燕ヶ原レジデンス205号室

風見雛菊

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夢見る権利とシャボン玉のマーチ2

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「……知ってたのか。盗み見でもしたか?」

 あーさんの顔は青ざめていた。

「見ちゃいけません、って言われたものを見るのは子供の特権でしょう?」
「それでも俺は、お前には見て欲しくなかったよ」

 あーさんはそのままダイニングテーブルに突っ伏すようにしてうなだれた。僕に箱の中身を見られたことがだいぶショックだったらしい。

 肌色の男たちが絡み合ってる図は、結構視覚的に衝撃が強いもんね。

「でも、あれも結構……。なんて言うか、文章の中の細やかな表現の中にあーさんらしさが散りばめられていて、ただエロいって言うか、艶っぽくてよかったけどなあ……」
「しかも読んだのかよ……」
「僕、あーさんが書くものだったらなんでも読みたいんだけど」
「……読むなよ」

 あーさんは苦虫を噛み締めるような表情だった。こっそり胃のあたりを押さえている。
 意外と繊細な一面があるあーさんにとって、自分の書いた官能小説を身内に読まれるという行為はひどく体力を削ることだったのかもしれない。

 僕は執筆中のあーさんの姿を脳裏に浮かべる。執筆中のあーさんは、音も聞こえなくなるくらい集中して、部屋に引きこもる。食事だってまともに取らない。

 不健康極まりないけれど、それがあーさんの執筆スタイルなのだから仕方がない。それは出血した幹部を手当てしないまま、戦場に向かっていく様に似ている。

 小説家って座っているだけだし、楽な職業だろう? と親しくない人に軽い口調で問われた時、あーさんはひどく乾いた笑みを浮かべて、相手を蔑むような薄暗い視線を向ける。

 あんたには、俺の苦しさがちっともわからないだろうな、そんな視線を。
 小説家は自ら痛みを選択しなければならない。

 僕にたいして、できるだけ健康に、生き抜いてほしいという願いを持っているあーさんにとって、小説家になりたいと願う僕の夢は逆行しているように感じるのだろう。

 だけど、僕にだって譲れないものがある。

「それでも……それでも、僕はなりたいよ。小説家に。血を流してでも、文章が上手くなりたいもん」

 頑固な口調で言うと、あーさんは深いため息をついた。

「……上手くなるには、とにかく書くしかない。これは果たして面白いのか? って自問自答しながら、自分の首を自分で締めながら。文字通り死ぬような苦しみを経て。そんな経験をお前にさせるなんてことがあったら、俺は仁和さんに顔が立たない」
「なんでそこで僕のお父さんの名前が出てくるの?」
「あいつはよく言ってたよ。小説家なんて最低の職業だって」
「はあ?」

 意味がわからなかった。なんで? 僕のお父さんはあーさんの担当編集者で、一緒に本を作っていたわけだよね。
 なのに、なんで、あーさんを貶めるような言葉を『よく』言っていたのだろう。
 ——お父さんって最低じゃない?

「お前が本気で小説家になりたいと願うのであれば、何にでもネタにして、書け。書いて書いて、ひたすら書いて……嫌いになればいい。小説も、俺のことも」

 あーさんは言い捨てるみたいに言った。
 僕はドキッとした。

「なんであーさんのこと?」

 多分、僕の声は震えていた。わからないふりをしていたかったのに、あーさんの言わんとしていることがわかってしまう。
 きっと僕の熱情はあーさんに伝わっていた。

「気がつかないと思ってたのかよ?」
「は……何を」

 その一言を言わないで。ずっとここにいさせて。

 そう願ったけど、だめだった。あーさんは見たことのないくらいひんやりとした目をして言い放った。

「お前さ、俺に依存してるだろ?」

 息が止まった。

 全部が伝わってしまっていたわけではないらしい。だけど、僕の心があーさんに囚われていることは伝わってしまったみたいだ。

 もし僕が恋愛対象としてあーさんを愛していることがバレたら、あーさんはどうする?

 僕を捨てる?

 きっとそんな感情が、表情に現れていたんだと思う。

「そんな目で見つめられても俺は無理だ」
「そんな目……?」
「俺が昔恋人に向けていたような熱のこもったやつだよ」

 またまたドキッとする。
 小説家という生き物は人間観察に長けた独自の器官でも持ち合わせているのだろうか。
 焦る。とにかく焦る。僕はあーさんから目を離せないまま、背中に汗を滴らせていた。

「まあ、何でもいいけど。俺が関与できるのは高校卒業までだ。とにかくとっとと巣立てよ。早く、この家から」

 その声は、養育者としての温かさが一切ない、ひどく冷たい温度をしていた。

 線を引かれた。

 僕は多分、勘違いしていたんだ。
 あーさんは家族だから、僕にどこまでも愛情を注いでくれるんじゃないかって。

 でも、僕たちは他人だ。
 所詮他人。

 気が付きたくないことに気づいてしまった僕は、固まったまま動けない。

 あーさんはそんな僕に何も言わずに、自室へと戻っていってしまった。
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