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15 後宮ワルツ1
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無事に初めての発情を終えた僕は、三日ほど体を休めることになった。その間、毎日殿下が様子を見に来たことには驚いたが、αとΩが発情を共に過ごしたのだからこういうものなのだろうと納得した。
ところが、すっかり元気になって元の生活に戻ってからも、殿下は毎日やって来る。以前も絵を描いているときに覗きに来ていたが、いまは昼食を一緒に取り、時間があれば午後のお茶の時間にもやって来るようになった。執務が休みの日には朝食後からやって来て、ほぼ半日は同じ部屋で過ごすようになっている。
「殿下と食事をともにするのはよいのだが……」
というよりも、一人で食べるよりもずっと食が進む。アールエッティ王国のときのようにはいかないものの、やはり一人よりも二人で食べるほうがおいしく感じるからだろう。
それに芸術に関する会話も弾み、殿下とは随分親交を深められていると思っている。そう、僕にとってはよいこと尽くめなのだ。
「しかし……これはどうしたものかな」
目の前には三枚のキャンバスがある。いずれも後宮の庭の花を描いた小さいものだが、すべて真ん中をバッテンに切り裂かれていた。これで通算九枚だ。
「まぁ、姫君たちにとって僕は目障りこのうえないんだろう」
だからといって、こうもキャンバスを駄目にされたのでは困ってしまう。絵もかわいそうだが、なにより新しいキャンバスをまたアールエッティ王国から送ってもらわなければいけない。輸送費のことを考えると、それなりに負担をかけてしまうことになる。
「かといって、ビジュオール王国のキャンバスはあまり質がよくないしな……」
部屋に飾ってあるどの絵を見ても、キャンバスも溶き油も質がよくない。だから画材はすべて国から送ってもらっているのだが、こんな状況が続くのであればそんな贅沢も言っていられなくなる。
「勝手に扉に鍵をつけることはできないし、警備をお願いするわけにもいかないし……。さて、どうしたものか」
そんなことを殿下に願い出れば、何かあったのかと尋ねられるだろう。そこでキャンバスのことを話せば、殿下のことだから姫君たちの仕業に違いないと察するはずだ。それでは妃候補の姫君たちがどんなことになるか……いや、想像するのはやめておこう。
「やれやれ。後宮とは本当に恐ろしいものだな」
対策として手っ取り早いのは、キャンバスを鞄に仕舞っておくことだ。鞄なら鍵がかかるし、さすがに鞄ごとどうこうするとは思えない。
「問題は、鞄に仕舞うと湿気対策ができないことだが……」
侍女にお願いして湿気取りを少しわけてもらうか。塗り終わったものも鞄に仕舞うとなると変色が気になるが、仕方がないと諦めるしかない。
「まぁ、そちらは外にしばらく出しておけば元に戻るから、定期的に出すしかないな」
それよりも問題なのは、絵の具が乾いていないキャンバスのほうだ。こちらは姫君たちが刃を立てないことを祈るほかない。僕は「はぁ」とため息をつきながら絵皿置きにしていた鞄を床に置き、キャンバスを仕舞うことにした。
そうして少しすっきりした部屋で、いま取りかかっている紫陽花のキャンバスに向き合った。一枚は写実性を追求しているが、もう一枚は以前の殿下の言葉を思い出し抽象的に描こうと日々取り組んでいるところだ。
その過程に興味があるのか、今日も殿下が覗きにやって来た。いや、覗きに来たというよりも鑑賞に来ているのに近い。やや斜め後ろに立ち、僕が絵筆を動かすのをじっと見つめている。ときおり「ふむ」と小さな声が聞こえるのは、殿下自身が何かしら考えているということだろう。
(絵に興味を持ってもらえるのは大変よいことだと思うが……)
これほど足繁く殿下に来てもらっていては、ますます姫君たちの反感を買いそうだ。いまはキャンバスへの被害だけで済んでいるが、今後のことを考えると空恐ろしくなる。これからは後宮を出歩くことさえ危ないかもしれないと考えていると、再び「なるほど」という殿下のつぶやきが聞こえてきた。
「どうかされましたか?」
気になって振り返ると、「あぁ、気を散らせてしまったようですまない」と謝罪された。
