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一章 鬼に繞乱(じょうらん)されしは
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到着した御所の庭は滅茶苦茶になっていた。池の鯉は何匹も土に放り出され、美しく整えられた木々は無惨になぎ倒されている。建物を見れば千切れた御簾があちこちに散らばり、高価な調度品や女房たちの袿などが庭先にまで散らかっている有り様だ。
「唐多千の君様!」
「あぁ、鬼が、鬼が……!」
「鬼はどこに、……ッ」
鬼の居場所を尋ねる目の端に、見覚えのある着物の模様が視界の片隅に映った。振り向けば屋敷で母上を攫おうとしたあの鬼が立っている。
「ほう、あのときの公達ではないか。まだ精魂尽き果てていなかったか」
「あのときの……ッ」
じわりと脂汗が額に浮かぶ。咄嗟に鴉丸の柄を握ったものの、右手はそれ以上動こうとしなかった。
「無理せずともよい。おまえでは我の相手は無理というもの」
「……おのれ、鬼ごときが……」
「ふむ、声が出せるとはなかなかの胆力の持ち主だな。あぁ、そうか、あれの相手をするくらいだ、ただの人ではないということか」
あれという言葉に金花の顔が浮かんだ。やはりこの鬼は金花の正体に気づいている。俺が金花と交わっていることにも気がついているのだろう。鬼への畏怖から浮かんだ脂汗に、金花とのことを知られたという焦りの冷や汗が混じった。
いまここで金花が鬼であると大声で告げられれば大変な騒ぎになってしまう。鬼を屋敷にかくまっている俺はもちろんだが金花も捕らえられるだろう。下手をすれば都を騒がせている鬼の一人として処分されるかもしれない。
(そんなこと、させてなるものか)
金花は自ら進んで人を殺めることはなく、都に来てからもずっとおとなしくしている。それなのに、ただ鬼というだけで処分するなど許せるはずが……。
(……俺はいま、何を思った?)
いま「金花を処分するなど許せるはずがない」、そう思わなかったか……?
(金花は鬼だ。たとえ半分しか鬼でないとしても、人にとっては恐ろしい鬼だぞ)
それなのに金花を処分することが許せないと思った。いや、それだけじゃない。俺から金花を奪おうなどもってのほかだと、そう思ってしまった。
「これはおもしろい。表情から察するに、おまえ、あれに惚れているのではないか?」
「……ッ」
「いや、これは愉快。長く都にいるが、これほど愉快なことはこれまで経験したことがない」
「黙れッ」
「無理をするな。人が我の前で正直になってしまうのは当然のこと。恐怖を感じ命乞いするのも当然だ。どちらも恥じることはない」
「黙れ……ッ!」
目の前の鬼を退治しなくては、そう思った。御所を穢す鬼など滅して余りある。鴉丸を頂戴しているからには、俺の手でこの鬼を退治してみせる――いや、それだけじゃない。
金花の正体を知られたままにしておくわけにはいかない。周囲に鬼だと知られれば、金花は都にいられなくなる。俺の手元から消えてしまう……そう思うだけでゾッとし、頭がカッとなった。
(俺から金花を奪うなど……たとえ敵わぬ鬼が相手だとしても許すものか!)
右手で鴉丸の柄をしっかりと握り、両足の裏全体でぐぐぅと地面を踏みしめた。じりじりと左足を後ろに引きながら、重石を抱えるときのように下腹にぐぅっと力を込める。背中を冷たい汗が何本も流れ落ちるのがわかった。しかし、それを気にしている余裕などまったくない。
(どう考えても一太刀すら難しい相手だ。それでも……ここで退くことなど、ない!)
