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二章 鬼の王に会いて
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東国へ向かうときには木々は青々とし、海は目映いばかりに輝いていた。それに日差しは強くあまりの暑さに何度辟易したことだろう。ところが西へ向かう今回は落ち葉もほとんど終わり陽が傾くのも随分と早くなっている。日中も日陰は肌寒く、師匠のところで冬の着物と交換しておいてよかったとつくづく思った。
あと二日ほどで都にもっとも近づくが、屋敷に寄るのはやめておこうと決めていた。母上にはまた泣かれそうだが、いま立ち寄ったところで俺によいことは何もない。
「まったく、俺にはもう妻がいるというのにどういうことだ」
これが立ち寄りたくない最大の理由だった。すでに金花という奥方を迎えた俺に、なぜか新たな婿入り先の話が出ているというのだ。
「おや、貴族とは何人もの奥方を持つのが普通なのでしょう? 兄上様方には余所の屋敷に何人もの奥方がいらっしゃると聞きましたよ?」
「そういうのが俺は嫌なんだ。奥方は一人いれば十分。それに俺を婿にしたところで関白家には何の影響も与えられないんだぞ? そんな俺を婿に迎えてどうするというのだ」
顔をしかめる俺に金花がふふっと笑みを浮かべる。
「関白家の後ろ盾を望む家もあるのでしょうけれど、なかにはカラギを好いて婿に、と望む姫君がいてもおかしくないと思いますよ」
「はぁ? 俺はこんな武士まがいのことをしている男だぞ? どんな家柄の出であったとしても、姫君にとってはみっともないばかりで婿になどしたくないはずだ」
いまでは蔵人所に勤める貴族子息もいなくはないが、姫君の婿として人気かと言われればそんなことはないだろう。形だけの蔵人ならまだしも、俺は太刀を振るい武士と寝起きを共にすることも厭わない男だ。東国武士たちと土着の貴族たちが婚姻関係を結ぶというならまだしも、雅な公達のいる都でわざわざ俺のような男を選ぶ理由はない。
「そうですかねぇ。だって、こんなに逞しい体に鴉丸を振るう腕を持ち、目元は涼やかで公達に劣らない風貌をしているじゃないですか。よい目を持つ姫君ならば婿にと考えると思いますけれど」
「そ……んなことは、ないと思うが」
「ふふっ、照れる顔もかわいいこと」
「金花!」
からかわれたのだとわかり、ぎろりと睨みつける。当然そんな俺の視線など金花が気にするはずもなく、すぃと身を寄せてきた。
「それに、こちらの逞しさにはどんな姫君も夢中になると思いますよ?」
「……っ! おまえという奴は……!」
不意に股座を撫でられ慌てて腰を引いた。それを許さないと言わんばかりに金花がますます身を寄せ、甘い声で囁き続ける。
「精を食らうわたしでさえも虜になるくらいですから、人にとっては法悦の極みでしょうねぇ」
「おいっ」
「それに何度果ててもすぐに逞しくなる。これほどの精の強さは鬼にもそういません」
「金花……!」
「おかげでわたしの中はいつでもあなたで満ちあふれています。渇く間もないほどに」
「……ッ!」
猥りがましい金花の声に体がカッと熱くなった。いたずらに股座を撫で回す手を掴み「やめろ!」と睨む。そうしたところで一度熱くなった体が落ち着くはずはなく、いますぐにでも金花を蹂躙したいのだと頭まで沸々とし始めた。それでもこんな山道では駄目だと、かろうじて残っている理性が獣のような情動を押さえつける。
「今朝方まで交わっていただろう……!」
「えぇ、とても濃厚でたまらなく心地よい時間でした。三度も果ててくれたおかげで、わたしの中はまだ十分に潤っています」
「……っ!」
「こうした山道での交わりも問題なくできるほどに」
止めと言わんばかりの甘い声と広がる伽羅の香りに、俺の理性は呆気ないほど簡単に切れてしまった。
