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第三章 紫都と恋の風
素
しおりを挟む洗濯機を回してる間に、宴会席のチェックをしなきゃ。
廊下に出てエレベーターを待っていると、
「桑崎さん、洗剤の匂いがする」
背後から聞き覚えのある声に呼び止められ、振り向いた。
「……え」
けれど、一瞬、誰だか分からなかった。
「何とぼけた顔してるの?」
掠れた声は、間違いなく蛯原さんなのだけど。
「蛯原さん、よね?」
「他に誰がいるの」
早々にメイクを落とし、髪をアップにしたそのナチュラルな姿は、淡白過ぎて別人みたいだった。
眉毛とアイラインで、人はこうも変わるものなのか。
「洗濯なんかして余裕ね。それとも着替え足りなくなったの?」
私が、岡田のシャツを汚してしまった事を話すと、
「かいがいしいー!」
蛯原さんはニタァ!と笑って私をからかった。
「アイツって無愛想だし、ムカつく事いうけど、桑崎さんとはお似合いだと思うわ」
「は?」
何、言ってんの。
あの人、ゲイだってさっきも再確認したのに。
「アイツが桑崎さんを抱っこして運んでるの見た時、ちょっと羨ましかったもん。あれでノーマルなら即効惚れちゃうわ」
「……」
ノーマル、ならね。
さっき見てしまった岡田の裸体が、強烈に瞼に焼き付いていて、あれに抱っこされたのだと思ったら、改めてドキドキした。
二人、エレベーターに乗ったところで。
……そうだ。
「ねぇ蛯原さん」
「ん?」
「岡田さんて、ただのドライバーじゃないですよね? 」
ちょうど、ベテランのこの人に聞いておきたいと思っていた、 ーー岡田の過去を。
すると、蛯原さんが再び、からかうように笑った。
「桑崎さん、鋭いわねぇ」
「あ、何となくです」
ただの添乗員の勘。
蛯原さんが答えた。
「前に仕事一緒にして、1人海外からの留学生が参加した時も、やけに英語話せるから聞いてみたのよ。ずっと運転士だったのかって」
「ええ、それで?」
「そしたら、以前は大手旅行会社の営業してたみたいね。主に法人相手の」
「営業?」
あのぶっきらぼうな岡田が?
人に失礼なことばかり言う無神経男が?
始めは目線さえ合わせなかったあの男が?
「想像できない!」
「だよねぇ!」
それに、なんでまた運転士に転職したのだろうか?
「じゃあ旅行業界のプロなんですね」
「だから、たまに偉そうに説教するのよ!」
鼻の穴を膨らませて言った蛯原さんが、急にソワソワし始めた。
「どうしたんですか? キョロキョロして」
「あ、うん。三宅くんが早めに温泉に行くって言ってたから」
まるで少女のように頬を染める。
「会いたいの?」
「だって、このツアーも明日で終わりなのよ? 夜はもう、今夜で終わりなのよ?」
二泊三日だから、それはそうだ。
「何を期待してるんですか?」
お客様との色恋沙汰は、本当に面倒くさいのに。
「まだ客に女扱いされる桑崎さんにはわからないかもしれないけど、この歳になったら、ビビッと来た出会いには自ら積極的にならないと失っていくばかりなの!」
「……ビビッと、ねぇ」
久しぶりに聞いたし、分からなくもないけど。
「若い子は、きっと素っぴんの大人の女に弱いと思うのよ、特に浴衣姿の」
蛯原さんは、自信ありげに露出した、うなじを指差した。
「そういうものなんですか?」
「ということで、あなたは仕事頑張ってね。くれぐれも私の邪魔しないでよ?」
変な念を押されて、蛯原さんとは別行動へ。
そう。
私は、寝るまで仕事なんだ。
お客様が、良い明日を迎えるために。
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