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二章 鬼の王に会いて
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「突っ立ってないで座ったらどうだ?」
鬼の王の声は力強く、是とも否とも答えられないほどの威圧感があった。俺は何も答えられないまま、ただ廊下に腰を下ろすことしかできなかった。後ろをついて来ていた金花も同じように廊下に座る。面を付けた男はそのまま部屋の前を通り過ぎ、どこかへ消えてしまった。
「席をはずしましょうか?」
鬼の隣に座る男が静かにそう告げた。声は若く涼やかに聞こえる。「やはりこの方が……」と思いながらちろっと視線を向けた。
「かまわん。それに其処の男はおまえにも会いたがっているだろうからな。今回は特別だ」
「わたしに……?」
男の目が俺を見た。思わずじっと見返してしまったが、さすがに無礼だと気づき慌てて頭を下げる。
男は少年と呼んでもよさそうな小柄な体つきで高貴な雰囲気をまとっている。だからといって鬼のようには見えず、どこからどう見てもただの人だ。しかし鬼の王の傍らにいるということは、この男こそが敦皇親王なのだろう。
「……その顔立ちは、もしや」
「どの程度の繋がりかは知らんが、おまえの血縁者だろう? 匂いが少しばかり似ている」
「ということは、成皇様か良皇様の子孫でしょうか?」
やはりこの方が敦皇様で間違いない。問いかけに答えねばと思ったが、開きかけた口を一旦閉じた。はたして答えてもよいのだろうか。勝手なことをして鬼の王の不興を買ってしまっては、ここまで来た意味がなくなってしまう。迷う俺の頭上に鋭い声が響いた。
「さっさと答えろ」
びりりと空気を震わせる声にグッと唇を噛み締めた。
「もう、そう急かすものではないでしょう? あなたはせっかちすぎるのです」
敦皇様のたしなめる声にギョッとした。思わず顔を上げると鬼の王の腕をぺしっと叩いている。いくら大事にされているとは言え相手は鬼、しかも鬼の王なのだ。そのようなことをして鬼の王の機嫌を損ねないだろうか。心配しながら見ている俺の前で「あぁあぁ、わかっている」と鬼の王が笑った。
御所で対峙したときとはあまりに違う様子に、俺は呆気にとられてしまった。これは本当にあのときと同じ鬼の王なのだろうか。顔はたしかに同じに見えるが別人ではないだろうか、そんな考えが頭をよぎる。
「おい、此れが優しいからと言っていつまでも黙りか? おまえにとっては仕えるべき主人の一族だろうが。さっさと答えろ」
再びの鬼の王の声にハッとし、慌てて頭を下げた。敦皇様と思われる男は、鬼の王を恐れることなく「朱天」と再びたしなめている。
聞いていたとおり鬼の王が奥方として敦皇様を扱っているのなら、俺にとっては僥倖かもしれない。しかしまずはこの男が本当に敦皇様なのか確かめなくてはいけない。
「ご無礼しました。我が祖先は良皇親王にて、のちに後壱帝となられました」
「良皇様のほうでしたか。涼やかな目元は成皇様にも似ていらっしゃると思いましたが、お二人は顔立ちのよく似たご兄弟でしたからなるほど納得しました」
敦皇様はふむふむと口元を指でなぞりながら頷いている。それを見る鬼の王の目は驚くほど優しく、本当に奥方として傍らに置いているのだろうことがわかった。
「わたしは現関白の末の弟になります。我が関白家は、北家右大臣の血を継いでいます」
「そうですか」
「……恨んではいらっしゃらないのですか?」
「もし恨んでいたとしても、はるか昔のこと。それに当時からわたしは右大臣を恨んでなどいませんでした」
「しかし右大臣は、その……あなたを帝にさせまいと都から追いやった人物、と聞いています」
当時、右大臣だった関白家の先祖が帝に娘を嫁がせ、自分の血を引く親王を帝に就けようと画策したということは朝廷や御所の誰もが知っている。いまの関白家が力を持つのも敦皇様を排除し、二代続けて右大臣の血を引く帝が誕生したからだ。
(本当に恨んでいらっしゃらないのだろうか)
二歳で左大臣家の姫だった生母を亡くし、元服間近の十二歳で後ろ盾の左大臣であった伯父を失った敦皇様は、都を追われたせいで守りが手薄となり鬼に攫われた。つまり、敦皇様からすべてを奪い鬼の元へと追いやったのは右大臣ということになる。それならば右大臣の血を引く関白家を恨んでいてもおかしくないはずだ。
「当時のことがどのように伝えられているかわかりませんが、養母の彰后様にはとてもよくしていただいたのです。それに、お父上である右大臣も笛を教えてくださったり、幼い頃はかわいがっていただいたものです。……たしかに都を離れ寂しいと思ったことはありますが、恨むことなどありません」
「……そうであればよいのですが」
「それに、都の外れに住んでいたからこそ朱天と出会い、こうして共にあることができるのです。そういう意味では感謝しているくらいです」
言葉の端々から、この方は間違いなく敦皇様だと悟った。
のちに皇太后となられた彰后様は、最後まで敦皇様のことを気にかけ、小さな仏像を手元に置き祈られていた。その仏像にひっそりと“敦”の文字が彫られていたことは、それを見た祖父と、祖父から聞いた俺や兄上たちしか知らない。後壱帝は笛の名手であったが、真の名手は亡き兄だっただろうとおっしゃっていたという話も祖父から聞いたことがある。
