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1巻
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ルシアノを部屋に入れると、テーブルを挟んで座ったのだが、彼は気まずそうな顔で口を閉ざし、なにも話そうとしない。
(話をしに来たんじゃなかったの? どうして、黙るのよ……)
苛立ちを覚えた私は、気持ちを紛らわせるためにテーブルに置かれた花束に視線を向けた。ピンクのバラは私が一番好きな花だが、ルシアノが持ってきたと思うと腹が立った。
「アリー、本当にごめん。僕はアリーのことを傷つけてしまったよね」
「謝罪も変な演技もいらないので、早く婚約解消を進めてください」
「いや、僕は君との婚約解消を望んでない」
「……は?」
ようやく口を開いたかと思えば予想もしなかった言葉に驚き、私は気の抜けた声を漏らした。
「あの……、意味が分からないのですが……。ルシはニコルのことが好きなのでしょ?」
「……うん」
私が戸惑いながら問いかけると、ルシアノは弱弱しい声で答えた。まるで迷っているように見えて、私の苛立ちは増していく。
「だったら悩む必要なんてないじゃない」
「それは……。ニコルが心配しているんだ。もし僕がアリーとの婚約を白紙に戻して、ニコルとの婚約を申し込んだら、プラーム夫人の心をまた追い詰めてしまうのではないかって」
その話を聞いて絶句する。彼は母を言い訳に使った挙句、私の気持ちなど一切無視した発言をしたからだ。まるで脅されているようで気分が悪い。
「お母様を傷つけないために、私との婚約を解消できないと、……そういうことですか?」
「そうなるかな」
私が声を震わせながら問い返すと、彼はあっさりと認めた。
「でも、そうなると好きでもない私と結婚することになってしまうけど、ルシはそれでいいの?」
「アリーのことも好きだよ。今でも大切に思っているし、結婚は絶対にアリーとしたい」
ルシアノは私の顔を優しく見つめて答えたが、おそらくこれは演技だろう。けれど、彼の考えがよく分からない。問題を円満に解決できるチャンスだというのに、どうしてそれを素直に受け入れないのだろう。
「ルシが好きなのはニコルでしょ? 今さら、私に気を遣わなくてもいいわ。不愉快なだけよ」
「……ごめん。ニコルのことを放っておけなくて。表にはあまり出さないけど、自分が養子であることをずっと気にしているみたいでね。だからたまに話を聞いていたんだ」
「それでルシはニコルに手を出したの?」
「え?」
「話を聞くフリをしてニコルの弱みに付け入ろうとしたんでしょ? 最低ね。ルシが好きだなんて言わなければ、ニコルだってルシのことを好きにはならなかったかもしれない。私だってこんな気持ちにはならなかった……」
自分勝手なルシアノにいい加減我慢ができなくなり、私は強い口調で言い放った。
「ルシもニコルもお母様の心配をしているようだけど、私が傷ついていることは無視するのね」
「そんなことはないっ! 僕はもう絶対にアリーを傷つけないから……。もう一度だけ信じてほしい」
「ニコルのことを好きだと言ったルシのことを信じろって言うの? 私のことをばかにしているの? そうよね……。私と結婚すればいつでもニコルに会えるし、浮気も気軽にできるものね」
「違うっ! そんなことは……」
「私に隠れて会っていたくせに、ずっと騙していたくせに。そんな人の言葉なんて信じられるわけないわ。ルシの傍にいたら私はきっとまた傷つく。それでもルシは私と結婚したいと言うの?」
私がそう訴えると、ルシアノは苦しそうな表情をして黙ってしまった。
「ルシっていつも都合が悪くなると黙るのね。それ、すごくずるいことよ。黙っていたらなんでも逃げられるなんて思わないで! なにも答えられないのなら私との婚約は解消して。ルシなんて大嫌いっ、もう出ていって!」
じわりと涙で視界が曇りはじめ、つい声を荒らげてしまう。ルシアノは「ごめん」とだけ言って部屋から出ていった。
静かになった部屋で今までのことを思い返すと色々な感情が込み上げてきて、涙が溢れた。私が好きになった相手は、こんなにどうしようもない男だったのだと思うと、それを見抜けなかった自分自身が情けなくて悔しくてたまらない気持ちになる。けれど、これで完全に彼のことはふっきれそうだ。
彼は私の気持ちなんてなにひとつ理解しようとしない。ルシアノにとって大切なのは妹のニコルだけだ。
「はぁ……」
翌日、私は王宮の執務室で大きなため息を漏らしていた。あんな出来事があったせいで、昨晩はほとんど眠ることができず、まったく仕事に集中できない。数分間隔で欠伸とため息を繰り返していると、ヴィム殿下が私の座る机の前までやってきた。
「そのため息、何度目だ?」
「申し訳ありません。少し寝不足でして……」
殿下が心配そうな顔をしているので、私は苦笑した。
「珍しいな、お前がそんなふうになるなんて。なにか悩みでもあるのか? 話くらいなら聞けるぞ」
「大したことではありません……」
咄嗟にそう答えてしまったが、私にとっては大問題だ。ルシアノとの婚約解消を円満に片づけたいが、彼の家のほうが家格が上なので、こちらから申し出ることは難しい。
「お前が寝不足になるほどの悩みだろう? それって大したことなんじゃないのか?」
「……分かりました」
(今日の殿下は優しいのね。もしかしたら殿下ならいい考えを見つけてくれるかもしれないわ!)