「いえ、それは大丈夫です。それより、何か気になる点があるようでしたら、ぜひ拝聴したいと思いまして」
「気になるということではないのだが……。何かに見えるなとずっと考えていたんだが、教会にあるステンドグラスに似ていることに気づいたんだ」
「ステンドグラス……」
そう言われて、描きかけのキャンバスに視線を戻した。
「なるほど、たしかに」
抽象的なイメージを広げていった結果、花の境界線が単調になり、たしかにステンドグラスのように見えなくもない。これまで描いたことのない手法のため手探り状態だが、いっそステンドグラスをイメージして描き進めるのもよさそうだと思った。
「このあたりはとくに、そのままガラスで再現してもよさそうだと思わないか?」
「そう、ですね」
急に殿下が身を寄せてきて驚いた。しかも目線を僕に合わせようとしているからか、やたらと顔が近くにある。
かろうじて返事はできたものの、気になって横目でチラチラと殿下を見てしまった。殿下のほうは熱心にキャンバスを見ていて、「なるほど、こうなっているのか」とつぶやいている。
(別に近づかれてどうこうということはないのだが……なんというか、体が熱くなるのがな)
発情を終えてからというもの、殿下が近づくだけで微熱のようなものを感じるようになった。これも発情したΩ特有の現象かもしれないが、体の奥がむず痒くなるような熱に正直少し困っている。
(原因を殿下に尋ねるわけにもいかないしな……)
そもそもαである殿下が知っているとは限らない。かといって同じΩである姫君たちに聞くわけにもいかないし、しばらく様子を見るしかなさそうだ。
「あぁ、これは本格的に邪魔をしてしまっているな。すまない、作業を続けてくれ」
そう言った殿下が肩をポンと叩いて顔を遠ざけた。たったそれだけのことなのに、触れられた右肩がやけに熱く感じる。筆を持つ指先にまでじんわりと熱が伝わり、なぜか鼓動までトクトクと早まった。
(僕の体は一体どうしたのだろうな……)
よくわからない現象に内心首を傾げながら、紺碧色の絵の具を含ませた筆をキャンバスに載せた。
発情から十日余りが経ったが、どうにも落ち着かない。落ち着かないというより、殿下が近くにいるといまだに微熱が出るような感じがして気になってしまうのだ。
「こんなことなら、もっとΩについての本を調べておくべきだった」
アールエッティ王国の蔵書には、まだ未読の本が残っていた。もしかすると、こうしたΩの体調について書かれた本があったかもしれない。出国前日まで書庫に通ってはいたが、画材選びに時間を費やしてしまったため、気になっていた数冊は読まず終いになってしまった。
「……いや、いまさら言ったところでしょうがないか」
僕の体はようやく一人前のΩになったばかりなのだ。今後ほかにも変わったことが起きるかもしれない。微熱くらいでいちいち気にしていたら生活できなくなってしまう。
気分転換でもしようと考えた僕は、後宮から出てベインブルこと宝物庫の部屋から見える庭に向かった。そこには小さな池があり、蓮が植えられている。蓮の花にはまだ早いが、水に浮かぶ蓮の葉というのもなかなか風情があり、最近のお気に入りのスケッチ場所になっていた。
「それに、もう後宮の庭ではスケッチしづらいからな」
もしまたスケッチでもしていれば、間違いなく姫君たちの餌食にされるだろう。今度こそスケッチどころではなくなるはずだ。こんなことなら、せめて妹に勝てるくらいの口と気概を身につけておくべきだったと後悔する。
「……いや、それでは姫君たちとの全面戦争になってしまうか」
それは僕の望むところではない。後宮で生き残るにしても、もう少し穏便な方法で勝者になりたい。そのためにはいち早く僕が子を孕むことなんだが……いまのところ、そういった兆候は感じられなかった。
「いや、焦りは禁物だ」
そのためにも気分転換のスケッチは有効だ。そう思い、片隅に置かれていたベンチに腰掛けてスケッチブックを開く。そうして木炭で池の蓮を描いていると……。
(今日も視線を感じるな……)
シュッシュッと木炭を動かしながら、さりげなく視線を左右に動かす。はっきりとは確認できないが、柱の影に人がいるように見えた。
(後宮でなくても、僕の品定めをしたい人たちがいるということか)
王太子殿下に近しい誰かに頼まれた使用人か、それとも妃候補の姫君たちの親族が手を回した誰かなのか。