(やはり敦皇様は鬼になったのか)
当時のことをよく知り、なおかつ少年とも呼べる雰囲気をわずかに残す姿は、十八歳で鬼に攫われた話と合致する。その姿のまま生きているということは鬼になったに違いない。
「俺はおまえが御所にいたとしても攫っているがな」
「もうっ! それでは都の皆が驚き怯えてしまうじゃないですか」
それに鬼の王にこのようなことが言えるのは、やはり鬼の王の奥方しかいないだろう。
(どうやら敦皇様は右大臣の血筋を恨んでいらっしゃらない様子。それなら俺にとってはやはり僥倖ということだ)
鬼の王が駄目だったとしても、敦皇様を介して頼めば願いが叶うかもしれない。それに敦皇様を見る限り、鬼になれば老いることなく鬼と等しく生きられることもわかった。やはりなんとしても願いを叶えてもらわねばならない。鬼に転じたいという思いがますます強くなる。
「で、俺に聞きたいことがあるんだろう? さっさと言え」
「朱天、」
いさめるような敦皇様の言葉に勇気をもらい、鬼の王をしっかり見ながら口を開いた。
「俺は鬼になりたい。鬼の王、俺を鬼にしてはくれまいか」
俺の言葉にあたりは一瞬しんと静まり返った。それを破ったのは鬼の王の大きな笑い声だった。
「ふはははは! おまえ、本気か? 退魔の太刀を持つおまえが、鬼になりたいだと? いやはや、おもしろそうな奴だとは思ったが、ここまでとは、ははははは! なんともおかしく、腹がよじれそうだ!」
人が大声で笑うのと変わらない様子だというのに、鬼の王が笑うたびに部屋のあちこちがびりりと震え、庭の木々でさえもゆらゆらと揺れていた。睨みつけられ脅されているわけでもないのに、笑い声を聞くだけで背中を冷や汗が流れ落ちる。鬼の王とはなんと恐ろしいものなのかといまさらながらに痛感した。
「朱天、少し静かに」
敦皇様の声に、ぴたりと鬼の王の笑い声が止まった。先ほどまで少年のようだった敦皇様の顔からは笑みが消え、どこか冷たい雰囲気を漂わせている。
「あなたは鬼になりたいのですか?」
「はい。そう願ってここまで来ました」
「鬼になるとはどういうことかわかって……あぁ、それでわたしに会いたいだろうと……。わたしが何者か知っているのに驚かないのは、そのせいでしたか」
敦皇様が唇に指を添えたまま考え込んでいる。隣に座る鬼の王は黙ってはいるものの、おもしろいと言わんばかりにニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「わたしが鬼に転じたことを知ってもなお、鬼になりたいと願うのですね」
「はい」
「鬼に転ずるのは、そう簡単なことではありませんよ?」
「知っています。その……女は、鬼の精を受けると稀に鬼に転ずると聞きました。しかし男が鬼になるには……、大鬼を食らうしか方法がないのだと」
「そのとおりです。わたしも棘希の血肉を食らい、鬼になりました」
「……俺が知る限り、そんな大鬼はほかにいません。であればほかの方法がないかと、鬼の王であれば何か方法を知っているのではと思いここまで来たのです」
俺は鬼になることを決意したが、棘希と同じくらいの大鬼は都の周辺にもいない。というよりも、そんな大鬼の話など聞いたことすらなかった。そうなれば別の方法を考えるしかなく、鬼の王であれば知っているのではないかと考えた。
「鬼は生きるために人を食らうのだということは聞いていますか?」
「……知っています」
「それでも鬼になりたいとは……」
敦皇様の声が、やや呆れたような雰囲気に変わった。
(それはそうだろうな)
俺が鬼に転じるには、まず大鬼と呼ばれるほどの鬼を食わなくてはならない。それだけでも嫌悪すべき行為だというのに、鬼になれば今度は生きるために人を食わねばならなくなる。わかっていて鬼になりたいなど正気の沙汰とは思えないだろう。
それでも俺は鬼になると決めた。正気のすべてを捨て去っても鬼になりたい、金花のそばにいたいと思ったのだ。
「もしや、キツラのそばにいたいがためですか?」
敦皇様の言葉に、後ろで黙っていた金花の気配が揺らいだのがわかった。そういえば、屋敷に入ってから金花はずっと黙ったままだ。気配も消しているようで、いままで金花が後ろにいることすらすっかり忘れていた。その金花にも聞かせるように、思いの丈を込めて言葉を口にする。
「俺はこの先もずっと金花の、……キツラのそばにいたいと思っています。そのためなら鬼になることも厭わない。たとえ鬼を食らい、人を食らうことになっても、それでも俺はキツラのそばにいたいのです」
鬼の王がどう思うかはわからない。しかし、少なくとも人であった敦皇様には俺の言葉が届くのではと一縷の望みをかけた。
「……己のことを置いて、それは駄目だとは言いにくいものですね」
「敦皇様、」
「わたし自身も相手が恐ろしい鬼だと、人を食らう鬼だと知ってもなお離れがたかった。ただ愛しいと思った相手が鬼だった、それだけのこと」
静かに語るその声は、少年の声色でありながら老成し悟りを開いた聖のようにも聞こえる。それが敦皇様の思いを表しているようで、二人のことを何も知らない俺でも胸が詰まる気持ちになった。
「おまえのせいじゃない。俺がおまえを手放せなかっただけだ」