こんな話を彼にしてしまっていいのか悩んだが、特殊な内容なのでなかなか人には話しづらい。それに長引けば仕事に支障が出てしまい、殿下にも迷惑をかけてしまうことになる。早く解決したい問題なので、思い切って彼に話してみることにした。
「なんなんだ、その話は……」
殿下の第一声はそれだった。彼の今の態度から察するに呆れているのだろう。その表情を見て思わず苦笑した。
「婚約者が好きなのは妹なんです。私としては、この婚約をすぐにでも白紙に戻したいのですが、お母様のことを考えると、どう行動していいのか分からなくて……」
「要するに、お前は穏便に婚約を解消したいということで合っているか?」
「はい……。できることなら婚約者と妹をくっつけてしまいたいです。そうすれば両家とも穏便に解決できて、お母様にも心配をかけずに済みますから……」
婚約者の妹に手を出したなんて世間に知られたら、ツェルナー家の名に傷がつくはずだ。ルシアノと心を通わせたニコルも同様。貴族は噂が好きだから、きっと真実でないことまで言われるだろう。こんなことにこの先煩わされたくない、というのが本音だった。
私が話し終えると、彼はしばらく考えこんでいた。やはり、こんな恥を晒すような話はするべきではなかったのかもしれない。沈黙に心がざわつく。
「変な相談をしてしまい申し訳ありません」
「いや、謝る必要はないよ。お前はなにも悪いことをしていないのだから。とはいえ、この状況が続くとお互い困るな。一つだけ、お前の悩みを簡単に解決する方法があるのだが……」
「え……!? 本当ですか!」
私はその言葉に飛びついた。
「俺の婚約者のフリをしてもらえないか?」
「……は、い? えっと、あの……、殿下の婚約者のフリって、そんなの絶対に無理です」
一筋の光が見えたと思ったけれど、想定外の言葉が飛び込んできて私は固まった。
「無理じゃない。お前が優秀なことは王宮では有名だ。引き受けてくれたら俺は助かるし、お前もすっきりと問題解決できる。こんないい条件、他にはないと思うが?」
彼は清々しい笑みを浮かべて、名案だと言いたげに告げた。
「あ……はは、たしかにすごく魅力的な条件だとは思いますが、私なんかが殿下の婚約者になんてたとえフリでもなれるはずがありませんっ!」
彼はこの国の王太子であり、他の貴族とは立場が違いすぎる。殿下はすごく気楽に話しているが、簡単に決断していいものではない気がする。
「一カ月後に隣国のパーティーに招待されている。そこに連れて行く女性を探しているんだ。生憎、俺には婚約者がいない。だから、どうしようか困っていたんだよ」
「それは絶対に婚約者じゃなければならないのですか?」
「俺の隣にいる女性を周囲は婚約者として見るだろう。俺もそのつもりで紹介しようと考えている。王太子でありながら、未だに婚約者がいないというのは少々問題があるらしいからな」
「なるほど……」
彼が婚約者を作らない理由は分からないが、周囲から急かされているのはなんとなく分かる。
(殿下は困っているのね……。いつも私のことを気遣ってくれるし、少しくらい手助けをしてもいいわよね。これはフリなのだし……、本当の婚約者になるわけではないわ)
事務官の仕事を勧めてくれたのも彼だし、学生時代には学業面でなにかと助けてもらった。だから、私にできることであれば協力したい。
「やる気になってくれたか?」
「フリでよろしいのですよね? パーティーまでの一カ月間、死ぬ気で作法をマスターします!」
「大袈裟だな。無理する必要はないよ。そんなことはしなくていい。今のままで十分だ」
私が気合を入れて力強く答えると、彼は困ったように表情を崩して笑った。
「お前は俺の隣にいてくれるだけで構わないから。引き受けてくれるか?」
「はい……。それで私の問題も解決できるのであれば喜んでお引き受けします!」
少し不安は残るが、頭を悩ませていた問題を解決できると思うと安堵で表情が緩む。
「ありがとう、感謝する」
「いえ、こちらこそ本当に感謝いたします。……ですが、本当に私でよろしかったのですか? 婚約者のフリだとしても、殿下にふさわしい相手なら探せばいくらだっているのではないでしょうか」
私は不思議に思い首を傾げた。
「ふさわしい相手か。それならば、やっぱりお前以外には考えられない。誰よりも信頼しているのだから。でなければ、傍に置かないよ」
急にそんなことを言われて恥ずかしくなり、じわじわと頬が熱くなっていく。
「どうした、頬が赤いな。照れているのか?」
「殿下が褒めすぎるからっ……!」
「お前は素直に反応するから分かりやすくていいな」
私は一人で動揺していたが、きっと彼はからかっただけなのだろう。いちいち反応してしまうことが少し悔しい。
「プラーム伯爵家のほうには王家から後ほど正式に連絡しておく。そうすれば今の婚約者との関係は白紙に戻るだろう」
「分かりました。よろしくお願いいたします」
私は深々と頭を下げた。あっさり決まってしまったが、ここまできたらもう後戻りはできない。けれど、これは私自身が決断したことでもある。だからこそ、自分にできることを精一杯やりとげようと心に決めた。
(きっと、みんなすごく驚くわよね……。騙しているみたいで気が引けるけど、プラーム家のためだと思って気にしないようにしよう……)
考えごとをしていると、不意に彼の掌が伸びてきて私の頭上に優しく乗った。そして、今度は柔らかく頭を撫ではじめたので、慌てて彼を見た。
「あの、なにをなさっているのですか……?」
「やっぱり、この高さこそお前だって気がする。撫でられるのは嫌いか?」
「き、嫌いではないですが……。恥ずかしいのでやめてくださいっ!」
「照れているのか? 可愛いな」
「距離が近すぎますっ!」
「これから俺たちはフリでも婚約者になるんだ。こういうことにも慣れないとな?」
殿下は口端を釣り上げて意地悪そうに笑うと、私の耳元でそっと囁いた。耳元に彼の吐息が触れて、ぞくりとした感覚とくすぐったさに体が震える。慌てて彼から離れた。
「耳、弱いのか。可愛いな。これからよろしく頼むよ、俺の婚約者さん」
完全にからかわれたと思い、彼のことを睨みつけた。しかし、殿下は愉しそうな顔を浮かべたままだ。
学生時代から殿下が悪戯をしてくることはあったが、たまに程度だった。もしかしたら、私が思っている以上に、彼は意地悪なのかもしれない。
(私が過剰に反応するからいけないのよね。次からは、冷静に対処しよう……!)