東国を出てからというもの、いや都を旅立ってからというもの金花を求める衝動が増したように感じる。そばにいたい、触れていたい、一刻でも時間が過ぎるのが惜しい――焦りのような感情が沸々とわき上がった。
細い手首を掴み、ぐいぐいと木々の間を分け入った。ふと目に入った大きな木に金花を押しつけ背後から抱きしめるように腕を回す。しゅるりと紐を解くとすぐさま袴がすべり落ちた。相変わらず簡単に脱げるようになっていることに眉をひそめる。
(師匠のところで冬物を仕立てるときに言っていたことは、本当だったんだな)
金花いわく、簡単に脱ぎ着ができるように縫い方に工夫がされているらしい。「一人で脱ぎ着するのに手間は省きたいですから」と言っていたが、それだけではないような気がした。
(こういう着物なら誰彼と交わるときに都合がよかったに違いない)
かつての金花の話を思い出し、苛々としたものが胸の奥をちりりと焦がした。出会う前のことに苛ついてもどうしようもないというのに、どうしても気になってしまう。金花にとって精とは食事と同じようなものだと頭ではわかっているというのに、思い出しては顔をしかめた。
(それだけ俺は金花のことを好いているのだ)
目の前の白い肌にがぶりと噛みついた。
「カラ……ギ……ッ」
悲鳴を上げる金花を無視するようにさらに歯を突き立てる。内心はもっと優しくしたいと思っているのに、最近は肌を重ねるたびに凶暴な気持ちがわき上がった。押し留めようと努力はするものの、行為が進めば進むほど金花に噛みついてしまう。まるで自分のほうが鬼だと錯覚してしまうほどだ。
(俺は金花を、キツラを手放したくない……!)
もう二度と誰彼わからぬ男に触れさせたりしない。キツラは俺のものだ。この先ずっとそばにいたいし、いてほしいと思っている。そうだ、そのために俺は鬼の王のもとへと向かっているのだ――。
激情のままうなじに噛みついた。まるで食い千切らんとするほどの力に金花が体を震わせる。
「キツラ、キツラ」
気がつけば何度も名を呼んでいた。まるで縋るような、それでいて泣いているような俺の声にキツラの掠れた声が答える。
「わたしは……あなただけのものですよ」
俺の不安や苛立ち、暴走する気持ちに気づいているのだろう。俺をどこまでも受け入れてくれる金花の姿に俺はなんと情けないのかと目を閉じた。そうして美しい肌に残る噛み痕を何度も舌で慰めた。
夏の暑い日に師匠のもとへ到着した俺と金花は、そのまま三月と少しを東国で過ごした。東国武士たちは関白家という後ろ盾を気にすることなく誰もが気さくに接してくれた。おかげで日々の鍛錬も充実し、自分でも自覚できるほど太刀の腕が上がったように思う。
実際、師匠も「強くなったなァ」と褒めてくれた。それでも師匠には五回に一回しか勝てない。太刀を合わせるたびにまだまだ鍛錬が必要なのだと痛感させられた。
俺が鍛錬をしている間、金花はずっと俺を眺めていた。さすがに何日も見ているだけでは退屈だろうと声をかけてはみたものの、日々腕を上げる俺を見るのが楽しいのだと笑っている。それを見た師匠はニヤニヤと笑い、東国武士たちは「都人は変わっているなぁ」と呆れ半分で見ていた。
金花の姿に俺もはじめは顔を赤くしていた。まるで奥方のままじゃないかと思い、そこまで思ってくれる金花に照れくささを感じた。しかし金花の顔を見ているうちに段々と不安を覚えるようになった。
(まるでこれが最後というような眼差しに見える)
もちろんそんな話はしていない。だが俺にはそう感じられて仕方がなかった。金花は俺から離れようとしている。そう最初に感じたのは鬼の王に会いたいと告げてしばらく経ってからだった。
東国に着いて一月が過ぎた頃、俺は鬼の王に会いに行きたいのだと金花に話をした。
「会ってどうするのです?」
