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第九話 黒い森の掟
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石畳の整備された街道と、鬱蒼と茂る『黒森』の境界線で、
僕は足を止めた。
ここから先、街道を外れれば、
そこは地図にも載っていない魔物の領域だ。
僕は懐に入れた通行許可証を、
服の上から強く握りしめた。
事務官は「温情」と言った。
けれど、あの冷徹な目が、
本当に僕を無事に逃がしてくれるだろうか。
『いいか、国境の検問所には近づくな』
去り際、あの兵士のおじさんが耳打ちしてくれた言葉が、
頭から離れない。
『お前は「王命で追放された身」だ。
書類上はどうあれ、現場の役人がどう判断するかは別だ。
最悪、「王家の恥を外に漏らすな」って命令が
裏で出てるかもしれん』
その言葉を聞いた時、
背筋が凍った。
僕は勇者召喚の失敗作だ。
そんな人間が、外の世界で
「自分は異世界人だ」
なんて喋り回るのを、
あの城の連中が許すだろうか?
僕なら……
僕が冷酷な管理者なら、
口封じに殺すかもしれない。
(……街道は、通れない)
怖かった。
魔物よりも、
人間の方がよっぽど信用できない。
国境を越えるには、
森を抜けるしかない。
厩舎で働いていた時、
騎士たちが
「黒森だけは行きたくねぇ」
「あそこは空気が悪い」
と愚痴っていたのを思い出す。
騎士ですら嫌がる場所だ。
僕なんかが入って、
生きて出られる保証なんてない。
それでも――
後ろには、
戻れない。
「……ごめんな、ガラム。
こっちは泥道だ」
僕は手綱を引きながら、
隣を歩く相棒に謝った。
ガラムは不安げに黒い森を見つめ、
ブルルと鼻を鳴らした。
それでも僕の肩に鼻先を押し付け、
「行こう」
と促してくれた。
***
森に入ると、
空気が一変した。
肌にまとわりつく湿気。
腐葉土の匂い。
月明かりすら遮る、巨大な木々の威圧感。
道なんてない。
藪をかき分け、
泥に足を取られながら進む。
背中の鉄剣が、歩くたびに
背骨にゴツゴツと当たる。
その冷たい重みだけが、
今の僕を支えていた。
二時間ほど歩いただろうか。
巨大な杉の根元にある、
少し開けた場所で、
僕はへたり込むように足を止めた。
これ以上進むのは無理だ。
暗闇で足をくじけば、
それがそのまま死に直結する。
「今日は……
ここで休もう」
僕は荷物を下ろし、
震える手で枯れ枝を集めた。
【着火】を使えば一瞬だが、
右腕の火傷がズキズキと痛んでそれを拒んでいる。
ここぞという時のために、
魔力も体力も温存しなくてはならない。
僕は、あの兵士のおじさんがくれた革袋から、
火打石を取り出した。
カチッ。
カチッ。
不慣れな手つきで火花を散らす。
手が震えて、上手くいかない。
暗い。
怖い。
十分ほど格闘し、
ようやく頼りない種火が生まれた時、
僕は深い溜め息をついた。
パチパチと、
小さな炎が枯れ枝を舐める。
そのささやかな明かりと熱が、
冷え切った心に染み渡る。
「食えよ、ガラム」
料理長さんが持たせてくれた堅焼きパンを
二つに割り、
片方をガラムに差し出した。
ガラムは嬉しそうに、
硬いパンを器用に咀嚼する。
僕も残りの半分を齧った。
