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二章 鬼の王に会いて
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六条殿の屋敷に通い始めて十四日目、姫君にもすっかり懐かれ、気がつけば「カラギ兄様」と呼ばれるようになっていた。俺のほうも本当の妹ができたような気持ちがして、姫君に喜んでもらえるならと師匠から聞いた東国の祭りや馬の話をしたりもしている。
(敦皇様の気持ちがわかる気がする)
弟たちに何もしてやれなかったという敦皇様の言葉を思い出した。敦皇様と兄弟たちの仲が本当はどうだったかわからないが、腹違いとはいえ兄弟なら何かしてやりたいと思うのが普通なのかもしれない。現に俺も妹のように思う姫君を喜ばせたいと思い、実際に喜ぶ声を聞けば心が躍るような気持ちになった。
(兄上たちは違うようだがな)
少なくとも俺は兄上たちにかわいがられていると感じたことは一度もない。俺も兄上たちに懐いているわけではないので、お互い様といえばそれまでだ。
「そうだ! カラギ兄様に聞いてほしいことがあったの!」
御簾の向こうでぱちんと手を叩く様子さえかわいいと思う。
「二条の崇明様が今度、舞を見せてくださることになったのよ」
「それはよかったですね」
「えぇ、本当によかった」
嬉しそうな姫君の声に俺の顔までほころんだ。
(従兄弟殿のほうも喜んでいるだろう)
俺と崇明殿は従兄弟同士ということもあり、小さい頃に何度か会ったことがある。といっても古株の女房たちから話を聞いてようやく思い出した。
俺は小さい頃からやんちゃで、年の離れた兄上たちはもちろんのこと親族の子どもたちともあまり馴染むことができなかった。俺は気にしていなかったが、これでよいものかと母上は随分悩んだそうだ。そこで父上に頼んでおとなしかった崇明殿を屋敷に呼ぶことがあったらしい。きっと手本になる子が目の前にいれば少しは変わるのではと考えたのだろう。
一緒に庭で遊んだこともあったそうだが、正直俺はほとんど覚えていなかった。ただ、庭で書物を読んでいる崇明殿の姿はぼんやり記憶に残っている。庭に来てまで書物を読むなんておかしな奴だと思ったからだろう。
(そういう意味では崇明殿も少し変わっていたな)
それに懐の深い人物だった。何せ俺がそばで大声を上げても池の魚を掴み上げても、ただ微笑むだけで慌てたことは一切なかった。そういう性格だから姫君ともうまくいっていたに違いない。
あれこれと手はずを整えるときに何度か崇明殿に会う機会があったが、大人になっても変わらず物静かで思慮深いことはすぐにわかった。そういう人物なら、たとえ公卿になったとしても兄上たちとぶつかることはないだろう。何かあったとしても俺よりよほどうまく立ち回れるに違いない。
(二条殿がもう少しうまく立ち回れる方だったならよかったんだろうが)
崇明殿に比べると二条殿のほうは気が短いようで、ついには別邸に追いやられることになった。二条殿はその性格のせいで疎まれているようだが、崇明殿は帝の覚えもよいと聞くしきっと朝廷でもうまくやっていける。
(それに、崇明殿も姫君のことはまんざらでもないようだし)
はっきりとは言わなかったが、あの顔は姫君を好いていると言っているようなものだ。それならやはり好いている者同士で結婚するほうがいい。姫君の様子を見て改めてそう思った。これで二人が元の形に収まってくれれば俺としても喜ばしい限りだ。
「よかったですね。それじゃあ俺が通うのも、そろそろ終わりにしましょうか」
「あら、残念」
「姫?」
心底残念そうな声に首を傾げた。崇明殿とのことが丸く収まるのは姫君も願っていたことのはずだからだ。
「だって、カラギ兄様のお話はとてもおもしろいんだもの。きっと崇明様も喜ぶと思うの」
「ははは、そう言ってもらえるのは嬉しいですが、俺が通い続けては関白様の思う壺ですよ」
