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3章 

王女は去り、夫は妻に恋をする

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 ジルベルトがついに我慢の限界を超え、ミュリルのもとへとかけつけたその時、ちょうど屋敷から馬車に乗ったアリシア王女と行き違った。

「えっ! おい、その馬車ちょっと待て!」

 軽快に走り去る馬車に慌てて声をかけたジルベルトは、中にいたアリシア王女とばちりと視線が合った。

「あら、ジルベルト様! そんなに慌ててどうなさったの? ミュリルならお庭にいるわよ?」
「い、いや……。殿下こそなぜこのような場所に? 王宮はもう大変な騒ぎで……」

 当然のことながら、アリシア王女が自らの求婚を退けた自分にいい感情を持っているはずがない。
 そのアリシア王女がわざわざ単身滞在していた王宮をお忍びで抜け出て、ミュリルを訪ねた目的が、少なくとも好意的なものとは思えなかった。

 だからこそこうして自分に何もできないと分かっていながらも、急ぎ屋敷へと帰ってきたのだが。

 予想外ににこやかで明らかにご機嫌な様子のアリシア王女に、ジルベルトは困惑していた。

「私、ミュリルとお友だちになったの。とても素敵な人ね、あなたの奥方になった方は。今後は、あなたの奥方のお友だちとしてよろしくね。ああ、それと今度結婚祝いをこれでもかってくらい届けるから、楽しみにしていてちょうだい!」

 は? 友だち? ミュリルと隣国の王女であるアリシア王女が?
 
 わけが分からず、固まれば。

「……それと」
「……!?」

 まだ何かあるのかと、ごくりと息をのむ。

「……もし、ミュリルを不幸にするようなことがあったら、私隣国からでもすぐに飛んできてあなたの息の根を止めて差し上げてよ?」
「……息の、根?」

 一国の王女から出たとは思えない物騒な言葉に、一体ミュリルとの間にどんなやりとりがあったのかと困惑するしかない。

 そして、わけがわからず呆然と口を開いたままの自分を残してアリシア王女は軽快に去っていった。

 


 そして慌てて馬車を降り、急ぎミュリルのもとへと向かう。
 慌てて屋敷の門をくぐり、庭へと足を踏み入れたその時視界に飛び込んできたもの、それは――。

 ぱかっぱかっ、ぱかっぱかっ、ぱかっぱかっ……。

 夕日に染まる屋敷の広い庭を、セリアンに乗ったミュリルが気持ちよさそうに駆けていた。

 蹄の軽やかなリズムと、髪をなびかせ笑顔を浮かべた姿。
 薄茶色の少しウエーブがかった長い髪がふわりふわりと風にたなびき、夕日を浴びて気持ちよさそうに走るその姿はまるで――。

「きれいだ……」

 口から、ぽろりと言葉がこぼれ落ちた。

 手の届きそうな距離にいるミュリルにみじんも恐怖心などなく、あるのはただ心が震えるような喜びと胸の高鳴りだけ。早鐘のように打つ音が、うるさいくらいで。

「……っ! ジルベルト……様?」

 ふいに馬上のミュリルと目が合った。

 逃げ出すか、それともパニックでも起こし馬上から落ちはしないかと一瞬身構える。
 けれど、ミュリルはただこちらをじっと驚いたように少し頬を上気させて見つめていた。

「あの……! お……おかえりなさいませ。ジルベルト様。えっと、その……随分お早いお帰りで……一体、どうされ……」
「…………」
「あの……ジルベルト様?」
「…………」

 困ったことに、目がミュリルから離れない。吸い寄せられるようにそのかわいらしい驚きに見開かれた目から、そらすことができない。 

 未知の感情に翻弄され、ジルベルトはただぼんやりと立ち尽くしミュリルを見つめていた。

 ぶるるるるるっ!!

 突然走るのを止めてしまったミュリルにしびれを切らしたセリアンが、いなないた。

「あ、いや。……ここにアリシア王女が来たと聞いて、それで……」
「あ、ええ。でも先ほどお帰りになられました。セリアンともすっかり仲良くなって、嬉しそうに帰っていかれましたので、もう求婚の件は問題ないかと……」

 ミュリルの顔に恐怖の色はない。
 戸惑ったように頬を上気させて、視線を戸惑わせているだけだ。

 馬上にいる分二人の間にそれなりの距離があるからかもしれないが、それでもその顔に恐怖が見えないことに心から安堵する。

「そういえばさっき、王女とすれ違った。友だちになったとか言っていたが、一体王女と何が……」
「は、はい。えーと、それはアリシア王女殿下の馬恐怖症を克服するお手伝いを……」
「馬恐怖症? 手伝い?」

 突然にでてきた馬恐怖症という言葉に、ぽかんとすれば。

 ミュリルもまたどう説明すればいいのかと思いあぐねている様子で、困惑顔を浮かべていた。

 話の流れはさっぱりわからないが、先ほどのアリシア王女の言葉とミュリルの様子から、自分のいない間にどうやらミュリルはまた自分のファンを作り出したようだと理解する。

 どう話せばいいかと困ったように馬上で首を傾げるミュリルがなんともかわいらしく見え、思わず苦笑する。

 やっぱりミュリルは不思議な女性だ。
 見た目はごく普通の少し大人しそうな可憐な少女といった風貌なのに、中身はおおらかで色々なものをやわらかく包み込むような包容力と優しさに満ちている。

 けれどその中に時折ちらと垣間見える、弱さと不安定さ。それはきっと、男性恐怖症が彼女にもたらした傷なのだろう。この先ももしかしたら一生抱えていかなければならないかもしれない、大きく深い傷――。

 それを、なんとかしてやりたい。
 ほんのわずかでも軽くして、穏やかな気持ちでいてほしい。
 せめてこの屋敷にいる間だけは。そして、できることならば自分と一緒にいる時も。

 ともに暮らすうちに、気づけばそんなことを願っていた。
 そう願いはじめたのは、一体なぜなのだろう。同じ苦しみを持つ者同士の共感と同情からなのだろうか。



 夕日を背負うミュリルの姿が、眩しい。 
 どうにも自分の顔にのぼる熱がいたたまれなくなって、口を開いた。

「あー……、じゃあ詳しい話を手紙で教えてもらってもいいだろうか。一応詳細をお、夫としても知っておきたいし、陛下にも報告しなければならないし」
「は、はい! もちろんです。では後ほどお手紙を……」

 本当はまだ話をしていたい。
 でも何をどう話していいのか分からない。

 けれど、やっと挨拶ができるようになったばかりの自分たちにはそうするすると言葉が出てくるわけもなく。

 ぎこちなく会話を交わし、これまた困惑と緊張がいまだ消えない笑みを浮かべ。


 
 そして、さあっと波が引くようにいつものように東と西へとそれぞれに退散する、ジルベルトとミュリルだった。



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