塩気だけが強い、
石のようなパン。
でも、噛み締めていると、
あの二人の不器用な優しさが思い出されて、
胸が詰まった。
「……美味いな」
城で食べた、
いつ作ったかも分からない冷たい残飯より、
ずっと味がする。
誰かの顔色を窺って生きるより、
泥だらけでも
自分の足で立っている今の方が、
息がしやすい。
――その時だ。
ふっ、と風が止んだ。
それまで森を満たしていた虫の音すら、
唐突に止んでいた。
耳が痛くなるほどの、
不自然な静寂。
――ガサッ。
背後の草を踏みしだく音。
ガラムが弾かれたように顔を上げ、
耳を後ろに伏せていなないた。
「……ッ!」
僕は反射的に立ち上がり、背中の麻袋から錆びた鉄剣を引き抜いた。
重い。
ずっしりとした鉄の塊が、右腕の痛みを呼び覚ます。
焚き火の光が届くか届かないかの境界線。
そこに、二つの「光」が浮かんでいた。
黄色く濁った、爬虫類のような瞳。
「ギヒッ……ギヒヒッ……」
下卑た笑い声と共に、その姿が現れた。
子供ほどの背丈。
緑色の皮膚。
腰には粗末な棍棒を下げている。
ゴブリンだ。
厩舎の噂話で聞いたことがある。
「子供だと思って油断すると、集団で囲まれて内臓を食われる」と。
今の僕にとっては、死神に等しい。
「ガラム、下がってろ!」
僕は前に出た。
剣を構えるが、切っ先が震える。
怖い。
訓練用の人形相手なら何度もやった。
だが、こいつは生きている。殺意を持って、僕を見ている。
以前戦った泥人形とは違う。
明確な知能があり、道具を使う相手だ。
「ギィァッ!!」
ゴブリンが地面を蹴った。
速い。
低い姿勢から、一直線に飛びかかってくる。
「くそっ……!」
恐怖で体が固まりそうになる。
だが、脳裏にあの夜、雨の中で教わった言葉がよぎる。
『剣ってのはな、腕で振るんじゃねぇ。腰と背中で振るんだ』
僕は奥歯を噛み締め、小指と薬指に力を込めた。
英雄のような華麗な剣技なんてない。
ただ、来る日も来る日も泥まみれになって繰り返した、あの素振りをなぞる。
「……ふっ!!」
腰を捻り、全身のバネを使って鉄塊を薙ぎ払う。
ゴッ!
鈍い音がして、ゴブリンが空中で弾き飛ばされた。
錆びて刃のない鉄剣は、斬るのではなく、質量で殴りつける鉄塊だ。
ゴブリンは地面に転がり、鼻血を吹き出しながらも、すぐに起き上がった。
その目から、嘲りの色が消え、激怒の色が宿る。
「ギシャァァァッ!」
二度目の突進。
速すぎる。
重い剣を持ち上げ直すのが間に合わない。
ドガッ!
脇腹に棍棒がめり込んだ。
「が、はっ……!」
息が止まる。
肋骨が軋む音。
焼けるような痛み。
僕は後ろによろめき、無様に尻餅をついた。
そこへ、ゴブリンが馬乗りになってくる。
腐った肉と、古い油のような強烈な悪臭が鼻を塞ぐ。
「ギヒヒッ、死ネ、人間!」
汚い爪が、僕の首に食い込む。
苦しい。
視界が黒く滲む。
右手の鉄剣は、長すぎて至近距離では使えない。
マウントを取られたら終わり。
兵士のおじさんに耳にタコができるほど聞かされたはずなのに、体が恐怖で動かない。
(死ぬ……のか?)
こんな、森の入り口で…。
――ヒヒィィィンッ!
その時、頭上で轟音が響いた。
ガラムだ。
逃げろと言ったのに、こいつは後ろ足で立ち上がり、ゴブリン目掛けて前足を振り下ろしたのだ。
ドカァァン!
