探偵と助手の日常<短中編集>

藤島紫

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花咲く切り飴、ころころ。

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 ところが、次の問題を終えて窓の外を見ると、また同様に道を下っている。

(ああやってあやしてるのか?)

 一般的な男子高校生には幼児のあやし方などという知識はない。
 紗川もそれに漏れず、内心首をかしげながら様子を見ていた。
 だが、子供は縛り付けられていることを嫌い、暴れ続けている。

(ベビーカーが好きな子供もいるのだろうが……少なくとも、あの子に限ってはなさそうだ。いつもあれだけ暴れているんだからな)

 母親は落ち着かない子供を連れて、坂の信号から信号までの間を何度も往復する。
 そうこうしているうちにベビーカーの上で暴れていた子供はおとなしくなり、暫くしてから母親はマンションに帰っていった。
 それが毎日続いた。
 最初はベビーカーで暴れる子供の様子を気にかけもしたが、やがて慣れてしまった。
 窓の外に、その母子を見かけても、そういう子育て方もあるのだろうと思うだけにとどまった。






「後で知ったことだが、実際に育児書にも書いてあるそうだ。理由もなく泣いている時は外に連れ出すのが効果的らしい。うるさいから屋外に連れ出せ、という意味ではないそうだ」

 平然と言う紗川に、三枝は唖然とした。
 紗川のいう事は正しい。
 三枝は小学校の高学年のころから、近所の子供の面倒をよく見ていた。それこそ、ベビーカーを押して大正ロマン通りを散歩したものだ。
 おかげさまで、町内での三枝の評判はすこぶるいい。
 それと同時に、同じことを周りの男がしないこともよく知っている。
 紗川も同様だろう。
 にもかかわらず知っているという事は、実はどこかに隠し子でもいるのだろうか。道を歩けばピンク色の視線を向けられる歩く公害なのだ。実は子供がいたとしてもおかしくはない。

「……どこで知ったんですか、そんなこと」

 疑いの気持ちを隠しもせずに尋ねたが、紗川は全く意に介さずに答えた。

「元保育士の方がそう言っていた。君のことだから、僕に隠し子でもいるのかと勘繰っているのだろうが、それはない」
「よかったです、人でなしでなくて」
「実に信用がないな」
「こと女性に関しては。どこに信用される要素があるんですか」
「信用してくれ。僕には桜という彼女がいる。浮気はしていない。桜から見張っているように言われのだろうが、安心してくれと伝えて欲しいものだ」
「分かりました。信用しましょう」
「それは良かった」
「ともかく、そのお母さんは子供が泣くから外を歩いてたんですね」

 そう言うと、紗川は微妙な顔をして頷いた。

「まあ、確かに『泣くから』というのが理由ではあるだろうな。最初にこちらが思っていた理由ではなかったが」
「どういうことです?」

 風に持っていかれそうな帽子を押さえながら、紗川は続きを話した。







 その日も、受験生の紗川はいつものように喫茶店の窓際の席で勉強をしていた。
 正解した問題にチェックを入れると、青いペンを指先で回す。年上の従姉が誕生日にプレゼントしてくれた青い万年筆は、勉強時間の最高の友だ。
 シャープペンシルを使わないことに友人らは疑問を投げかけたが、書き直しができないため、ミスが許されないという緊張感を保つことができる。
 フリーハンドで書いているにもかかわらず、ぶれの少ない図形、整然と並んだ数字の羅列は美しくさえあった。

(よかった、思ったとおりに解けたな)

 好きな科目だから、つい取り組み時間が長くなってしまった。
 気付けばレコードもA面からB面に変えられている。
 紗川は、ようやく時終えた問題の解を眺め、満足の息をついた。
 定期購読している「大学への数学」に掲載されている問題は、これですべてクリアした。なかなか厄介な問題だったが、正解を出す事が出来て気分がいい。
 紗川は午前中の計画の中に厄介な問題を一つ混ぜることにしている。それは大学の過去問題であったり、定期購読している雑誌の難問と書かれた問題であったりする。
 ただし、家では決められた時間以上に取り組むことはしない。
 ある程度考えたのちは、解けていなかったとしても、そのまま街にでる。
 街並みを眺めながら、他の問題や勉強とは全く関係がないことを考えながら歩いていると、唐突にひらめくことも少なくない。
 日によっては喫茶店に着くまでの道すがら、頭の中でといてしまい、席について料理が来るまでの間、紙に書いて計算しなおし、確認するということもしばしばだ。
 その日も、そういう日だった。

