されるだけだ。
「……自分でやるしかない」
僕は歩調を緩めないように気をつけながら、懐から昨日もらった「油を染み込ませた布」の残りと、水筒を取り出した。
まず、水筒の水で傷口の泥を洗い流す。
貴重な飲み水だが、破傷風にかかって腕を切り落とすよりはマシだ。
冷たい水が焼けた肉に染みて、目の前がチカチカする。
次に、油布だ。
本来は武具の手入れや、着火剤として使うための油だが、これには空気を遮断して乾燥を防ぐ効果がある。
僕は油でベトベトになった布を、震える左手と口を使って右手に巻き付けた。
強く縛ると血流が止まる。緩すぎるとズレる。
痛みに耐えながら、適度な強さで固定する。
「……ふぅ」
応急処置完了。
見た目は汚いボロ布を巻いただけだが、空気に触れなくなった分、痛みは少し引いた。
(……さて)
物理的な痛みが遠のくと、今度は昨夜の「感触」が蘇ってきた。
泥の中でナイフを突き立て、熱を加えた時の、あの手応え。
僕は歩きながら、包帯を巻いた自分の右手をじっと見た。
僕の魔力回路は細く脆い。普通に【着火】を放っても、ライターの火程度の熱しか出ない。
それなのに、泥人形の体は内側から破裂した。
(……泥の中の水分だ)
理由は単純だ。
密閉された体内に熱を送り込んだことで、泥に含まれる水が沸騰し、行き場を失った蒸気が爆発した。
やかんの空焚きや、密閉容器をレンジにかけた時と同じだ。
つまり、僕は「魔法の威力」で勝ったんじゃない。
魔法を種火にして、自然の法則を利用しただけだ。
(……これだ)
神宮寺たちのように、強大な魔力で敵をなぎ倒すことはできない。
けれど、知識と物理現象を組み合わせれば――僕のちっぽけな生活魔法でも、殺すための武器になる。
熱膨張。急激な冷却。燃焼。
使えるものは、全部使う。
僕は泥だらけの顔を上げ、前を見据えた。
***
数刻後。
一行は、深い谷に阻まれて足を止めた。
「見えたぞ! あれが祠だ!」
神宮寺の声に、兵士たちが歓声を上げる。
遥か彼方、切り立った岩壁の中腹に、目的の古びた石造りの神殿が見えた。
だが、そこへ至る道は断絶していた。
眼下には、底の見えない深い峡谷。
そこにかかっているのは、太古の昔に崩れ落ちたと思われる、一本の巨大な石柱だけだった。
幅は一メートルもない。
表面は湿った苔に覆われ、ヌルヌルと光っている。
谷底からは強烈な吹き上げ風が吹き荒れ、一歩踏み外せば奈落の底だ。
「……道が、ない」
「こんなの渡れるわけが……」
荷運び人たちが絶望の声を上げる。
だが、勇者たちは違った。
「面倒くさいな。……【風歩】」
神宮寺が短く詠唱すると、彼の体がふわりと浮き上がった。
彼は腰に佩いた黄金の剣の柄を、愛おしそうに撫でた。
王城で授かった、伝説の聖剣。
今回の目的は、この祠に眠るという『聖なる鞘』の回収だ。
伝承によれば、その鞘に剣を納めることで、聖剣は真の力を解放し、魔王をも滅ぼす光を宿すという。
「先行します」
続いて、白石が白いローブを翻し、透明な足場を作り出して空を駆けた。
残る二人の勇者も、それぞれ身体強化魔法で跳躍し、数メートルある距離を軽々と飛び越えていく。
彼らは全員、選ばれた「勇者」だ。
得意な魔法に差はあれど、この程度の悪路は障害ですらない。
対岸に着地した彼らは、こちらを振り返りもしない。
残されたのは、騎士たちと、僕たち荷運び人だけ。
魔法も、超人的な身体能力もない「持たざる者」たち。
「お、おい……どうするんだ」
「助けてくれ! ロープくらい渡してくれよ!」
男たちが対岸へ叫ぶ。
だが、騎士の一人が冷たく言い放った。
「甘えるな。祠の奥には鞘を守る『守護者(ガーディアン)』がいる。我々の魔力は、その戦闘のために温存せねばならん。貴様らの移動ごときに浪費できるか」
「だ、だからロープを……」
「ロープを張る手間と時間を誰が負担する? ただでさえ遅れているんだ。自力で来い」
「そ、そんな……」
「嫌なら置いていく。ただし、荷物は置いていけよ。……もっとも、食料を持たずにここで置き去りにされれば、待っているのは餓死か、魔物の餌食だがな」
騎士は嘲笑った。
連れて行ってやる義理はない。
荷物を運びたいなら、自分たちの足でついてこい。
それが、彼らの理屈だった。
「……くそっ、行くしかねぇのか!」
一人の男が意を決して、苔むした石柱に足をかけた。
四つん這いになり、慎重に進む。
だが、半分ほど進んだところだった。
ゴォォォォッ!!