蹄の一撃が、ゴブリンの肩を掠めた。
完全には当たらなかったが、奴はバランスを崩して僕の上から転げ落ちる。
「ゲギャッ!?」
今だ。
僕は咳き込みながら、必死にゴブリンの背中にしがみついた。
今度こそ、離すもんか。
「このッ……!」
マウントを取り返し、僕は両手で奴の細い首を掴んだ。
魔法なんて使う余裕はない。
ただ、殺される恐怖と、殺さなきゃ死ぬという本能だけで、指に力を込める。
「ギ、ギギッ……!」
ゴブリンが暴れる。
汚い爪が僕の腕を引っ掻き、顔を裂く。
痛い。
熱い。
でも、ここで緩めたら殺される。
「……ッ……死んでくれッ!!」
僕は叫びながら、親指を奴の喉仏にめり込ませた。
ゴリッ、と嫌な音がする。
生暖かい皮膚の感触。
脈打つ血管の振動。
相手の命が、僕の手の中で消えようとしている生々しい感覚。
ゴブリンの目玉が飛び出しそうになり、口から泡と汚物が溢れ出る。
強烈な悪臭。
それでも僕は、指が攣りそうになるまで絞め続けた。
やがて。
ビクン、と大きく痙攣した後、ゴブリンの手足から力が抜けた。
ダラリと垂れ下がる腕。
虚ろになった濁った瞳。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
静寂。
僕の荒い息遣いだけが響く。
死んだのか?
分からない。
まだ動くんじゃないか?
気絶しているだけかもしれない。
(……トドメを)
疑心暗鬼が体を突き動かす。
僕は震える手で、ブーツの底に隠していたナイフを引き抜いた。
兵士のおじさんがくれた、刃こぼれしたナイフ。
「……念のためだ」
僕は逆手に持ち替え、動かなくなったゴブリンの左胸――心臓があるはずの場所に、切っ先を突き立てた。
ズブッ。
肉を断つ感触。
骨に当たる嫌な振動。
ゴブリンはピクリとも動かなかった。
「……ッ」
僕はナイフを引き抜き、死体から逃れるように泥の上へ転がり落ちた。
全身の力が抜け、仰向けになったまま空を仰ぐ。
手が、震えて止まらない。
あの泥人形の時とは違う。
骨が軋み、肉が潰れる生々しい感触が、手のひらにべっとりと張り付いて消えてくれない。
右手の火傷が痛み、顔の引っ掻き傷が熱を持つ。
それに、匂いだ。
鉄錆びた血の匂いに混じって、胃の中身をぶちまけたような酸っぱい臭いと、ゴブリンが死に際に垂れ流した排泄物の臭いが立ち込めている。
胃液がせり上がってくるような、強烈な悪臭。
全身泥だらけで、返り血と、ゴブリンの失禁した臭いで最悪の気分だった。
これが、殺し合い。
魔法で燃やすのとは違う。
自分の手で、相手の息の根が止まるまで力を込め続ける、ただの泥仕合。
ブルル……。
ガラムが近づいてきて、心配そうに僕の顔を舐めた。
ザラリとした舌の感触。
生きてる。
僕たちは、まだ生きてる。
「……ありがとな、ガラム。お前がいなきゃ、終わってた」
僕は震える手で、相棒の鼻面を撫でた。
一匹倒しただけで、このザマだ。
この森を抜けるのに、あと何日かかる?
あと何回、こんな思いをしなきゃならない?
底知れない不安が、足元から這い上がってくる。
その時。
――ドォォォォォォン……!
森の奥深く。
僕たちがこれから向かおうとしていた方角から、地響きのような爆発音が聞こえてきた。
木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。
今の僕なんかとは桁違いの、巨大な破壊の音。
「……なんだ?」
僕は痛む体を起こし、暗闇の奥を睨みつけた。
木々の隙間から、微かに青白い光が漏れている。
誰かが、戦っている。
この地獄のような黒森の深淵で。
「……行こう、ガラム」
逃げるか、進むか。
来た道は戻れない。
街道には出たくない。
なら、どんなに危険でも、前に進むしかない。
それが、僕たちの選んだ道だ。
僕は錆びた鉄剣を杖代わりに立ち上がり、
青い光の方へと足を引きずり出した。
僕は足を止めた。
ここから先、街道を外れれば、
そこは地図にも載っていない魔物の領域だ。
僕は懐に入れた通行許可証を、
服の上から強く握りしめた。
事務官は「温情」と言った。
けれど、あの冷徹な目が、
本当に僕を無事に逃がしてくれるだろうか。
『いいか、国境の検問所には近づくな』
去り際、あの兵士のおじさんが耳打ちしてくれた言葉が、
頭から離れない。
『お前は「王命で追放された身」だ。
書類上はどうあれ、現場の役人がどう判断するかは別だ。
最悪、「王家の恥を外に漏らすな」って命令が
裏で出てるかもしれん』
その言葉を聞いた時、
背筋が凍った。
僕は勇者召喚の失敗作だ。
そんな人間が、外の世界で
「自分は異世界人だ」
なんて喋り回るのを、
あの城の連中が許すだろうか?