それから数日後、殿下と私の婚約についての王命が下り、ルシアノとの婚約は白紙に戻った。両親は相当驚いていたが、殿下のもとで働いていることは伝えていたので、気に入られたのだろうと婚約を喜んでくれた。同時に、ルシアノとニコルの婚約については現在話し合いをしている最中のようだが、じきに決まるだろう。
さらに一週間が経ち、なにごとも起こらなかったので、すべてうまくいっていると思っていた。ルシアノともあれ以来会っていないし、ニコルがその件に触れてくることもない。関係を両親に知られないためにも、大人しくしているのではないだろうか。私もことを荒立てる気などないので、普段どおりの顔で過ごしていた。
仕事を終えて邸に戻ってくると、家紋のついた馬車が止まっているのに気づき、嫌な予感がして足がぴたりと止まる。
(この馬車ってツェルナー侯爵家のものだわ……。もしかして、ルシが来ているの……?)
私たちの婚約はすでに解消されたから、ルシアノには正直もう会いたくない。おそらく、今日訪れた目的は正式にニコルとの婚約が決まった報告かなにかだろう。
しばらく邸の前で立ち止まっていたがここにいても仕方がないと思い、深呼吸をして心を落ち着かせる。そして、ゆっくりと扉に手を伸ばした。
邸内に入ると、待っていたと言わんばかりに使用人が声をかけてきた。
「アリーセお嬢様、おかえりなさいませ」
「ただいま……。誰か来ているの?」
誰が来ているのかは予想がついていたが、あえて分からないフリをして聞いた。
「はい、ツェルナー侯爵様とルシアノ様がお見えです。アリーセお嬢様がお帰りになりましたら応接室へ来るようにと、旦那様から言づかっております」
「え……、お父様が?」
頬がわずかに引きつる。
(どうして、私が呼ばれるの? 私にも婚約の報告をするため? 嫌だわ、行きたくない……)
しかし、言づけを聞いてしまったからには行くしかない。仕方がないと諦めて私は使用人に連れられ応接室へ向かうことになった。
目的の部屋の前まで来ると、使用人が扉をノックし「アリーセお嬢様がお帰りになりました」と告げる。すぐに「入ってくれ」と父の声が響いて、それを合図に使用人が扉を開け、私は重い気持ちのまま応接室へ入った。
「失礼します」
私は落ち着いた声で答えたあとに一礼すると、ソファーのある中央まで歩いていく。その間、こちらをじっと見つめているツェルナー侯爵と視線が合い、胸の鼓動が速くなる。隣にはルシアノの姿もあり、私は彼とは視線が合わないようにしていた。
「ツェルナー侯爵、お久しぶりです」
極度の緊張から鼓動の音が激しく響いていたが、落ち着かせるように静かに挨拶をする。実は侯爵と会うのも少し怖かった。突然、殿下との婚約が決まってルシアノとの婚約が白紙に戻ってしまったから。王命である以上、こちらに非はないのだが、それでも突然だったので侯爵が私やプラーム家を恨んでるのではないかと少しだけ心配していた。
「アリーセ嬢と会うのは本当に久しぶりだ。しばらく見ていなかったが、ずいぶんと大人っぽくなって素敵な女性になったんだね」
「そ、そんなことは……」
突然、容姿を褒められて、お世辞だと分かっているけれど照れてしまう。しかし、先ほどよりも表情が柔らかく見えて、私のよく知っている優しい侯爵の姿に少しだけ安堵する。
(私に怒っているとかはなさそう……ね。よかったわ)
「アリー、私の隣に座りなさい」
「はい、お父様……」
父にそう言われて隣に腰を下ろした。目の前にはルシアノが座っていて、私のほうをじっと見つめているように感じたが、私はあえて視線を合わせずに侯爵のほうを見ていた。
「アリーセ嬢、まずは愚息がしたことを謝らせてほしい。本当に申し訳ない」
「え……?」
侯爵は苦しげな表情を浮かべたかと思うと、突然、謝罪の言葉を述べて頭を下げた。あまりにも急な展開に頭が追いつかず、それ以上の言葉が出てこない。
(一体、なんの話をなさっているの……? それに、どうして私に頭を下げるの?)