「そうだった! あぁ、残念。そうだ! 崇明様とのことが正式に決まったら、また屋敷にいらしてね?」
その頃、俺はおそらく都にいないだろう。そう思い、はっきりと返事をすることを避け曖昧に笑うだけにとどめた。
帰り際、六条殿から改めて礼を言われた。そもそも今回の件は兄上の強欲が招いたことで、姫君や崇明殿が引き離される理由はない。だからこそ当事者となった俺が手を尽くすのは当然のことだ。
「これで兄上も諦めてくれるでしょう」
「関白様から話を頂戴したときはどうなることかと思いましたが、いまでは姫の相手があなたでよかったと思っています。いや、すべては三の姫宮様のおかげか」
「母上には何も話していませんよ。それに母上が口を挟んでは帝もお困りになるでしょうから」
「であれば、内大臣様のお力かな」
それには答えず、通うのは今日が最後だと告げて屋敷を後にした。
帰りの牛車の中で金花はいつも以上に無言だった。あまりにも美しい顔は無言になると空恐ろしく見えるのだなぁと考える。
(それにしても頭がぼんやりするな)
慣れないことをした疲れだろうか。こめかみを何度か指で押さえながら無言のままでいる金花の横顔を見た。
屋敷に着くと内大臣から文が届いていた。知らせてくれた女房に「誰にも知られるな」と告げ、こっそり部屋まで持ってきてもらう。文のことを母上に知られていないか念のため確認したが、万事抜かりなくという返事に胸を撫で下ろした。
「なぜ母上様に知られたくないのですか?」
六条殿の屋敷へ向かう前から無言だった金花が、ようやく口をきいてくれた。しかし問われた内容にぐぅと口を閉じる。
「知られたくないのであれば無理には訊きません」
「いや、そうではないんだ」
いつになくぶっきらぼうな声に、慌てて金花を座らせた。
「無理に話さなくてもかまいませんよ」
「だから違うんだ。おまえに隠し事などするわけがない」
「気を遣っていただかなくても結構です」
ぷぃと横を向いた横顔は拗ねているようにも見える。そこでようやく「あぁそうか、機嫌が悪いのではなく拗ねていたのだ」とわかった。
「その前に話しておくことがある。六条殿の屋敷へ通うのは今日が最後だ」
俺の言葉に美しい顔が少しだけこちらを向いた。
「……終わったのですか?」
「終わった。俺は六条殿のところに婿入りしなくて済む。しばらくは兄上がうるさく言ってくるかもしれないが、これ以上無理は通せないと諦めるだろう」
「兄上様がそう簡単に諦める方とは思えませんが」
「だろうなぁ。だから、さっさと都を出ることにした。また勝手に婿入りの話など進めれば二度と都には戻らないとも宣言する。そこまで言えばさすがに考えを改めるだろう」
「それで本当に諦めると思いますか?」
「さぁて、兄上はどうだろうなぁ。しかし母上が兄上を押し留めてくれるだろう」
「……母上様には、時折り顔を見せなければいけませんね」
都を出るということは俺が鬼になるということだ。鬼になれば、俺はもう二度と都に戻ることはない。だからこそ母上のことを思い、俺の気持ちを汲み、金花は「顔を見せなければ」と言ったに違いない。
「まぁ本来はそうなるんだろうが、今回ばかりはどうだろうな」
「どういうことですか?」
ようやくこちらを向いた金花に、もう少しそばに寄るようにと腕を引く。
「カラギ?」
「人に聞かれるのはまずいからな」
ひそひそと話す俺に不思議そうにしながらも、白い頬をそっと近づけた。
「実はな、俺が生まれたときからまことしやかに囁かれている噂話があるんだ」
「噂話?」
「あぁ。とんでもない内容だと思うし、俺も子どもの頃に聞いただけで本当だと思ったことは一度もない」
昔から貴族というものは余計なことをする人が多いようで、年端のいかない子どもの俺に親切にも余計なことを囁く者がいた。すっかり忘れていたが、崇明殿と過ごした子ども時代のことを思い出そうとしたからか、そんな余計な記憶まで蘇ってしまった。
