五番目の婚約者

シオ

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 その夜を穏やかに眠れたのは、イェルマのおかげだった。一方的に虐げられ、体を暴かれている様子を感じて、俺の中にはヴィルヘルムに与えられた恐怖が蘇っていた。今更、ヴィルのことを憎く思ったり、怒りを抱いたりということはない。ただ単純に、あの時感じた恐怖が、俺の中に現れてしまったのだ。

 イェルマの両腕が俺をしっかりと抱きしめてくれた。毛布に包まれて、寒さに震えることなく、朝を迎える。恐怖は薄れ、あれは一体何だったのかという疑念だけが俺の中に残った。

 ロア族の言葉を話していたのだから、彼らはロアの民なのだろう。だが、ロアの人々は同性愛など認めない。人として間違っていると言い、唾棄するのが彼らのはずだ。幼い俺の記憶では、そうだった。この数年の間に彼らの価値観が変わったというのだろうか。

 昨夜のことを俺はイェルマに話せないでいる。ロア族の男たちが、犯したり、犯されたりしていた。そんなことを口にもしたくなかったし、イェルマに説明するのも嫌だった。あれは何かの間違いだったと、そう思うことしか俺には出来ない。

「ノウェ様」

 馬に乗りながら、ゆっくりとした歩みで進んでいく。そうして半日ほど過ぎた頃、イェルマが俺の名を呼んだ。イェルマの方を向けば、イェルマは前方を指さして俺の視線をそちらへ促す。

「……誰か、いる」

 随分と遠くて、人がいるということしか分からない。どうやら馬に乗っているようだ。草原のただなかで、馬に跨りながら一人ぽつんと佇んでいる。あんなところで、何をしているのだろう。もしかして、俺たちを出迎えてくれているのだろうか。

「おそらく、族長です」
「……え?」
「我々の到着を待っていてくださったのでしょう」

 あれが父だというのか。あんなに小さな姿が、父だなんて信じられない。遠いから、小さく見えるだけなのだろうか。幼いころに見た父の背中は大きかった。今見えている姿とは、どうしても一致しない。

 それでも、ゆっくりと近づいていてその面貌が詳細になっていくと、確かにそれが父であると理解した。自分より背丈は大きいのだが、それでも記憶の中の姿よりはうんと小さい。

「おかえり、ノウェ」

 互いに馬に乗ったまま、近づく。ジュ・ロアの血を引く証である長髪だ。色は黒いが、白髪も随分と混じっている。年の頃で言えば、アリウス様と大差無いはずなのだが、その皮膚に刻まれた年輪はアリウス様より深くて、とても濃い。

「……ただいま、戻りました」

 それ以上の言葉が出てこない。言いたいことがたくさんあったはずなのに、何を言えばいいのかが分からないのだ。戸惑いながら言葉を返す俺を、父の目がじっと見つめる。口元を僅かに上げて微笑んだ。

「トノアに似てきたな」

 それは母の名前だった。俺は、その姿を知らない。母が命と引き換えに俺を生んでくれたから、俺は生きた母を知らないのだ。けれど父がそう言うのであれば、俺は母に似ているのだろう。父にはあまり似ていない。

「イェルマも。久しぶりだな」
「御無沙汰しております」

 父は、俺の傍らに立つイェルマにも声を掛ける。馬に跨ったままではあったが、イェルマは頭を下げた。思慮深い瞳で俺たちを見つめる父。優しい目をしていた。それは、異国の男に、息子を嫁に出す父親の目なのだろうか。

「さあ、おいで」

 翻し、進みだす父を俺たちは追う。沈黙だった。誰一人として口を開かず、重苦しい空気が満ちる。七日をかけて目的地についたというのに、誰も到着を喜ばなかった。突然、ロアの族長が現れたせいで、皆の口が重く閉ざされてしまったのだ。

 出迎えは、父だけだった。盛大な歓迎を受けるとは思っていなかったが、それでも、リオライネンとの友好の為、長年故郷を離れていた俺に対し、労ってくれる人が何人かいてくれても良いのではないだろうか。そんなことを考えるのは、傲慢だろうか。

 少しずつ幕屋が現れ、そのそばで人々が日常の生活を送っている。馬に乗って通り抜ける俺たちを、ロアの人々が不躾な目で見ていた。特に俺を見ては、口元を隠してこそこそと何事かを囁き合う。