「あまり落ち着ける雰囲気じゃあないが、仕方ない」
姫君たちのように話を聞かせようとしないだけよしと思うことにしよう。そう考え、ただ無心に木炭を動かし続けた。
ところが、すっかり元気になって元の生活に戻ってからも、殿下は毎日やって来る。以前も絵を描いているときに覗きに来ていたが、いまは昼食を一緒に取り、時間があれば午後のお茶の時間にもやって来るようになった。執務が休みの日には朝食後からやって来て、ほぼ半日は同じ部屋で過ごすようになっている。
「殿下と食事をともにするのはよいのだが……」
というよりも、一人で食べるよりもずっと食が進む。アールエッティ王国のときのようにはいかないものの、やはり一人よりも二人で食べるほうがおいしく感じるからだろう。
それに芸術に関する会話も弾み、殿下とは随分親交を深められていると思っている。そう、僕にとってはよいこと尽くめなのだ。
「しかし……これはどうしたものかな」
目の前には三枚のキャンバスがある。いずれも後宮の庭の花を描いた小さいものだが、すべて真ん中をバッテンに切り裂かれていた。これで通算九枚だ。
「まぁ、姫君たちにとって僕は目障りこのうえないんだろう」
だからといって、こうもキャンバスを駄目にされたのでは困ってしまう。絵もかわいそうだが、なにより新しいキャンバスをまたアールエッティ王国から送ってもらわなければいけない。輸送費のことを考えると、それなりに負担をかけてしまうことになる。
「かといって、ビジュオール王国のキャンバスはあまり質がよくないしな……」
部屋に飾ってあるどの絵を見ても、キャンバスも溶き油も質がよくない。だから画材はすべて国から送ってもらっているのだが、こんな状況が続くのであればそんな贅沢も言っていられなくなる。
「勝手に扉に鍵をつけることはできないし、警備をお願いするわけにもいかないし……。さて、どうしたものか」
そんなことを殿下に願い出れば、何かあったのかと尋ねられるだろう。そこでキャンバスのことを話せば、殿下のことだから姫君たちの仕業に違いないと察するはずだ。それでは妃候補の姫君たちがどんなことになるか……いや、想像するのはやめておこう。
「やれやれ。後宮とは本当に恐ろしいものだな」
対策として手っ取り早いのは、キャンバスを鞄に仕舞っておくことだ。鞄なら鍵がかかるし、さすがに鞄ごとどうこうするとは思えない。
「問題は、鞄に仕舞うと湿気対策ができないことだが……」
侍女にお願いして湿気取りを少しわけてもらうか。塗り終わったものも鞄に仕舞うとなると変色が気になるが、仕方がないと諦めるしかない。
「まぁ、そちらは外にしばらく出しておけば元に戻るから、定期的に出すしかないな」
それよりも問題なのは、絵の具が乾いていないキャンバスのほうだ。こちらは姫君たちが刃を立てないことを祈るほかない。僕は「はぁ」とため息をつきながら絵皿置きにしていた鞄を床に置き、キャンバスを仕舞うことにした。
そうして少しすっきりした部屋で、いま取りかかっている紫陽花のキャンバスに向き合った。一枚は写実性を追求しているが、もう一枚は以前の殿下の言葉を思い出し抽象的に描こうと日々取り組んでいるところだ。
その過程に興味があるのか、今日も殿下が覗きにやって来た。いや、覗きに来たというよりも鑑賞に来ているのに近い。やや斜め後ろに立ち、僕が絵筆を動かすのをじっと見つめている。ときおり「ふむ」と小さな声が聞こえるのは、殿下自身が何かしら考えているということだろう。
(絵に興味を持ってもらえるのは大変よいことだと思うが……)
これほど足繁く殿下に来てもらっていては、ますます姫君たちの反感を買いそうだ。いまはキャンバスへの被害だけで済んでいるが、今後のことを考えると空恐ろしくなる。これからは後宮を出歩くことさえ危ないかもしれないと考えていると、再び「なるほど」という殿下のつぶやきが聞こえてきた。
「どうかされましたか?」
気になって振り返ると、「あぁ、気を散らせてしまったようですまない」と謝罪された。
「いえ、それは大丈夫です。それより、何か気になる点があるようでしたら、ぜひ拝聴したいと思いまして」
「気になるということではないのだが……。何かに見えるなとずっと考えていたんだが、教会にあるステンドグラスに似ていることに気づいたんだ」
「ステンドグラス……」
そう言われて、描きかけのキャンバスに視線を戻した。