「俺はこの先もずっと金花と共にありたいと思っている」
「わたしはあなたの奥方ですから、あなたが望む限りそばにいますよ?」
「そうじゃない。そうではなくて……俺は鬼のおまえとずっと共にありたいと願っている」
「鬼かどうかなど些細なこと。わたしはあなたの奥方なのですから、」
「そういうことじゃない!」
思わず声を荒げてしまったことに自分でも驚いた。離れを借りているとはいえ、師匠や東国武士たちが大勢寝ている屋敷で夜更けに大声を出すのはよくない。ぐぅと口を閉じ、落ち着かねばと深く息を吐く。
「カラギ?」
「奥方とか、そういうことじゃないんだ。……おまえは鬼だ。鬼とは人よりもずっと長く生きるのだろう?」
「そうですね」
「俺はおまえと……鬼であるおまえと共にありたいと、そう思っている」
金花はただ黙って俺を見た。高灯台の灯りに照らされた金花の表情からは何を考えているか読み取ることはできない。そんな金花を見つめながら、ふぅと息を吐き言葉を続ける。
「俺は鬼の王に会い、鬼に転じる方法を訊ねたいと思っている」
虫たちの鳴き声がぴたりと止んだ。真夏の暑い夜だというのに、俺たちの周りだけが真冬の夜のように冷たい空気が漂っているような錯覚に陥る。
どのくらい時間が経っただろうか。長く、しかし瞬きするほどの無音の時間を破ったのは金花の声だった。
「カラギは鬼になりたいのですか?」
「……あぁ」
「鬼を嫌っているのに?」
「そ、れは……嫌うのは鬼たちが人を襲うからだ。人を攫い、そして食らう。理不尽に命を散らされる側としては嫌って当然だろう」
「それなのに鬼になりたいと?」
「それだけおまえのそばにいたいのだ。鬼は嫌いだがおまえは違う。鬼であってもおまえのことは心の底から好いている。最初は責任だなんだと言っていたが、その……ただおまえが愛しいと、そう思っているのだ」
本音ではあるが熱く語るにはどうにも恥ずかしく、金花から少しばかり視線を逸らす。
(いや、これが俺の真の気持ちなのだから恥じることはない)
そう思い直し再び金花へと視線を戻した。
金花は艶然とした笑みを浮かべながら俺を見ていた。それはとても美しく、薄暗い灯りのもとだからかより一層妖しく見える。その顔にどきりとしながらも俺は違和感を抱いた。じぃと見ているうちに、ふと前にも見たことがある表情だということに気がついた。
(あれはいつだったか……都に到着したばかりの頃だったか)
いや、一度ではなく何度か見た気がする。美しい微笑みながらどこか寂しげで消えてしまいそうな儚さを感じる。見ているうちに胸が詰まるような思いがこみ上げてきた。
「わたしがあなたのそばにいたいと何度も口にしたのがよくなかったのでしょうね。そのせいで、あなたはとんでもない決意を抱くようになってしまった」
「違う!」
まるで自分のせいだと言わんばかりの言葉に再び声を荒げてしまった。
「あぁ、まずは聞いてください」
すっと背を伸ばした金花に、俺も居住まいを正して顔を見る。
「わたしは精を食らって生きる妖魔、ただそれだけの存在でした。けれどあなたに出会ってしまった。はじめはなんと甘美な精があるのかと、よい獲物を見つけたと思っていたのです。精は強く濃く、さらに血も極上のもの。妖魔としても鬼としてもこれほどの獲物はほかに見たことがない。だからこそ逃すのはもったいないと手練手管であなたを虜にしようと思いました」
そうだ、そんな金花に惑わされ出会ったその日に肌を重ねた。あの日から俺の人生は大きく変わることになった。
「そう、あなたは都合がよい最高の獲物だった。そのはずだったのに段々と離れがたくなってしまった。ただそばにいたいと願い、そばにいられればそれだけでかまわないとさえ思うようになってしまった。……けれど、そうはいかないでしょう?」
「なぜだ? そばにいたいのなら、そばにいられるようにすればよいだけだろう」
