すべては花の積もる先

シオ

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 考えもしなかった。弟に、求愛されるなんて。
 どちらの弟も大切で、大好きだ。だが、その感情が愛なのかと問われると、私には途端に自信がなくなる。どうして、愛している、だなんて大層な言葉を口にすることが出来るのだろうか。私は、愛の正体すら掴めていないというのに。

「トーカ」

 その声が私の意識を呼び起こす。はっとした時には、私の体は自室にあった。あの崖ではない。ズーユンの塚が静かに佇むあの崖で泣いて、レンに抱きしめられて、そして愛を告げられたと言うのに、どういうわけか私は座り慣れた椅子に腰を下ろしていた。傍に立つレンが、私を見下ろしている。

「あ……ごめん、何だった?」
「零してる」
「え? あっ……!」

 指摘されてやっと気付いた。私の手には茶器が握られており、それが僅かに傾いているせいで、器の縁から少しずつ茶が零れ落ちていたのだ。慌てて茶器を机に置き、机を拭こうと拭くものを探すが、わたわたと慌てるだけの私よりも先にレンが机を拭いてくれていた。

「せっかく淹れてくれたのに、ごめんね。レン」

 少しずつ記憶を取り戻す。私は己の足で、あの崖から帰ってきた。途中、何度か休みを挟みながらではあったが、それでもレンの手を煩わせることなく帰ってくることが出来たのだ。辿り着いた己の部屋の中で、ぐったりとして椅子に座り込んだ私に、レンはすかさず茶を淹れてくれた。そして私はぼうっとして、それをこぼしてしまったと言うわけだ。

「俺こそ、ごめん。……トーカはぼんやりしていたのは、俺が変なことを言ったせいだ」

 机を拭くレンは少し俯いていた。長く伸びた前髪が、レンの表情を隠してしまう。一体、どんな顔でそんな言葉を口にしたのだろう。私は思わず座ったままで、私のそばに立つレンを抱きしめる。

「変なことじゃないよ。私は、レンの気持ちを教えてもらえて、嬉しかった」

 愛とは、きっと崇高なもの。尊くて、大事なものだ。目に見えない不確かなそれを、多くの人がそう言って称える。だからきっと、そういうものなのだ。だと言うのに、私の態度のせいでレンに愛の告白を、変なこと、などと称させてしまった。嬉しかった。それは嘘ではない。嫌われているよりは、愛してもらえている方が幸せに決まっている。

「でも、それがトーカを悩ませてる」

 レンは苦しそうにそう言った。抱きしめながら顔を上げれば、前髪に隠れたレンの表情がよく見えた。どうすれば良いのだろう。大切な弟を、苦しめたいわけではない。ただ、今までと同じように共に手を取り合って穏やかに生きていくことが出来たのならば、私はそれだけで満足なのだけれど、それではいけないのだろうか。

「人を愛するって……どんな感じなんだろう。私が、レンやスイを好きだって思う気持ちとは、違うものなのかな」

 これこそが愛です、と教えられるまでもなく、人々は愛を語る。その胸に宿るそれぞれの愛は、全く同じ形をしているのだろうか。分からない。大切だと思う気持ちを愛と称して良いのなら、私だって弟たちを愛している。けれども、何かが違うのだ。名状できない何かが、明確な差異として存在している。

「トーカの気持ちの中に、独占欲はある?」
「……独占欲?」
「俺にはある。トーカをずっと、独占していたという気持ちが、もうずっと胸の中にある。トーカが毎晩、あいつの部屋に通うことが嫌だし、あいつがトーカに触れるのも嫌だ」

 口数の少ないレンが、饒舌に語った。独占欲。誰かを自分だけのものにしたいと思う感情。言葉としては知っているし、理解している。だが、それが自分の中に強く感じたことはないかもしれない。誰も私に独り占めされたくはないだろうし、私を独り占めしたいと思う人がいるとも思えなかった。今こうして、レンの言葉を聞くまでは。

「口付けだってしたいし、俺のものを突っ込みたいとも思う」

 あけすけな言葉に面食らう。あまりにも直接的な言葉に、私は驚いてしまった。レンの中にも、そういう気持ちがあるのかと戸惑いも抱く。基本的にレンはとても淡白で、感情や気持ちを表に出すことがないのだ。今だって、感情を読み取れない顔をしてそんなことを言っている。私は恥ずかしがれば良いのか、不思議がれば良いのか分からなくなった。