「いいえ、朱天のせいではありません。最後にすべてを決めたのはわたし自身。鬼となることを望んだのもわたし。そうしてまでも、ただ朱天のそばにいたいと思ったのです。……あなたもそうなのですね?」
敦皇様の言葉に力強く頷いた。俺はただ金花のそばにいたかった。好いた相手とより長く、叶うことなら死ぬ間際まで共にありたい。しかし鬼である金花の命は長く、このままでは一瞬で離れてしまうことになる。それは俺にとって堪え難いことだった。
愚かだと言われようとも、神仏の罰がくだろうとも、俺はただ金花のそばにありたかった。そばにあり続けるためなら鬼にもなる。この決意は今後も決して揺らぐことはない。
「……やはり駄目です」
「金花?」
ずぃと膝を踏み出したのは、これまでじっと黙っていた金花だ。
「人が鬼に転じるなど、本来あってはならないこと。それにカラギは都を守るため長く鬼を退治してきました。鬼を憎み、鬼を屠ってきたカラギが鬼になるなど、そんなこと……」
わずかに俯いた金花の声はどこか頼りなく細い。まさか泣いているのかと心配したが、クッと上げた顔に涙はなく凛とした表情を浮かべている。
「わたしはカラギが鬼になることなど望んでいない。わたしのために鬼になるなど……きっと後悔するに違いないのだから」
「金花、俺は」
「あなたは後悔します。体は鬼に転じることができても、心は人のまま。いかに胆力に優れたあなたでも鬼になったことに耐えられるとは限りません」
「いいや、耐えられる。耐えてみせる。それほどの決意なのだ!」
「いいえ、いいえ、鬼になるなど決して許されないことなのです」
「金花!」
一歩も譲らない金花の言葉に、俺はなぜわからないのだと美しい顔をひたすら睨みつけた。俺を見ようとしない金花の美しい横顔を睨み、俺の思いはそう簡単に諦められるものではないのだと眼差しに力を込める。
「鬼王の前で鬼と人が痴話喧嘩とは、本当におもしろい奴らだ」
鬼の王の言葉にハッと我に返った。相変わらず鬼の王はニヤニヤと笑い、敦皇様は「静かにと言ったでしょう」と鬼の王の口に立てた人差し指を当てている。
「いつまでもおまえらの痴話喧嘩など聞いてられん。俺は早く此奴と二人きりになりたいんだ」
「朱天」
「まぁ待て、俺に任せておけ。さて、其方のは鬼になりたい。でもって理由は至極簡単、半鬼に惚れたからだ。そうだな?」
俺は頷いたが、金花はすっと鬼の王から視線を外した。
「まぁその気持ちはわからんではない。半鬼とはいえ半分は俺と同じ血が流れている鬼だ。見目はよく人にはたまらんだろうからなぁ」
鬼の王は何の話を始めたのだろうか。からかうような言葉に思わず眉が寄る。
「それに、其れは妖魔の血を濃く引いている。誰彼構わず誘い股を開くのもそのせいだ。これまで大勢が惑わされ吸い尽くされたように、おまえが死んだ後も大勢と交わり続けるだろう」
鬼の王の言葉にカッとなった。いや、それが金花の生きる術であり、そこに心が伴わないことはわかっている。俺がいなくなれば俺以外の男の精を食らわねばならなくなることもわかっている。
しかし、それは大勢の男たちが金花の美しい肌に触れ、濡れた声を聞き、熱い中に逸物を突き入れるということだ。そう考えるだけで腹の奥がぐつぐつと煮えたぎる思いがした。そんなこと……そんなこと、許せるはずもない!
「おまえが死ねば、すべて元のとおりというわけだ。これまでどおり其れは大勢の男たちと交わり続ける」
「朱天、言い方が……」
「朱天!」
敦皇様の声に被さるように金花の鋭い声が響いた。聞いたことのない声に驚いた俺は、思わず金花の横顔を凝視していた。それは敦皇様も同じだったようで、ぽかんとした顔で金花を見ている。ところが鬼の王だけは予想していたのか、相変わらずニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「……カラギを焚き付けるために、わたしを呼びましたね」
「目の前にいたほうが、より実感できるだろう?」
「鬼王たるあなたが、なぜ人に肩入れするのです」
「人のことなどどうでもいい。もちろん其奴も然り、あぁ、おまえも然りだ」
「ならば、」
「だがなぁ、此奴がおまえのことを気にするのだ。どうでもいいだろうと言うのに、事あるごとにおまえの話をする」
「それはそうでしょう。だって、あなたのたった一人の家族、兄弟なのですよ? 兄弟は大事にしなければ」
「ほらな、いつもこうだ。いい加減、此奴の中からおまえを追い出したいんだよ、俺は」
敦皇様が「そういうことを言わない」と言いながら、鬼の王の胸をぺしりと叩いている。……これは、一体どういうことだろうか。
「あのとき、呼ばれても都へなど行かなければよかった」
金花がぽつりとそんなことを口にした。
「そんなことを言わないで。わたしは朱天の弟に会えて嬉しかったのですから。だって、大事な人に家族がいるのなら会ってみたいと思うでしょう?」
「俺にはわからん感情だが、まぁそういうことだ。あのとき逃げたとしても、烏たちがすぐにとっ捕まえて連れて来ただろうしな」
「……あなたと兄弟だなんて、一度も思ったことはありませんよ」
「それはお互い様だ。だが、此奴にとっておまえは弟なんだと。不愉快だが、そう思っている此奴もかわいいから、まぁ仕方ない」