「いいえ、駄目なのです」
やけにきっぱりした言葉に、なぜだと眉が寄る。
「わたしが想像していた以上に人は鬼を畏れ嫌っています。都の人々は鬼に怯えならが暮らしている。いいえ、ほかの人のことなどどうでもよいのです。けれど、あなたはそんな人々の中で暮らし、人々を鬼から守ってきた。そんなあなたを鬼にしてしまうなど、あなたを変えてしまうなど……」
「俺は何も変わらない」
「それは無理というもの」
「いいや、変わらない。鬼に転じるくらいで変わるはずもない」
「それでも変わるのですよ」
「そんなこと、転じてみなければわからないじゃないか」
「いいえ、確実に変わるのです」
強い口調に言葉が続かない。寂しげな笑みを浮かべた金花が、ゆっくりと口を開いた。
「鬼になるということは、すなわち人を食らわねばならなくなるということなのですよ」
「……!」
金花の言葉に衝撃が走った。
(……あぁ、俺はなんと浅はかなのだろうか)
ただ金花のそばにいたいと思い、鬼に転ずることを願った。鬼の王にまで会おうと考えた。その先は、ただ好いた金花のそばにずっといられるのだと浮かれたことしか考えなかった。俺は項垂れた。鬼に転じることの真の意味を知り短絡的な己に嫌気がさす。そんな俺の頭を愛しむように金花が抱きしめた。
「わたしは嬉しいのです。鬼を嫌うあなたが、わたしのために鬼になろうと思ってくれるなんて、これほど嬉しいことはありません」
「……しかし、俺は浅はかだ」
「それもすべては妖魔であるわたしのせい。ただただあなたのそばにいられる時を惜しみ急いてしまうわたしのせいです。ずっとあなたを忘れないように、いまのうちに体に深く刻んでおきたいと願う、わたしの醜い欲のせいなのです」
静かに話す金花の声が、すぅと胸に入り込む。
(そうか、昼夜問わず俺を誘っていたのはそういうことだったのか)
いつか訪れるであろう別れを考え、俺を忘れないようにしたいと思っていたとは……。それほどに金花は俺を好いてくれているのだとわかり目頭が熱くなる。
「好いた相手を残してしまうのも、残されてしまうのも、つらいな」
ぽろりとこぼれた言葉に俺の頭を抱く金花の腕に力が入る。あぁ、金花はこれほどまでに俺を思ってくれている。金花ほど俺を好いてくれるものはいないだろうし、金花以上に愛しいと思える存在に出会うことは二度とない。
(だとすれば、俺は……)
細くも力強い金花の手を撫で、抱きしめる腕から頭を起こす。美しい顔がはっきり見えるということは涙を流さずに済んだということだ。そのことに安堵した。ここで俺が泣いては金花に心配をかけてしまう。
「鬼の王の件は東国を発つまで保留にしたい。それまで、じっくり考えようと思う」
じっと俺を見た金花は、静かにこくりと頷いた。
あと二日ほどで都にもっとも近づくが、屋敷に寄るのはやめておこうと決めていた。母上にはまた泣かれそうだが、いま立ち寄ったところで俺によいことは何もない。
「まったく、俺にはもう妻がいるというのにどういうことだ」
これが立ち寄りたくない最大の理由だった。すでに金花という奥方を迎えた俺に、なぜか新たな婿入り先の話が出ているというのだ。
「おや、貴族とは何人もの奥方を持つのが普通なのでしょう? 兄上様方には余所の屋敷に何人もの奥方がいらっしゃると聞きましたよ?」
「そういうのが俺は嫌なんだ。奥方は一人いれば十分。それに俺を婿にしたところで関白家には何の影響も与えられないんだぞ? そんな俺を婿に迎えてどうするというのだ」
顔をしかめる俺に金花がふふっと笑みを浮かべる。
「関白家の後ろ盾を望む家もあるのでしょうけれど、なかにはカラギを好いて婿に、と望む姫君がいてもおかしくないと思いますよ」
「はぁ? 俺はこんな武士まがいのことをしている男だぞ? どんな家柄の出であったとしても、姫君にとってはみっともないばかりで婿になどしたくないはずだ」