(まぁ、そのおかげで今回のことを思いついたんだが)
噂を利用して内大臣に接触し、文を送り合うまでに至ったのだから結果的には役に立ったということだ。そんなことを考えながら形のよい金花の耳に口を寄せる。
「三の姫宮様には好いた方がいて、中納言に降嫁したあともその方と親しくしていた。そんな噂話があったんだ」
「三の姫宮様というのは、母上様の名では……」
金花の言葉に小さく頷く。
「噂の相手は少将だったが、俺が生まれた頃に中将となってからは出世することが叶わなくなった。逆に三の姫宮様の夫である中納言は俺が生まれるとひとっ飛びに右大臣に大出世し、その後も左大臣、太政大臣、ついには関白にまで登り詰めた。たしかに由緒正しい北家の流れではあるが、あまりにも出世が早いから当時はいろいろ言われたらしい。たとえば、三の姫宮様が何かしらの代償として帝に夫の出世を願ったのではないのか、とかな」
「それは……」
「そんな大出世をした関白が身罷ると、噂話の相手だった中将は内大臣になり、まもなく太政大臣になるのではと言われている」
それが何を意味するのか俺は知らないし知りたいとも思わない。だが、噂話にほんの少しでも真実が混じっているのなら、内大臣は俺の話に耳を傾けてくれるかもしれないと考えた。
そうして文を送り、返事がきたところで六条殿や崇明殿のことを相談し協力を仰いだ。内大臣が朝廷内で反関白寄りだということがわかったから、というのも協力を仰いだ理由の一つではある。先ほど女房から受け取った文には、六条殿の姫君と崇明殿の婚姻は間違いなく叶うだろうと書かれていた。ここまでくれば、たとえ兄上でも横槍は入れられないだろう。
「今回、俺は内大臣と何度も文を交わし直接屋敷にも出向いている。そのことはいずれ朝廷や貴族たちの間で噂になるだろう。昔の噂話を知っている人たちは、それこそおもしろおかしく話をするだろうな」
「カラギ、それは……」
「母上には申し訳ないが、親離れ子離れするきっかけになった。寂しくはあるが鬼になれば遅かれ早かれ会えなくなるのだ、仕方ない」
俺の言葉に金花の眉尻が下がった。まったく、鬼だというのに俺のことになると人のような表情をする。
「俺の婿入りの話はなくなったし、かわいい六条殿の姫君も幸せになれるんだ、いいこと尽くめだろう?」
「……無理をしたのではないですか?」
「まぁ、少しだけな。こういうことを兄上たちは息をするようにしているのかと思うと、俺には向いていないことがよくわかった。やっぱり太刀を振るっているほうが性に合う」
笑いながら、もうこの話は終わりだと体を離す。すると今度は金花が俺の袖を握り、ぐぃと引いてきた。
「あなたが大変な思いをしていたことはよくわかりました。六条殿のことも、元はと言えばわたしを思ってくれてのこと。だから最後まで我慢しようと思いました」
「金花?」
すぐそばにある美しい顔は俯いているためどんな表情をしているのかわからない。声の様子から怒っているわけではないのだろうが、それにしてはいつもと様子が違う。
(そうだ、このところずっと違和感があったのはこういうところだ)
六条殿の屋敷へ向かう直前に顔を会わせたとき、六条殿からの帰りの牛車の中、夕餉を食べたあとの何気ない会話の中、日々の些細なところで何度も違和感を抱いた。
「それも今日までとわかり安堵しました。もう終わったのだとわかっています。……けれど、やっぱり許せない」
「金花、どうしたというのだ」
「あなたはいま、あの姫君のことをかわいいと言った。聞き耳を立ててはいけないと思いつつも、どうしても気になって様子を窺っていましたが……六条殿の屋敷で、あなたとあの姫君はとても仲が良さそうでした。それにあの屋敷の女房たちはあなたのことを素敵な殿方だと噂していた」
「は……? 女房たちが? いや、それよりも聞き耳というのは、」
ぐぃと襟元を引っ張られ、最後まで言うことはできなかった。
