幽霊事務局長の穏やかな日常=大病院の平和は下っぱ事務員と霊が守ります=

藤島紫

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大病院のささやかな日常1

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「あれ、普通に来れた」

 北階段1階のドアの前で、私は呆けて桐生さんを見た。
 一人でカフェに行こうとすると、どうしても中央階段に行ってしまうので、桐生さんと一緒にカフェに向かうことにしたのだ。
 2階のドアをくぐって階段を降り、そして1階のドアの前にいる。この向こう側は待合エントランスホールだ。

「なんで普通に来れたんだ?」
「わたしからすれば、平時となんら変わりがありません。つまり、普通です」
「うっそだあああ……」
「声をおさえてください。この向こうは患者様が多くいらっしゃる場所です。職員が不適切な行動をとってはなりません」
「あーはいはい」

 私が口を押えるのを確認した桐生さんはドアを開けた。
 途端に聞こえてくる、ホールのざわめき。
 3階までの吹き抜けの広々としたホールは明るい。天井から差し込む光は電気だが、巨大な人工樹木が作る木陰のおかげで、まるで屋外にいるような開放感がある。
 初めて見た時、本当に病院なのかと驚いたものだ。

「友利さん、行きましょう。時間を無駄にしてはなりません」
「あーはいはい」

 桐生さんに注意されて慌てて後を追う。
 北階段入り口を隠すように立っている大きなテレビの後ろ側から建物の外に面している壁伝いにカフェに向かう。
 大手化学メーカーの記者会見の様子が流れていた。セメントの検査をしていなかったと、お偉いさんたちが頭を下げている。

「ボリュームが大きくなっていますね」

 桐生さんは足を止めてテレビの正面に回ると、手動で音を消した。待合ホールにあるテレビは音を消し、字幕にしておくことになっている。音楽だけならともかく、人の話し声がテレビからすることで会計の呼び出しが聞こえなくなってしまう可能性があるためだ。
 休憩時間であろうと、桐生さんは手を抜かない。

「患者が直接操作したのかもな」
「操作個所を触れないようにした方が良いのではないかと施設管理課にお伝えしておいた方がいいかもしれません」
「張り紙だけじゃダメか」
「今も張り紙があります」
「じゃ、ダメか。なかなか難しいな」

 そんなことを言い合いながら、のんびりと壁伝いに進む。
 壁には寄贈された絵画が並んでおり、無味乾燥な壁に花を添えていた。

 なかなか見ごたえがある。ここに飾られる絵は、一部を除き、定期的に入れ替わる。一応、芸術を無料で公開してくれるという芸術ボランティアことになっているが、実際のところは無料で個展が開けるとあって、半年先まで展示予約でいっぱいだ。
 院内ボランティアには、ほかに定期的に自動演奏のピアノの曲を入れ替えに来る音楽ボランティア、車椅子を押したり院内の道案内をする一般ボランティアがある。
 で、そのボランティアの管理は私の担当だ。
 謝礼として健診や予防注射が無料で受けられるとあって、人気が高い。
 むしろそれが目当てで、健康上の不安がある年寄りがやってきたりするから、恨まれないように断るのはなかなか骨が折れる。
 しかし、それ以外はそうそう大変なポジションじゃない。
 むしろ、はっきり言ってしまうと、あってもなくても良い仕事。
 桐生さんは俺と同期だがつい一年ほど前までは上の人がやっていた仕事をそのまま引き継いだ。つまり優秀ということだ。
 庶務課は人事と財政と企画を兼ねているから、この病院における事務方の出世コースではある。だが、庶務課にいるからと言ってみんながみんな、そのレールに乗れるわけじゃない。
 桐生さんは非正規雇用の職員の担当であると同時に、彼らにかかる人件費なども管理している。将来、人事を統括するために必要なノウハウを学ぶためにちょうどいいということなのだろう。
 一方、病院にとってあってもなくても困らない、ボランティアの統括をする私。
 10年後の違いが手に取るようにわかるが、それはまあ、仕方がない。
 新卒ですんなり入所した桐生さんと、家族にせっつかれて専門学校通いをしてやっとの事で合格した私が同じはずがない。

「桐生さんは将来、ここの事務局長候補だもんなあ……」
「え……」

 しまった。
 思わず声に出てしまった。
 しかもタイミングよく、初代の前。
 結城事務局長の肖像画の前だ。ちなみに、通年を通して絶対に変更がないのがこの絵だ。

「わたしが、ですか?」
「そうそう。だって、上見ても下見ても、前後5年、見渡しても桐生さんより優秀なのいねえじゃん」

 当然、本人もそう思っているだろうと思うのだが。
 瞬きの数が多いところを見ると、驚きながらちょっと嬉しい――と、そういうことか?
 これは桐生さん通訳検定2級くらいの難易度かもしれない。