いまでは蔵人所に勤める貴族子息もいなくはないが、姫君の婿として人気かと言われればそんなことはないだろう。形だけの蔵人ならまだしも、俺は太刀を振るい武士と寝起きを共にすることも厭わない男だ。東国武士たちと土着の貴族たちが婚姻関係を結ぶというならまだしも、雅な公達のいる都でわざわざ俺のような男を選ぶ理由はない。
「そうですかねぇ。だって、こんなに逞しい体に鴉丸を振るう腕を持ち、目元は涼やかで公達に劣らない風貌をしているじゃないですか。よい目を持つ姫君ならば婿にと考えると思いますけれど」
「そ……んなことは、ないと思うが」
「ふふっ、照れる顔もかわいいこと」
「金花!」
からかわれたのだとわかり、ぎろりと睨みつける。当然そんな俺の視線など金花が気にするはずもなく、すぃと身を寄せてきた。
「それに、こちらの逞しさにはどんな姫君も夢中になると思いますよ?」
「……っ! おまえという奴は……!」
不意に股座を撫でられ慌てて腰を引いた。それを許さないと言わんばかりに金花がますます身を寄せ、甘い声で囁き続ける。
「精を食らうわたしでさえも虜になるくらいですから、人にとっては法悦の極みでしょうねぇ」
「おいっ」
「それに何度果ててもすぐに逞しくなる。これほどの精の強さは鬼にもそういません」
「金花……!」
「おかげでわたしの中はいつでもあなたで満ちあふれています。渇く間もないほどに」
「……ッ!」
猥りがましい金花の声に体がカッと熱くなった。いたずらに股座を撫で回す手を掴み「やめろ!」と睨む。そうしたところで一度熱くなった体が落ち着くはずはなく、いますぐにでも金花を蹂躙したいのだと頭まで沸々とし始めた。それでもこんな山道では駄目だと、かろうじて残っている理性が獣のような情動を押さえつける。
「今朝方まで交わっていただろう……!」
「えぇ、とても濃厚でたまらなく心地よい時間でした。三度も果ててくれたおかげで、わたしの中はまだ十分に潤っています」
「……っ!」
「こうした山道での交わりも問題なくできるほどに」
止めと言わんばかりの甘い声と広がる伽羅の香りに、俺の理性は呆気ないほど簡単に切れてしまった。
東国を出てからというもの、いや都を旅立ってからというもの金花を求める衝動が増したように感じる。そばにいたい、触れていたい、一刻でも時間が過ぎるのが惜しい――焦りのような感情が沸々とわき上がった。
細い手首を掴み、ぐいぐいと木々の間を分け入った。ふと目に入った大きな木に金花を押しつけ背後から抱きしめるように腕を回す。しゅるりと紐を解くとすぐさま袴がすべり落ちた。相変わらず簡単に脱げるようになっていることに眉をひそめる。
(師匠のところで冬物を仕立てるときに言っていたことは、本当だったんだな)
金花いわく、簡単に脱ぎ着ができるように縫い方に工夫がされているらしい。「一人で脱ぎ着するのに手間は省きたいですから」と言っていたが、それだけではないような気がした。
(こういう着物なら誰彼と交わるときに都合がよかったに違いない)
かつての金花の話を思い出し、苛々としたものが胸の奥をちりりと焦がした。出会う前のことに苛ついてもどうしようもないというのに、どうしても気になってしまう。金花にとって精とは食事と同じようなものだと頭ではわかっているというのに、思い出しては顔をしかめた。
(それだけ俺は金花のことを好いているのだ)
目の前の白い肌にがぶりと噛みついた。
「カラ……ギ……ッ」
悲鳴を上げる金花を無視するようにさらに歯を突き立てる。内心はもっと優しくしたいと思っているのに、最近は肌を重ねるたびに凶暴な気持ちがわき上がった。押し留めようと努力はするものの、行為が進めば進むほど金花に噛みついてしまう。まるで自分のほうが鬼だと錯覚してしまうほどだ。
(俺は金花を、キツラを手放したくない……!)