「でも……私は、男なのに……?」
「そんなことはどうでもいい。俺はトーカが好きなんだ。他の女も、男も、どうでもいいんだよ。トーカしか見えない」

 男が男に抱かれることが可能であることは、知っている。この街には男娼と呼ばれる存在だって、多くいた。そう言う行為があることも、同性同士の間で交わされる愛があることも分かっている。ただ、自分がその対象にされることに驚いてしまうのだ。

 大抵、男は女に惹かれるものだ。理由はなく、それが道理とされていた。そう言う生き物なのだと、誰もが理解している。だと言うのに、私の弟たちは揃いも揃って男である私が良いと言う。否、そうではないのだ。性別など関係なく、私という存在を欲してくれている。喜んでいる場合ではないのだろうけれど、求められることは私を喜ばせてしまった。

「今のままじゃ……駄目なのかな。私は、二人と仲良く過ごせたら、それで十分だよ」
「トーカは優しくて、俺たちに甘い。だからこそ、俺たちはもっとトーカが欲しくなる」

 私は変わらないことを望んだ。だが、レンは選択を迫っている。私の我儘には、もう付き合えないと言うことなのだろう。レンを見上げていた視線を下ろし、レンの腹部に己の顔をうずめた。そんな私の頭をレンの手が撫でる。これでは、いつもの逆だ。

「悩ませて、ごめん。……選ぶ苦しみを押し付けて、ごめん」
「謝るようなことじゃないよ、レン」
「でも、我慢が出来なくなった俺たちが悪い」

 申し訳なさそうに眉尻を下げるレンの頭の上に、ぺたりと垂れる耳が見えた。どうしても、レンを大きな犬のように見てしまう時がある。それは彼を野良犬だと思っているわけではなく、レンに犬っぽさがあるからなのだ。私はゆっくりと立ち上がり、レンの頭をそっと撫でた。こうすれば、レンの頭の上の耳は立ち、腰から生える尾がぶんぶん揺れると知っている。

 何も答えを出せないまま、私は決断を誤魔化した。逃げているだけだということは分かっていた。選択を迫らないレンに甘えたまま、日常をいつも通りに過ごしていく。日が暮れればレンと共に夕食を摂り、さらに暗くなればスイの部屋へ行くために自室を出る。そんな私を見送ったレンの頬は、少し膨らんでいた。つまりこれが、レンの独占欲。私をスイのもとへ行かせたくないと思う気持ち。私も、誰かに独り占めされたいと思われる人間だったのか、と妙な感慨を抱いた。

「行かないで欲しい」

 扉を超えて、一歩部屋の外へ足が出る。そんな瞬間に、レンがそう言った。ぽつりと漏らされたその言葉が、私の後ろ髪を引く。体が二つあれば良いのに、と心底思うのだ。そうすれば、悲しそうな顔をしているレンを抱きしめることと、自室で私を待っているであろうスイに会いに行くことが同時に出来るのに。

 己の胸の中に芽生え始めていた感情を、じっと凝視する。抱きしめたいし、抱きしめて欲しい。衣服を脱いで、互いの温もりを感じ合いたい。レンとも、スイとも。己の浅ましさに眩暈がした。おもてに笑みが浮かんだが、それは自分自身を嘲笑うための笑みだった。

「私……可笑しくなっちゃったのかな。それとも、もとから強欲だったのかな……、レンにも、スイにも、……触れて欲しいって、思っちゃうんだ」

 どちらも大切で。そんな大切な弟たちに求められていて。それを嬉しいと感じてしまう。私はきっと強欲で、多情なのだ。いつから私はこんな人間になっていたのだろうか。高潔な人間になろうなどと大層なことは考えていないが、それでも清廉でありたいとは思っていた。だというのに、私の今の心の有り様は目指したものと真逆になっている。

「……トーカ?」
「ごめん。気にしないで」

 小さく呟いた言葉たちは、レンには届かなかったらしい。立ち尽くした私を、レンが心配そうに眺めていた。そんな彼から逃げるように、私は身を翻して歩き出す。足を運ぶ速度は、いつもより幾分か早い。だからこそ、スイの部屋にはすぐに辿り着いた。この屋敷の中で最も立派な扉を開いて開ければ、すぐそこにスイが立っている。いつもこうなのだ。ここで私の到来を待ってくれている。嬉しそうに微笑むスイを見て、私の心は一瞬の幸福を、永劫続くかのような苦悩を味わった。

「どうかしたの、兄さん。あの犬が、何かしでかした?」

 弟たちはとても過保護で、私が苦悶の表情を浮かべているとすぐに心配そうに眉を下げるのだ。スイの部屋の中は、燭台の灯りに満ちていて、夜だというのにとても明るい。だからこそ、スイの顔がよく見えた。整った顔立ちが、一心に私を見ている。そんな弟の前で、私はゆっくりと顔を左右に振った。レンは何もしていない。私を苦しめているのは、己の多情さだ。