右足で土を思い切り蹴り、飛ぶように大きく一歩進んだ。勢いのまま鬼が立つ庭の中ほどへと駆け寄りながら、同時に鴉丸をわずかに鞘から抜く。そのまま鬼の懐に入る勢いで近づき、素早く刀身を抜きながら鬼に向かって弧を描いた。
「その気概、悪くはないぞ」
「ッ!?」
切っ先が触れる既のところで鬼がわずかに仰け反った。まさかの空振りに驚いていると、鬼がニィと笑んでいる。何かが起きる! そう感じ飛び退こうとした次の瞬間、腹にドスンと重い蹴りのような衝撃がぶつかった。人では体格がよく重いはずの俺の体は簡単に吹っ飛び、鯉のいなくなった池にざぶんと落ちる。幸い浅いところだったため溺れることはなかったが、腹に食らった衝撃のせいで一瞬息が止まったかと思った。
「全員、配置につけ!」
腹と尻の痛みにぐぅっと息を詰める俺の耳によく通る男の声が聞こえてきた。雰囲気からして猛々しい武士とは違う。ということは、きっと陰陽寮の者が到着したに違いない。
(架茂氏の誰かが指揮を執っているのか?)
陰陽頭が鬼の前に姿を現すのは考えにくい。それに帝を護り奉る役目がある。ということは息子の誰かが陣頭指揮を執っているのだろう。御所を守るのも陰陽寮の役目の一つではあるが、この鬼を相手に陰陽寮が何かできるとは思えない。むしろ怪我人が出ると思い退くように声を出そうとしたが、息を吸った途端に腹がずきりと痛み咳き込んでしまった。
「カラギ様っ!」
屋敷から到着した顔見知りの武士たちが、池で尻をついたままの俺を担ぎ出してくれた。それに礼を言えないほど咳き込みながらも、なんとか身振り手振りで鬼を囲むように伝える。
太刀を交えることは難しいとしても、何かしようとしている陰陽師たちを多少なりと守ることはできるはずだ。意図を察した武士たちが、陰陽師たちと鬼の間に立ち塞がる。
「カラギ様!」
残った数人の武士が俺を鬼から遠ざけようとした。
「大事、ない……っ、ゲホッゴホッ」
「しかし、」
「俺は大丈夫だ。それより、ゴホッ、他の奴らの警護を、ゲホッ、間違っても鬼に手は、出すなよ……!」
まだ何か言いたそうな数人を押し退け、再び鴉丸を握り締めた。あの蹴りを受けても刀を放り投げなかった自分を内心褒めながら、やはり一太刀も難しいのだと痛感する。
(あの勢いで切っ先すら当たらないとは)
加護を受けた刀や槍でも鬼に触れなければ意味がない。しかしあの身のこなしでは並の武士では太刀打ちできないだろう。となれば弓矢に期待したいところだが、致命傷を与えることはできないに違いない。
「おのれ、鬼め……」
四方八方を陰陽師たちに囲まれていてもなお、鬼はニヤニヤと笑みを浮かべている。何を仕掛けても無駄だという余裕に違いない。
このままでは打つ手無しか……。そう諦めかけたとき、首筋をゾワッと何かが這い上るような気配を感じた。それは鬼に対峙したときの感覚ではなく、もっと掴みどころのない、しかし、たしかに目の前にあるような不思議なものだった。
(陰陽寮は何を仕掛けるつもりだ?)
何かをつぶやきながら手を動かし続けている陰陽師たちには何の変化もない。しかし屋敷から来た武士たちも何かを感じ取ったのか、一様に鬼から距離を取り始めている。
やはり何かをしようとしている。それなら御所の武士たちも鬼から遠退くように声をかけねば……。そう考え口を開こうとしたときだった。
ドーーーーーーン!!!!
突然の爆音に体の奥がビリビリと震えた。地鳴りのような大きな音に耳だけでなく肌までもがビリビリと震えている。あまりの音と衝撃に思わず片目を瞑ってしまったが、開いたもう片方の目には雷に打たれる鬼の姿が映っていた。
しかし陰陽師たちの声はまだ途切れていない。つまり、まだ続くということだ。
(このままじゃ人のほうにも被害が出るぞ!)