「わたしは、あなたが姫君に取られてしまうのではないかと本当に心配したのです。いいえ、姫君だけではない。女房たちや、それに近ごろはあちこちの姫君があなたの噂をしているのも聞こえているのです」
鼻先がぶつかるほど間近で俺を睨む金花の黒目にハッとした。真っ黒な目がわずかに揺れている。涙のせいかと一瞬驚いたが、ゆらゆらと揺れる目の奥に小さな赤いものが見えた。ちらちらした赤いものはまるで炎のようで、あまりに美しい様子に思わずじぃと見入ってしまう。
「人であるあなたは、やはり人のほうを見てしまうでしょう。都には美しい姫君が大勢いるから、そのうち姫君のほうがよいのだと気づいてしまうかもしれない。そんなこと、わたしには耐えられない」
「何を馬鹿なことを。俺が好いているのはおまえだけだ。おまえだからこそ、」
「えぇ、あなただからこそ、わたしは心の底から欲しいと思ったのです。悩みもしましたが、もう迷いません。あなたの気持ちが人に向かないよう、全力を持ってわたしだけのものにします」
「きん、」
名前を呼ぶことはできなかった。ぶわりと広がった伽羅の香りに、体が痺れたように動かなくなってしまった。口も動かず、すぐ目の前にいる金花の名を呼ぶことすらできない。帰りの牛車で感じたぼんやりとした感覚がさらにひどくなった。てっきり疲れていたからかと思っていたが、これは金花の伽羅香のせいだったのだとようやくわかった。
こんな状態になったのは久しぶりだった。初めて会った頃のように頭はぼんやりとし、どこか酒精に呑まれたようなふわふわとした感覚になる。動かなくなった体はじわりと熱くなり、手足にはじぃんと鈍い痺れのようなものを感じた。
「あなたはわたしのもの。誰にも渡さないし人になどもってのほか。絶対に、絶対に誰にも渡してなるものか」
金花の美しい黒髪がゆらりと揺らめいた。
(あぁ、これが本来の金花なのか)
いつもの笑みも穏やかな口調もなく、苛烈な声色に本来の姿を見たような気がした。額には赤い角が一本にょきりと現れ、紅い唇の端からは小さな牙が見えている。いつも以上に濡れて艶めく黒目は、奥深くに唇と同じくらい赤く燃える炎が揺らめいていた。
俺の目の前には、壮絶なほどに美しい姿をした鬼がいた。
(敦皇様の気持ちがわかる気がする)
弟たちに何もしてやれなかったという敦皇様の言葉を思い出した。敦皇様と兄弟たちの仲が本当はどうだったかわからないが、腹違いとはいえ兄弟なら何かしてやりたいと思うのが普通なのかもしれない。現に俺も妹のように思う姫君を喜ばせたいと思い、実際に喜ぶ声を聞けば心が躍るような気持ちになった。
(兄上たちは違うようだがな)
少なくとも俺は兄上たちにかわいがられていると感じたことは一度もない。俺も兄上たちに懐いているわけではないので、お互い様といえばそれまでだ。
「そうだ! カラギ兄様に聞いてほしいことがあったの!」
御簾の向こうでぱちんと手を叩く様子さえかわいいと思う。
「二条の崇明様が今度、舞を見せてくださることになったのよ」
「それはよかったですね」
「えぇ、本当によかった」
嬉しそうな姫君の声に俺の顔までほころんだ。
(従兄弟殿のほうも喜んでいるだろう)
俺と崇明殿は従兄弟同士ということもあり、小さい頃に何度か会ったことがある。といっても古株の女房たちから話を聞いてようやく思い出した。
俺は小さい頃からやんちゃで、年の離れた兄上たちはもちろんのこと親族の子どもたちともあまり馴染むことができなかった。俺は気にしていなかったが、これでよいものかと母上は随分悩んだそうだ。そこで父上に頼んでおとなしかった崇明殿を屋敷に呼ぶことがあったらしい。きっと手本になる子が目の前にいれば少しは変わるのではと考えたのだろう。
一緒に庭で遊んだこともあったそうだが、正直俺はほとんど覚えていなかった。ただ、庭で書物を読んでいる崇明殿の姿はぼんやり記憶に残っている。庭に来てまで書物を読むなんておかしな奴だと思ったからだろう。
(そういう意味では崇明殿も少し変わっていたな)