「ねぇスイ、……私が決めきれないでいると、みんなが苦しいんだね」
「あいつが兄さんに、決断を迫った? それとも、俺の態度が兄さんを急かしている?」

 どう答えれば良いのか分からず、言葉を何も紡げなくなった。レンに決断を迫られたといえばそうだし、スイの態度が私を急かすということもある。だが、それらは全てどっちつかずな私のせいなのだ。私が初めからどちらかを選んでいれば。もしくは、弟は弟でしかないと深い関係になることを拒んでいれば、こんなことにはならなかったのだ。

「このままでいれば、一番幸せだと思ってた。何も不満はなかったし、二人と仲良く出来るなら、私はそれが嬉しかったから。……でも、もう駄目なんだね。……このままでいることも、どちらかを選ぶことも、苦しい」

 スイの寝室に進むことなく、その手前の執務室で私たちは立ち尽くしている。足を進める気力が湧かなかった。座り込んでいないだけ、まだ私の足は頑張っている方だと思う。今にも倒れてしまいそうな弱々しい私の体を、スイがそっと抱きしめた。優しい抱擁だ。何故かとても泣きたくなる。

「ごめんね、兄さん。兄さんが苦しむって分かっていても、俺たちは選んで欲しかったんだ。どちらかが選ばれないことも分かってる。それでも……、自分が選ばれたらっていう都合の良い夢を見る」

 留まり続けることも、引き下がることも出来ない。気付かぬうちに、私たちはそんな場所に追い立てられていたようだ。唇を噛み締めながら視線を上げる。スイを見るのではなく、部屋に備え付けられた窓を見た。

 その窓からは、私の部屋が見えることに気付く。もう何度もこの部屋で夜を過ごしていると言うのに、今までずっと気付かなかった。レンはもう眠っただろうか。それとも、忠犬の如く私の帰りを待っているのだろうか。スイの腕に抱かれ、その心地よさを味わいながらも、レンのことを考えて彼を案じている。私の心は、あまりにも平等だった。そんな平等を、弟たちは嫌っている。

「兄さん、……俺はもちろん、俺を選んで欲しいよ。でも、無理強いはしたくない。俺は、兄さんに求められたいんだ。心の底から欲してほしい。あまり上手く言葉に出来ないんだけど……俺の言いたいこと、わかる?」
「うん、わかるよ」

 痛いほどに分かる。やはりスイは、優しい。強いようと思えば、どんなことでもスイは他者に強いることが出来る。それだけの力と権力を持っているのだ。だが、それを私には行使しない。一度、スイは私のことをぎゅっと抱きしめた。そしてゆっくりと、腕に込めた力を解いていく。

「兄さんがこの部屋に来てくれるのは、ひとまず、今夜まででいいよ。きっともう、俺は我慢できないから。……兄さんを抱いてしまう」

 スイの両手が私の肩に乗せられて、微かな力を込めながら私を遠ざける。その時のスイのおもてには、大きな苦しみと痛みが浮いていた。それらの苦痛を押し込めるようにして、微笑んでいる。見ているこちらの胸を突き刺すような笑みだった。こんなスイの表情を、私は今までに見たことがない。

「心が定ったら、会いに来て」

 あの夜から――、ズーユンが死に、レンの腕が折られ、バイユエがヘイグァンを打ちのめしたあの夜から、もう三月経った。その間、私は殆どの夜をスイと過ごしていたのだ。共に湯浴みをし、体に触れ、後ろの孔に指を入れられる。そんな毎夜に慣れて来て、そうして触れられることを望み始めてしまっていた。けれど、それも今日までだとスイが言う。このまま触れ続けたら、抱いてしまうから、と。

「その時は必ず、兄さんを俺だけのものにする。俺のものをねじ込んで、孕むまで腹の中に精を出して、兄さんの全部を愛したいんだ。抱きたいし、口付けをしたい。……覚えておいて、兄さん。俺の欲望は、そういうものなんだよ」

 強烈に雄としての欲を晒しながら、スイはそう言った。恐ろしさを感じる言葉だと言うのに、悲しげな笑みで言われているせいか恐怖を抱くことはない。ただただ、胸が締め付けられるだけだった。スイとレン。二人の弟が、私に向けて手を差し伸べている。掴める手は、どちらかの手だけ。

 どちらかを選ぶということは、どちらかを選ばないということ。
 果たして私に、その覚悟があるのだろうか。
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