僕なら……
僕が冷酷な管理者なら、
口封じに殺すかもしれない。
(……街道は、通れない)
怖かった。
魔物よりも、
人間の方がよっぽど信用できない。
国境を越えるには、
森を抜けるしかない。
厩舎で働いていた時、
騎士たちが
「黒森だけは行きたくねぇ」
「あそこは空気が悪い」
と愚痴っていたのを思い出す。
騎士ですら嫌がる場所だ。
僕なんかが入って、
生きて出られる保証なんてない。
それでも――
後ろには、
戻れない。
「……ごめんな、ガラム。
こっちは泥道だ」
僕は手綱を引きながら、
隣を歩く相棒に謝った。
ガラムは不安げに黒い森を見つめ、
ブルルと鼻を鳴らした。
それでも僕の肩に鼻先を押し付け、
「行こう」
と促してくれた。
***
森に入ると、
空気が一変した。
肌にまとわりつく湿気。
腐葉土の匂い。
月明かりすら遮る、巨大な木々の威圧感。
道なんてない。
藪をかき分け、
泥に足を取られながら進む。
背中の鉄剣が、歩くたびに
背骨にゴツゴツと当たる。
その冷たい重みだけが、
今の僕を支えていた。
二時間ほど歩いただろうか。
巨大な杉の根元にある、
少し開けた場所で、
僕はへたり込むように足を止めた。
これ以上進むのは無理だ。
暗闇で足をくじけば、
それがそのまま死に直結する。
「今日は……
ここで休もう」
僕は荷物を下ろし、
震える手で枯れ枝を集めた。
【着火】を使えば一瞬だが、
右腕の火傷がズキズキと痛んでそれを拒んでいる。
ここぞという時のために、
魔力も体力も温存しなくてはならない。
僕は、あの兵士のおじさんがくれた革袋から、
火打石を取り出した。
カチッ。
カチッ。
不慣れな手つきで火花を散らす。
手が震えて、上手くいかない。
暗い。
怖い。
十分ほど格闘し、
ようやく頼りない種火が生まれた時、
僕は深い溜め息をついた。
パチパチと、
小さな炎が枯れ枝を舐める。
そのささやかな明かりと熱が、
冷え切った心に染み渡る。
「食えよ、ガラム」
料理長さんが持たせてくれた堅焼きパンを
二つに割り、
片方をガラムに差し出した。
ガラムは嬉しそうに、
硬いパンを器用に咀嚼する。
僕も残りの半分を齧った。
塩気だけが強い、
石のようなパン。
でも、噛み締めていると、
あの二人の不器用な優しさが思い出されて、
胸が詰まった。
「……美味いな」
城で食べた、
いつ作ったかも分からない冷たい残飯より、
ずっと味がする。
誰かの顔色を窺って生きるより、
泥だらけでも
自分の足で立っている今の方が、
息がしやすい。
――その時だ。
ふっ、と風が止んだ。
それまで森を満たしていた虫の音すら、
唐突に止んでいた。
耳が痛くなるほどの、
不自然な静寂。
――ガサッ。
背後の草を踏みしだく音。
ガラムが弾かれたように顔を上げ、
耳を後ろに伏せていなないた。
「……ッ!」
僕は反射的に立ち上がり、背中の麻袋から錆びた鉄剣を引き抜いた。
重い。
ずっしりとした鉄の塊が、右腕の痛みを呼び覚ます。
焚き火の光が届くか届かないかの境界線。
そこに、二つの「光」が浮かんでいた。
黄色く濁った、爬虫類のような瞳。
「ギヒッ……ギヒヒッ……」
下卑た笑い声と共に、その姿が現れた。
子供ほどの背丈。
緑色の皮膚。
腰には粗末な棍棒を下げている。
ゴブリンだ。
厩舎の噂話で聞いたことがある。
「子供だと思って油断すると、集団で囲まれて内臓を食われる」と。