隣に座る父に視線を向け、助けを求める。しかし、父も侯爵と同じような表情をしていてますます戸惑ってしまう。
「それを言われるのならば、私の娘であるニコルも同罪です。ツェルナー卿、どうか頭を上げてください。謝るべきなのは二人の仲に気づかなかった私も同じ、申し訳ありません」
そう言って今度は父が頭を下げた。動揺していると、不意にルシアノと目が合った。そして、彼も同様に苦しそうな表情を浮かべていた。
「これは誤解なんだ……。僕が心から思っているのはアリー、君だけだ。どうか、信じて」
「ルシアノ、黙れ。ニコル嬢にも手を出しておいて、よくもまだそんな恥晒しな言葉を口にできたものだな。今日お前をここに連れてきたのは謝罪させるためだ。それ以外の発言は許さない」
言い訳をはじめた彼に対し、侯爵は強い口調で威圧した。ルシアノは悔しそうな顔で再び黙り込む。
(どうしてニコルとの関係を知っているの? 私はなにも言ってないわ。それなら誰が……)
考えていた状況とは異なっていて、頭の中は軽くパニックに陥っていた。
「本当にこんな愚息で申し訳ない。二度とアリーセ嬢には近づけさせないから安心してほしい」
「え? でも、ニコルとは婚約するのですよね……?」
私の問いに、父と侯爵は気まずそうに顔を見合わせた。
「実はな……、ニコルがルシアノ殿との関係をツェルナー卿にすべて暴露したんだ」
驚きのあまり私は言葉を発することができなかった。ちらりとルシアノを見ると、俯いたままで表情は確認できない。
「ヴィム王太子殿下との婚約が決まる前のことだ。私たちはニコルとルシアノ殿をどうするか、その話し合いを何度か重ねていた」
「お父様、ニコルはどうしてそんなことを……」
信じられないという気持ちから私の声はかすかに震えていた。
「ニコルはルシアノ殿のことを本気で好きだから暴露したと言っている」
すると、今度は侯爵が口を開いた。
「実はニコル嬢をその気にさせたのはこの愚息なんだ。ニコル嬢に婚約の話が持ち上がったとき、ルシアノは、自分が幸せにするから結婚しないでくれと言ったそうで。自分の婚約者の妹に手を出すなど、本当に恥晒しもいいところだ」
「それはっ……」
彼が咄嗟に反論しようとすると、侯爵は鋭い目つきで威嚇し黙らせた。
(ニコルの婚約をやめさせたのもルシが原因だったの? 最低ね……)
私はますますルシアノに嫌悪感を抱き、軽蔑の気持ちを込めて睨んだ。彼はそれに気づくと唇を噛み締めさらに表情を歪める。
「二人の婚約を認めるつもりはなかったが、ニコル嬢をその気にさせたのはルシアノだ。だから、その責任はきっちり取らせる」
「……父上? どういうことですか?」
ルシアノは驚いた顔で侯爵に問い返す。
「お前に侯爵家は継がせない。だが、ある程度の支援はしてやる。ニコル嬢との婚約も認めよう。だから二人で力を合わせて生きていきなさい。もちろん、離縁することは許さない」
「父上、いきなりなにを言うんですか!」
侯爵の言葉からは強い意志を感じる。おそらく、もう決めたことなのだろう。罰にしては重すぎる気もするが、そうしない限り、ルシアノは自らの行いが悪いことだったと気づかないと思われているようだ。
(自業自得ね……。善悪の判断がつかない人間に家督を継がせられないのは当然よ)
ツェルナー家は代々続く名家。その歴史を考えたら当然だと思う。
「お前はニコル嬢を愛しているのだろう? 聞けばもうそういう関係になっているそうではないか。彼女を傷物にしたのはお前だ。侯爵家から追い出されないだけありがたいと思え。お前は我が侯爵家に泥を塗った。そんな人間を跡取りにできないことくらい、分かっているだろう」
今の侯爵の話からすると、思っていた以上に二人の関係は深かったようだ。
(こんな話、知りたくなかった……)
ルシアノが私が王宮で働くことを後押ししてくれたのは、ニコルとの逢引きの時間を作りたかっただけなのだろう。事実を知った今となってはそうとしか思えない。
「アリー、聞いてくれ。僕はたしかにニコルに手を出した。けれど、それは君にとって大切な妹だったから、力になりたいと思ったんだ。君もニコルも僕の手で幸せにしたかった」
「私は、二人の仲を知ってからずっと苦しくて仕方がなかったわ。幸せにする……? 私を苦しめることがルシにとっての幸せだったの?」
この期に及んでまだ非を認めず、言い訳を繰り返すルシアノにいい加減腹が立つ。私が声を震わせながら答えると彼は苦しそうな表情を見せたが、もうすべてが演技にしか見えない。
「アリーは僕の前では決して弱音を吐かないから、苦しんでいることには気づかなかった。そんなに傷ついているなんて、知らなかったんだ。ごめん……」
たしかに私は人前で弱音を吐いたことがない。負けず嫌いな性格と、弱い人間だと周りに思われたくなくて虚勢を張り続けていたから。
それに比べてニコルは素直に気持ちをぶつけるタイプだった。だからこそ、ルシアノはそんな彼女に惹かれたのかもしれない。とはいえ、裏切ったことには変わりはないし、二人がしたことを簡単に許せるほど私は優しい人間ではない。
(私が強がらずにもっとルシに甘えていたら、こうはならなかったのかな……)
そう思うと少し胸が痛んだが、今さらこんなことを考えても意味がないことは分かっている。
今回の件は、事情を知る者たちだけで解決することになった。私と父は、母にこの事実を伝えたくない。ツェルナー家は子息の恥を周囲に知られたくないということで、利害が一致したのだ。侯爵家にはもう一人子息がいるので、跡継ぎの問題はないのだろう。ちなみに私には兄がいるため、ルシアノがニコルと結婚したとしても、プラーム家の爵位を継ぐことはない。
翌日、昨日起きた出来事をすべてヴィム殿下に報告した。彼は私の協力者なので、報告する義務がある。
私たちは、執務室のソファーに向かい合って座っていた。
「うまくいってよかったな」
「はい、殿下には本当に感謝しております。こんなに早く動いてくれるなんて思いませんでした」
「あんな姿を見せられたら放っておくなんてできない。それよりもお前は平気なのか?」
「え……?」
彼の言葉に首を傾げた。
(もしかして、私のことを心配してくれているの……?)