(しまった……。他に持ってくればよかったか)

 もっと時間がかかるだろうと思っていたから、参考書の類は持ってこなかったのだ。予定が狂って手持ち無沙汰になってしまった。
 窓の外を眺める。
 ベビーカーを押す女性の姿があった。
 いつもの光景。
 それを見ているうちに魔がさした。

(あの坂の上の信号から下の信号までは、およそ200メートル……)

 その母子がいつも往復している距離を考える。

(往復しているわけだから、結構な距離だ)

 計算するつもりだった紙に鋭角な直角三角形を書き込む。

(この坂の角度は何度くらいだろう……せいぜい5度くらいか。だがそうすると計算が面倒だな。15にしておくか)

 直角部を下にし、鋭角な角θに15と書く。残りの角度の位置に台車を書き込んだ。

(ベビーカーって、普通どのくらいの速度で移動できるんだろうな。かなり摩擦抵抗がありそうだが……まあ、いいか。滑車と同じ扱いで。あとは重さだが……)

 手元に問題がなければ作ればいい。
 料理が来るまでの退屈しのぎにはなるだろう。

(できた)

――上の信号からベビーカーを持つ手を離して、次の信号までの到着時間はどのくらいになるか?

 紗川はペンを指先で回し、問題を解き始めた。







「……悪趣味だなあ」
「自分でもそう思う」
「若気の至りってやつですか」
「君に言われると複雑だが、まあそうだな。しかし安全基準を考える上では、こういった計算が必要になる」
「それはそうですけど。小さい子が怪我したりするようなことは考えたくないです」

 紗川は笑って三枝の頭の側面を軽く撫でた。

「よしよし」

 まるで小さな子供にするような扱いを受け、三枝はふてくされた顔で紗川を見上げた。

「何ですかそれ」
「いや、こういう話をしても、拒絶反応がおとなしくなったと思っただけだ。気づいているか?」
「……話をするだけだったら、そんなには」
「良い傾向だ」
「この前のは、完全にショック療法でしたけど」

 まだ体温が残っている遺体を間近で見た衝撃は大きかった。
「あの時は、よく耐えたな」

 耐えられてなんかいませんよ――そう言おうとしたが、三枝はそれについては答えず、今の話について「やっぱり悪趣味ですよ」と口を尖らせた。

「全くその通りだ。僕も反省した。以来、ああいう事は頭の中でだけ考えることにしたよ。実際に紙に書くところまでやると、どうにも後味が悪い」

 わざと語るべきことを語らずに感情の部分だけを語る。紗川らしくないと思いながら三枝は横顔を見上げた。
 視線に気づいて見下ろしてきてから苦笑する。

「わかるだろう? 本当に坂をくだってきたんだ、ベビーカーが」
「え。本当になっちゃったんですか。先生が作った問題どおりに」
「そう。あれはちょうど店から出てきてすぐだった。交差点の信号の下、道を渡ろうとしていた母親がベビーカーから手を離したんだ」






 自分で作った問題など、すぐに解けてしまう。
 紗川は食事を早々に切り上げると、いつもよりも早く店を出た。いつもより早いとは言っても一時は過ぎていた。
 昼休みが終ったからだろう、通りを歩く人の数は減っている。そのせいだろうか。昼とはいえ、北からの風は余計に冷たく乾いているようだった。コートの襟がバタバタと頬を叩く。
 予感があったわけでも何でもなく、風をよけるようにして顔を背けた先に、その光景があった。
 南から北へ伸びる真っ直ぐの緩やかな坂道を自然と見上げる形になる。上の交差点の信号がちょうど青になったときだった。
 いつもガラス越しに見ていた母親が、するりと、ベビーカーから手を離した。
 ベビーカーは母親を残してゆっくりと坂道を下ってくる。
 横断歩道をわたり、そのまま小さな段差をバウンドして歩道に乗り上げ、人通りが途切れた坂を下り続ける。
 最初はゆっくりだったが、加速度を上げてベビーカーはこちらに向かってくる。

「冗談だろ……」

 車の通りもろくに確認せず、気がつけば走り出していた。
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