鬼から距離を取っていた武士たちは片膝をつく程度で済んだようだが、近くにいた者たちは衝撃に吹き飛ばされ地面に転がっている。バリバリと空気を裂くような衝撃のなか、何が起きたのかわからず呆けている者もいた。
「はやく鬼から離れろ……!」
大声を出すと腹が痛むが、そうも言っていられない。また同じような雷が落ちれば、鬼の近くで転がっている者たちが危険に晒されてしまう。
(先に言わないからこうなるのだ!)
せめて事前に相談があればと思うのは毎度のことで、陰陽寮が武士に気遣うことなどこれまで一度もなかった。それに歯ぎしりしながら、痛む腹を押さえありったけの声で叫ぶ。
「はやく身を隠せ……!」
俺の声に反応したのは半分ほどで、残りはまだ腰を抜かしていた。このままでは人のほうが先にやられてしまう。そう思い陰陽師たちに視線を移したとき、「おもしろいものだな」という艶やかな声が聞こえてきた。
「……まさか、雷を受けたはずだ」
思わず漏れ出た俺の声はひどく掠れていて、吐息と一緒に霧散した。そんな俺を赤い目でちらりと見た鬼は、楽しいと言わんばかりに口を歪めている。
「人が雷を使えるようになっていたとは知らなかった。だが、所詮は人が作りだしたもの。小鬼が使うものと大差ない」
鬼の涼やかな言葉にざわりと空気が動いた。陰陽師たちにとっては思ってもみなかった展開だったようで、ひと際目立つ着物を着た陰陽師が何かを喚き散らしている。
(あの顔は……、架茂光榮殿か)
朝廷で見かける姿からは想像できないほど取り乱し、声を荒げているのが遠目で見てもよくわかった。しかし、その声は俺の耳どころか近くにいる誰にも届いていないらしく、動きを止めた陰陽師たちはただオロオロするばかりだ。
「人とはまこと、おもしろいものだな。だが、愛しむほどのものではない」
「……ッ」
鬼の声色が変わった。口調は変わらないが、どこかゾッとする響きを含んだ声に全身が総毛立つ。
(これはまずいかもしれない)
目の前の鬼は圧倒的すぎた。加護を受けた武具でも陰陽師の技でも、この鬼を退けることはできない。そう思った俺の頭に、なぜか金花の顔がすっと浮かんだ。
(……金花を一人残すわけにはいかない)
鬼だというのに、まるで人のようにそばに置いてくれと金花は言った。そのためなら鬼であることを捨てる覚悟すらしていると口にした。そう告げる眼差しは力強く、あれは覚悟を決めた者の目だ。
金花のそうした眼差しは以前から何度も見かけていた。もちろん俺はそのことに気づいていた。いや、気づいていたのに気づかないふりをしてきた。同じように俺を好いているという言葉も聞き流してきた。言葉を聞くたびに胸がざわつき、俺が俺ではなくなるような気がして真剣に聞こうとしなかった。
しかし、そんなことで己の心を欺くことなどできるはずがない。好いていると言われるたびに心地よく、白い手に触れられるたびに体が熱くなったのがその証拠だ。金花のそばにいるのは楽しい。なんだかんだ言い合えるのを心地いいと思っていた。それだけではない。触れたい、触れてほしい、寄り添いたい、肌を重ねたい、そう思っていた。
俺は金花を好いている。鬼だ男だと言い訳していたが、この気持ちに嘘偽りはない。
(金花を残してなどいけるものか)
あぁそうだ、俺は金花を好いている。いつからかなんて、もう覚えていない。命が危ういときだからこそ、こうして己の気持ちに素直になれたのかもしれない。
(気づいたからには、何がなんでも金花の元に帰る……!)