「あの赤髪って……」
「そうそう……あの、アレよね」

 居心地の悪かった宮殿での日々を思い出す。あの時も、こんな風に囁かれたり、陰口を言われたりしていた。まさか、故郷に戻って来てもそのような冷遇を受けることになるとは。悲しさと悔しさで胸がいっぱいになる。こんな帰郷を望んでいたわけではなかったのに。

「あいつって確か、男の……」

 男のくせに嫁になったやつだ、とそう言われたのだと思う。言葉の後半はよく聞き取れなかったけれど、きっとそう言ったのだ。集落には女や子供、戦士になれなかった男たちばかりがいた。そんな彼らが俺を見て、嘲笑を込めた囁きを繰り返している。

 ロア族は、それぞれの氏族や、いくつかの家族で集落を形成し、各地で放牧を行いながら生活している。父が居を構えるこの集落には、二十程度の幕屋があるようだった。

「ノウェ、中へ」

 ひとつの大きな幕屋の前で父が馬から降りる。使用人のような男が、父の馬を預かって去って行った。幕屋の中に入っていった父を慌てて追いかける。ヘカンテは、イェルマが手綱を持っていてくれた。

 幕屋の中では、胡坐をかいて座る父が俺を待っていた。何枚も絨毯を敷いた床とも言うべきそこに腰を下ろし、俺を見ている。対峙するように、俺もその場に座り込んだ。近い距離に、父がいる。それはとても、不思議な光景だった。

「この幕屋は、私の所有物の一つだ。滞在中は、ここで寝泊まりすると良い。随行の者たちにも幕屋を用意している」
「ありがとう……ございます」
「リオライネンの皇帝陛下から、ノウェが里帰りすると聞いて驚いたが、こうして再会出来てとても嬉しい」
「……俺も、……です」

 何をどう話せばいいのかが分からないまま、沈黙の帳が落ちる。言葉が出てこない俺と同じように、父も何から語れば良いのかというような困惑を見せる。そんな折に、幕屋の外から声が聞こえた。

「父上、お呼びでしょうか」
「ああ。入れ」

 聞き覚えの無い声だ。だが、目の前の父を父上と呼ぶ以上、俺の兄弟なのだろう。幕屋に入ってきた人物を見ても、それが誰なのかが分からなかった。体格がよく、高い背丈を満たす豊かな筋肉がついている。立派な若武者だった。

「ノウェ、覚えているか。サリだ」
「サリ……、えっ、サリ!?」

 サリ、という名を口にして、少しばかり考え込む。そして、それが俺よりも五つ年下の弟の名前だと思い出す。信じられなくて、俺は俺の隣に腰を下ろしたサリを凝視してしまった。

 五つ年下ということは、今は十三歳だ。だというのに、幼さが微塵もない。発育が良いにも程がある。同じ父の種から芽吹いたにしては、俺とサリは全く別物の体だった。これで十三歳だなんて。これから成長したら、さらに強靭な肉体を得ることだろう。

「サリ。お前にとっては、すぐ上の兄になるノウェだ」

 立派に育った弟の存在が愛おしくて、俺は一心にサリを見つめるが、サリは微塵も俺を見なかった。そうして察する。歓迎されているわけではないのだ、と。気持ちが沈むことは避けられず、気落ちしたまま俺は父を見る。

「ノウェ。私は次の族長に、サリを指名した」

 ロア族は末子相続。一番下の弟が、父の後の族長になることは分かっていた。申し分ない戦士であるサリを後継者に指名することが出来て、父も胸を撫で下ろしていることだろう。俺では不足があった。だから、さらに子供を設けてサリを生み出したのだ。

「おめでとうございます」

 額づいて、サリに頭を下げる。兄弟であっても、たとえ相手が弟であっても、サリが次の族長であるなら、身分が上になるのはサリなのだ。頭を下げると結んでいなかった髪が肩から流れ落ちて、絨毯の上に赤が散らばる。その様を見て、サリが鼻で笑った。

「益荒男(ますらお)には程遠い、手弱女(たおやめ)のようだ」

 驚きながら、顔を上げる。俺は今、侮辱を受けている。長年顔を合わせていなかった実の弟に。そして、いずれ一族を率いる族長に嘲笑されている。そのことに気付いて、俺は愕然とした。