金花は俯き、鬼の王はニヤニヤと笑っている。敦皇様は二人を見ながら目を瞬かせた。どういう状況かよくわからないが、鬼の王が俺の願いを聞き入れてくれるかもしれないことだけはわかった。
「で、おまえはまだ鬼になりたいと思っているんだな?」
俺を見た鬼の王にびくりと体を震わせながらも、しっかりと頷く。それに俺が死んだ後の話を聞かされればなおのこと金花を残してなどいけるかとますます強く思った。
「まぁ、方法がないわけじゃない」
「よかった」
「鬼王!」
「本当か!?」
三者三様の反応に鬼の王はまたもや大声で笑い、敦皇様は小さく手を叩いて喜んだ。一方、金花は眉を寄せて不快さを隠そうともしなかったが、俺は言わずもがな飛びつくように鬼の王を見る。
「おまえは其奴が鬼になるのを止めようとしていたみたいだが、いいのか?」
「それはまぁ、考えることもありますけど……。でも、キツラを真剣に思っているのはわかりましたし、わたしにも覚えのある気持ちですから」
「……そうか」
敦皇様の言葉に感謝した。敦皇様がいなければ、鬼の王に話を聞いてもらうどころか会うことすらできなかったかもしれない。なにより敦皇様が金花のことを気にかけていなければ、こうして顔を合わせることは叶わなかっただろう。感謝の気持ちを込めて頭を下げれば、敦皇様がにこりと微笑み返してくれた。
「それに朱天のことだから、よい案があるのでしょう?」
「おまえのためだ。烏の爺らに、わざわざ話を聞きに行ったぞ?」
俺は言葉こそ発しなかったが、食い入るように鬼の王を見た。金花はわずかに反応したものの、やはり不快なのか視線を逸らしたままでいる。
「本来、確実に鬼に転じるにはそれ相応の力を持つ鬼を食らうのが一番だ。食らう鬼が強ければ強いほど、鬼に転じたものの寿命も長くなる。だから俺は棘希の体を取り戻し此奴に血肉を食わせた。棘希のほかにあれほど強い鬼はいなかったからな」
そうだったのか。鬼の王なら命も相当長そうだが、では半分しか鬼ではないという金花はどうなのだろう。どのくらいの大鬼を食らえば金花と同じ命になるのか想像もつかない。
そもそも、俺の腕ではあの赤い目の鬼にすら敵わないのだ。こんなことならあの鬼を捕らえておけばよかった。いや、もういない鬼のことを考えても仕方がない。まずはどうやって大鬼を手に入れるか、いや、そんな大鬼はやはりいないのではないのか。
そんなことを考えていた俺に、鬼の王が「おまえ、本当におもしろい奴だな」と笑った。
「鬼を食らうと聞いて怯えないどころか、この前の愚か者を食らえばよかったなどと考えているだろう? いや、なんともおもしろい。たしかに人にしておくのはもったいない」
「……鬼になる方法を教えてもらえるのか?」
「あぁ、此奴のためだからな。俺は人が相手でも嘘はつかん」
「鬼王!」
「おまえは黙っていろ」
「……っ!」
ぞわりとした何かを感じた次の瞬間、金花の周りに薄墨のようなものがまとわりつくのが見えた。おそらく鬼の王の仕業だろう。目では鬼の王を睨みつけているものの、金花の口は何かに塞がれているように動こうとしない。
「一応聞いておくが、おまえは其れと同じだけ生きられればいいのだな?」
「キツラのそばにいられればいい」
金花よりも長く生きたいとは思わない。可能であれば金花の死を見届け、すぐさま後を追うつもりだ。それだけの命があれば十分。
「ならば簡単だ。其れの血なりを食らえばいい」
「…………は?」
驚いたのは金花も同じだったようで、声は出ていないが目を見開き鬼の王を凝視していた。敦皇様も「え? それでよいのですか?」とつぶやいている。
「其れは中途半端な存在だ。俺と同じ血を持ちながら、半分は妖魔という劣等の血でできている。そもそも妖魔が鬼の子を生むなど前代未聞だ。鬼の血に耐えられるはずもなく、其れの母親は生みながら死んだ」
ということは、金花の母は……。あぁ、だから烏たちが親代わりだと言っていたのか。
「生まれたものの、強いのか弱いのかさっぱりわからん。だからこそ鬼たちは煙たがり、気味の悪いものなら消してしまおうと考えるのだろう。だが、その中途半端さが今回は功を奏することになる。強くもあり弱くもある其れの血は、ちょうどよくおまえを其れと同じ程度の鬼にするだろうよ。あぁ、もうしゃべってもいいぞ」
鬼の王の言葉と同時に、金花がけほりと小さく咳をした。
「……わたしの血なりを、と言いましたか」
「肉を食らっては鬼の力が強く出過ぎるだろうというのが烏の爺らの話だ。ならば、血を少しずつ食らうのがちょうどよいだろう。それならば鬼になるのも緩やか、人を食らう必要さえない。どうだ、俺の案はおまえらの願いをすべて叶える素晴らしいものだろう」
鼻を高くしてニィと笑う鬼の王に、敦皇様が褒めるようにぱちぱちと手を叩いた。その様子に呆気に取られたまま見ていると、ついでにと鬼の王が言葉を続ける。
「人ゆえに血は好まんというのなら、食らうのは精でもいいが……」
鬼の王が、俺を見ながらニィィと嫌な笑みを浮かべた。
「すでに精は食らったようだな。であれば、今後も精を食らえばいい」
言われてカァッと頭に血が昇った。そうだ、俺は鬼の王の元へ来るまでの二日間、何度か金花の精を口にしている。それに鬼の王は気づいているということだ。
(なぜだ、どうしてそんな閨のことを……。いや、見ただけでそういうことまでわかってしまうのが鬼の王なのか!?)