鴉丸を握りしめ、前髪から流れ落ちる水を左手でぐいっと拭った。水をたっぷりと含んだ着物は鬱陶しいが、いまは目の前の鬼をなんとか退けるのが先だ。
(何か手はないのか)
ほんのわずかでも鬼の気を逸らすことができれば一太刀与えられるかもしれない。そうすれば隙が生まれ一時でも退けることができるはずだ。そう思いながら鬼のほうへジリジリと近づいていく。
そんな俺に気づいた鬼は、陰陽師たちやほかの武士には目もくれず、ニィと笑いながら俺を見た。たったそれだけで俺の足はぴたりと止まってしまった。
(隙を狙うのは無理か)
いや、隙を狙っても先ほどのように避けられてしまうだろう。何か方法はないか、どうにかできないかと思いながら半ば諦めそうになっていたときだった。不意に空から真っ黒なものが落ちてきた。ふわりふわりと揺れながら落ちてくるそれは……烏の羽根だ。
鬼も気づいたようで、目の前に落ちてきた羽根を手にした。
(……なんだ?)
羽根を見た鬼の眉がわずかに歪んだように見えた。いや、気のせいではない。鬼が眉を寄せながらじっと羽根を見つめている。
「……これは……。しかし、あのお方は……」
かろうじて聞き取れた鬼の言葉はそれだけだった。驚いているような、しかしそれだけではない何かを含んだ鬼の声に、何事が起きるのかと鴉丸を握る右手にぐぅっと力を込める。
「……まぁいい。人が作った雷というおもしろいものを見ることもできたしな。いまは退くことにしよう」
(退く……、退けることができたということか?)
なおも黒い羽根を見ていた鬼は、羽根を捨てるとニィと笑った。そして、すぃと赤い目を俺に向ける。
「鬼に惑わされる人ならまだしも、人を愛でる鬼など愚かなものだ。あのお方と言い、どうしたことか」
「何を言っている」
「御所の女たちもいいがおまえも興味深い。また会おうぞ」
そう告げた鬼は、一つに結んだ長い黒髪をなびかせながら背を向けた。そうして以前と同じようにひらりと身を翻して塀を跳び越える。残されたのはいくつもの烏の羽根と腰を抜かしたままの武士たち、それに青ざめた陰陽師たちだ。全員が呆気にとられ、同時に安堵した。
(いったい何が起きたんだ?)
なぜ鬼が退いたのかわからない。突然の出来事に不気味さも感じる。それでも人死にがなかったことに安堵した俺は、無残な姿に変わり果てた御所の庭で「ふぅ」と息を吐いた。
「唐多千の君様!」
「あぁ、鬼が、鬼が……!」
「鬼はどこに、……ッ」
鬼の居場所を尋ねる目の端に、見覚えのある着物の模様が視界の片隅に映った。振り向けば屋敷で母上を攫おうとしたあの鬼が立っている。
「ほう、あのときの公達ではないか。まだ精魂尽き果てていなかったか」
「あのときの……ッ」
じわりと脂汗が額に浮かぶ。咄嗟に鴉丸の柄を握ったものの、右手はそれ以上動こうとしなかった。
「無理せずともよい。おまえでは我の相手は無理というもの」
「……おのれ、鬼ごときが……」
「ふむ、声が出せるとはなかなかの胆力の持ち主だな。あぁ、そうか、あれの相手をするくらいだ、ただの人ではないということか」
あれという言葉に金花の顔が浮かんだ。やはりこの鬼は金花の正体に気づいている。俺が金花と交わっていることにも気がついているのだろう。鬼への畏怖から浮かんだ脂汗に、金花とのことを知られたという焦りの冷や汗が混じった。
いまここで金花が鬼であると大声で告げられれば大変な騒ぎになってしまう。鬼を屋敷にかくまっている俺はもちろんだが金花も捕らえられるだろう。下手をすれば都を騒がせている鬼の一人として処分されるかもしれない。
(そんなこと、させてなるものか)
金花は自ら進んで人を殺めることはなく、都に来てからもずっとおとなしくしている。それなのに、ただ鬼というだけで処分するなど許せるはずが……。
(……俺はいま、何を思った?)
いま「金花を処分するなど許せるはずがない」、そう思わなかったか……?