それに懐の深い人物だった。何せ俺がそばで大声を上げても池の魚を掴み上げても、ただ微笑むだけで慌てたことは一切なかった。そういう性格だから姫君ともうまくいっていたに違いない。
あれこれと手はずを整えるときに何度か崇明殿に会う機会があったが、大人になっても変わらず物静かで思慮深いことはすぐにわかった。そういう人物なら、たとえ公卿になったとしても兄上たちとぶつかることはないだろう。何かあったとしても俺よりよほどうまく立ち回れるに違いない。
(二条殿がもう少しうまく立ち回れる方だったならよかったんだろうが)
崇明殿に比べると二条殿のほうは気が短いようで、ついには別邸に追いやられることになった。二条殿はその性格のせいで疎まれているようだが、崇明殿は帝の覚えもよいと聞くしきっと朝廷でもうまくやっていける。
(それに、崇明殿も姫君のことはまんざらでもないようだし)
はっきりとは言わなかったが、あの顔は姫君を好いていると言っているようなものだ。それならやはり好いている者同士で結婚するほうがいい。姫君の様子を見て改めてそう思った。これで二人が元の形に収まってくれれば俺としても喜ばしい限りだ。
「よかったですね。それじゃあ俺が通うのも、そろそろ終わりにしましょうか」
「あら、残念」
「姫?」
心底残念そうな声に首を傾げた。崇明殿とのことが丸く収まるのは姫君も願っていたことのはずだからだ。
「だって、カラギ兄様のお話はとてもおもしろいんだもの。きっと崇明様も喜ぶと思うの」
「ははは、そう言ってもらえるのは嬉しいですが、俺が通い続けては関白様の思う壺ですよ」
「そうだった! あぁ、残念。そうだ! 崇明様とのことが正式に決まったら、また屋敷にいらしてね?」
その頃、俺はおそらく都にいないだろう。そう思い、はっきりと返事をすることを避け曖昧に笑うだけにとどめた。
帰り際、六条殿から改めて礼を言われた。そもそも今回の件は兄上の強欲が招いたことで、姫君や崇明殿が引き離される理由はない。だからこそ当事者となった俺が手を尽くすのは当然のことだ。
「これで兄上も諦めてくれるでしょう」
「関白様から話を頂戴したときはどうなることかと思いましたが、いまでは姫の相手があなたでよかったと思っています。いや、すべては三の姫宮様のおかげか」
「母上には何も話していませんよ。それに母上が口を挟んでは帝もお困りになるでしょうから」
「であれば、内大臣様のお力かな」
それには答えず、通うのは今日が最後だと告げて屋敷を後にした。
帰りの牛車の中で金花はいつも以上に無言だった。あまりにも美しい顔は無言になると空恐ろしく見えるのだなぁと考える。
(それにしても頭がぼんやりするな)
慣れないことをした疲れだろうか。こめかみを何度か指で押さえながら無言のままでいる金花の横顔を見た。
屋敷に着くと内大臣から文が届いていた。知らせてくれた女房に「誰にも知られるな」と告げ、こっそり部屋まで持ってきてもらう。文のことを母上に知られていないか念のため確認したが、万事抜かりなくという返事に胸を撫で下ろした。
「なぜ母上様に知られたくないのですか?」
六条殿の屋敷へ向かう前から無言だった金花が、ようやく口をきいてくれた。しかし問われた内容にぐぅと口を閉じる。
「知られたくないのであれば無理には訊きません」
「いや、そうではないんだ」
いつになくぶっきらぼうな声に、慌てて金花を座らせた。
「無理に話さなくてもかまいませんよ」
「だから違うんだ。おまえに隠し事などするわけがない」
「気を遣っていただかなくても結構です」
ぷぃと横を向いた横顔は拗ねているようにも見える。そこでようやく「あぁそうか、機嫌が悪いのではなく拗ねていたのだ」とわかった。
「その前に話しておくことがある。六条殿の屋敷へ通うのは今日が最後だ」
俺の言葉に美しい顔が少しだけこちらを向いた。
「……終わったのですか?」