最近は衝撃的な出来事が続いていたせいか、気遣ってくれる言葉を聞くと胸の奥がじわりと熱くなる。婚約者だった男は私の気持ちをまったく理解しようとしなかったけれど、殿下はいつも気にかけてくれる。私の存在を認めてくれているような気がして嬉しい気持ちが溢れ出す。
「辛いなら無理をする必要はないからな。長期で休まれるのは困るが、しばらくの間なら休んでくれても問題ない」
「お気遣い感謝いたします。ですが、私なら本当にもう大丈夫ですので。ここ最近まともに仕事ができていなかったですし、しっかりとその分も取り返さないと……」
彼がいつにも増して心配してくるので、私は普段通りの口調で伝えた。悩み事が解決して心もすっきりしたので、本当に大丈夫なのだ。
(話をしに来たんじゃなかったの? どうして、黙るのよ……)
苛立ちを覚えた私は、気持ちを紛らわせるためにテーブルに置かれた花束に視線を向けた。ピンクのバラは私が一番好きな花だが、ルシアノが持ってきたと思うと腹が立った。
「アリー、本当にごめん。僕はアリーのことを傷つけてしまったよね」
「謝罪も変な演技もいらないので、早く婚約解消を進めてください」
「いや、僕は君との婚約解消を望んでない」
「……は?」
ようやく口を開いたかと思えば予想もしなかった言葉に驚き、私は気の抜けた声を漏らした。
「あの……、意味が分からないのですが……。ルシはニコルのことが好きなのでしょ?」
「……うん」
私が戸惑いながら問いかけると、ルシアノは弱弱しい声で答えた。まるで迷っているように見えて、私の苛立ちは増していく。
「だったら悩む必要なんてないじゃない」
「それは……。ニコルが心配しているんだ。もし僕がアリーとの婚約を白紙に戻して、ニコルとの婚約を申し込んだら、プラーム夫人の心をまた追い詰めてしまうのではないかって」
その話を聞いて絶句する。彼は母を言い訳に使った挙句、私の気持ちなど一切無視した発言をしたからだ。まるで脅されているようで気分が悪い。
「お母様を傷つけないために、私との婚約を解消できないと、……そういうことですか?」
「そうなるかな」
私が声を震わせながら問い返すと、彼はあっさりと認めた。
「でも、そうなると好きでもない私と結婚することになってしまうけど、ルシはそれでいいの?」
「アリーのことも好きだよ。今でも大切に思っているし、結婚は絶対にアリーとしたい」
ルシアノは私の顔を優しく見つめて答えたが、おそらくこれは演技だろう。けれど、彼の考えがよく分からない。問題を円満に解決できるチャンスだというのに、どうしてそれを素直に受け入れないのだろう。
「ルシが好きなのはニコルでしょ? 今さら、私に気を遣わなくてもいいわ。不愉快なだけよ」
「……ごめん。ニコルのことを放っておけなくて。表にはあまり出さないけど、自分が養子であることをずっと気にしているみたいでね。だからたまに話を聞いていたんだ」
「それでルシはニコルに手を出したの?」
「え?」
「話を聞くフリをしてニコルの弱みに付け入ろうとしたんでしょ? 最低ね。ルシが好きだなんて言わなければ、ニコルだってルシのことを好きにはならなかったかもしれない。私だってこんな気持ちにはならなかった……」
自分勝手なルシアノにいい加減我慢ができなくなり、私は強い口調で言い放った。
「ルシもニコルもお母様の心配をしているようだけど、私が傷ついていることは無視するのね」
「そんなことはないっ! 僕はもう絶対にアリーを傷つけないから……。もう一度だけ信じてほしい」
「ニコルのことを好きだと言ったルシのことを信じろって言うの? 私のことをばかにしているの? そうよね……。私と結婚すればいつでもニコルに会えるし、浮気も気軽にできるものね」
「違うっ! そんなことは……」
「私に隠れて会っていたくせに、ずっと騙していたくせに。そんな人の言葉なんて信じられるわけないわ。ルシの傍にいたら私はきっとまた傷つく。それでもルシは私と結婚したいと言うの?」
私がそう訴えると、ルシアノは苦しそうな表情をして黙ってしまった。
「ルシっていつも都合が悪くなると黙るのね。それ、すごくずるいことよ。黙っていたらなんでも逃げられるなんて思わないで! なにも答えられないのなら私との婚約は解消して。ルシなんて大嫌いっ、もう出ていって!」
じわりと涙で視界が曇りはじめ、つい声を荒らげてしまう。ルシアノは「ごめん」とだけ言って部屋から出ていった。
静かになった部屋で今までのことを思い返すと色々な感情が込み上げてきて、涙が溢れた。私が好きになった相手は、こんなにどうしようもない男だったのだと思うと、それを見抜けなかった自分自身が情けなくて悔しくてたまらない気持ちになる。けれど、これで完全に彼のことはふっきれそうだ。
彼は私の気持ちなんてなにひとつ理解しようとしない。ルシアノにとって大切なのは妹のニコルだけだ。
「はぁ……」
翌日、私は王宮の執務室で大きなため息を漏らしていた。あんな出来事があったせいで、昨晩はほとんど眠ることができず、まったく仕事に集中できない。数分間隔で欠伸とため息を繰り返していると、ヴィム殿下が私の座る机の前までやってきた。
「そのため息、何度目だ?」
「申し訳ありません。少し寝不足でして……」
殿下が心配そうな顔をしているので、私は苦笑した。
「珍しいな、お前がそんなふうになるなんて。なにか悩みでもあるのか? 話くらいなら聞けるぞ」
「大したことではありません……」
咄嗟にそう答えてしまったが、私にとっては大問題だ。ルシアノとの婚約解消を円満に片づけたいが、彼の家のほうが家格が上なので、こちらから申し出ることは難しい。
「お前が寝不足になるほどの悩みだろう? それって大したことなんじゃないのか?」
「……分かりました」
(今日の殿下は優しいのね。もしかしたら殿下ならいい考えを見つけてくれるかもしれないわ!)
