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第四章 浩司と転機

本能

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    桑崎の部屋からは、強いニンニク臭と酒の匂いが充満していた。
    精力づけにニンニクでも丸かじりしたのか。
    
    客の木下は、桑崎の上で目を丸くして俺を見た。
  
  「………お」
   
   そして、見たくもないのに、浴衣のはだけた桑崎の貧相な身体を目撃。
 
 「良いところ邪魔しやがって!」
 
    木下に組伏せられ、首を横に振る桑崎の正露丸みたいな目が、確かに涙ぐんでいたから、これはレイプなんだろうと確信。
     
    喧嘩が苦手な俺は、高齢の父親の事を口に出して、木下を追っ払った。
   
    桑崎の顔が安堵で緩んだ。
  
 「ありがとうございました」
    
   礼は良いから早くちゃんと浴衣を直せよ。
    
    俺は、桑崎を見ないように、匂いと熱気の籠った部屋の窓を開けた。
    
   あの男の匂いより、まだ灰の方がマシだろうから。


 「寝坊するなよ」
     
    桑崎にそう言ったくせに。
    俺の方がヤバい。
    部屋に戻ってからも全く眠れなかった。
     
    蒸し暑さと、脳裏を何度もよぎる、見たくもなかった桑崎の、白く痩せた弱々しい身体のせいだ。
     
    俺は中2か?
    悶々とするので、スマホで昔の映画を観賞することにした。
 
   【マイ・プライペード・アイダホ】。
 
    やっぱり、オープニングも、曲もいい。
    何年経っても色褪せない。
   
     がしかし。
     なぜだろう?
     
    一番好きな映画のはずなのに、この夜はぜんぜんストーリーに没頭できなかった。







   ツアー二日目。
   鹿児島は 清々しい朝だった。
  
    涼しいうちに霧島神社の参拝を終えたのはいいのだが、この日もトラブルが早々に起きた。
 
  「このまま進むと、あれを折ってしまう」
    
    公園に向かう途中、一方通行の道にて、桜の木の枝に前方を塞がれてしまったのだ。
 
   ″ 剪定をしてない管理者が悪いし 、 通行時に折ったにしても、その責任は車両にはない ″
    
   そう考えてしまう者もいるかもしれないが、実際はじゃない。
    
   他人の所有物である木の枝を折る事は、 器物損壊罪(刑法261条)になり、 3年以下の懲役、または30万円以下の罰金が科せられる。
 
   何より、桜の木は菌に弱い。
   枝を折ると、そこから病気になったり、再び生えてくるまでに長い時間がかかったりする。
  
 「こんな狭い急斜面をバックするんですか?」
    
    桑崎が外を見て不安気な顔をし、 客からも小さな悲鳴に似た声が聞こえた。
  
    が、下がるしかない。
    蛯原が後方にいた車を、桑崎がバスを誘導した。

    バックモニターがついていても、左右の死角は誘導する人間に頼るしかない。
    過去に、蛯原が笛を使って誘導するのを見たことはあるが、桑崎はどうだろう?
    何となく心配だったが………、

  「オーライオーライ」
    
    桑崎はマイクを使って、ミラーに映る自身の位置と周囲を確認しながら、手振りも交えて正確に誘導した。
  
    変な汗をかきながら、何とか、傾斜の曲がり道を下り、入口にまで戻る事が出来た。
     
    広い沿道でUターン。
    
    誘導を終え、バスに戻る桑崎と目が合った。
    安堵の為なのか、心なしか涙目だ。
   
  「おつかれ………」
    
    思わず俺がそう言うと、桑崎は震えるように微笑んだ。
    
    それを見た途端、ある動物番組にて、沼に溺れた小さな草食動物が、無事に生還した時の感動を思い出した。
    
   少しだけハグをしたくなったのは、本能だろう。












   
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