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第二篇 鷹宮葵の話
第73話 面倒なこと
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「葵ちゃーん、どこにいるの?」
階下から真夏の声。長年耳にしてきた響きだ、聞き間違えようがない。壁の時計は、ちょうど23時を指していた。
……まだ40分しか経っていない。いつもなら無駄に長風呂するタイプのくせに、今日に限ってどうして。
「お、おい! なんで小鳥遊が? というか、ここには誰も来ないって言ってたじゃねぇか!」
「……おそらく、お風呂から戻ってきた彼女が、私が見当たらないことに気づいて探し始めた、というところでしょうか。他のメンバーはともかく彼女は、その……目ざといので」
目ざといと言葉を濁しながらも、胸のどこかで納得している自分がいた。
何度も「何かあったら話せ」と言ってきたのは、やはり勘づいていたからだ。
「いや、冷静に分析してる場合かよ!!」
小声で怒鳴るという器用さを見せる佐山くん。その間にも、階段を上ってくる足音は一段、また一段と近づく。
「葵ちゃん、2階にいる?」
声も足音も膨らむように近づいて――
「ど、どうすんだよ!?」
慌てるのも無理はない。彼からすれば見つかったら一貫の終わり、しかもターゲット本人に見られたとなれば目も当てられない。
頭を回したい。けれど時間は、もうない。最優先は――姿を見られないこと、ですね。
「とりあえず、ここに隠れましょう。幸い電気も付けていないので、やり過ごせるかもしれません」
私は布団を指した。
「はぁ!? いや、そんな――」
「早くしないと見つかりますよ」
「――っ! ええぃ!! もう知らねぇ! どうにでもなれ!!!」
彼が潜り込むのを確かめて、私も続いて布団の中へ。
「失礼します」と囁いて身体を滑り入れる。
理由は単純だ。見つかれば追及は避けられない。取り巻き三人衆が上手く真夏を呼び戻してくれれば――その薄い希望に賭けるしかなかった。
布団の中は当然狭く、私は先に入っていた佐山くんの体に、すっぽり収まる形で密着した。
微かに汗の混じる石鹸の匂い、熱を帯びた体温、心臓の鼓動。暗闇の密度が肌の上で増していき、先ほどまでの熱とは別種の火照りが、静かに胸骨の裏側を叩く。
「こっちにいたりするかな?」
襖の向こうで真夏の声。床板がきしむ音。近づく気配。
その瞬間、彼が身じろぎした。緊張が筋肉に走るのが、布団越しでもわかる。
次いで――掌が、私の胸へ、ふっと落ちた。
掠めたのではない。包み込むように、きちんと触れる。柔らかさが掌の形に合わせてわずかに形を変え、指の付け根に沿って沈む。
熱がそこだけ、鮮やかに上がって、背筋を細い電流が駆け抜けた。暗闇のせいで余計に敏感になる感覚が、彼の慌てた息遣いと重なって、胸の内側を甘く震わせる。
「……こんな事態なのに、ずいぶん積極的なんですね」
耳殻すれすれの距離で囁く。
「ち、ちげえって! わざとじゃ……」
必死の否定。けれど、掌は逃げ場を失ったみたいに、どこへ置けばいいのか迷ったまま、ほんの数拍だけ留まった。その素直さに、思わず笑みが零れる。
「ふふっ、慌てなくても大丈夫ですよ」
「本当にわざとじゃないんだ! 狭いから、手の置き場が……」
そんな言い訳、しなくてもいいのに。知らないふりだってできたでしょうに。
――本当に、素直で純粋。
「わかってますよ。ほら、あんまり声を出すと気づかれますから」
唇に人差し指を軽く当てる気配のまま囁くと、足音がこちらのベッドへ寄ってくる。布団の端をつまむ、あの予兆。
「この布団…………」
――さすがに、ここまでか。
言い訳の文言を探して舌の先で形にしかけた、そのとき。
「真夏ちゃーん!」
タイミング良く、階下から取り巻き三人衆の声。
まさか本当に――彼女たちが良い仕事をしてくれるなんて。
真夏の足音が、一歩、止まる。薄い沈黙ののち、ふっと遠ざかる気配。
「……うん、ここには葵ちゃんはいないみたいだし――後でしっかりと、ね」
囁くような声色。心臓がひとつ、余計に跳ねた。
――気づいていて、見逃した。借り、ですね。しかも高くつく類の。
