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自分を変えるために重ねる日常2
しおりを挟む「待合エントランスホールに飾られている結城事務局長の肖像画も、絹井先生の寄贈です」
「うっそ」
「わたしは嘘を申しません。嫌いですので」
「あーはいはい。そうだった」
私の返答に満足したのか、桐生さんはリュックに本をしまった。その仕草も丁寧だ。ちなみに、桐生さんのリュックは私のと同じだ。いや、正しくは、朝の出勤時のランニングを始めるときに、桐生さんに勧められて、同じものを買ったのだが。
ふと横を見ると、大きな鏡に下着一枚の私がうつっていた。細身の桐生さんが目の前にいるせいか、自分の腹回りが気になる。
腹の肉をつまんでため息をついた。
30も過ぎれば、もう中年だ。
若い時はちょっと運動すればすぐに筋肉がついたのに、うまくいかないものだ。
「ところでさ。桐生さん」
肉をつまみつつ声をかけると、桐生さんは既に更衣室を出ようとしているところだった。
「桐生さんって、いつも1階にあるカフェでコーヒー買ってるよな」
院内にあるシアトル系のカフェは桐生さんのお気に入りの場所らしい。
というより、病院の中とは思えない居心地のいい空間は、患者にとっても職員にとってもオアシスと言っても過言ではない。
「今日もこれから行く予定ですが、何か?」
「カフェに行くときって北階段、使う?」
桐生さんは首を傾げた。
カフェにいちばん近い場所にあるのが北階段だ。
今着替えをしている更衣室は地下にあり、ここからカフェに行くには北階段を使うのが最も効率的だから、桐生さんが使うのはそこで間違いないだろう。
「地下から上がるのですから、一番近い階段を使うのが合理的かと」
「だよなあ。じゃあさ、庶務課から行くときはどうしてる?」
私たちが所属している庶務課は、2階にある。
庶務課から近い階段は二つ。北階段と、エレベーター横の中央階段だが、カフェに行くなら北階段を降りるのが最も効率的だ。
私がこれを聞くには訳がある。
「北階段です。階段出口のドアから20メートルでカフェにつく最短ルートですから」
「中央階段って使う?」
「中央階段を使った場合、200メートルほど歩く必要がありますから、必要性がない限りは使用しません」
「じゃ、朝は?」
「朝はなおさらです。職員が出勤する時間は時間外受付の出入り口しか空いていません。そこから最も近いのは北階段です。おかしなことを聞きますね。何かありましたか?」
桐生さんがいうことは正しい。
私もそうするつもりで、いつも北階段に向かう。
ところが、ここに来るときの私は中央階段を使っていた。
今朝も、昨日も、その前もだ。
「それがさ……変な話なんだけどよ」
と、今朝の話をした。
「な? 不思議だろう?」
「友利さん、脳ドックを受けることを強くお勧めします。いえ、それよりも手のしびれや視界のゆらぎなどを感じたことはありませんか」
「いやいや、だから、そうじゃなくて」
私の健康状態の問題ではないと思ったから話しているのだ。
「じゃあ、もう一個質問。庶務課、職員35名いるけどさ。そのうちのだれかと北階段ですれ違ったことある?」
北階段を最も使う可能性があるのは庶務課の職員だ。
初めて桐生さんが表情を変えた。といっても、わずかに眉を動かしただけで、ほとんどの人にはわからない程度のささやかな違いだが。
「そう言われてみると……ありませんね」
「誰にもあったことない?」
「いえ、最近よく、ある紳士に会います」
「紳士?」
どう言うことだろう。
紳士という言い方が引っかかる。
北階段は関係者以外の使用が禁止されている。
だが、内部の人間に対して、桐生さんが紳士という言い方をするか?
いや、しない。
「紳士って、どういうことだよ」
「失礼いたしました。失言です。それよりも、汗をかいて裸でいたら、体を冷やします。せっかく脂肪が燃焼しているのに、それでは効果が期待できません」
「あ……」
言われてみれば、体が冷たい。
意識した途端に鼻水が垂れてきた。
「風邪をひく前に、シャワーを浴びて着替えてはいかがですか」
「ずず……うん、そうするわ」
鼻水をすすりつつ、更衣室を出て行く桐生さんを見送る。
時計を見ると、いつも桐生さんが更衣室を出る時間を5分以上オーバーしていた。
ロボットのように時間に正確な桐生さんではあるが、仲良くなってみると付き合いがいいところもある。
「うえー……マジで寒いわ。シャワー浴びて早く服きよ」
つまらない噂話のせいで風邪をひいては馬鹿馬鹿しい。
なぜ、北階段に行こうとしているのに中央階段を使ってしまうのか。
無意識のうちに忌避しているのだという人もいる。それは――
「ほんと、ばかみてーだよなあ……北階段に、結城事務局長の幽霊が出るなんてさ」
私は信じていなかった。
ダジャレのようではないか。
階段の怪談話なんて。
いったい誰が信じるというんだ。
その時は、奇妙に思いながらも、私は言っているほどは信じていなかった。
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