修学旅行でラブコメを

いろは杏⛄️

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第二篇 鷹宮葵の話

第99話 佐山くんと足湯

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 丘を下りる途中、木立の影がゆるやかに濃くなる一角で、ふわりと白い湯気が立ちのぼっているのが見えた。

 丸太を組んだ低い柵に囲まれた小さなスペース。手描きのボードに『ハーブ足湯』とあり、湯気の向こうで文字がゆらゆら揺れる。

 湯面の上には細かく刻まれた葉が浮かび、ローズマリーやレモングラスの香りが風に混じって鼻先をくすぐった。下り道で少し張っていたふくらはぎが、その匂いだけで緩む気がする。

「……入りましょうか」

 思わず口にしていた。

「おお、いいな。ちょうど歩き疲れてきたし」

 佐山くんも迷いなく頷く。私たちは木のベンチの縁に腰を下ろし、靴をそろえて脱いだ。彼が無造作にズボンの裾をくるくると捲るのを見て、私は小さく後悔する。

 ……こんなことなら、私もパンツにしておけばよかったですね。

 秋口のタイツは、保温には最適でも着脱の手軽さという一点で今日の敵だった。

 とはいえ、履いてきてしまったものは仕方がない。

 周囲をさりげなく確認し、人目に配慮しながらショートパンツの裾側から手を入れる。伝線させないよう、生地を親指で押さえて少しずつ下げ、太ももから膝、膝から足首へと丁寧に。足先をゆっくり抜いて丸めていく。

 シュルっという微かな摩擦音とともに、ひんやりした空気が素肌に触れた。冷たい風と、湯気の柔らかな温もりが同時に肌を撫で、妙に心地いい温度差が走る。

 視界の端で、佐山くんが息を呑んだのがわかった。こちらを凝視している――というより、目線の置き場所に困っている、が正解かもしれない。

「……なにか言いたげですね」

「い、いや、その……」

 困ったような笑みがこぼれる。彼のこういう戸惑いには、どこか少年っぽい清潔さがあって、可笑しくて可愛い。

「感想は?」

「……健康的だな」

「ふふ、無難にまとめましたね」

 もう片方の足も同じように慎重にタイツを抜き取り、丸めてバッグへ。足首から脛にかけて外気が触れると、今度は湯気の方へ自然と引き寄せられる。

「よし……これで準備完了です」

 そっと足を沈めた。
 じんわり、と熱が指の間から浸透してくる。ハーブの香りが湯気に乗って頬に届き、さっきまでの疲れがふわりと溶ける。隣を見ると、佐山くんは顔を赤くして視線を宙で迷わせ、なぜか足を入れるのをためらっていた。

「……顔が赤いですよ?」

「……熱いからだろ」

「まだ湯に浸かってませんけど」

 からかうと、彼は咳払いして、慌てて足を湯に入れる。木枠がこつんと鳴り、二人分の波紋が重なって広がった。

 しばらく無言で温度に体を馴染ませていると、ふとした拍子に彼の足の甲が私の足に触れた。

「――っ、悪い!」

「いいですよ。狭いですから」

 そう言いつつ、私は少しだけ体を彼の方へ寄せる。湯の中で自然に距離が縮まり、足どうしがぴたりと並んだ。湯の抵抗がクッションになって、硬さも重みもやわらぐ。体温と湯の温度が混ざり合って、境目が曖昧になる感覚が心地いい。

「……なあ」

「はい?」

「その、距離感っていうか……」

「嫌ですか?」

 私は首をかしげ、湯面の下でそっと指先を動かした。足の甲に触れない、ぎりぎりのラインで足首の外側をなぞる。湯の抵抗がクッションになって、触れているのか触れていないのか、曖昧な感触が残る。

 すると彼の肩が小さく跳ねた。

「お、おい……!」

「こうしてると、温かさが伝わってきますね。……ちょっと心地いいです」

 もう少しだけ近づいて、今度は触れないまま並べる角度を変える。肌が擦れない程度に、湯の揺れだけで互いを感じ取れる、その距離。

 彼は視線を前の木々に固定したまま、耳だけがわずかに赤くなる。

「お前……ほんと、小悪魔だな」

「褒め言葉として受け取っておきます」

 くすぐったい沈黙が続いた。周囲の木々の葉が風に鳴り、どこかで鳥が短いフレーズを二度繰り返して飛び去っていく。

 湯の縁に置いた両手も温まって、つい指先を開いたり閉じたりしてしまう。湯気は香りを濃くし、時間の輪郭を少し曖昧にした。

 結局、佐山くんが「足だけでのぼせるってあるのかよ……」と半ば本気でつぶやくまで、私たちは湯から出られなかった。

 タオルで水気を押さえ、私はタイツではなく靴下を履くことにした。まだ季節の風は冷たいけれど、足裏のぽかぽかが身体の中心へ伝わって、歩くのが楽しみになるような温度だった。


     * * *


 さらに丘を下り、風の丘中間駅の案内板が見えてきたところで、佐山くんが腕時計をちらり。

「もうお昼の時間だな」

「そうですね。あっという間でした」

 香水も足湯も、それぞれしっかり時間を使ったはずなのに、体感は短い。楽しい時間は、湯気みたいに指の隙間からすぐ抜けてしまう。

「お昼ご飯は……どこか良いところはありますか?」

「ああ、いくつか候補は考えてる。今から向かえばちょうどいい時間になりそうだ」

 彼は、地図アプリで確認するでもなく、見取り図を頭の中で広げているような口ぶりだった。自信のある人の歩幅は、自然と前へ進む速さを伝えてくる。

「ふふ、頼もしいですね。それでは、案内お願いします」

「おう! 任せとけよ!」

 言うやいなや、彼は自然な動作で私の手をとった。温まった掌は驚くほど柔らかく、ロープウェイへ向かうスロープを下りる間、何度か指同士が噛み合う。

 私は握り直すふりをして、ほんの少しだけ絡める角度を深くした。言葉にしない合図は、それだけで充分伝わる。

 駅舎に近づくにつれ、ハーブの香りは薄れていき、代わりに山の土や木の皮の匂いが濃くなる。振り返れば、薫る景色がひとつの層になって背後に重なっていくのがわかった。午前の出来事をめくる度、ベルガモットとローズの残り香が胸の奥で淡く混じる。

 下りのゴンドラがホームに滑り込み、ドアが開く。私たちは顔を見合わせて笑い、乗り込んだ。

 窓の外に広がる神戸の街と、遠くの海。
 そして隣には、同じ香りを纏った彼。

 お昼までの短い空の旅――その十数分が、もう一度、今日を好きにしてくれる気がした。
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