(金花は鬼だ。たとえ半分しか鬼でないとしても、人にとっては恐ろしい鬼だぞ)
それなのに金花を処分することが許せないと思った。いや、それだけじゃない。俺から金花を奪おうなどもってのほかだと、そう思ってしまった。
「これはおもしろい。表情から察するに、おまえ、あれに惚れているのではないか?」
「……ッ」
「いや、これは愉快。長く都にいるが、これほど愉快なことはこれまで経験したことがない」
「黙れッ」
「無理をするな。人が我の前で正直になってしまうのは当然のこと。恐怖を感じ命乞いするのも当然だ。どちらも恥じることはない」
「黙れ……ッ!」
目の前の鬼を退治しなくては、そう思った。御所を穢す鬼など滅して余りある。鴉丸を頂戴しているからには、俺の手でこの鬼を退治してみせる――いや、それだけじゃない。
金花の正体を知られたままにしておくわけにはいかない。周囲に鬼だと知られれば、金花は都にいられなくなる。俺の手元から消えてしまう……そう思うだけでゾッとし、頭がカッとなった。
(俺から金花を奪うなど……たとえ敵わぬ鬼が相手だとしても許すものか!)
右手で鴉丸の柄をしっかりと握り、両足の裏全体でぐぐぅと地面を踏みしめた。じりじりと左足を後ろに引きながら、重石を抱えるときのように下腹にぐぅっと力を込める。背中を冷たい汗が何本も流れ落ちるのがわかった。しかし、それを気にしている余裕などまったくない。
(どう考えても一太刀すら難しい相手だ。それでも……ここで退くことなど、ない!)
右足で土を思い切り蹴り、飛ぶように大きく一歩進んだ。勢いのまま鬼が立つ庭の中ほどへと駆け寄りながら、同時に鴉丸をわずかに鞘から抜く。そのまま鬼の懐に入る勢いで近づき、素早く刀身を抜きながら鬼に向かって弧を描いた。
「その気概、悪くはないぞ」
「ッ!?」
切っ先が触れる既のところで鬼がわずかに仰け反った。まさかの空振りに驚いていると、鬼がニィと笑んでいる。何かが起きる! そう感じ飛び退こうとした次の瞬間、腹にドスンと重い蹴りのような衝撃がぶつかった。人では体格がよく重いはずの俺の体は簡単に吹っ飛び、鯉のいなくなった池にざぶんと落ちる。幸い浅いところだったため溺れることはなかったが、腹に食らった衝撃のせいで一瞬息が止まったかと思った。
「全員、配置につけ!」
腹と尻の痛みにぐぅっと息を詰める俺の耳によく通る男の声が聞こえてきた。雰囲気からして猛々しい武士とは違う。ということは、きっと陰陽寮の者が到着したに違いない。
(架茂氏の誰かが指揮を執っているのか?)
陰陽頭が鬼の前に姿を現すのは考えにくい。それに帝を護り奉る役目がある。ということは息子の誰かが陣頭指揮を執っているのだろう。御所を守るのも陰陽寮の役目の一つではあるが、この鬼を相手に陰陽寮が何かできるとは思えない。むしろ怪我人が出ると思い退くように声を出そうとしたが、息を吸った途端に腹がずきりと痛み咳き込んでしまった。
「カラギ様っ!」
屋敷から到着した顔見知りの武士たちが、池で尻をついたままの俺を担ぎ出してくれた。それに礼を言えないほど咳き込みながらも、なんとか身振り手振りで鬼を囲むように伝える。
太刀を交えることは難しいとしても、何かしようとしている陰陽師たちを多少なりと守ることはできるはずだ。意図を察した武士たちが、陰陽師たちと鬼の間に立ち塞がる。
「カラギ様!」
残った数人の武士が俺を鬼から遠ざけようとした。
「大事、ない……っ、ゲホッゴホッ」
「しかし、」
「俺は大丈夫だ。それより、ゴホッ、他の奴らの警護を、ゲホッ、間違っても鬼に手は、出すなよ……!」
まだ何か言いたそうな数人を押し退け、再び鴉丸を握り締めた。あの蹴りを受けても刀を放り投げなかった自分を内心褒めながら、やはり一太刀も難しいのだと痛感する。
(あの勢いで切っ先すら当たらないとは)
加護を受けた刀や槍でも鬼に触れなければ意味がない。しかしあの身のこなしでは並の武士では太刀打ちできないだろう。となれば弓矢に期待したいところだが、致命傷を与えることはできないに違いない。
「おのれ、鬼め……」
四方八方を陰陽師たちに囲まれていてもなお、鬼はニヤニヤと笑みを浮かべている。何を仕掛けても無駄だという余裕に違いない。
このままでは打つ手無しか……。そう諦めかけたとき、首筋をゾワッと何かが這い上るような気配を感じた。それは鬼に対峙したときの感覚ではなく、もっと掴みどころのない、しかし、たしかに目の前にあるような不思議なものだった。
(陰陽寮は何を仕掛けるつもりだ?)