もう二度と誰彼わからぬ男に触れさせたりしない。キツラは俺のものだ。この先ずっとそばにいたいし、いてほしいと思っている。そうだ、そのために俺は鬼の王のもとへと向かっているのだ――。
激情のままうなじに噛みついた。まるで食い千切らんとするほどの力に金花が体を震わせる。
「キツラ、キツラ」
気がつけば何度も名を呼んでいた。まるで縋るような、それでいて泣いているような俺の声にキツラの掠れた声が答える。
「わたしは……あなただけのものですよ」
俺の不安や苛立ち、暴走する気持ちに気づいているのだろう。俺をどこまでも受け入れてくれる金花の姿に俺はなんと情けないのかと目を閉じた。そうして美しい肌に残る噛み痕を何度も舌で慰めた。
夏の暑い日に師匠のもとへ到着した俺と金花は、そのまま三月と少しを東国で過ごした。東国武士たちは関白家という後ろ盾を気にすることなく誰もが気さくに接してくれた。おかげで日々の鍛錬も充実し、自分でも自覚できるほど太刀の腕が上がったように思う。
実際、師匠も「強くなったなァ」と褒めてくれた。それでも師匠には五回に一回しか勝てない。太刀を合わせるたびにまだまだ鍛錬が必要なのだと痛感させられた。
俺が鍛錬をしている間、金花はずっと俺を眺めていた。さすがに何日も見ているだけでは退屈だろうと声をかけてはみたものの、日々腕を上げる俺を見るのが楽しいのだと笑っている。それを見た師匠はニヤニヤと笑い、東国武士たちは「都人は変わっているなぁ」と呆れ半分で見ていた。
金花の姿に俺もはじめは顔を赤くしていた。まるで奥方のままじゃないかと思い、そこまで思ってくれる金花に照れくささを感じた。しかし金花の顔を見ているうちに段々と不安を覚えるようになった。
(まるでこれが最後というような眼差しに見える)
もちろんそんな話はしていない。だが俺にはそう感じられて仕方がなかった。金花は俺から離れようとしている。そう最初に感じたのは鬼の王に会いたいと告げてしばらく経ってからだった。
東国に着いて一月が過ぎた頃、俺は鬼の王に会いに行きたいのだと金花に話をした。
「会ってどうするのです?」
「俺はこの先もずっと金花と共にありたいと思っている」
「わたしはあなたの奥方ですから、あなたが望む限りそばにいますよ?」
「そうじゃない。そうではなくて……俺は鬼のおまえとずっと共にありたいと願っている」
「鬼かどうかなど些細なこと。わたしはあなたの奥方なのですから、」
「そういうことじゃない!」
思わず声を荒げてしまったことに自分でも驚いた。離れを借りているとはいえ、師匠や東国武士たちが大勢寝ている屋敷で夜更けに大声を出すのはよくない。ぐぅと口を閉じ、落ち着かねばと深く息を吐く。
「カラギ?」
「奥方とか、そういうことじゃないんだ。……おまえは鬼だ。鬼とは人よりもずっと長く生きるのだろう?」
「そうですね」
「俺はおまえと……鬼であるおまえと共にありたいと、そう思っている」
金花はただ黙って俺を見た。高灯台の灯りに照らされた金花の表情からは何を考えているか読み取ることはできない。そんな金花を見つめながら、ふぅと息を吐き言葉を続ける。
「俺は鬼の王に会い、鬼に転じる方法を訊ねたいと思っている」
虫たちの鳴き声がぴたりと止んだ。真夏の暑い夜だというのに、俺たちの周りだけが真冬の夜のように冷たい空気が漂っているような錯覚に陥る。
どのくらい時間が経っただろうか。長く、しかし瞬きするほどの無音の時間を破ったのは金花の声だった。
「カラギは鬼になりたいのですか?」
「……あぁ」
「鬼を嫌っているのに?」
「そ、れは……嫌うのは鬼たちが人を襲うからだ。人を攫い、そして食らう。理不尽に命を散らされる側としては嫌って当然だろう」
「それなのに鬼になりたいと?」
「それだけおまえのそばにいたいのだ。鬼は嫌いだがおまえは違う。鬼であってもおまえのことは心の底から好いている。最初は責任だなんだと言っていたが、その……ただおまえが愛しいと、そう思っているのだ」
本音ではあるが熱く語るにはどうにも恥ずかしく、金花から少しばかり視線を逸らす。
(いや、これが俺の真の気持ちなのだから恥じることはない)
そう思い直し再び金花へと視線を戻した。
金花は艶然とした笑みを浮かべながら俺を見ていた。それはとても美しく、薄暗い灯りのもとだからかより一層妖しく見える。その顔にどきりとしながらも俺は違和感を抱いた。じぃと見ているうちに、ふと前にも見たことがある表情だということに気がついた。
