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3章 

月に願うふたつの影

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 その夜なんだか寝付けずに、ベッドからそっと抜け出しベランダへと出た私はほう、と息をつきました。

 ひんやりとした夜風が、頬をなでていきます。
 ふと見上げれば、濃紺の空にぽっかりと白い月が浮かんでいました。

「きれいな月……」

 なんだか胸が騒いで眠れません。
 それは、あの時のジルベルト様のことが脳裏を離れないせいです。

 あんなに男性と向き合って話すのが怖かったはずなのに、じっと直視されるだけで足がすくんでしまうほどだったのに。そしてそれはジルベルト様が相手でも、変わりがなかったはずなのに。

 どうしてか、ちっとも怖くなかったのです。
 それどころか、むしろ――。

「胸が……どうしてこんなにドキドキするのかしら……」

 いつもならばとうに夜が更けてから帰宅するはずのジルベルト様が、あんなに早い時間に帰宅したのは私を思ってのこと。
 
 アリシア王女がこの屋敷に突然訪問したと聞いた時の、ジルベルト様の驚きは想像できます。

 だって自分を熱烈に思っていたはずの女性が、結婚した妻のもとにいきなり押しかけるなんて普通は殴り込みと思うに決まっていますから。

 しかもなんといっても相手は、隣国の王女様。たとえ理不尽な言いがかりをつけられても、叩かれたとしたって文句を言える相手ではありません。だから心配して急ぎかけつけてくださったのに違いありません。

 まぁ実際は、アリシア様はとても素直でかわいらしい素敵な王女様だったのですが。

「良かったわ……。お力になれて。それに……」 

 何より、大切なことにようやく気づけたことが嬉しい。
 自分の中にそっと育っていた、今はまだ小さな若芽のようなあたたかな気持ちに。

「ジルベルト様は、もう眠っているかしら……」

 幼い日の私がセリアンに出会って一度は信じられなくなった人間を信じることができたように、ジルベルト様にとって私が何かを変えてあげられる存在になれたらいい。
 そう願います。

 私の力なんてほんの小さなものだけど。
 お飾りの妻でも、ジルベルト様の役に立ちたい。

 こんな心に弱い部分を抱えた普通とは違う私を受け入れて、ここにいてくれるだけでいいといってくれた人だから。
 同じ苦しみを理解し合える、大切な存在だから――。

「たとえこれが契約結婚でも、私にとっては大切な縁。大切にしたい……。ジルベルト様も、ジルベルト様の未来も。きっと私がこれから先も、あなたのお守りになります」

 宰相として生涯を賭したいというのならば、そのお役に立ちたいと願います。
 少しでも心穏やかに、平穏に過ごせるように力を尽くしたい。

 何もかもはできなくても、私にもできることはきっとあるはずです。

 

 月を見上げ、願います。

 ジルベルト様が朝までぐっすりいい夢を見れますように、と。

「おやすみなさい、ジルベルト様。どうかいい夢を……。いつかこの声が、あなたにちゃんと届けられますように」



 濃紺の夜空にぽっかりと浮かんだ月を見上げ、ぽつりとつぶやいた願いは静かに消えていくのでした。




 ◇◇◇◇



 その頃、西のジルベルトの部屋では。

 ジルベルトもまた、ひとり眠れずに夜空に浮かんだ月を見上げていた。


 高鳴ったままの胸の鼓動はいまだ静まらず、帰宅した時に見たミュリルの姿を思い浮かべては切ない吐息をもらす。
 その繰り返しだった。

「まさか私がこんな気持ちを女性に抱く日がくるとは……。人生とはなんて……」

 はじめはただの利害が一致しただけの、契約上の結婚だった。
 形ばかりの同居生活を不安に思いつつもそれ以上に、結婚してしまえばアリシア王女からの求婚を回避できるだけでなく、これでようやく屋敷も平穏になる。
 そう思っただけのことだった。
 
 もちろん好感を抱かなかったわけじゃない。
 人間としての好感、という意味においてだが。

 ぱっと見た印象ではとても華奢で小さくて儚げなのに、国王と王妃の前でもきっぱりと自分の意見を口にできる物怖じしないところが意外だった。

 その凛とした眼差しと媚を売らない感じは、自分の知っている着飾ることにばかり夢中な貴族の娘とも大きく違っていたし、自分の母姉とはまるで異質の真っ直ぐな強さを感じたのだ。
 それがとてもいいと思った。人間として。

 あ、あと動物好きなところもあたたかみがあって、実は気に入った。屋敷にいる時間がない自分が動物を屋敷に置くなどという発想はなかったが、あんなに広い敷地があるのだし、それもいいと思えた。

 それに何より、生きることをまったくあきらめもせず凛と前を向いて、恐怖症にもめげることなく人生に立ち向かう姿が美しいと思ったのだ。
 宰相としての人生をあきらめかけていた自分には、まぶしすぎるくらいに。

 だから、ふと手を伸ばしたくなった。
 隣にいてくれたなら、自分も強くなれるようなそんな気がして――。



「なんだ……。最初からか……。私は、初めて会った時に、もう触れたかったのか……」

 東と西とに分かれて暮らすのは、存外おもしろかった。
 今日は何をしているのだろうと想像してみるのもおもしろかったし、シュバルトから手渡される日々の手紙も、さりげなく今日起きた出来事が親しみのある言葉で書かれていて、楽しみだった。

 でもまさか、女性に触れたいなんて思う日がくるとは――。

 ジルベルトは、はぁーっ……と、長い息を吐き出した。

 胸が重い。
 ミュリルに話したいこと、伝えたいことが色々ありすぎて、胸にたまって重い。

「おやすみ……ミュリル。いつか君とたくさん色々な話ができたらいい……。できることなら、近くに寄り添って……」

 ジルベルトの小さなつぶやきもまた、静かな夜の闇にふわり、と溶けて消えていったのだった――。





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