何かをつぶやきながら手を動かし続けている陰陽師たちには何の変化もない。しかし屋敷から来た武士たちも何かを感じ取ったのか、一様に鬼から距離を取り始めている。
やはり何かをしようとしている。それなら御所の武士たちも鬼から遠退くように声をかけねば……。そう考え口を開こうとしたときだった。
ドーーーーーーン!!!!
突然の爆音に体の奥がビリビリと震えた。地鳴りのような大きな音に耳だけでなく肌までもがビリビリと震えている。あまりの音と衝撃に思わず片目を瞑ってしまったが、開いたもう片方の目には雷に打たれる鬼の姿が映っていた。
しかし陰陽師たちの声はまだ途切れていない。つまり、まだ続くということだ。
(このままじゃ人のほうにも被害が出るぞ!)
鬼から距離を取っていた武士たちは片膝をつく程度で済んだようだが、近くにいた者たちは衝撃に吹き飛ばされ地面に転がっている。バリバリと空気を裂くような衝撃のなか、何が起きたのかわからず呆けている者もいた。
「はやく鬼から離れろ……!」
大声を出すと腹が痛むが、そうも言っていられない。また同じような雷が落ちれば、鬼の近くで転がっている者たちが危険に晒されてしまう。
(先に言わないからこうなるのだ!)
せめて事前に相談があればと思うのは毎度のことで、陰陽寮が武士に気遣うことなどこれまで一度もなかった。それに歯ぎしりしながら、痛む腹を押さえありったけの声で叫ぶ。
「はやく身を隠せ……!」
俺の声に反応したのは半分ほどで、残りはまだ腰を抜かしていた。このままでは人のほうが先にやられてしまう。そう思い陰陽師たちに視線を移したとき、「おもしろいものだな」という艶やかな声が聞こえてきた。
「……まさか、雷を受けたはずだ」
思わず漏れ出た俺の声はひどく掠れていて、吐息と一緒に霧散した。そんな俺を赤い目でちらりと見た鬼は、楽しいと言わんばかりに口を歪めている。
「人が雷を使えるようになっていたとは知らなかった。だが、所詮は人が作りだしたもの。小鬼が使うものと大差ない」
鬼の涼やかな言葉にざわりと空気が動いた。陰陽師たちにとっては思ってもみなかった展開だったようで、ひと際目立つ着物を着た陰陽師が何かを喚き散らしている。
(あの顔は……、架茂光榮殿か)
朝廷で見かける姿からは想像できないほど取り乱し、声を荒げているのが遠目で見てもよくわかった。しかし、その声は俺の耳どころか近くにいる誰にも届いていないらしく、動きを止めた陰陽師たちはただオロオロするばかりだ。
「人とはまこと、おもしろいものだな。だが、愛しむほどのものではない」
「……ッ」
鬼の声色が変わった。口調は変わらないが、どこかゾッとする響きを含んだ声に全身が総毛立つ。
(これはまずいかもしれない)
目の前の鬼は圧倒的すぎた。加護を受けた武具でも陰陽師の技でも、この鬼を退けることはできない。そう思った俺の頭に、なぜか金花の顔がすっと浮かんだ。
(……金花を一人残すわけにはいかない)
鬼だというのに、まるで人のようにそばに置いてくれと金花は言った。そのためなら鬼であることを捨てる覚悟すらしていると口にした。そう告げる眼差しは力強く、あれは覚悟を決めた者の目だ。
金花のそうした眼差しは以前から何度も見かけていた。もちろん俺はそのことに気づいていた。いや、気づいていたのに気づかないふりをしてきた。同じように俺を好いているという言葉も聞き流してきた。言葉を聞くたびに胸がざわつき、俺が俺ではなくなるような気がして真剣に聞こうとしなかった。
