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しおりを挟むバイト先の裏口を出た瞬間、夜の空気がひやりと肌に触れた。
終電までまだ時間はある。けれど、寄り道をする気力はなかった。
凪(なぎ)はリュックの紐を握り直し、ネオンの明かりが滲む通りを歩き出す。
今日も、特別なことは何もなかった。
ミスをして謝って、余計な一言を言わないように気をつけて、ただ静かに時間をやり過ごしただけだ。
――それなのに。
「おい」
背後からかけられた低い声に、心臓が跳ねる。
振り返ると、街灯の影に男が二人立っていた。
どちらも見覚えがある。見覚えがあるというだけで、胸の奥が冷たくなる。
「久しぶりだな。元気そうじゃねえか」
「……」
足が、すくんだ。
父親の名前を口にされる。
借金。返済。代わりに払え。
何度も聞いた言葉が、頭の中で繰り返される。
「今月も連絡つかねえんだよ。お前、知らねえのか?」
「……すみません」
それしか言えなかった。
知らないと言っても、信じてもらえない。
払えないと言えば、もっと面倒になる。
「ったく、使えねえなぁ」
そう言いながらむしゃくしゃした気持ちを拳乗せるように、その拳が振りかぶられた、そのときだった。
「君たち」
低く、落ち着いた声が割り込む。
男たちの視線が一斉にそちらへ向く。
スーツ姿の男が、数歩こちらに近づいてきた。
「ここで何をしている」
声は静かなのに、有無を言わせない圧があった。
「なんだあんた」
「彼は嫌がっているように見える。」
一瞬の沈黙。
男たちは舌打ちをし、こちらを睨みつける。
「……今日はいい。だが覚えとけよ」
捨て台詞を残して、影は夜に溶けた。
その場に残ったのは、静寂と、心臓の音だけ。
「……大丈夫かい」
男が、湊の方を見る。
「は、はい。助けてくれて、ありがとうございます」
反射的にそう答えた。
詳しく聞かれる前に、話を終わらせたかった。
「知り合いか?」
「……いえ」
嘘ではない。
でも、本当でもない。
男はそれ以上踏み込まず、ただじっと湊を見ていた。
細い肩、夜風に揺れる髪、どこか今にも消えてしまいそうな佇まい。
「一人で帰るのか」
「?、はい」
「1人では危ない。送ろう」
「すっすぐそこなので……大丈夫です」
そう言いながらも、断り切れるほどの強さはなかった。
結局、並んで歩くことになる。
名前を聞かれ、凪は名乗った。
男は鷹宮とだけ名乗った。
古いアパートに着いたとき、鷹宮は足を止めた。
外壁はひび割れ、階段は軋む。
決して快適とは言えない場所。
「……ここか」
「はい。今日は、本当にありがとうございました」
深く頭を下げる。
鷹宮は何か言いかけて、やめたようだった。
これ以上踏み込むのは失礼だと判断したのだろう。
「戸締りを忘れるな」
「はい」
背中を向けて歩き出すと、視線を感じた。
振り返ると、鷹宮はまだそこに立っていた。
心配そうに。
それが、なぜか胸に刺さった。
部屋のドアを閉めたあと、凪は壁にもたれかかる。
今日も無事に終わった。
それだけで十分なはずなのに。
――あの人の目が、離れなかった。
それが、少しだけ、怖くて。
少しだけ、温かかった。
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