「終わった。俺は六条殿のところに婿入りしなくて済む。しばらくは兄上がうるさく言ってくるかもしれないが、これ以上無理は通せないと諦めるだろう」
「兄上様がそう簡単に諦める方とは思えませんが」
「だろうなぁ。だから、さっさと都を出ることにした。また勝手に婿入りの話など進めれば二度と都には戻らないとも宣言する。そこまで言えばさすがに考えを改めるだろう」
「それで本当に諦めると思いますか?」
「さぁて、兄上はどうだろうなぁ。しかし母上が兄上を押し留めてくれるだろう」
「……母上様には、時折り顔を見せなければいけませんね」
都を出るということは俺が鬼になるということだ。鬼になれば、俺はもう二度と都に戻ることはない。だからこそ母上のことを思い、俺の気持ちを汲み、金花は「顔を見せなければ」と言ったに違いない。
「まぁ本来はそうなるんだろうが、今回ばかりはどうだろうな」
「どういうことですか?」
ようやくこちらを向いた金花に、もう少しそばに寄るようにと腕を引く。
「カラギ?」
「人に聞かれるのはまずいからな」
ひそひそと話す俺に不思議そうにしながらも、白い頬をそっと近づけた。
「実はな、俺が生まれたときからまことしやかに囁かれている噂話があるんだ」
「噂話?」
「あぁ。とんでもない内容だと思うし、俺も子どもの頃に聞いただけで本当だと思ったことは一度もない」
昔から貴族というものは余計なことをする人が多いようで、年端のいかない子どもの俺に親切にも余計なことを囁く者がいた。すっかり忘れていたが、崇明殿と過ごした子ども時代のことを思い出そうとしたからか、そんな余計な記憶まで蘇ってしまった。
(まぁ、そのおかげで今回のことを思いついたんだが)
噂を利用して内大臣に接触し、文を送り合うまでに至ったのだから結果的には役に立ったということだ。そんなことを考えながら形のよい金花の耳に口を寄せる。
「三の姫宮様には好いた方がいて、中納言に降嫁したあともその方と親しくしていた。そんな噂話があったんだ」
「三の姫宮様というのは、母上様の名では……」
金花の言葉に小さく頷く。
「噂の相手は少将だったが、俺が生まれた頃に中将となってからは出世することが叶わなくなった。逆に三の姫宮様の夫である中納言は俺が生まれるとひとっ飛びに右大臣に大出世し、その後も左大臣、太政大臣、ついには関白にまで登り詰めた。たしかに由緒正しい北家の流れではあるが、あまりにも出世が早いから当時はいろいろ言われたらしい。たとえば、三の姫宮様が何かしらの代償として帝に夫の出世を願ったのではないのか、とかな」
「それは……」
「そんな大出世をした関白が身罷ると、噂話の相手だった中将は内大臣になり、まもなく太政大臣になるのではと言われている」
それが何を意味するのか俺は知らないし知りたいとも思わない。だが、噂話にほんの少しでも真実が混じっているのなら、内大臣は俺の話に耳を傾けてくれるかもしれないと考えた。
そうして文を送り、返事がきたところで六条殿や崇明殿のことを相談し協力を仰いだ。内大臣が朝廷内で反関白寄りだということがわかったから、というのも協力を仰いだ理由の一つではある。先ほど女房から受け取った文には、六条殿の姫君と崇明殿の婚姻は間違いなく叶うだろうと書かれていた。ここまでくれば、たとえ兄上でも横槍は入れられないだろう。
「今回、俺は内大臣と何度も文を交わし直接屋敷にも出向いている。そのことはいずれ朝廷や貴族たちの間で噂になるだろう。昔の噂話を知っている人たちは、それこそおもしろおかしく話をするだろうな」
「カラギ、それは……」
「母上には申し訳ないが、親離れ子離れするきっかけになった。寂しくはあるが鬼になれば遅かれ早かれ会えなくなるのだ、仕方ない」
俺の言葉に金花の眉尻が下がった。まったく、鬼だというのに俺のことになると人のような表情をする。
「俺の婿入りの話はなくなったし、かわいい六条殿の姫君も幸せになれるんだ、いいこと尽くめだろう?」