しかし、そんなことで己の心を欺くことなどできるはずがない。好いていると言われるたびに心地よく、白い手に触れられるたびに体が熱くなったのがその証拠だ。金花のそばにいるのは楽しい。なんだかんだ言い合えるのを心地いいと思っていた。それだけではない。触れたい、触れてほしい、寄り添いたい、肌を重ねたい、そう思っていた。
俺は金花を好いている。鬼だ男だと言い訳していたが、この気持ちに嘘偽りはない。
(金花を残してなどいけるものか)
あぁそうだ、俺は金花を好いている。いつからかなんて、もう覚えていない。命が危ういときだからこそ、こうして己の気持ちに素直になれたのかもしれない。
(気づいたからには、何がなんでも金花の元に帰る……!)
鴉丸を握りしめ、前髪から流れ落ちる水を左手でぐいっと拭った。水をたっぷりと含んだ着物は鬱陶しいが、いまは目の前の鬼をなんとか退けるのが先だ。
(何か手はないのか)
ほんのわずかでも鬼の気を逸らすことができれば一太刀与えられるかもしれない。そうすれば隙が生まれ一時でも退けることができるはずだ。そう思いながら鬼のほうへジリジリと近づいていく。
そんな俺に気づいた鬼は、陰陽師たちやほかの武士には目もくれず、ニィと笑いながら俺を見た。たったそれだけで俺の足はぴたりと止まってしまった。
(隙を狙うのは無理か)
いや、隙を狙っても先ほどのように避けられてしまうだろう。何か方法はないか、どうにかできないかと思いながら半ば諦めそうになっていたときだった。不意に空から真っ黒なものが落ちてきた。ふわりふわりと揺れながら落ちてくるそれは……烏の羽根だ。
鬼も気づいたようで、目の前に落ちてきた羽根を手にした。
(……なんだ?)
羽根を見た鬼の眉がわずかに歪んだように見えた。いや、気のせいではない。鬼が眉を寄せながらじっと羽根を見つめている。
「……これは……。しかし、あのお方は……」
かろうじて聞き取れた鬼の言葉はそれだけだった。驚いているような、しかしそれだけではない何かを含んだ鬼の声に、何事が起きるのかと鴉丸を握る右手にぐぅっと力を込める。
「……まぁいい。人が作った雷というおもしろいものを見ることもできたしな。いまは退くことにしよう」
(退く……、退けることができたということか?)
なおも黒い羽根を見ていた鬼は、羽根を捨てるとニィと笑った。そして、すぃと赤い目を俺に向ける。
「鬼に惑わされる人ならまだしも、人を愛でる鬼など愚かなものだ。あのお方と言い、どうしたことか」
「何を言っている」
「御所の女たちもいいがおまえも興味深い。また会おうぞ」
そう告げた鬼は、一つに結んだ長い黒髪をなびかせながら背を向けた。そうして以前と同じようにひらりと身を翻して塀を跳び越える。残されたのはいくつもの烏の羽根と腰を抜かしたままの武士たち、それに青ざめた陰陽師たちだ。全員が呆気にとられ、同時に安堵した。
(いったい何が起きたんだ?)
なぜ鬼が退いたのかわからない。突然の出来事に不気味さも感じる。それでも人死にがなかったことに安堵した俺は、無残な姿に変わり果てた御所の庭で「ふぅ」と息を吐いた。
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