下賜される王子

シオ

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◆ 第二章 異邦への旅路

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「餅がすっかり冷めてしまったな」
「熱いのは得意じゃないから、丁度いい」

 手にした揚げ餅はすでに熱を失い始めていた。だが、手に丁度良く馴染む温度だ。冷め切っているわけでもないし、私にとっては食べやすい温度だった。

 私たちは先ほどの女性たちと別れ、歩を進める。清玖は、極力人のいないところへ向かって歩いているようだった。彼の歩みに合せて、私は足を動かす。

「あんなに多弁な女性を初めて見た」
「女性というのは、概してあんなものだ。妹もよく喋るしな」
「そうなのか? 一番接する女性というと、私の場合は朱華になるが、朱華があんなに話しているのは見たことが無い」
「いやぁ……朱華殿は貴婦人の鑑みたいな人だからなぁ。ああいう風には喋らないかもしれない」

 清玖にとって先ほどの婦人たちは珍しい存在ではないらしい。だが、私がよく知る朱華と婦人たちは別の存在であるようだ。外の世界に対する知識が増える一方で、それに伴う新たな疑問も誕生していた。

「美味しい」

 揚げ餅をひとくち口に含んで、意識せぬ間にその言葉が口から出ていた。ぱりっとした触感の薄い表皮の下には、もちもちとした餅が。更にその下はたくさんの餡子で満ちていた。柔らかいままの餡子が口内に広がって、一気に味覚の全てが甘味に支配される。

 私が口にしたこの揚げ餅を、先んじて淡月と葉桜が食べていた。それは毒見だという。普段から、黒珠宮でもそのようなことをしているらしいが、初耳だった私は、毒見という行為そのものに驚いてしまった。

「凄く美味しい」

 何度も味を楽しんで、嚥下する。喉を滑り落ちるその瞬間にすら、甘い余韻を残していく。こんな美味なるものが、屋台では簡単に売られているなんて、驚嘆に値する事実だった。

「こんなに甘いものは、初めて食べた」
「甘味は控えていたのか?」
「私の意思で控えていたわけではないが、あまり卓に出たことはない。きっと、甘いものを食べすぎて体型が醜くなったり、病になったりするのを防いでいたんだと思う」

 こんなに甘く、美味なものがあると知れば、きっと私は好んでこればかりを食べていたはずだ。偏った食事は万病を招き、甘いものの大量摂取は私の体を見難く歪めていたことだろう。

「吉乃の体型がどうなっても、俺の気持ちは変わらない。病になるのは嫌だけどな」

 何気なく付け加えられた一言で、私がどれほど幸せな気持ちになるのかを、きっと清玖は知らない。そんな気もなく、こうして私を嬉しがらせてくれるのだ。

 手に持っていた揚げ餅も無くなり、あと二、三個は食べられそうだと甘い味を思い出す。歩き続けると、どんどんと屋台の数が減っていった。市場の終端へ来たのだろう。そこには荷馬車やら牛車が並んでおり、屋台の裏側といった様子だった。

 揚げ餅を包んでいた紙は、私が食べ終わった絶妙な瞬間に淡月が手を出して受け取ってくれた。手ぶらになった私は周囲をぐるりと見回す。

 人々は横目でちらちらと私たちを見ているが、誰も近寄ってきたり声を掛けてきたりはしない。この場には男が多かった。馬車や牛車から荷物の入った木箱をおろし、それを運んでいくようだ。屋台では女が売り、売り物は男が運んでくるという構図なのだと思う。

 ふいに、視界の端で黒が映った。見慣れた己の色だ。見落とすわけがなかった。一体何の黒色なのかと視線が追いかける。空き箱となった木箱の上に、一匹の黒が寝そべっていた。黒い猫だった。

「清玖、あそこに猫がいる」
「本当だ。綺麗な黒猫だな」

 己の前脚を舐めながら、優雅にのんびりとしている黒猫。私と同じ色を持つそれに、引き寄せられるようにして近づいた。人の腰ほどまでしかない木箱の高さに合せて、膝を曲げる。猫は逃げることなく私を見ていた。黄色い二つの目が、私を捉えて離さない。

「宮様。獣に近付くのは危険です」

 進む私の足を、近衛である葉桜の声が止めた。私の手はもう少しで猫の体に触れそうであったのに、その直前で硬直する。私の体は素直に止まるが、心の中では不満でいっぱいだ。

「しかし、葉桜、……獣といっても猫だ」
「いいえ、宮様。猫は牙と鋭い爪を持つ、立派な獣です」
「……淡月、駄目だろうか」

 葉桜が駄目だというのだから、素直に従わなければならない。だがどうしても触れてみたいのだ。駄目もとで、という気持ちで淡月に問う。淡月は酷く苦しそうな顔をして私の問いに対する答えを口にした。