こんな話を彼にしてしまっていいのか悩んだが、特殊な内容なのでなかなか人には話しづらい。それに長引けば仕事に支障が出てしまい、殿下にも迷惑をかけてしまうことになる。早く解決したい問題なので、思い切って彼に話してみることにした。
「なんなんだ、その話は……」
殿下の第一声はそれだった。彼の今の態度から察するに呆れているのだろう。その表情を見て思わず苦笑した。
「婚約者が好きなのは妹なんです。私としては、この婚約をすぐにでも白紙に戻したいのですが、お母様のことを考えると、どう行動していいのか分からなくて……」
「要するに、お前は穏便に婚約を解消したいということで合っているか?」
「はい……。できることなら婚約者と妹をくっつけてしまいたいです。そうすれば両家とも穏便に解決できて、お母様にも心配をかけずに済みますから……」
婚約者の妹に手を出したなんて世間に知られたら、ツェルナー家の名に傷がつくはずだ。ルシアノと心を通わせたニコルも同様。貴族は噂が好きだから、きっと真実でないことまで言われるだろう。こんなことにこの先煩わされたくない、というのが本音だった。
私が話し終えると、彼はしばらく考えこんでいた。やはり、こんな恥を晒すような話はするべきではなかったのかもしれない。沈黙に心がざわつく。
「変な相談をしてしまい申し訳ありません」
「いや、謝る必要はないよ。お前はなにも悪いことをしていないのだから。とはいえ、この状況が続くとお互い困るな。一つだけ、お前の悩みを簡単に解決する方法があるのだが……」
「え……!? 本当ですか!」
私はその言葉に飛びついた。
「俺の婚約者のフリをしてもらえないか?」
「……は、い? えっと、あの……、殿下の婚約者のフリって、そんなの絶対に無理です」
一筋の光が見えたと思ったけれど、想定外の言葉が飛び込んできて私は固まった。
「無理じゃない。お前が優秀なことは王宮では有名だ。引き受けてくれたら俺は助かるし、お前もすっきりと問題解決できる。こんないい条件、他にはないと思うが?」
彼は清々しい笑みを浮かべて、名案だと言いたげに告げた。
「あ……はは、たしかにすごく魅力的な条件だとは思いますが、私なんかが殿下の婚約者になんてたとえフリでもなれるはずがありませんっ!」
彼はこの国の王太子であり、他の貴族とは立場が違いすぎる。殿下はすごく気楽に話しているが、簡単に決断していいものではない気がする。
「一カ月後に隣国のパーティーに招待されている。そこに連れて行く女性を探しているんだ。生憎、俺には婚約者がいない。だから、どうしようか困っていたんだよ」
「それは絶対に婚約者じゃなければならないのですか?」
「俺の隣にいる女性を周囲は婚約者として見るだろう。俺もそのつもりで紹介しようと考えている。王太子でありながら、未だに婚約者がいないというのは少々問題があるらしいからな」
「なるほど……」
彼が婚約者を作らない理由は分からないが、周囲から急かされているのはなんとなく分かる。
(殿下は困っているのね……。いつも私のことを気遣ってくれるし、少しくらい手助けをしてもいいわよね。これはフリなのだし……、本当の婚約者になるわけではないわ)
事務官の仕事を勧めてくれたのも彼だし、学生時代には学業面でなにかと助けてもらった。だから、私にできることであれば協力したい。
「やる気になってくれたか?」
「フリでよろしいのですよね? パーティーまでの一カ月間、死ぬ気で作法をマスターします!」
「大袈裟だな。無理する必要はないよ。そんなことはしなくていい。今のままで十分だ」
私が気合を入れて力強く答えると、彼は困ったように表情を崩して笑った。
「お前は俺の隣にいてくれるだけで構わないから。引き受けてくれるか?」
「はい……。それで私の問題も解決できるのであれば喜んでお引き受けします!」
少し不安は残るが、頭を悩ませていた問題を解決できると思うと安堵で表情が緩む。
「ありがとう、感謝する」
「いえ、こちらこそ本当に感謝いたします。……ですが、本当に私でよろしかったのですか? 婚約者のフリだとしても、殿下にふさわしい相手なら探せばいくらだっているのではないでしょうか」
私は不思議に思い首を傾げた。
「ふさわしい相手か。それならば、やっぱりお前以外には考えられない。誰よりも信頼しているのだから。でなければ、傍に置かないよ」
急にそんなことを言われて恥ずかしくなり、じわじわと頬が熱くなっていく。
「どうした、頬が赤いな。照れているのか?」
「殿下が褒めすぎるからっ……!」
「お前は素直に反応するから分かりやすくていいな」
私は一人で動揺していたが、きっと彼はからかっただけなのだろう。いちいち反応してしまうことが少し悔しい。
「プラーム伯爵家のほうには王家から後ほど正式に連絡しておく。そうすれば今の婚約者との関係は白紙に戻るだろう」
「分かりました。よろしくお願いいたします」
私は深々と頭を下げた。あっさり決まってしまったが、ここまできたらもう後戻りはできない。けれど、これは私自身が決断したことでもある。だからこそ、自分にできることを精一杯やりとげようと心に決めた。
(きっと、みんなすごく驚くわよね……。騙しているみたいで気が引けるけど、プラーム家のためだと思って気にしないようにしよう……)
考えごとをしていると、不意に彼の掌が伸びてきて私の頭上に優しく乗った。そして、今度は柔らかく頭を撫ではじめたので、慌てて彼を見た。
「あの、なにをなさっているのですか……?」
「やっぱり、この高さこそお前だって気がする。撫でられるのは嫌いか?」
「き、嫌いではないですが……。恥ずかしいのでやめてくださいっ!」
「照れているのか? 可愛いな」
「距離が近すぎますっ!」
「これから俺たちはフリでも婚約者になるんだ。こういうことにも慣れないとな?」
殿下は口端を釣り上げて意地悪そうに笑うと、私の耳元でそっと囁いた。耳元に彼の吐息が触れて、ぞくりとした感覚とくすぐったさに体が震える。慌てて彼から離れた。
「耳、弱いのか。可愛いな。これからよろしく頼むよ、俺の婚約者さん」
完全にからかわれたと思い、彼のことを睨みつけた。しかし、殿下は愉しそうな顔を浮かべたままだ。
学生時代から殿下が悪戯をしてくることはあったが、たまに程度だった。もしかしたら、私が思っている以上に、彼は意地悪なのかもしれない。
(私が過剰に反応するからいけないのよね。次からは、冷静に対処しよう……!)