「何をもって優秀となすのかは不明ですが、友利さんに高く評価されていることはわかりました。光栄です」
「おう」
「しかし、比較する、というのは好ましくありません。単純に仕事量だけで言えば、ほとんど変わりがありませんから。わたしはただ、正しいと思うあり方を実現しているだけに他ありません。結城事務局長のように……」

 桐生さんが結城事務局長の肖像画に視線を向け、私もそれにならった。
 白髪交じりの髪を丁寧に撫で付けたオールバックは一分の隙もない。厳しそうな顔だが、泣きぼくろがあるせいで、それが少しだけ軽減されている気がする。

「怪我をすれば痛い、病気になれば苦しい、それを軽減したいと思うのは当たり前のことです」

 桐生さんは、肖像画の結城事務局長のように厳しい顔のままでそう言った。
 年下のくせにと
「まあな。俺もそう思ってるよ」

 しかし、桐生さんのような気持ちが全くないわけでもない。
 冷ややかな顔をしているくせに、腹のなかは驚くほど熱い人だ。桐生さんは。

「ところで、カフェにあるメニューだけど……」
「失礼」

 突然、桐生さんが床を蹴った。
 桐生さんが向かう先は、カフェの出入り口だ。
 店の奥から入院患者用のパジャマを着た子供が走って出てくる。

「危ない!!」

 そこに、検体やカルテを運ぶ搬送のカートがやってきた。
 私の声に、カートを押していた若い女性が目を見開き、子供に気づいて立ち止まろうとしたが、搬送カートは大きくて重い。
 転がしているそれはすぐに止まりはしない。
 点滴スタンドを転がしながら走っていた子供は、自分よりも大きなカートが迫ってくるのに気づいて恐怖に顔を歪めた。
 私から彼らまでの距離は5メートル。
 それなのに、ひとりひとりの表情がつぶさに見て取れる。
 店の奥から母親らしき女性が子供の名を呼ぶ。
 私も駆け出したが間に合わない。
 ぶつかると思った時だ。
 スーツの男が自動演奏をしているグランドピアノを飛び越え、カフェの出入り口付近に飛び降りた。
 桐生さんだ。
 カートに体をぶつけて軌道をずらし、ふんわりと覆い被さるように子供を守る。
 大きなカートは、私の視界をさえぎり、そのまま進むと市内の情報冊子が並ぶラックを直撃して倒して止まった。
 広報、文化ホールでの行事の知らせなど、色とりどりの紙が空中に放たれる。
 『崩れた壁を見かけたら教えてください』『市内防災マップ』『もしも動物が飼えなくなったら』そんなチラシの文字すらしっかりと目に入ってくるほど、全てがゆっくりと動いて見えていた。
 大地震に備えて、と書かれているちらしが、ヒラリと私の足元に舞い置いてきた。
 それが靴の先に挟まってとまり、私はようやく事態を確認できた。
 恥ずかしながら、その一瞬、私には全く動けなかった。
 そして、まるで映画のワンシーンのように、一コマ一コマ、子供の顔や桐生さんの動き、搬送スタッフの青ざめた表情を視界に捉えていながらも頭は全く動かなかった。
 驚き、焦り、そして呆然と見ていただけだった。

「すみませんっ」

 泣き出しそうな声が、私を現実に引き戻した。
 呆然としている場合じゃない。靴先の下に挟まったチラシを掴んで駆け寄ると、桐生さんの腕の中で、子供がキョトンとした顔をしていた。
 店内から駆け出してきた女性が、桐生さんに詫びている。頭を下げられないのは、背中に子供を背負っているせいだ。
 一方で、カートを押していた女性は真っ青だった。それはそうだ。もう少しで入院患者に怪我をさせるところだったのだから。

「店の外側は通路です。走って出てくるのは危険です」

 桐生さんが子供に話しかける。
 その途端、火がついたように子供が泣き出した。

「すみません、息子がご迷惑をおかけしました。お怪我はありませんか」

 母親を認めた子供は桐生さんから逃げ出すように母親に抱きつく。
 ひどい。
 お前さんを助けたお兄さんに、その仕打ちはないだろうと子供には言いたいが、怖い思いをした直後、目の前にあったのが鉄扉面ではビビるなという方が無理だ。
 子供も、自分の失敗のせいでこれが引き起こされていることは気づいているだろうから、怒られる、という恐怖もあるだろう。
 とはいえ、私ならこの状況、深く傷つく。
 さすがに桐生さんも傷ついているのではないだろうか。
 心配して横顔を見るが、全くの無表情だ。いつもと一ミリも変わりがない。
 すげえな桐生さん。たくましいぞ、アイアンハート。
 いや、そうじゃない。
 桐生さんは体でカートの軌道を押して変えた。
 どこかをぶつけているはずだ。

「桐生さん、大丈夫?」
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