「さすがに精では時間がかかり過ぎるだろうから、たまには血を食らえ。食らう量は自ずとわかってくるだろうよ」
それが鬼に転ずるということだ、鬼の王はそう言葉を締めくくった。
(……そうか、俺は鬼になるために鬼を食らわなくてもいいのか)
俺が思い描き、覚悟を決めたことは必要ないのだとわかった。途端に安堵し全身からほぅっと力が抜ける。それにどうやら人を食らう必要もないらしい。改めてそう思うと安堵のため息が漏れる。
鬼になるためには金花の精を食らい、時折り血を食らえばいい。それならば金花が俺にすることと大差ない。金花は俺の血を食らい、精を食らう。これからは俺も金花の精を食らい血を食らうということだ。
ぞわり、ぞわり。
背筋を得体の知れないモノが這い上がってくるような気がした。それは鬼を前にしたときの高ぶりのようで、畏れと喜びが入り混じるような何とも形容しがたい感覚だった。
「互いに食らい合うというのも、鬼に転じたいなどと言う愚かな人と、鬼と妖魔の血を持つ其れにふさわしいだろうよ」
鬼の王は笑い、俺はただ深く頷いた。
鬼の王の声は力強く、是とも否とも答えられないほどの威圧感があった。俺は何も答えられないまま、ただ廊下に腰を下ろすことしかできなかった。後ろをついて来ていた金花も同じように廊下に座る。面を付けた男はそのまま部屋の前を通り過ぎ、どこかへ消えてしまった。
「席をはずしましょうか?」
鬼の隣に座る男が静かにそう告げた。声は若く涼やかに聞こえる。「やはりこの方が……」と思いながらちろっと視線を向けた。
「かまわん。それに其処の男はおまえにも会いたがっているだろうからな。今回は特別だ」
「わたしに……?」
男の目が俺を見た。思わずじっと見返してしまったが、さすがに無礼だと気づき慌てて頭を下げる。
男は少年と呼んでもよさそうな小柄な体つきで高貴な雰囲気をまとっている。だからといって鬼のようには見えず、どこからどう見てもただの人だ。しかし鬼の王の傍らにいるということは、この男こそが敦皇親王なのだろう。
「……その顔立ちは、もしや」
「どの程度の繋がりかは知らんが、おまえの血縁者だろう? 匂いが少しばかり似ている」
「ということは、成皇様か良皇様の子孫でしょうか?」
やはりこの方が敦皇様で間違いない。問いかけに答えねばと思ったが、開きかけた口を一旦閉じた。はたして答えてもよいのだろうか。勝手なことをして鬼の王の不興を買ってしまっては、ここまで来た意味がなくなってしまう。迷う俺の頭上に鋭い声が響いた。
「さっさと答えろ」
びりりと空気を震わせる声にグッと唇を噛み締めた。
「もう、そう急かすものではないでしょう? あなたはせっかちすぎるのです」
敦皇様のたしなめる声にギョッとした。思わず顔を上げると鬼の王の腕をぺしっと叩いている。いくら大事にされているとは言え相手は鬼、しかも鬼の王なのだ。そのようなことをして鬼の王の機嫌を損ねないだろうか。心配しながら見ている俺の前で「あぁあぁ、わかっている」と鬼の王が笑った。
御所で対峙したときとはあまりに違う様子に、俺は呆気にとられてしまった。これは本当にあのときと同じ鬼の王なのだろうか。顔はたしかに同じに見えるが別人ではないだろうか、そんな考えが頭をよぎる。
「おい、此れが優しいからと言っていつまでも黙りか? おまえにとっては仕えるべき主人の一族だろうが。さっさと答えろ」
再びの鬼の王の声にハッとし、慌てて頭を下げた。敦皇様と思われる男は、鬼の王を恐れることなく「朱天」と再びたしなめている。
聞いていたとおり鬼の王が奥方として敦皇様を扱っているのなら、俺にとっては僥倖かもしれない。しかしまずはこの男が本当に敦皇様なのか確かめなくてはいけない。
「ご無礼しました。我が祖先は良皇親王にて、のちに後壱帝となられました」
「良皇様のほうでしたか。涼やかな目元は成皇様にも似ていらっしゃると思いましたが、お二人は顔立ちのよく似たご兄弟でしたからなるほど納得しました」
敦皇様はふむふむと口元を指でなぞりながら頷いている。それを見る鬼の王の目は驚くほど優しく、本当に奥方として傍らに置いているのだろうことがわかった。
「わたしは現関白の末の弟になります。我が関白家は、北家右大臣の血を継いでいます」
「そうですか」
「……恨んではいらっしゃらないのですか?」
「もし恨んでいたとしても、はるか昔のこと。それに当時からわたしは右大臣を恨んでなどいませんでした」
「しかし右大臣は、その……あなたを帝にさせまいと都から追いやった人物、と聞いています」
当時、右大臣だった関白家の先祖が帝に娘を嫁がせ、自分の血を引く親王を帝に就けようと画策したということは朝廷や御所の誰もが知っている。いまの関白家が力を持つのも敦皇様を排除し、二代続けて右大臣の血を引く帝が誕生したからだ。
(本当に恨んでいらっしゃらないのだろうか)
二歳で左大臣家の姫だった生母を亡くし、元服間近の十二歳で後ろ盾の左大臣であった伯父を失った敦皇様は、都を追われたせいで守りが手薄となり鬼に攫われた。つまり、敦皇様からすべてを奪い鬼の元へと追いやったのは右大臣ということになる。それならば右大臣の血を引く関白家を恨んでいてもおかしくないはずだ。
「当時のことがどのように伝えられているかわかりませんが、養母の彰后様にはとてもよくしていただいたのです。それに、お父上である右大臣も笛を教えてくださったり、幼い頃はかわいがっていただいたものです。……たしかに都を離れ寂しいと思ったことはありますが、恨むことなどありません」
「……そうであればよいのですが」
「それに、都の外れに住んでいたからこそ朱天と出会い、こうして共にあることができるのです。そういう意味では感謝しているくらいです」
言葉の端々から、この方は間違いなく敦皇様だと悟った。
