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しおりを挟む今日は遅くなる予定で自分で運転してきた車に乗り込んだ後も、鷹宮はしばらくエンジンをかけずにいた。
古いアパート。
街灯の光が届ききらない場所に、ひっそりと建っている。
――送っただけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
そう言い聞かせても、先ほどの少年――凪の姿が、頭から離れなかった。
絡まれていたときの、あの表情。
恐怖よりも先に、諦めがあった。
助けられることに、慣れていない。
いや、それ以前に、期待していない目だった。
普段は他人のあれこれに興味なんて持たないのに。
「……厄介だな」
自分に向けて呟き、ようやく車を出す。
その夜は、会食だった。
仕事の延長のような、いつもの大人の付き合い。
グラスを傾けながらも、会話の端々で、ふと凪の顔が浮かぶ。
細い首。
「大丈夫です」と言う声の、かすかな震え。
気にする理由など、ないはずだった。
⸻
アパートの薄い壁越しに聞こえる生活音を背に、ベッドに腰を下ろしていた。
部屋は狭く、古い。
けれど、ここが唯一、安心できる場所だった。
「……はあ」
息を吐いて、スマホを手に取る。
未読のメッセージは、相変わらず父親からのものだけ。
返す言葉は、ない。
今日のことを思い出す。
借金取り。
そして、突然現れた、スーツの男。
――鷹宮さん。
名前を呼ばれたとき、どうして胸がざわついたのか。
助けてもらっただけだ。
それなのに、あの視線が、心に残っている。
「……だめだ」
独り言のように呟く。
期待してはいけない。甘えてはいけない。
親切は、受け取りすぎると、あとがつらい。
凪はそうやって、これまで生きてきた。
⸻
翌日。
昼休み、キャンパスのベンチで簡単なパンをかじっていると、スマホが震えた。
知らない番号。
一瞬、指が止まる。
胸の奥が、嫌な形で冷える。
――まさか。
けれど、出ないわけにもいかず、意を決して通話ボタンを押した。
「……はい」
『凪くんだね』
怒鳴り声が響くものだと思っていて、目をぎゅっとつぶっていると、落ち着いた男性の声が聞こえてきた。
それには聞き覚えが、あった。
『昨日の。鷹宮だ』
心臓が、はっきりと跳ねた。
「……どうして、番号を」
『昨夜、君の落とし物を拾った』
そう言われて、ポケットを探る。
学生証が、ない。
「……すみません」
『今、大学か? 近くまで来ている』
断るべきだ。
そう思うのに、喉が動かなかった。
『短時間でいい。返すだけだ』
「……わかりました。すみません。」
自分でも驚くほど、素直な返事だった。
十分後。
キャンパスの外れで、凪は鷹宮と再会した。
昼の光の下で見ると、昨夜よりもずっと大人に見える。
隙のない佇まい。
「これだ」
差し出された学生証を受け取る。
「あ、ありがとうございます。本当に……」
「昨日のこと」
鷹宮が、言葉を切る。
「こんな知らない大人に、無理に話してくれとは言わない。だが、同じことが起きる可能性がある」
凪は俯いた。
「……大丈夫です」
また、その言葉。
鷹宮は小さく息を吐いた。
「その言葉は、誰かのためのものだな」
凪は、何も言えなかった。
沈黙の中、鷹宮は一歩だけ距離を詰める。
「凪」
名前を呼ばれる。
「何かあったら、これに連絡してくれ。これは同情じゃない」
名刺が差し出された。
大手企業の社名と、代表取締役の肩書き。
凪は、目を見開く。
「……どうして、そこまで」
「理由が必要か?」
鷹宮の視線は、まっすぐだった。
凪は名刺を握りしめ、かすかに首を振る。
「……迷惑、かけたくないです」
「迷惑かどうかは、俺が決める」
その言葉は、強くて。
でも、不思議と、怖くなかった。
なんて返せばいいのか分からず、もらった名刺の文字を読むわけでもなく見つめる。
別れ際、鷹宮は言った。
「勝手なのは分かっているが…。今日は、それだけだ。」
背中を見送りながら、凪は胸に手を当てる。
優しくて、近づいてはいけない人だ。
わかっている。
それでも。
名刺の角が、掌に食い込む感覚が、
なぜか――離れなかった。
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