(あれはいつだったか……都に到着したばかりの頃だったか)
いや、一度ではなく何度か見た気がする。美しい微笑みながらどこか寂しげで消えてしまいそうな儚さを感じる。見ているうちに胸が詰まるような思いがこみ上げてきた。
「わたしがあなたのそばにいたいと何度も口にしたのがよくなかったのでしょうね。そのせいで、あなたはとんでもない決意を抱くようになってしまった」
「違う!」
まるで自分のせいだと言わんばかりの言葉に再び声を荒げてしまった。
「あぁ、まずは聞いてください」
すっと背を伸ばした金花に、俺も居住まいを正して顔を見る。
「わたしは精を食らって生きる妖魔、ただそれだけの存在でした。けれどあなたに出会ってしまった。はじめはなんと甘美な精があるのかと、よい獲物を見つけたと思っていたのです。精は強く濃く、さらに血も極上のもの。妖魔としても鬼としてもこれほどの獲物はほかに見たことがない。だからこそ逃すのはもったいないと手練手管であなたを虜にしようと思いました」
そうだ、そんな金花に惑わされ出会ったその日に肌を重ねた。あの日から俺の人生は大きく変わることになった。
「そう、あなたは都合がよい最高の獲物だった。そのはずだったのに段々と離れがたくなってしまった。ただそばにいたいと願い、そばにいられればそれだけでかまわないとさえ思うようになってしまった。……けれど、そうはいかないでしょう?」
「なぜだ? そばにいたいのなら、そばにいられるようにすればよいだけだろう」
「いいえ、駄目なのです」
やけにきっぱりした言葉に、なぜだと眉が寄る。
「わたしが想像していた以上に人は鬼を畏れ嫌っています。都の人々は鬼に怯えならが暮らしている。いいえ、ほかの人のことなどどうでもよいのです。けれど、あなたはそんな人々の中で暮らし、人々を鬼から守ってきた。そんなあなたを鬼にしてしまうなど、あなたを変えてしまうなど……」
「俺は何も変わらない」
「それは無理というもの」
「いいや、変わらない。鬼に転じるくらいで変わるはずもない」
「それでも変わるのですよ」
「そんなこと、転じてみなければわからないじゃないか」
「いいえ、確実に変わるのです」
強い口調に言葉が続かない。寂しげな笑みを浮かべた金花が、ゆっくりと口を開いた。
「鬼になるということは、すなわち人を食らわねばならなくなるということなのですよ」
「……!」
金花の言葉に衝撃が走った。
(……あぁ、俺はなんと浅はかなのだろうか)
ただ金花のそばにいたいと思い、鬼に転ずることを願った。鬼の王にまで会おうと考えた。その先は、ただ好いた金花のそばにずっといられるのだと浮かれたことしか考えなかった。俺は項垂れた。鬼に転じることの真の意味を知り短絡的な己に嫌気がさす。そんな俺の頭を愛しむように金花が抱きしめた。
「わたしは嬉しいのです。鬼を嫌うあなたが、わたしのために鬼になろうと思ってくれるなんて、これほど嬉しいことはありません」
「……しかし、俺は浅はかだ」
「それもすべては妖魔であるわたしのせい。ただただあなたのそばにいられる時を惜しみ急いてしまうわたしのせいです。ずっとあなたを忘れないように、いまのうちに体に深く刻んでおきたいと願う、わたしの醜い欲のせいなのです」
静かに話す金花の声が、すぅと胸に入り込む。
(そうか、昼夜問わず俺を誘っていたのはそういうことだったのか)
いつか訪れるであろう別れを考え、俺を忘れないようにしたいと思っていたとは……。それほどに金花は俺を好いてくれているのだとわかり目頭が熱くなる。
「好いた相手を残してしまうのも、残されてしまうのも、つらいな」
ぽろりとこぼれた言葉に俺の頭を抱く金花の腕に力が入る。あぁ、金花はこれほどまでに俺を思ってくれている。金花ほど俺を好いてくれるものはいないだろうし、金花以上に愛しいと思える存在に出会うことは二度とない。
(だとすれば、俺は……)
細くも力強い金花の手を撫で、抱きしめる腕から頭を起こす。美しい顔がはっきり見えるということは涙を流さずに済んだということだ。そのことに安堵した。ここで俺が泣いては金花に心配をかけてしまう。
「鬼の王の件は東国を発つまで保留にしたい。それまで、じっくり考えようと思う」
じっと俺を見た金花は、静かにこくりと頷いた。
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