今の僕にとっては、死神に等しい。
「ガラム、下がってろ!」
僕は前に出た。
剣を構えるが、切っ先が震える。
怖い。
訓練用の人形相手なら何度もやった。
だが、こいつは生きている。殺意を持って、僕を見ている。
以前戦った泥人形とは違う。
明確な知能があり、道具を使う相手だ。
「ギィァッ!!」
ゴブリンが地面を蹴った。
速い。
低い姿勢から、一直線に飛びかかってくる。
「くそっ……!」
恐怖で体が固まりそうになる。
だが、脳裏にあの夜、雨の中で教わった言葉がよぎる。
『剣ってのはな、腕で振るんじゃねぇ。腰と背中で振るんだ』
僕は奥歯を噛み締め、小指と薬指に力を込めた。
英雄のような華麗な剣技なんてない。
ただ、来る日も来る日も泥まみれになって繰り返した、あの素振りをなぞる。
「……ふっ!!」
腰を捻り、全身のバネを使って鉄塊を薙ぎ払う。
ゴッ!
鈍い音がして、ゴブリンが空中で弾き飛ばされた。
錆びて刃のない鉄剣は、斬るのではなく、質量で殴りつける鉄塊だ。
ゴブリンは地面に転がり、鼻血を吹き出しながらも、すぐに起き上がった。
その目から、嘲りの色が消え、激怒の色が宿る。
「ギシャァァァッ!」
二度目の突進。
速すぎる。
重い剣を持ち上げ直すのが間に合わない。
ドガッ!
脇腹に棍棒がめり込んだ。
「が、はっ……!」
息が止まる。
肋骨が軋む音。
焼けるような痛み。
僕は後ろによろめき、無様に尻餅をついた。
そこへ、ゴブリンが馬乗りになってくる。
腐った肉と、古い油のような強烈な悪臭が鼻を塞ぐ。
「ギヒヒッ、死ネ、人間!」
汚い爪が、僕の首に食い込む。
苦しい。
視界が黒く滲む。
右手の鉄剣は、長すぎて至近距離では使えない。
マウントを取られたら終わり。
兵士のおじさんに耳にタコができるほど聞かされたはずなのに、体が恐怖で動かない。
(死ぬ……のか?)
こんな、森の入り口で…。
――ヒヒィィィンッ!
その時、頭上で轟音が響いた。
ガラムだ。
逃げろと言ったのに、こいつは後ろ足で立ち上がり、ゴブリン目掛けて前足を振り下ろしたのだ。
ドカァァン!
蹄の一撃が、ゴブリンの肩を掠めた。
完全には当たらなかったが、奴はバランスを崩して僕の上から転げ落ちる。
「ゲギャッ!?」
今だ。
僕は咳き込みながら、必死にゴブリンの背中にしがみついた。
今度こそ、離すもんか。
「このッ……!」
マウントを取り返し、僕は両手で奴の細い首を掴んだ。
魔法なんて使う余裕はない。
ただ、殺される恐怖と、殺さなきゃ死ぬという本能だけで、指に力を込める。
「ギ、ギギッ……!」
ゴブリンが暴れる。
汚い爪が僕の腕を引っ掻き、顔を裂く。
痛い。
熱い。
でも、ここで緩めたら殺される。
「……ッ……死んでくれッ!!」
僕は叫びながら、親指を奴の喉仏にめり込ませた。
ゴリッ、と嫌な音がする。
生暖かい皮膚の感触。
脈打つ血管の振動。
相手の命が、僕の手の中で消えようとしている生々しい感覚。
ゴブリンの目玉が飛び出しそうになり、口から泡と汚物が溢れ出る。
強烈な悪臭。
それでも僕は、指が攣りそうになるまで絞め続けた。
やがて。
ビクン、と大きく痙攣した後、ゴブリンの手足から力が抜けた。
ダラリと垂れ下がる腕。
虚ろになった濁った瞳。
「はぁ……はぁ……はぁ……」
静寂。
僕の荒い息遣いだけが響く。
死んだのか?