それから数日後、殿下と私の婚約についての王命が下り、ルシアノとの婚約は白紙に戻った。両親は相当驚いていたが、殿下のもとで働いていることは伝えていたので、気に入られたのだろうと婚約を喜んでくれた。同時に、ルシアノとニコルの婚約については現在話し合いをしている最中のようだが、じきに決まるだろう。
さらに一週間が経ち、なにごとも起こらなかったので、すべてうまくいっていると思っていた。ルシアノともあれ以来会っていないし、ニコルがその件に触れてくることもない。関係を両親に知られないためにも、大人しくしているのではないだろうか。私もことを荒立てる気などないので、普段どおりの顔で過ごしていた。
仕事を終えて邸に戻ってくると、家紋のついた馬車が止まっているのに気づき、嫌な予感がして足がぴたりと止まる。
(この馬車ってツェルナー侯爵家のものだわ……。もしかして、ルシが来ているの……?)
私たちの婚約はすでに解消されたから、ルシアノには正直もう会いたくない。おそらく、今日訪れた目的は正式にニコルとの婚約が決まった報告かなにかだろう。
しばらく邸の前で立ち止まっていたがここにいても仕方がないと思い、深呼吸をして心を落ち着かせる。そして、ゆっくりと扉に手を伸ばした。
邸内に入ると、待っていたと言わんばかりに使用人が声をかけてきた。
「アリーセお嬢様、おかえりなさいませ」
「ただいま……。誰か来ているの?」
誰が来ているのかは予想がついていたが、あえて分からないフリをして聞いた。
「はい、ツェルナー侯爵様とルシアノ様がお見えです。アリーセお嬢様がお帰りになりましたら応接室へ来るようにと、旦那様から言づかっております」
「え……、お父様が?」
頬がわずかに引きつる。
(どうして、私が呼ばれるの? 私にも婚約の報告をするため? 嫌だわ、行きたくない……)
しかし、言づけを聞いてしまったからには行くしかない。仕方がないと諦めて私は使用人に連れられ応接室へ向かうことになった。
目的の部屋の前まで来ると、使用人が扉をノックし「アリーセお嬢様がお帰りになりました」と告げる。すぐに「入ってくれ」と父の声が響いて、それを合図に使用人が扉を開け、私は重い気持ちのまま応接室へ入った。
「失礼します」
私は落ち着いた声で答えたあとに一礼すると、ソファーのある中央まで歩いていく。その間、こちらをじっと見つめているツェルナー侯爵と視線が合い、胸の鼓動が速くなる。隣にはルシアノの姿もあり、私は彼とは視線が合わないようにしていた。
「ツェルナー侯爵、お久しぶりです」
極度の緊張から鼓動の音が激しく響いていたが、落ち着かせるように静かに挨拶をする。実は侯爵と会うのも少し怖かった。突然、殿下との婚約が決まってルシアノとの婚約が白紙に戻ってしまったから。王命である以上、こちらに非はないのだが、それでも突然だったので侯爵が私やプラーム家を恨んでるのではないかと少しだけ心配していた。
「アリーセ嬢と会うのは本当に久しぶりだ。しばらく見ていなかったが、ずいぶんと大人っぽくなって素敵な女性になったんだね」
「そ、そんなことは……」
突然、容姿を褒められて、お世辞だと分かっているけれど照れてしまう。しかし、先ほどよりも表情が柔らかく見えて、私のよく知っている優しい侯爵の姿に少しだけ安堵する。
(私に怒っているとかはなさそう……ね。よかったわ)
「アリー、私の隣に座りなさい」
「はい、お父様……」
父にそう言われて隣に腰を下ろした。目の前にはルシアノが座っていて、私のほうをじっと見つめているように感じたが、私はあえて視線を合わせずに侯爵のほうを見ていた。
「アリーセ嬢、まずは愚息がしたことを謝らせてほしい。本当に申し訳ない」
「え……?」
侯爵は苦しげな表情を浮かべたかと思うと、突然、謝罪の言葉を述べて頭を下げた。あまりにも急な展開に頭が追いつかず、それ以上の言葉が出てこない。
(一体、なんの話をなさっているの……? それに、どうして私に頭を下げるの?)
