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しおりを挟む夜は、凪にとってまだ完全な味方ではなかった。
鷹宮のマンションの客室、清潔で静かなその部屋で、凪は布団に横になったまま目を閉じていた。呼吸を整えようとすればするほど、胸の奥に冷たい何かが残る。
――大丈夫。今は、ここにいる。
そう自分に言い聞かせる癖は、なかなか抜けなかった。
時計を見る。午前二時を少し過ぎている。
隣の部屋から物音はしない。鷹宮はもう眠っているのだろう。起こす理由はない。凪はそう判断して、身を丸めた。
それでも、眠れない。
あの夜の記憶は、不意に隙間から入り込んでくる。掴まれた腕の感触、浴室の冷たい床、必死に息を殺した時間。終わったはずの恐怖が、夜になると形を持つ。
――迷惑をかけたくない。
それだけは、今も強く思っていた。
小さく息を吐いた、そのとき。
「……起きてるか?」
控えめなノックの音と、低い声。
凪は一瞬、心臓を跳ねさせてから、慌てて上体を起こした。
「……はい」
扉の向こうに立っていた鷹宮は、部屋の明かりを見て少しだけ眉を下げた。
「眠れないか」
問いではなく、確認のような口調だった。
凪は首を横に振りかけて、やめた。代わりに、曖昧に笑う。
「……少しだけ」
その嘘を、鷹宮は責めなかった。
ただ、静かに息をつき、「無理はするな」と言って、扉の前に立ったまま動かない。
凪は迷った末、ぽつりと口を開いた。
「……すみません。起こしてしまって」
「起きてた」
短い返事のあと、少し間を置いてから鷹宮は続けた。
「最近、眠れてないだろ」
胸が、きゅっと縮む。
凪は視線を落としたまま、小さくうなずいた。
「……言うほどじゃないです」
「俺にとっては、言うほどだ」
その声は、強くも優しくもなりすぎない、不思議な温度だった。
鷹宮は一歩、部屋に入る。距離は保ったまま、それ以上近づかない。
凪はそれが、鷹宮なりの必死な抑制だと、なぜか分かってしまった。
「凪」
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
「頼るのは、迷惑じゃない。少なくとも俺は」
凪は唇を噛んだ。
その言葉が、どれほど欲しかったか。
同時に、どれほど怖いか。
「……でも」
声が、震える。
「甘えてしまったら、また……」
失うかもしれない。
そう言いかけた言葉は、喉の奥で止まった。
鷹宮は、少しだけ近づいた。
それでも触れない。触れないまま、低く言う。
「失わせるつもりはない」
断言だった。
凪は、顔を上げた。
その瞳に映る鷹宮は、いつもの社長でも、ただの保護者でもなかった。
ひとりの男として、感情を抑えながら立っている。
「……この冬が終わるまで」
鷹宮は、静かに続けた。
「それまでは、俺がそばにいる」
それ以上の言葉は、なかった。
けれど凪には、それで十分過ぎる言葉だった。
胸の奥に残っていた冷たさが、少しずつ溶けていく。
「……ありがとうございます」
そう言う声は、もう震えていなかった。
鷹宮は小さくうなずき、部屋を出る前に一度だけ振り返る。
「眠れなかったら、また言え」
扉が閉まる。
凪は布団に戻り、ゆっくりと目を閉じた。
――この冬を越えたら。
その先は、前と同じ日常が戻ってくるだろう。
それでいいと思えた。
夜明けは、もう遠くなかった。
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