足音が廊下へ戻り、階段を下りていく音が小さくなる。暗闇の中、布団の重みとふたり分の呼吸だけが残った。
彼の掌は、ようやく行き場を見つけたらしく、そっと胸から離れる。その軌跡に残った熱が、遅れてじんわり広がっていった。
* * *
恐る恐る布団の端をめくり、顔だけ出して部屋の様子をうかがう。
……本当に、階下へ降りていったようだ。
「……もう大丈夫ですよ」
囁くと同時に、私のすぐ脇で布団がもぞりと波打ち、佐山くんが荒い息を吐きながら這い出してくる。
「お前まで入る必要はなかっただろ!?」
「……たしかに、そうですね」
言い分は正しい。絶対に一緒にもぐり込む必要があったかと言われれば、答えは『いいえ』だ。
見つかったら面倒――それでも、私はほとんど迷わず潜った。どうして、と自問しかけて、そこで思考を切る。今は、それよりも――
「でも、役得でしたよね?」
わざと軽く言ってみせると、彼は頬を赤くしたまま眉をひそめる。
「や、役得って……それより、見つかんなくてよかったな。あんな場面見られてたらお前も大変なことになるだろうし」
――たぶん、バレていますので。面倒なことになるのは、ほぼ確定です。
心の中だけで呟いて、表情は平静のままにする。
「……そう、ですね。本当にそうだと、いいんですが……」
「ん? どういうことだ?」
「いえ、こちらの話です。――さて、またいつ来るかわからないので、そろそろ戻った方がよさそうですね」
「たしかに、それもそうだな」
彼は頷いて、足音を殺しながらテラスへ。私も続き、月明かりの下で向かい合う。夜気が肌を撫で、さっきまで布団の中に閉じ込められていた熱が、ゆっくり散っていく。
「それでは、また明日。おやすみなさい、佐山くん」
「あ、ああ……おやすみ」
彼は手すりに手をかけ、来た道――雨樋をそろりと伝って闇へ溶けていった。私は、その背中が木々の濃淡に紛れて完全に見えなくなるまで、欄干に指を置いたまま動かない。
ふと、視界の端で2つの影が階段を上がってくるのが見えた。ひとつは、ニヤニヤと何かを得意げに咥え込んだ顔。もうひとつは、オロオロと視線の置き場を失った顔。月光に縁どられた横顔が2階に現れ、こちらの空気と交わる。
――あぁ、神さま。どうか面倒なことになりませんように。
満天の星に、内緒の祈りをひとつ。私はそっと戸を閉め、残っていた月光を背に、深く息を吐いた。
階下から真夏の声。長年耳にしてきた響きだ、聞き間違えようがない。壁の時計は、ちょうど23時を指していた。
……まだ40分しか経っていない。いつもなら無駄に長風呂するタイプのくせに、今日に限ってどうして。
「お、おい! なんで小鳥遊が? というか、ここには誰も来ないって言ってたじゃねぇか!」
「……おそらく、お風呂から戻ってきた彼女が、私が見当たらないことに気づいて探し始めた、というところでしょうか。他のメンバーはともかく彼女は、その……目ざといので」
目ざといと言葉を濁しながらも、胸のどこかで納得している自分がいた。
何度も「何かあったら話せ」と言ってきたのは、やはり勘づいていたからだ。
「いや、冷静に分析してる場合かよ!!」
小声で怒鳴るという器用さを見せる佐山くん。その間にも、階段を上ってくる足音は一段、また一段と近づく。
「葵ちゃん、2階にいる?」
声も足音も膨らむように近づいて――
「ど、どうすんだよ!?」
慌てるのも無理はない。彼からすれば見つかったら一貫の終わり、しかもターゲット本人に見られたとなれば目も当てられない。
頭を回したい。けれど時間は、もうない。最優先は――姿を見られないこと、ですね。
「とりあえず、ここに隠れましょう。幸い電気も付けていないので、やり過ごせるかもしれません」
私は布団を指した。
「はぁ!? いや、そんな――」
「早くしないと見つかりますよ」
「――っ! ええぃ!! もう知らねぇ! どうにでもなれ!!!」
彼が潜り込むのを確かめて、私も続いて布団の中へ。
「失礼します」と囁いて身体を滑り入れる。
理由は単純だ。見つかれば追及は避けられない。取り巻き三人衆が上手く真夏を呼び戻してくれれば――その薄い希望に賭けるしかなかった。
布団の中は当然狭く、私は先に入っていた佐山くんの体に、すっぽり収まる形で密着した。