「なるほど。これでは、男でありながら男の嫁になったなどというのも頷ける」

 顔が熱くなる。恥ずかしさを感じたからではない。強い怒りが湧いたからだ。確かに、望んでヴィルヘルムの嫁になったわけではない。騙されて、利用されて、その地位を押し付けられたのだ。

 だが今は、リオライネンの皇帝であるヴィルを尊敬する気持ちがある。そんな皇帝を支えなければいけない皇妃の、重責も感じる。何も知らない奴に鼻で笑われて、侮辱を受けるいわれなど、どこにもない。

「次の狩りの準備がありますので、俺は失礼します」

 父の方だけを見て、頭を下げて、サリはそそくさと去って行った。握り締めた拳が震える。このまま、床を殴りつけてやりたい気持ちに駆られた。どうして父は、サリと俺を会わせたのだ。こんな気持ちになるのなら、会いたくなどなかった。

「すまない。ノウェ」
「……ロアの人々の中で、俺がどういう扱いを受けているのかが分かりました」

 溜息を吐きながら、額に手を当てた父が謝罪を口にする。俺の帰郷が歓迎されていないだけならまだしも、ヴィルヘルムの妻になったことを嘲笑されているとは思わなかった。楽しみにしていた里帰りの妄想が、全て瓦解する。

「ノウェの存在があるからこそ、我々が変わらぬ日常を過ごせているということに、皆、気付かないのだ」

 溜息を混ぜながら吐き出す父の言葉には、苦悩が込められていた。父の顔に刻まれた皺たちは、ただ単に加齢が原因であるというわけではなさそうだ。俺の目には、父が苦しんでいるように見える。

「リオライネンは、何度もロア族を併合しようとしてきた。この土地には、彼らが欲するものなど何もない。ただ、領土を拡大するため。そのためだけに、彼らは我々の土地をリオライネンの一部にしようとした。先の皇帝の時は、特にその動きが激しかった」

 先の皇帝、つまりはアリウス様だ。あの方の皇帝としての使命は、帝国の領土を広げることだった。あまねく全てをリオライネンに併合して、そうすることによって平和を生み出す。そのための版図拡大だった。

「もし、そのようなことになれば、ロアの戦士たちは徹底抗戦を叫ぶだろう。だが、彼らはリオライネンがどのような武器を持っているかさえ知らない。ノウェは見ただろうか?」
「……見ました。様々な銃や大砲、今は毒を使った化学兵器を開発しているようです」
「対して、我々は弓と剣だ。野を駆ける狐や兎は仕留められても、鉄の塊には勝てない。それを戦士たちは頑なに受け入れない」

 アナスタシアが教えてくれた。日々、銃の開発は進んでいて、射程距離が延び、連続で射出出来る弾数も増え、女性でも扱えるように軽くなったりもしている。彼女たちが日夜、努力を惜しまず研究と実験を繰り返している姿を見てきた。

 今なら分かる。どれほど屈強な戦士であったとしても、銃を持ったアナスタシアにすら勝てないだろう。弓と剣で戦える時代は終わってしまった。戦士であるという誇りだけを支えに生きる人々には、受け入れがたい事実かもしれないが、それが現実だった。

「戦士たちが勝手に、争いの中で死ぬのは良いだろう。戦場で死ねるのなら、彼らも満足なはずだ。……だが、弱き者はどうなるのか。夫や子を亡くす女たちは。戦士になれなかった男たちは。父や兄を亡くす子供たちは」

 リオライネンは、敗戦国の民を虐げたりしない。奴隷にしたり、強制労働をさせるようなことはしないと、本を読んで学んだ。だが、父が案じているのはそういうことではないのだろう。

 戦士たちは無責任に戦いに興じ、高揚のまま戦死したとして。そうして、無責任に世間へ放り投げられる弱き者たちをどうするのかと危惧している。本当に守るべきは、弱き者たちのはずなのに、と。

「ロアの族長として、数十年務めた。そして、分かってしまったんだ」

 父を、詰ろうと思っていた。俺を捨てるようなことをして、と責め立てる気持ちもあった。だが、それらが静かに消えていく。父は苦悩していた。進んでいく世界と、立ち止まり続けるロアの間で、父は呻吟していたのだ。

「ロア族の限界が」


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