のちに皇太后となられた彰后様は、最後まで敦皇様のことを気にかけ、小さな仏像を手元に置き祈られていた。その仏像にひっそりと“敦”の文字が彫られていたことは、それを見た祖父と、祖父から聞いた俺や兄上たちしか知らない。後壱帝は笛の名手であったが、真の名手は亡き兄だっただろうとおっしゃっていたという話も祖父から聞いたことがある。
(やはり敦皇様は鬼になったのか)
当時のことをよく知り、なおかつ少年とも呼べる雰囲気をわずかに残す姿は、十八歳で鬼に攫われた話と合致する。その姿のまま生きているということは鬼になったに違いない。
「俺はおまえが御所にいたとしても攫っているがな」
「もうっ! それでは都の皆が驚き怯えてしまうじゃないですか」
それに鬼の王にこのようなことが言えるのは、やはり鬼の王の奥方しかいないだろう。
(どうやら敦皇様は右大臣の血筋を恨んでいらっしゃらない様子。それなら俺にとってはやはり僥倖ということだ)
鬼の王が駄目だったとしても、敦皇様を介して頼めば願いが叶うかもしれない。それに敦皇様を見る限り、鬼になれば老いることなく鬼と等しく生きられることもわかった。やはりなんとしても願いを叶えてもらわねばならない。鬼に転じたいという思いがますます強くなる。
「で、俺に聞きたいことがあるんだろう? さっさと言え」
「朱天、」
いさめるような敦皇様の言葉に勇気をもらい、鬼の王をしっかり見ながら口を開いた。
「俺は鬼になりたい。鬼の王、俺を鬼にしてはくれまいか」
俺の言葉にあたりは一瞬しんと静まり返った。それを破ったのは鬼の王の大きな笑い声だった。
「ふはははは! おまえ、本気か? 退魔の太刀を持つおまえが、鬼になりたいだと? いやはや、おもしろそうな奴だとは思ったが、ここまでとは、ははははは! なんともおかしく、腹がよじれそうだ!」
人が大声で笑うのと変わらない様子だというのに、鬼の王が笑うたびに部屋のあちこちがびりりと震え、庭の木々でさえもゆらゆらと揺れていた。睨みつけられ脅されているわけでもないのに、笑い声を聞くだけで背中を冷や汗が流れ落ちる。鬼の王とはなんと恐ろしいものなのかといまさらながらに痛感した。
「朱天、少し静かに」
敦皇様の声に、ぴたりと鬼の王の笑い声が止まった。先ほどまで少年のようだった敦皇様の顔からは笑みが消え、どこか冷たい雰囲気を漂わせている。
「あなたは鬼になりたいのですか?」
「はい。そう願ってここまで来ました」
「鬼になるとはどういうことかわかって……あぁ、それでわたしに会いたいだろうと……。わたしが何者か知っているのに驚かないのは、そのせいでしたか」
敦皇様が唇に指を添えたまま考え込んでいる。隣に座る鬼の王は黙ってはいるものの、おもしろいと言わんばかりにニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「わたしが鬼に転じたことを知ってもなお、鬼になりたいと願うのですね」
「はい」
「鬼に転ずるのは、そう簡単なことではありませんよ?」
「知っています。その……女は、鬼の精を受けると稀に鬼に転ずると聞きました。しかし男が鬼になるには……、大鬼を食らうしか方法がないのだと」
「そのとおりです。わたしも棘希の血肉を食らい、鬼になりました」
「……俺が知る限り、そんな大鬼はほかにいません。であればほかの方法がないかと、鬼の王であれば何か方法を知っているのではと思いここまで来たのです」
俺は鬼になることを決意したが、棘希と同じくらいの大鬼は都の周辺にもいない。というよりも、そんな大鬼の話など聞いたことすらなかった。そうなれば別の方法を考えるしかなく、鬼の王であれば知っているのではないかと考えた。
「鬼は生きるために人を食らうのだということは聞いていますか?」
「……知っています」
「それでも鬼になりたいとは……」
敦皇様の声が、やや呆れたような雰囲気に変わった。
(それはそうだろうな)
俺が鬼に転じるには、まず大鬼と呼ばれるほどの鬼を食わなくてはならない。それだけでも嫌悪すべき行為だというのに、鬼になれば今度は生きるために人を食わねばならなくなる。わかっていて鬼になりたいなど正気の沙汰とは思えないだろう。
それでも俺は鬼になると決めた。正気のすべてを捨て去っても鬼になりたい、金花のそばにいたいと思ったのだ。
「もしや、キツラのそばにいたいがためですか?」
敦皇様の言葉に、後ろで黙っていた金花の気配が揺らいだのがわかった。そういえば、屋敷に入ってから金花はずっと黙ったままだ。気配も消しているようで、いままで金花が後ろにいることすらすっかり忘れていた。その金花にも聞かせるように、思いの丈を込めて言葉を口にする。
「俺はこの先もずっと金花の、……キツラのそばにいたいと思っています。そのためなら鬼になることも厭わない。たとえ鬼を食らい、人を食らうことになっても、それでも俺はキツラのそばにいたいのです」
鬼の王がどう思うかはわからない。しかし、少なくとも人であった敦皇様には俺の言葉が届くのではと一縷の望みをかけた。
「……己のことを置いて、それは駄目だとは言いにくいものですね」
「敦皇様、」
「わたし自身も相手が恐ろしい鬼だと、人を食らう鬼だと知ってもなお離れがたかった。ただ愛しいと思った相手が鬼だった、それだけのこと」
静かに語るその声は、少年の声色でありながら老成し悟りを開いた聖のようにも聞こえる。それが敦皇様の思いを表しているようで、二人のことを何も知らない俺でも胸が詰まる気持ちになった。
「おまえのせいじゃない。俺がおまえを手放せなかっただけだ」
「いいえ、朱天のせいではありません。最後にすべてを決めたのはわたし自身。鬼となることを望んだのもわたし。そうしてまでも、ただ朱天のそばにいたいと思ったのです。……あなたもそうなのですね?」