隣に座る父に視線を向け、助けを求める。しかし、父も侯爵と同じような表情をしていてますます戸惑ってしまう。
「それを言われるのならば、私の娘であるニコルも同罪です。ツェルナー卿、どうか頭を上げてください。謝るべきなのは二人の仲に気づかなかった私も同じ、申し訳ありません」
そう言って今度は父が頭を下げた。動揺していると、不意にルシアノと目が合った。そして、彼も同様に苦しそうな表情を浮かべていた。
「これは誤解なんだ……。僕が心から思っているのはアリー、君だけだ。どうか、信じて」
「ルシアノ、黙れ。ニコル嬢にも手を出しておいて、よくもまだそんな恥晒しな言葉を口にできたものだな。今日お前をここに連れてきたのは謝罪させるためだ。それ以外の発言は許さない」
言い訳をはじめた彼に対し、侯爵は強い口調で威圧した。ルシアノは悔しそうな顔で再び黙り込む。
(どうしてニコルとの関係を知っているの? 私はなにも言ってないわ。それなら誰が……)
考えていた状況とは異なっていて、頭の中は軽くパニックに陥っていた。
「本当にこんな愚息で申し訳ない。二度とアリーセ嬢には近づけさせないから安心してほしい」
「え? でも、ニコルとは婚約するのですよね……?」
私の問いに、父と侯爵は気まずそうに顔を見合わせた。
「実はな……、ニコルがルシアノ殿との関係をツェルナー卿にすべて暴露したんだ」
驚きのあまり私は言葉を発することができなかった。ちらりとルシアノを見ると、俯いたままで表情は確認できない。
「ヴィム王太子殿下との婚約が決まる前のことだ。私たちはニコルとルシアノ殿をどうするか、その話し合いを何度か重ねていた」
「お父様、ニコルはどうしてそんなことを……」
信じられないという気持ちから私の声はかすかに震えていた。
「ニコルはルシアノ殿のことを本気で好きだから暴露したと言っている」
すると、今度は侯爵が口を開いた。
「実はニコル嬢をその気にさせたのはこの愚息なんだ。ニコル嬢に婚約の話が持ち上がったとき、ルシアノは、自分が幸せにするから結婚しないでくれと言ったそうで。自分の婚約者の妹に手を出すなど、本当に恥晒しもいいところだ」
「それはっ……」
彼が咄嗟に反論しようとすると、侯爵は鋭い目つきで威嚇し黙らせた。
(ニコルの婚約をやめさせたのもルシが原因だったの? 最低ね……)
私はますますルシアノに嫌悪感を抱き、軽蔑の気持ちを込めて睨んだ。彼はそれに気づくと唇を噛み締めさらに表情を歪める。
「二人の婚約を認めるつもりはなかったが、ニコル嬢をその気にさせたのはルシアノだ。だから、その責任はきっちり取らせる」
「……父上? どういうことですか?」
ルシアノは驚いた顔で侯爵に問い返す。
「お前に侯爵家は継がせない。だが、ある程度の支援はしてやる。ニコル嬢との婚約も認めよう。だから二人で力を合わせて生きていきなさい。もちろん、離縁することは許さない」
「父上、いきなりなにを言うんですか!」
侯爵の言葉からは強い意志を感じる。おそらく、もう決めたことなのだろう。罰にしては重すぎる気もするが、そうしない限り、ルシアノは自らの行いが悪いことだったと気づかないと思われているようだ。
(自業自得ね……。善悪の判断がつかない人間に家督を継がせられないのは当然よ)
ツェルナー家は代々続く名家。その歴史を考えたら当然だと思う。
「お前はニコル嬢を愛しているのだろう? 聞けばもうそういう関係になっているそうではないか。彼女を傷物にしたのはお前だ。侯爵家から追い出されないだけありがたいと思え。お前は我が侯爵家に泥を塗った。そんな人間を跡取りにできないことくらい、分かっているだろう」
今の侯爵の話からすると、思っていた以上に二人の関係は深かったようだ。
(こんな話、知りたくなかった……)
ルシアノが私が王宮で働くことを後押ししてくれたのは、ニコルとの逢引きの時間を作りたかっただけなのだろう。事実を知った今となってはそうとしか思えない。
「アリー、聞いてくれ。僕はたしかにニコルに手を出した。けれど、それは君にとって大切な妹だったから、力になりたいと思ったんだ。君もニコルも僕の手で幸せにしたかった」
「私は、二人の仲を知ってからずっと苦しくて仕方がなかったわ。幸せにする……? 私を苦しめることがルシにとっての幸せだったの?」
この期に及んでまだ非を認めず、言い訳を繰り返すルシアノにいい加減腹が立つ。私が声を震わせながら答えると彼は苦しそうな表情を見せたが、もうすべてが演技にしか見えない。
「アリーは僕の前では決して弱音を吐かないから、苦しんでいることには気づかなかった。そんなに傷ついているなんて、知らなかったんだ。ごめん……」
たしかに私は人前で弱音を吐いたことがない。負けず嫌いな性格と、弱い人間だと周りに思われたくなくて虚勢を張り続けていたから。
それに比べてニコルは素直に気持ちをぶつけるタイプだった。だからこそ、ルシアノはそんな彼女に惹かれたのかもしれない。とはいえ、裏切ったことには変わりはないし、二人がしたことを簡単に許せるほど私は優しい人間ではない。
(私が強がらずにもっとルシに甘えていたら、こうはならなかったのかな……)
そう思うと少し胸が痛んだが、今さらこんなことを考えても意味がないことは分かっている。
今回の件は、事情を知る者たちだけで解決することになった。私と父は、母にこの事実を伝えたくない。ツェルナー家は子息の恥を周囲に知られたくないということで、利害が一致したのだ。侯爵家にはもう一人子息がいるので、跡継ぎの問題はないのだろう。ちなみに私には兄がいるため、ルシアノがニコルと結婚したとしても、プラーム家の爵位を継ぐことはない。
翌日、昨日起きた出来事をすべてヴィム殿下に報告した。彼は私の協力者なので、報告する義務がある。
私たちは、執務室のソファーに向かい合って座っていた。
「うまくいってよかったな」
「はい、殿下には本当に感謝しております。こんなに早く動いてくれるなんて思いませんでした」
「あんな姿を見せられたら放っておくなんてできない。それよりもお前は平気なのか?」
「え……?」
彼の言葉に首を傾げた。
(もしかして、私のことを心配してくれているの……?)
最近は衝撃的な出来事が続いていたせいか、気遣ってくれる言葉を聞くと胸の奥がじわりと熱くなる。婚約者だった男は私の気持ちをまったく理解しようとしなかったけれど、殿下はいつも気にかけてくれる。私の存在を認めてくれているような気がして嬉しい気持ちが溢れ出す。
「辛いなら無理をする必要はないからな。長期で休まれるのは困るが、しばらくの間なら休んでくれても問題ない」
「お気遣い感謝いたします。ですが、私なら本当にもう大丈夫ですので。ここ最近まともに仕事ができていなかったですし、しっかりとその分も取り返さないと……」
彼がいつにも増して心配してくるので、私は普段通りの口調で伝えた。悩み事が解決して心もすっきりしたので、本当に大丈夫なのだ。
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