歌い手始めました

神代ひまり

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3,葛藤

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「久しぶりに一緒に帰るね」

 麻耶は嬉しそうに俺に笑いかけた。体験入学をした次の週の水曜日。前に麻耶の誘いを断った罪悪感もあり、今度は俺から一緒に帰ろうと誘ってみた。麻耶を誘った日はちょうど帰宅が同じだったため一緒に帰ることにしたのだった。

「それにしても、懐かしいね。高校生の頃は毎日のようにこうして一緒に帰っていたのに、大学生になってから時間がなかなか合わなくなって一緒に帰れなくなったよね」

 麻耶は嬉しそうにそういうと笑った。そこまで嬉しい事か?まあ、確かに麻耶と帰るのも数か月ぶりだな。大学の入学式以来か。こうして幼なじみと帰るのも悪くないとは思う。昔はこうしてよく帰っていたんだからそこまではしゃぐことでもないとは思うけどな。笑っている麻耶を見てそんなことを考えていた。

「ところで、前言ってた用事って何なの」
「ん?用事って先週の事?」
「そうそう。用事って何のことなのかなって思って」
「ああ、お前には関係ないよ。気にするな」

 俺が言うと麻耶はそっかと言って黙り込んだ。そこまで落ち込むことじゃないと思うけどな。しかし、多分あいつにとって俺は兄弟同然の存在で俺が隠し事をするなんて水臭いと思うのだろうか。だが、麻耶には悪いがこの事はまだ言うことはできない。一度諦めた歌手をもう一度目指そうなんて、いったいどう思うのだろうか。まあ、考えすぎなのかもしれないが。そのまま麻耶も話さなくなって無言で電車に乗った。今日は平日だったが、この時間は皆帰る時間だったため、電車内は結構混んでいて座るところがなかなか見つからなかった。人ごみをかき分けて座るところを探していると、一席だけ空いている席があるのを見つけた。

「麻耶。座っていいぞ」

 俺が言うと麻耶は驚いた顔でこっちを見た。

「え? いいの? 私が座っちゃって」
「いいっていいってこういうのはレディーファーストだろ。それに俺はあんまり疲れていないしな」
「よっしーがそんな言葉を知っていたなんて驚きだよ」
「お前。前も思ったが一体俺を何だと思ってたんだよ」
「なんでもなーい」

 麻耶は言うと、嬉しそうに座った。これでさっきの機嫌は直ったようだ。まったく。ちょろい奴め。俺はつり革につかまっていると近くにいた女子高校生の会話が聞こえてくる。

「ねえ、見た? 昨日の多重人格特集。意外と近くの人がそうだったりするんだって、もしかしてあんたもそうなんじゃないの」
「なわけないよー。ああ、でもありそう。意外とそんなふうに見えない身近な人がそういうのを隠し持ってたりするんだよね」

 身近な奴が多重人格か。もしかしたら麻耶も意外とそんなものを持っていたり。そう思って麻耶を見る。

「えへへー、よっしーに席譲ってもらっちゃった」

 麻耶はそういい浮かれていた。いや、ないな。だって麻耶は。こういうやつだし。これが演技で裏に人格を隠し持ってたとしたら、十数年にも渡って俺は騙されていたことになる。それは絶対ありえないと思って俺は外の風景を見た。

 麻耶と別れて家に帰る。ただいまーと言って自分の部屋に入り、しばらく携帯をいじっていたら、身に覚えのない番号から電話がかかってきた。しばらく携帯番号を睨みつけていたが、電話を取っておそるおそる携帯を耳にかけた。

「もしもし」
「おおーアッキー君。繋がってよかったよ」

 電話をかけてきた相手は声成さんだったようだ。相変わらず少しテンションの高い声で声成さんは言う。

「この前は急に失礼して悪かったね。いや、このシンガーミクス養成学校はどうだったかなと思ってね」
「いや、とてもいいと思いました。レベルも高いけど、メンバーの皆さんもとても良い人そうなので、多分俺が入ってもやっていけそうです」
「それじゃあ」 
「でも、やっぱりもうちょっと考えさせてください」

 しばらく返答がなく無言が続いたが、少し経って声成さんは言った。

「……そうか。まあ、答えは焦らなくてもいい。急に電話をしてすまなかったね。結論がでたらまた電話してくれ」

 そういって電話は切れた。すぐには答えを出さなかったわけ。俺は本気で悩んでいた。昔に諦めた夢をいまさら追っても、なれるかどうかなんて分からないし。俺は上の空でベッドに寝転がっていた。

「豪。入るよー」

 言いながら入ってきたのは姉貴だった。てゆーか入りながら言うなよ。姉貴は俺を見ると言う。

「歌手だっけ? の養成学校にはもう行ったの? どうだった。」
「歌手じゃなくて歌い手とかいうのだけどな。ああ、行ったよ。正直久しぶりに楽しかったよ」

 本当に楽しかった。久しぶりにこんなにワクワクしたし、新しい出会いも皆との交流もこんなに楽しかったのは高校生ぶりだっただろうか。夢を追いかけていたあの頃ぶり。

「そっか。それなら良かったじゃん。じゃあ、学校には本格的に入るわけ?」
「いや、それは決めていない。正直まだかなり悩んでる。」
「なんで? そんなに悩むこともないじゃん。楽しかったんなら入りなよ」

 そんなに簡単には決められないんだよ。姉貴は短絡的でいいよな。まあ、この人は挫折を知らないからそんなことを言えるんだと思うけど。そう思って姉貴を睨みつける。

「ところで、麻耶ちゃんが来ていたよ」

 はあ?麻耶が何しにだ?せっかく来たんなら俺の部屋にも顔を出していけばよかったのに。

「まあ、とにかく豪が悩んでいるなら余計な口出ししないよ。私はただまあ、傍観しているだけかな。」
「小さいころ、俺が親父の大事なゴルフクラブだと知らないで振り回してる時も傍観してて怒られたよな」

 あれは傍観していないで流石に止めてくれても良かったんじゃないかなと今でも思う。あの後どれだけ親父に怒られたことか

「だって、面白そうだったんだもの。その後怒られてるのも予想の範疇だったし」
「こいつ人間じゃねえ!! きっと悪魔かなんかだ」
「私が悪魔なら血がつながっているあんたも悪魔になるけどね」

 うっ……それは確かにそうなる。

「でも、まだまだ、豪は若いんだからもうちょっと色々なことに挑戦してもいいと思うよ。これは人生の先輩からのアドバイス」

 若いって。姉貴も俺と二歳しか歳は変わらないだろ。姉貴は部屋を出て行こうとしながら言った。

「もうご飯ができたから早く降りて来て食べたほうがいいよ。麺が伸びちゃうから。って遅いか」

 いや、そういう事は早く言ってよ。俺が部屋から降りてラーメンをすすると、もうだいぶつゆを吸っていて麺は伸びていた。親は俺を見て呆れて言う。

「よくこんなになるまで放っておいたね」

 俺のせいじゃねえよ!?ちくしょう。なんで話す前にその事を言わないんだ。バカ姉貴。鬼!悪魔!!くそ姉貴!!!なんてことを直接言うとぶっ飛ばされかねないので心でそう言いながら麺をすすった。
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