「本音を申し上げるのであれば、御手は触れないで頂ければと……」
「淡月までそのようなことを申すのか」

 淡月であれば、承諾してくれると思っていたのだが、私の願いの通りにはならなかった。体が自然と項垂れてしまう。黒猫はこちらをじっと見つめ、ゆらゆらと尾を振っていた。その動きはまるで、私を誘っているようだ。

「吉乃。ああいった生き物は、怖い病を孕んでいたりするんだ」
「……近くで見ているだけ、というのでも駄目か?」

 清玖の忠告に対し、私は最後の抵抗を試みる。すると、清玖と葉桜、そして淡月が互いに顔を見合わせ審議を始めた。この三人はまるで私の保護者のようだ。否、まるで、ではなく実際に保護者なのだろう。彼らによって私の安全は保たれている。

「見るだけなら、許してやっても良いのでは……」
「しかし、突然襲い掛かって来て宮様に万が一のことがあってはなりません」
「……宮様を害する気配を感じた瞬間に、我々近衛が排除しましょう」

 審議の結果が出たようだ。続く言葉をじっと待った。

「宮様、絶対に御手を触れないと、この淡月に御誓い頂けますでしょうか」
「ああ、誓う。絶対に私からは触らない」

 淡月のその妥協の言葉に、私は項垂れていた顔を勢いよく上げて何度も頷いた。許しが下りて、私は木箱の上で寝そべっている黒猫にそうっと近づく。横になる黒猫の掌がよく見えて、輝くような桃色の肉球が私の眼前に晒された。

「凄い……、本物の猫だ」

 触りたくなる気持ちをぐっと堪えて、耐え忍ぶ。近い距離で眺めていても、黒猫に逃げる素振りはなかった。清玖が私の隣に立ち、私と似たような距離感で黒猫を眺める。宝玉にも思える眼が二つ、私を捉えて離さない。

「吉乃は猫を見たことがないのか?」
「内苑に入り込んだりしている猫を何回か見たことがある。でも、こんなに近くで見るのは初めてだ」

 猫が逃げてしまわないか不安になりながら、そっと黒猫の隣に腰を下ろす。木箱の上に座ることに対し、淡月が一瞬驚いた顔を見せたが私は気付かなかったことにした。

 突然、猫はすくっと立ち上がる。そのまま逃げてしまうのかと焦ったが、そうではなかった。黒猫は私の膝の上によいしょと登り、そこで丸くなって目を閉じたのだ。

「淡月、私からは触ってない」

 一瞬、淡月の気配がざわついたのを感じとり、私は慌てて弁明をした。無罪を主張するように、両手を軽く上げて触っていないというのを主張する。淡月は、小さく一度溜息を吐いたあとに、優しく二度頷いて猫の行動を許した。

 膝の上で丸くなる猫を眺める。温かいぬくもりがそこにはあった。触れてはならないという約束を守りつつ、私は猫を見つめることでその存在を堪能する。

「可愛い……猫はこんなに可愛い生き物だったんだな」
「飼いたくなったか?」
「……いや、猫は自由に生きているのが一番だと思う」

 猫が自ら飼われたいと願うのなら、飼っても良いが、外で思うままに生きているのが望みならば、それを叶えてやった方が良い。誰だって、望まぬのに狭い世界に閉じ込められたくはないのだ。

「黒髪黒目と黒猫だ」「縁起のいい光景だな」「あの猫、かなりの高額で売れるんじゃないか?」「馬鹿か。黒髪黒目と一緒にいたなんて、誰が信じるんだよ」「絵画にしたい美しさだ」「嘘だろ、あれは姫宮様じゃないのか」「信じられない」

 周りには少しずつ人が集まり始め、口々に思い思いの言葉を発する。そんな状況においても、猫は自由気ままだった。膝の上で丸くなりながらも、黒猫は私の膝に体をこすりつけるように小さく動く。撫でてやりたいが、それは淡月との約束を破ることになってしまうので、出来ない。

「宮様、そろそろ城へお戻りになられませんか? そのようなところにずっと座っているのも、あまり宜しくないと愚考致します」
「しかし……今私が立ち上がれば、猫が驚いてしまう」
「宮様、どうかお願い致します」

 淡月はきっと、私の膝の上に猫が乗っていることにも、私が木箱の上に乗っていることにも我慢がならないのだ。それでいながらも、私の時間を確保してくれた。彼は耐えてくれたのだ。これ以上の心労をかけるべきではないと考え、私も諦める。短い時間ではあったが、得難い体験をした。

「すまないな」

 少し腰を浮かせると、事情を把握したかのように猫がすたっと地面へ飛び降りる。しなやかな体躯は、美しい動きで見事な着地を果たした。私は立ち上がり、清玖の隣に立って歩き出す。随分とこの朝市というものを味わった。