「なるほど、たしかに」
抽象的なイメージを広げていった結果、花の境界線が単調になり、たしかにステンドグラスのように見えなくもない。これまで描いたことのない手法のため手探り状態だが、いっそステンドグラスをイメージして描き進めるのもよさそうだと思った。
「このあたりはとくに、そのままガラスで再現してもよさそうだと思わないか?」
「そう、ですね」
急に殿下が身を寄せてきて驚いた。しかも目線を僕に合わせようとしているからか、やたらと顔が近くにある。
かろうじて返事はできたものの、気になって横目でチラチラと殿下を見てしまった。殿下のほうは熱心にキャンバスを見ていて、「なるほど、こうなっているのか」とつぶやいている。
(別に近づかれてどうこうということはないのだが……なんというか、体が熱くなるのがな)
発情を終えてからというもの、殿下が近づくだけで微熱のようなものを感じるようになった。これも発情したΩ特有の現象かもしれないが、体の奥がむず痒くなるような熱に正直少し困っている。
(原因を殿下に尋ねるわけにもいかないしな……)
そもそもαである殿下が知っているとは限らない。かといって同じΩである姫君たちに聞くわけにもいかないし、しばらく様子を見るしかなさそうだ。
「あぁ、これは本格的に邪魔をしてしまっているな。すまない、作業を続けてくれ」
そう言った殿下が肩をポンと叩いて顔を遠ざけた。たったそれだけのことなのに、触れられた右肩がやけに熱く感じる。筆を持つ指先にまでじんわりと熱が伝わり、なぜか鼓動までトクトクと早まった。
(僕の体は一体どうしたのだろうな……)
よくわからない現象に内心首を傾げながら、紺碧色の絵の具を含ませた筆をキャンバスに載せた。
発情から十日余りが経ったが、どうにも落ち着かない。落ち着かないというより、殿下が近くにいるといまだに微熱が出るような感じがして気になってしまうのだ。
「こんなことなら、もっとΩについての本を調べておくべきだった」
アールエッティ王国の蔵書には、まだ未読の本が残っていた。もしかすると、こうしたΩの体調について書かれた本があったかもしれない。出国前日まで書庫に通ってはいたが、画材選びに時間を費やしてしまったため、気になっていた数冊は読まず終いになってしまった。
「……いや、いまさら言ったところでしょうがないか」
僕の体はようやく一人前のΩになったばかりなのだ。今後ほかにも変わったことが起きるかもしれない。微熱くらいでいちいち気にしていたら生活できなくなってしまう。
気分転換でもしようと考えた僕は、後宮から出てベインブルこと宝物庫の部屋から見える庭に向かった。そこには小さな池があり、蓮が植えられている。蓮の花にはまだ早いが、水に浮かぶ蓮の葉というのもなかなか風情があり、最近のお気に入りのスケッチ場所になっていた。
「それに、もう後宮の庭ではスケッチしづらいからな」
もしまたスケッチでもしていれば、間違いなく姫君たちの餌食にされるだろう。今度こそスケッチどころではなくなるはずだ。こんなことなら、せめて妹に勝てるくらいの口と気概を身につけておくべきだったと後悔する。
「……いや、それでは姫君たちとの全面戦争になってしまうか」
それは僕の望むところではない。後宮で生き残るにしても、もう少し穏便な方法で勝者になりたい。そのためにはいち早く僕が子を孕むことなんだが……いまのところ、そういった兆候は感じられなかった。
「いや、焦りは禁物だ」
そのためにも気分転換のスケッチは有効だ。そう思い、片隅に置かれていたベンチに腰掛けてスケッチブックを開く。そうして木炭で池の蓮を描いていると……。
(今日も視線を感じるな……)
シュッシュッと木炭を動かしながら、さりげなく視線を左右に動かす。はっきりとは確認できないが、柱の影に人がいるように見えた。
(後宮でなくても、僕の品定めをしたい人たちがいるということか)
王太子殿下に近しい誰かに頼まれた使用人か、それとも妃候補の姫君たちの親族が手を回した誰かなのか。
「あまり落ち着ける雰囲気じゃあないが、仕方ない」
姫君たちのように話を聞かせようとしないだけよしと思うことにしよう。そう考え、ただ無心に木炭を動かし続けた。
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