分からない。
まだ動くんじゃないか?
気絶しているだけかもしれない。
(……トドメを)
疑心暗鬼が体を突き動かす。
僕は震える手で、ブーツの底に隠していたナイフを引き抜いた。
兵士のおじさんがくれた、刃こぼれしたナイフ。
「……念のためだ」
僕は逆手に持ち替え、動かなくなったゴブリンの左胸――心臓があるはずの場所に、切っ先を突き立てた。
ズブッ。
肉を断つ感触。
骨に当たる嫌な振動。
ゴブリンはピクリとも動かなかった。
「……ッ」
僕はナイフを引き抜き、死体から逃れるように泥の上へ転がり落ちた。
全身の力が抜け、仰向けになったまま空を仰ぐ。
手が、震えて止まらない。
あの泥人形の時とは違う。
骨が軋み、肉が潰れる生々しい感触が、手のひらにべっとりと張り付いて消えてくれない。
右手の火傷が痛み、顔の引っ掻き傷が熱を持つ。
それに、匂いだ。
鉄錆びた血の匂いに混じって、胃の中身をぶちまけたような酸っぱい臭いと、ゴブリンが死に際に垂れ流した排泄物の臭いが立ち込めている。
胃液がせり上がってくるような、強烈な悪臭。
全身泥だらけで、返り血と、ゴブリンの失禁した臭いで最悪の気分だった。
これが、殺し合い。
魔法で燃やすのとは違う。
自分の手で、相手の息の根が止まるまで力を込め続ける、ただの泥仕合。
ブルル……。
ガラムが近づいてきて、心配そうに僕の顔を舐めた。
ザラリとした舌の感触。
生きてる。
僕たちは、まだ生きてる。
「……ありがとな、ガラム。お前がいなきゃ、終わってた」
僕は震える手で、相棒の鼻面を撫でた。
一匹倒しただけで、このザマだ。
この森を抜けるのに、あと何日かかる?
あと何回、こんな思いをしなきゃならない?
底知れない不安が、足元から這い上がってくる。
その時。
――ドォォォォォォン……!
森の奥深く。
僕たちがこれから向かおうとしていた方角から、地響きのような爆発音が聞こえてきた。
木々がざわめき、鳥たちが一斉に飛び立つ。
今の僕なんかとは桁違いの、巨大な破壊の音。
「……なんだ?」
僕は痛む体を起こし、暗闇の奥を睨みつけた。
木々の隙間から、微かに青白い光が漏れている。
誰かが、戦っている。
この地獄のような黒森の深淵で。
「……行こう、ガラム」
逃げるか、進むか。
来た道は戻れない。
街道には出たくない。
なら、どんなに危険でも、前に進むしかない。
それが、僕たちの選んだ道だ。
僕は錆びた鉄剣を杖代わりに立ち上がり、
青い光の方へと足を引きずり出した。
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ファンタジー
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でも、主人公は昔から体が弱くなかなか学校に通えなかった。
でも学校には、行っても俺に声をかけてくれる親友はいた。
その日も体の調子が良くなり、親友と久しぶりの学校に行きHRが終わり先生が出ていったとき、クラスが眩しい光に包まれた。
そして僕は一人、違う場所に飛ばされいた。
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