微かに汗の混じる石鹸の匂い、熱を帯びた体温、心臓の鼓動。暗闇の密度が肌の上で増していき、先ほどまでの熱とは別種の火照りが、静かに胸骨の裏側を叩く。
「こっちにいたりするかな?」
襖の向こうで真夏の声。床板がきしむ音。近づく気配。
その瞬間、彼が身じろぎした。緊張が筋肉に走るのが、布団越しでもわかる。
次いで――掌が、私の胸へ、ふっと落ちた。
掠めたのではない。包み込むように、きちんと触れる。柔らかさが掌の形に合わせてわずかに形を変え、指の付け根に沿って沈む。
熱がそこだけ、鮮やかに上がって、背筋を細い電流が駆け抜けた。暗闇のせいで余計に敏感になる感覚が、彼の慌てた息遣いと重なって、胸の内側を甘く震わせる。
「……こんな事態なのに、ずいぶん積極的なんですね」
耳殻すれすれの距離で囁く。
「ち、ちげえって! わざとじゃ……」
必死の否定。けれど、掌は逃げ場を失ったみたいに、どこへ置けばいいのか迷ったまま、ほんの数拍だけ留まった。その素直さに、思わず笑みが零れる。
「ふふっ、慌てなくても大丈夫ですよ」
「本当にわざとじゃないんだ! 狭いから、手の置き場が……」
そんな言い訳、しなくてもいいのに。知らないふりだってできたでしょうに。
――本当に、素直で純粋。
「わかってますよ。ほら、あんまり声を出すと気づかれますから」
唇に人差し指を軽く当てる気配のまま囁くと、足音がこちらのベッドへ寄ってくる。布団の端をつまむ、あの予兆。
「この布団…………」
――さすがに、ここまでか。
言い訳の文言を探して舌の先で形にしかけた、そのとき。
「真夏ちゃーん!」
タイミング良く、階下から取り巻き三人衆の声。
まさか本当に――彼女たちが良い仕事をしてくれるなんて。
真夏の足音が、一歩、止まる。薄い沈黙ののち、ふっと遠ざかる気配。
「……うん、ここには葵ちゃんはいないみたいだし――後でしっかりと、ね」
囁くような声色。心臓がひとつ、余計に跳ねた。
――気づいていて、見逃した。借り、ですね。しかも高くつく類の。
足音が廊下へ戻り、階段を下りていく音が小さくなる。暗闇の中、布団の重みとふたり分の呼吸だけが残った。
彼の掌は、ようやく行き場を見つけたらしく、そっと胸から離れる。その軌跡に残った熱が、遅れてじんわり広がっていった。
* * *
恐る恐る布団の端をめくり、顔だけ出して部屋の様子をうかがう。
……本当に、階下へ降りていったようだ。
「……もう大丈夫ですよ」
囁くと同時に、私のすぐ脇で布団がもぞりと波打ち、佐山くんが荒い息を吐きながら這い出してくる。
「お前まで入る必要はなかっただろ!?」
「……たしかに、そうですね」
言い分は正しい。絶対に一緒にもぐり込む必要があったかと言われれば、答えは『いいえ』だ。
見つかったら面倒――それでも、私はほとんど迷わず潜った。どうして、と自問しかけて、そこで思考を切る。今は、それよりも――
「でも、役得でしたよね?」
わざと軽く言ってみせると、彼は頬を赤くしたまま眉をひそめる。
「や、役得って……それより、見つかんなくてよかったな。あんな場面見られてたらお前も大変なことになるだろうし」
――たぶん、バレていますので。面倒なことになるのは、ほぼ確定です。
心の中だけで呟いて、表情は平静のままにする。
「……そう、ですね。本当にそうだと、いいんですが……」
「ん? どういうことだ?」
「いえ、こちらの話です。――さて、またいつ来るかわからないので、そろそろ戻った方がよさそうですね」
「たしかに、それもそうだな」
彼は頷いて、足音を殺しながらテラスへ。私も続き、月明かりの下で向かい合う。夜気が肌を撫で、さっきまで布団の中に閉じ込められていた熱が、ゆっくり散っていく。
「それでは、また明日。おやすみなさい、佐山くん」
「あ、ああ……おやすみ」
彼は手すりに手をかけ、来た道――雨樋をそろりと伝って闇へ溶けていった。私は、その背中が木々の濃淡に紛れて完全に見えなくなるまで、欄干に指を置いたまま動かない。
ふと、視界の端で2つの影が階段を上がってくるのが見えた。ひとつは、ニヤニヤと何かを得意げに咥え込んだ顔。もうひとつは、オロオロと視線の置き場を失った顔。月光に縁どられた横顔が2階に現れ、こちらの空気と交わる。
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