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第三章 紫都と恋の風

危うい口元

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 『は?』
    
   岡田の、怒ったような声が聞こえてきた。
   いや、

 『何言ってるんだ? お前はその客の家族か?』
     
   完全に怒っている。
  
 「だって、一人なんですよ? ……こんな旅先の病院に。目覚めたら誰もいないんですよ? この先どうなるのかも分からないのに」
     
   この時の私は、気持ちが高ぶって頭が熱くなっていた。
   
 『しっかりしろ! お前の仕事はなんだよ? 旅行参加者全員の行程管理だろ?』
  
   怒鳴る岡田の声が、キーンと耳に響いた。
  
 『お前の仕事は、客が急病の場合、医療従事者にちゃんと引き継ぎをすること。その責任は十分に果たした。よくやったよ』
   
   ーー  ″よくやったよ ″
    
   いつの間にか岡田の声の調子が、柔らかいものに変わっている。
     
   耳から、ホッとするような温もりさえ伝わってきた。
  
 『後は、平等に参加者全員の事を考えてくれ』
   
 「平等に……」
    
   岡田の言葉に、ようやく我を取り戻した。

   一人しかいない添乗員が、緊急で宿泊施設を離れた。
   
   お客さまの中には、旅行が中断されるかもしれないと不安に感じてる方もいらっしゃるはずだ。
   
   それに、 こんな時にもホテルでトラブルが起きてるかもしれない。
 
「わかりました、今から戻ります」

   気の効いた蛯原さんが、搬送時に赤石さんの貴重品と、部屋の荷物も持たせてくれていたお陰で、入院の手続きはそう時間はかからなかった。
 
   が、病院を出る頃には日付は変わっていた。
  
「……寒っ」
     
   昼間はあんなに暖かく、むしろ暑いくらいなのに、夜の風は冷たくて凍えそうだ。
     
   タクシーを呼ぼうとスマホで検索していると、まだ電話もしていないのに、それが目の前に停車した。
    
   後方のドアが開いて、奥の方から低い声が聞こえてきた。
   
「おつかれさん」
    
  岡田だ。
     
  ビックリした。
   
 「……迎えに来てくれたの?」
   
 「本当はバスで行こうかと思ったけど、駐車場から出せなかった」
    
   来てくれたくせに、目を合わさずに話す横顔は、それでも頼もしかった。
  
 「……ありがとう……」
  
   呟くように御礼を言い、一人分の距離を取ってその隣に乗り込む。

  「仕事だからな」
  
  私よりずっと神経も体力も遣う、運転の仕事。
    
  この人の寝不足が心配だ。
    
  そう思いながらも、私の方がタクシーの中で、つい、ウトウトとし、いつの間にか岡田の肩にもたれ掛かって眠ってしまっていた。


   
 「おい、着いたぞ」
     
   揺らす声にハッとして目覚めると、岡田とタクシーの運転手が、やや迷惑そうな顔をして私を見ていた。
 
 「あっ、すすすみません!」
     
   顔を上げると、寝違えたような痛みが首に走った。   
  しかも頬が濡れている。
    
   え、なに、これ。涙?
   違う! 口から!
   てことは、よだれ?!
    
   ギャァァ!と、叫びたいのを抑えて岡田の肩を見ると、やっぱり濡れている。
    
   私、最低!
  
「南部観光バスで領収証を」
    
   不快な顔をした岡田が、それでも冷静に経費としての証明を取っていた。
 
   タクシーから降りてすぐに、
  
 「このトレーナーのクリーニング代も請求するからな。あとでトラベルプロに郵送しとく」
    
   シビアなクレームをつけて、一人、さっさとホテルへと戻っていく。
  
「郵送……って」
    
  どれだけ、仕事以外では顔を合わせたくないのよ。
    
   気だるい足で、自身も戻りながら何気に唇を噛むと、ピリッとした辛味が口の中に広がった。
  
   ん?
   なにこれ?

   私、唐辛子の入ったもの食べたっけ?
   いや。そもそも夕食さえ口にしていない。

 「口、開けて寝てる間に何か入ったかな?」
    
  そんなわけある かい。
   ……と、一人でボケ突っ込み。
    
   色々あったけど、部屋のお風呂に入ってリフレッシュして寝よう。
 
   明日は最終日。
    
   無事に長崎に戻れますように。






 
   
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