敦皇様の言葉に力強く頷いた。俺はただ金花のそばにいたかった。好いた相手とより長く、叶うことなら死ぬ間際まで共にありたい。しかし鬼である金花の命は長く、このままでは一瞬で離れてしまうことになる。それは俺にとって堪え難いことだった。
愚かだと言われようとも、神仏の罰がくだろうとも、俺はただ金花のそばにありたかった。そばにあり続けるためなら鬼にもなる。この決意は今後も決して揺らぐことはない。
「……やはり駄目です」
「金花?」
ずぃと膝を踏み出したのは、これまでじっと黙っていた金花だ。
「人が鬼に転じるなど、本来あってはならないこと。それにカラギは都を守るため長く鬼を退治してきました。鬼を憎み、鬼を屠ってきたカラギが鬼になるなど、そんなこと……」
わずかに俯いた金花の声はどこか頼りなく細い。まさか泣いているのかと心配したが、クッと上げた顔に涙はなく凛とした表情を浮かべている。
「わたしはカラギが鬼になることなど望んでいない。わたしのために鬼になるなど……きっと後悔するに違いないのだから」
「金花、俺は」
「あなたは後悔します。体は鬼に転じることができても、心は人のまま。いかに胆力に優れたあなたでも鬼になったことに耐えられるとは限りません」
「いいや、耐えられる。耐えてみせる。それほどの決意なのだ!」
「いいえ、いいえ、鬼になるなど決して許されないことなのです」
「金花!」
一歩も譲らない金花の言葉に、俺はなぜわからないのだと美しい顔をひたすら睨みつけた。俺を見ようとしない金花の美しい横顔を睨み、俺の思いはそう簡単に諦められるものではないのだと眼差しに力を込める。
「鬼王の前で鬼と人が痴話喧嘩とは、本当におもしろい奴らだ」
鬼の王の言葉にハッと我に返った。相変わらず鬼の王はニヤニヤと笑い、敦皇様は「静かにと言ったでしょう」と鬼の王の口に立てた人差し指を当てている。
「いつまでもおまえらの痴話喧嘩など聞いてられん。俺は早く此奴と二人きりになりたいんだ」
「朱天」
「まぁ待て、俺に任せておけ。さて、其方のは鬼になりたい。でもって理由は至極簡単、半鬼に惚れたからだ。そうだな?」
俺は頷いたが、金花はすっと鬼の王から視線を外した。
「まぁその気持ちはわからんではない。半鬼とはいえ半分は俺と同じ血が流れている鬼だ。見目はよく人にはたまらんだろうからなぁ」
鬼の王は何の話を始めたのだろうか。からかうような言葉に思わず眉が寄る。
「それに、其れは妖魔の血を濃く引いている。誰彼構わず誘い股を開くのもそのせいだ。これまで大勢が惑わされ吸い尽くされたように、おまえが死んだ後も大勢と交わり続けるだろう」
鬼の王の言葉にカッとなった。いや、それが金花の生きる術であり、そこに心が伴わないことはわかっている。俺がいなくなれば俺以外の男の精を食らわねばならなくなることもわかっている。
しかし、それは大勢の男たちが金花の美しい肌に触れ、濡れた声を聞き、熱い中に逸物を突き入れるということだ。そう考えるだけで腹の奥がぐつぐつと煮えたぎる思いがした。そんなこと……そんなこと、許せるはずもない!
「おまえが死ねば、すべて元のとおりというわけだ。これまでどおり其れは大勢の男たちと交わり続ける」
「朱天、言い方が……」
「朱天!」
敦皇様の声に被さるように金花の鋭い声が響いた。聞いたことのない声に驚いた俺は、思わず金花の横顔を凝視していた。それは敦皇様も同じだったようで、ぽかんとした顔で金花を見ている。ところが鬼の王だけは予想していたのか、相変わらずニヤニヤと笑みを浮かべていた。
「……カラギを焚き付けるために、わたしを呼びましたね」
「目の前にいたほうが、より実感できるだろう?」
「鬼王たるあなたが、なぜ人に肩入れするのです」
「人のことなどどうでもいい。もちろん其奴も然り、あぁ、おまえも然りだ」
「ならば、」
「だがなぁ、此奴がおまえのことを気にするのだ。どうでもいいだろうと言うのに、事あるごとにおまえの話をする」
「それはそうでしょう。だって、あなたのたった一人の家族、兄弟なのですよ? 兄弟は大事にしなければ」
「ほらな、いつもこうだ。いい加減、此奴の中からおまえを追い出したいんだよ、俺は」
敦皇様が「そういうことを言わない」と言いながら、鬼の王の胸をぺしりと叩いている。……これは、一体どういうことだろうか。
「あのとき、呼ばれても都へなど行かなければよかった」
金花がぽつりとそんなことを口にした。
「そんなことを言わないで。わたしは朱天の弟に会えて嬉しかったのですから。だって、大事な人に家族がいるのなら会ってみたいと思うでしょう?」
「俺にはわからん感情だが、まぁそういうことだ。あのとき逃げたとしても、烏たちがすぐにとっ捕まえて連れて来ただろうしな」
「……あなたと兄弟だなんて、一度も思ったことはありませんよ」
「それはお互い様だ。だが、此奴にとっておまえは弟なんだと。不愉快だが、そう思っている此奴もかわいいから、まぁ仕方ない」
金花は俯き、鬼の王はニヤニヤと笑っている。敦皇様は二人を見ながら目を瞬かせた。どういう状況かよくわからないが、鬼の王が俺の願いを聞き入れてくれるかもしれないことだけはわかった。
「で、おまえはまだ鬼になりたいと思っているんだな?」
俺を見た鬼の王にびくりと体を震わせながらも、しっかりと頷く。それに俺が死んだ後の話を聞かされればなおのこと金花を残してなどいけるかとますます強く思った。
「まぁ、方法がないわけじゃない」
「よかった」
「鬼王!」
「本当か!?」
三者三様の反応に鬼の王はまたもや大声で笑い、敦皇様は小さく手を叩いて喜んだ。一方、金花は眉を寄せて不快さを隠そうともしなかったが、俺は言わずもがな飛びつくように鬼の王を見る。
「おまえは其奴が鬼になるのを止めようとしていたみたいだが、いいのか?」