谷底から突風が吹き上げた。
「う、わっ!?」
男の手が、濡れた苔で滑った。
「あ――」
短い悲鳴。
男の体はあっけなく宙に投げ出され、巨大な荷物と共に霧の濃い谷底へと吸い込まれていった。
ドサッ、という音すら聞こえなかった。
「チッ……」
それを見た騎士が、不快そうに舌打ちをした。
「おい、今の荷物には予備のテントが入っていたんだぞ。使えん奴だ」
人が一人死んだことより、テント一つ失ったことの方が重大らしい。
その言葉に、残された荷運び人たちは凍りついた。
落ちれば死ぬ。
そして死んでも尚、ゴミ扱いされる。
「……若いの。お前だけでも行け」
隣で、肩を貸していた爺さんが力なく笑った。
その顔は、死を受け入れていた。
「わしは元傭兵でな。若い頃ならいけたかもしれんが……この足じゃ、どうせ渡れん」
「……」
僕は爺さんの言葉を無視して、石柱を見つめた。
表面は水気を含んだ苔でヌルヌルだ。
摩擦係数はほぼゼロに近い。
普通に歩けば滑る。
這っても滑る。
魔法で乾かすか?
いや、僕の微弱な魔力じゃ、数十メートルもある石柱を乾かし続けるなんて不可能だ。
途中で魔力が尽きて倒れるのがオチだ。
(……考えろ)
全部を乾かす必要はない。
それに、魔法だけが武器じゃない。
「……爺さん、そのマントの裾、切ってもいいですか」
「え?」
「僕の服じゃ足りないんです」
僕はナイフを取り出し、爺さんの許可を得て古びたマントを帯状に切り裂いた。
それを、自分のブーツと、爺さんの靴の底にきつく巻き付ける。
さらに、水筒の水を少量含ませる。
「……布が水を吸って、苔に食いつく。裸のゴム底よりはマシなはずです」
気休めかもしれない。
でも、何もしないよりはいい。
「……爺さん、僕の腰にしっかり掴まっててください」
「な、何を……」
「帰るんです。……僕には待ってる相棒がいる」
僕は厩舎で待つ相棒(馬)の顔を思い浮かべた。
あいつに約束したんだ。必ず戻るって。
「爺さんにも、待ってるお孫さんがいるんでしょう?」
「……ああ、まだ五つになる」
「なら、意地でも帰らなきゃ」
僕は爺さんの手を強引に引き、自分の腰帯に回させた。
「僕が合図したら、絶対に手を離さないでください。……いいですか、絶対にです」
僕たちは石柱に足をかけた。
布を巻いた靴底が、苔の上でギュッと音を立てる。
滑る感覚はある。
けれど、踏ん張りは効く。
一歩。
二歩。
慎重に進む。
風が吹き荒れるたび、体が宙に浮きそうになる。
背中の荷物と、しがみつく爺さんの重みが、体幹を揺さぶる。
(……ッ、滑る!)
中間地点。
特に苔が分厚く、水が溜まっている場所で、足が大きく流れた。
布の摩擦だけじゃ耐えきれない。
「ヒッ……!」
爺さんが息を呑む気配がした。
このままじゃ落ちる。
僕は歯を食いしばり、右手を苔に向けた。
魔力を使うな。
温存しろ。
理性が警告するが、死んだら意味がない。
ジュッ。
【着火】。
指先から放った極小の熱が、足元の水分を一瞬だけ飛ばした。
乾いた一点に、無理やり踏み込む。
「が、はっ……!」
右腕に、焼けるような痛みが走った。
視界が明滅し、鼻から温かいものが垂れる。
たった一回。
それだけで、ボロボロの回路が悲鳴を上げている。
(……まだだ、まだ倒れるな……!)
何度も使えば、腕が炭になるか、脳が焼き切れる。
だから、本当にダメな時だけ。
死ぬ一歩手前の瞬間だけ。
僕は血の味を飲み込みながら、次の一歩を踏み出した。
布の摩擦で進み、
死にかけた時だけ命を削って魔法を撃つ。
その繰り返し。
あと五メートル。
三メートル。
最後の一歩。
僕は渾身の力で地面を蹴り、対岸の固い地面へと転がり込んだ。
「はぁ……はぁ……はぁ……ッ!」
地面の冷たさが、こんなにも愛おしいなんて。
僕は仰向けになり、泥だらけの空を見上げた。
生きてる。
渡りきった。
「……遅いな、カズヤ」
見下ろす声。
神宮寺だった。
彼は髪一本乱さず、涼しい顔で立っていた。
後ろには、白石や他の二人の勇者も並んでいる。
彼らは僕がどうやって渡ったかになど興味もないようだった。
「みんな待ちくたびれてるんだ。さっさと荷物を運べ」
神宮寺は冷たく言い捨てると、踵を返し、祠の方へと歩き出した。
僕は泥を吐き出し、ゆっくりと体を起こした。
隣では、爺さんが腰を抜かしたまま、拝むように僕の手を握りしめて泣いている。
空の青さが、やけに目に沁みた。
彼らにとってはただの散歩道。
僕たちにとっては命懸けの綱渡り。
その絶望的な格差を噛み締めながら、
僕は再び重い荷物を背負い直した。
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そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
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