「……無理をしたのではないですか?」
「まぁ、少しだけな。こういうことを兄上たちは息をするようにしているのかと思うと、俺には向いていないことがよくわかった。やっぱり太刀を振るっているほうが性に合う」
笑いながら、もうこの話は終わりだと体を離す。すると今度は金花が俺の袖を握り、ぐぃと引いてきた。
「あなたが大変な思いをしていたことはよくわかりました。六条殿のことも、元はと言えばわたしを思ってくれてのこと。だから最後まで我慢しようと思いました」
「金花?」
すぐそばにある美しい顔は俯いているためどんな表情をしているのかわからない。声の様子から怒っているわけではないのだろうが、それにしてはいつもと様子が違う。
(そうだ、このところずっと違和感があったのはこういうところだ)
六条殿の屋敷へ向かう直前に顔を会わせたとき、六条殿からの帰りの牛車の中、夕餉を食べたあとの何気ない会話の中、日々の些細なところで何度も違和感を抱いた。
「それも今日までとわかり安堵しました。もう終わったのだとわかっています。……けれど、やっぱり許せない」
「金花、どうしたというのだ」
「あなたはいま、あの姫君のことをかわいいと言った。聞き耳を立ててはいけないと思いつつも、どうしても気になって様子を窺っていましたが……六条殿の屋敷で、あなたとあの姫君はとても仲が良さそうでした。それにあの屋敷の女房たちはあなたのことを素敵な殿方だと噂していた」
「は……? 女房たちが? いや、それよりも聞き耳というのは、」
ぐぃと襟元を引っ張られ、最後まで言うことはできなかった。
「わたしは、あなたが姫君に取られてしまうのではないかと本当に心配したのです。いいえ、姫君だけではない。女房たちや、それに近ごろはあちこちの姫君があなたの噂をしているのも聞こえているのです」
鼻先がぶつかるほど間近で俺を睨む金花の黒目にハッとした。真っ黒な目がわずかに揺れている。涙のせいかと一瞬驚いたが、ゆらゆらと揺れる目の奥に小さな赤いものが見えた。ちらちらした赤いものはまるで炎のようで、あまりに美しい様子に思わずじぃと見入ってしまう。
「人であるあなたは、やはり人のほうを見てしまうでしょう。都には美しい姫君が大勢いるから、そのうち姫君のほうがよいのだと気づいてしまうかもしれない。そんなこと、わたしには耐えられない」
「何を馬鹿なことを。俺が好いているのはおまえだけだ。おまえだからこそ、」
「えぇ、あなただからこそ、わたしは心の底から欲しいと思ったのです。悩みもしましたが、もう迷いません。あなたの気持ちが人に向かないよう、全力を持ってわたしだけのものにします」
「きん、」
名前を呼ぶことはできなかった。ぶわりと広がった伽羅の香りに、体が痺れたように動かなくなってしまった。口も動かず、すぐ目の前にいる金花の名を呼ぶことすらできない。帰りの牛車で感じたぼんやりとした感覚がさらにひどくなった。てっきり疲れていたからかと思っていたが、これは金花の伽羅香のせいだったのだとようやくわかった。
こんな状態になったのは久しぶりだった。初めて会った頃のように頭はぼんやりとし、どこか酒精に呑まれたようなふわふわとした感覚になる。動かなくなった体はじわりと熱くなり、手足にはじぃんと鈍い痺れのようなものを感じた。
「あなたはわたしのもの。誰にも渡さないし人になどもってのほか。絶対に、絶対に誰にも渡してなるものか」
金花の美しい黒髪がゆらりと揺らめいた。
(あぁ、これが本来の金花なのか)
いつもの笑みも穏やかな口調もなく、苛烈な声色に本来の姿を見たような気がした。額には赤い角が一本にょきりと現れ、紅い唇の端からは小さな牙が見えている。いつも以上に濡れて艶めく黒目は、奥深くに唇と同じくらい赤く燃える炎が揺らめいていた。
俺の目の前には、壮絶なほどに美しい姿をした鬼がいた。
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