 歩いて、視線を下へ落とす。黒猫が私の横にぴったりとひっついていたのだ。黒猫を見下ろす私と、私を見上げる黒猫の構図が出来る。

「……どうしよう、付いてくる」
「まぁ、猫の好きにさせてやればいいんじゃないか?」
「私が真っ黒だから、仲間だと勘違いしてるんじゃないだろうか」
「どうだろうな」

 清玖は小さく笑っていた。笑われてしまったが、私は何も冗談を言ったつもりではないのだ。全身が黒いものというのは、自然界にそうそういない。数が少ないもの同士、仲間だと思ってしまうこともあるのではないだろうか。

「吉乃の美しさに一目ぼれしたっていうのも、ありそうだな」
「そんなまさか」

 清玖の言葉の方が私には冗談に聞こえた。肩を竦めて笑うが、清玖は神妙な面持ちで一度頷く。そんな会話をされているなどと、露にも思わないであろう黒猫は足取り軽く私たちの横を歩いていた。

 市場の中を再び通り抜け、城へと戻る。先ほどの婦人たちの前を通ると、彼女らは手を振ってくれていた。私はそれに応じて振りかえす。清玖に熱い視線を送る彼女は、やはり私などは歯牙にもかけず清玖を見ていた。新鮮な感覚であり、また、面白くない感情を抱く。

 数々の視線を浴びたが、それは物珍しいものを見た、というような類のものだった。清玄で感じるような熱烈な尊崇ではない。じろじろと見られるのはどこでも似たり寄ったりではあるが、これくらいの視線であるとこちらの気も楽だった。

 城門前では、季鞍が私の帰りを待ってくれていた。抱拳礼でもって、季鞍の部下たちと季鞍に出迎えられる。

「お帰りなさいませ、宮様。市場の方は如何でしたか」
「とても楽しかった。餅は美味で、女性たちは愉快だったし、このように猫とも仲良しになった」
「その猫は、警戒心が強く、そのように人に懐いたりしない猫だったのですが……さすが宮様ですね。猫にすら愛されていらっしゃる」

 黒猫は私の足にすり寄って、胴体をこすり付けてくる。長い尾はふよふよと穏やかに揺れて、機嫌の良さを伺わせた。そんな愛らしい姿に胸が締め付けられる。この猫は、もしかしたら私について来るかもしれない。旅の仲間に加わってくれるかも。

「宮様、その猫とはここでお別れとなります」

 私の淡い期待を感じ取った淡月が、即座に現実を突きつける。私のことを私以上に理解している淡月には、私の考えなど手に取るように分かるのだろう。

「……分かっている」
「これから向かう紺玄は、水に囲まれた場所。猫は水が嫌いなのですよ」
「分かっていると言っている」

 淡月の言葉に頷いたのにも関わらず、さらに言葉を被せてくる淡月に私は若干の苛立ちを以て言葉を返した。淡月がそのようにくどくどと苦言を呈するのも、私の中に残る未練を見抜いてのことだと理解しているが、敢えて言葉にされると少々腹が立つ。

 そんな私と淡月の会話を、周囲は微笑みながら見守ってくれていた。笑みを見せる季鞍が黒猫を見つめる。

「宮様の代わりにはなれぬでしょうが、我らでその猫を見守って参ります」
「有難う、そうしてもらえると助かる」

 今までも勝手気ままに生きてきたのだろうから、これからも、勝手気ままに生きて良くのだろう。だが、それでも見守られるのと、気にもされないのとでは雲泥の差がある。親しみを持ってしまったこの黒猫を、ぜひこの街の人々に見守ってもらいたかった。

「さよならだ。同じ黒を持つ友よ」

 しゃがみ込んで猫と見つめ合う。硝子玉のように澄んだ金の双眸がこちらを見上げていた。思えば、このような黒い存在を対峙したことが今までになかったかもしれない。飛び去る烏や、内苑を横切る黒猫には遭遇したことがあるが、このような距離感で見つめ合ったことなど皆無だった。

 足にすり寄る黒猫に、愛おしさが込み上げる。でも、お別れしなければならないのだ。苦しい心を抱いて、立ち上がった。

「季鞍、名残惜しいがそろそろ出立しなければならない。短い間だったが、世話になった」
「宮様に御滞在頂けましたこと、我ら生涯の名誉でありました。黄原の地へお越し下さり、誠に有り難う御座いました」
「また黒烈殿へ参るときがあれば、教えてくれ。また会おう」

 たくさんの出会いと、それと同じ数の別れを引き連れて、私たちは先へ進む。新たな世界を味わいつつ、今まで知ろうともしなかった世界に戸惑いつつ。

「行こうか、吉乃」

 清玖が私の手を握った。彼がいなければ、私はここに立っていなかっただろう。世界を知りたいとも思わず、他者を拒んで、閉鎖的な世界で姫宮として生きていたに違いない。何もかもが奇跡だった。奇跡の積み重なりがあり、今へ至る。私はその手を強く握り返した。

「ああ、行こう」


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