「それはまぁ、考えることもありますけど……。でも、キツラを真剣に思っているのはわかりましたし、わたしにも覚えのある気持ちですから」
「……そうか」
敦皇様の言葉に感謝した。敦皇様がいなければ、鬼の王に話を聞いてもらうどころか会うことすらできなかったかもしれない。なにより敦皇様が金花のことを気にかけていなければ、こうして顔を合わせることは叶わなかっただろう。感謝の気持ちを込めて頭を下げれば、敦皇様がにこりと微笑み返してくれた。
「それに朱天のことだから、よい案があるのでしょう?」
「おまえのためだ。烏の爺らに、わざわざ話を聞きに行ったぞ?」
俺は言葉こそ発しなかったが、食い入るように鬼の王を見た。金花はわずかに反応したものの、やはり不快なのか視線を逸らしたままでいる。
「本来、確実に鬼に転じるにはそれ相応の力を持つ鬼を食らうのが一番だ。食らう鬼が強ければ強いほど、鬼に転じたものの寿命も長くなる。だから俺は棘希の体を取り戻し此奴に血肉を食わせた。棘希のほかにあれほど強い鬼はいなかったからな」
そうだったのか。鬼の王なら命も相当長そうだが、では半分しか鬼ではないという金花はどうなのだろう。どのくらいの大鬼を食らえば金花と同じ命になるのか想像もつかない。
そもそも、俺の腕ではあの赤い目の鬼にすら敵わないのだ。こんなことならあの鬼を捕らえておけばよかった。いや、もういない鬼のことを考えても仕方がない。まずはどうやって大鬼を手に入れるか、いや、そんな大鬼はやはりいないのではないのか。
そんなことを考えていた俺に、鬼の王が「おまえ、本当におもしろい奴だな」と笑った。
「鬼を食らうと聞いて怯えないどころか、この前の愚か者を食らえばよかったなどと考えているだろう? いや、なんともおもしろい。たしかに人にしておくのはもったいない」
「……鬼になる方法を教えてもらえるのか?」
「あぁ、此奴のためだからな。俺は人が相手でも嘘はつかん」
「鬼王!」
「おまえは黙っていろ」
「……っ!」
ぞわりとした何かを感じた次の瞬間、金花の周りに薄墨のようなものがまとわりつくのが見えた。おそらく鬼の王の仕業だろう。目では鬼の王を睨みつけているものの、金花の口は何かに塞がれているように動こうとしない。
「一応聞いておくが、おまえは其れと同じだけ生きられればいいのだな?」
「キツラのそばにいられればいい」
金花よりも長く生きたいとは思わない。可能であれば金花の死を見届け、すぐさま後を追うつもりだ。それだけの命があれば十分。
「ならば簡単だ。其れの血なりを食らえばいい」
「…………は?」
驚いたのは金花も同じだったようで、声は出ていないが目を見開き鬼の王を凝視していた。敦皇様も「え? それでよいのですか?」とつぶやいている。
「其れは中途半端な存在だ。俺と同じ血を持ちながら、半分は妖魔という劣等の血でできている。そもそも妖魔が鬼の子を生むなど前代未聞だ。鬼の血に耐えられるはずもなく、其れの母親は生みながら死んだ」
ということは、金花の母は……。あぁ、だから烏たちが親代わりだと言っていたのか。
「生まれたものの、強いのか弱いのかさっぱりわからん。だからこそ鬼たちは煙たがり、気味の悪いものなら消してしまおうと考えるのだろう。だが、その中途半端さが今回は功を奏することになる。強くもあり弱くもある其れの血は、ちょうどよくおまえを其れと同じ程度の鬼にするだろうよ。あぁ、もうしゃべってもいいぞ」
鬼の王の言葉と同時に、金花がけほりと小さく咳をした。
「……わたしの血なりを、と言いましたか」
「肉を食らっては鬼の力が強く出過ぎるだろうというのが烏の爺らの話だ。ならば、血を少しずつ食らうのがちょうどよいだろう。それならば鬼になるのも緩やか、人を食らう必要さえない。どうだ、俺の案はおまえらの願いをすべて叶える素晴らしいものだろう」
鼻を高くしてニィと笑う鬼の王に、敦皇様が褒めるようにぱちぱちと手を叩いた。その様子に呆気に取られたまま見ていると、ついでにと鬼の王が言葉を続ける。
「人ゆえに血は好まんというのなら、食らうのは精でもいいが……」
鬼の王が、俺を見ながらニィィと嫌な笑みを浮かべた。
「すでに精は食らったようだな。であれば、今後も精を食らえばいい」
言われてカァッと頭に血が昇った。そうだ、俺は鬼の王の元へ来るまでの二日間、何度か金花の精を口にしている。それに鬼の王は気づいているということだ。
(なぜだ、どうしてそんな閨のことを……。いや、見ただけでそういうことまでわかってしまうのが鬼の王なのか!?)
「さすがに精では時間がかかり過ぎるだろうから、たまには血を食らえ。食らう量は自ずとわかってくるだろうよ」
それが鬼に転ずるということだ、鬼の王はそう言葉を締めくくった。
(……そうか、俺は鬼になるために鬼を食らわなくてもいいのか)
俺が思い描き、覚悟を決めたことは必要ないのだとわかった。途端に安堵し全身からほぅっと力が抜ける。それにどうやら人を食らう必要もないらしい。改めてそう思うと安堵のため息が漏れる。
鬼になるためには金花の精を食らい、時折り血を食らえばいい。それならば金花が俺にすることと大差ない。金花は俺の血を食らい、精を食らう。これからは俺も金花の精を食らい血を食らうということだ。
ぞわり、ぞわり。
背筋を得体の知れないモノが這い上がってくるような気がした。それは鬼を前にしたときの高ぶりのようで、畏れと喜びが入り混じるような何とも形容しがたい感覚だった。
「互いに食らい合うというのも、鬼に転じたいなどと言う愚かな人と、鬼と妖魔の血を持つ其れにふさわしいだろうよ」
鬼の王は笑い、俺はただ深く頷いた。
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