The City Without Wind

海谷ノ

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Episode 2: The Fire-Forger’s Note

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Episode 2 — Prologue
「火の音を聴く朝」

朝の空気は、まだ冷たかった。
風のない世界の冷たさは、どこか“止まった時間”に似ている。
工房の前に立ったイオリは、胸の奥でほのかに弾む違和感に気づいた。

熱だ。

風は吹かないのに、街のどこかで“熱”だけが揺れている。
それは蒸気管の脈動でも、炉の稼働音でもない。
もっと細く、もっと切実で、
金属の奥で誰かが爪を立てているような——
そんな“火の記憶の音”だった。

イオリは歩きながら、そっと指先を耳のそばへ寄せた。
祖父の癖が抜けていない。
音を“探す”とき、自然と体がそう動いてしまうのだ。

——チリ……チ、チ……

微かな火花が、遠くで跳ねる。
街の心臓部とは逆の方向だ。

「……呼んでる?」

イオリがつぶやいた瞬間、
灰色の街路に赤い光が一瞬だけ走った。
霧に溶け、蒸気にかき消されるほど短い閃光。

風のない都市の朝に、
初めて“熱の道標”が現れた。

イオリは息を呑み、歩みを早める。

世界はまだ止まったままだ。
けれど——
その静止の底で、確かに何かが燃え始めていた。

Episode 2 — Scene 1
「旅立ちの支度」

工房の扉を開けると、
油と金属の匂いがふわりと肌にまとわりついた。
祖父が最後まで立っていた作業台には、
昨日と変わらない工具たちが整然と並んでいる。

触れれば、音がする。
イオリにはそれがわかる。

金属の小さな響きは、祖父の呼吸のように規則正しかった。
規則正しいのに、どこか欠けている。
その“欠け”が、今は胸の中でじんと痛い。

イオリは机の上から、
祖父の古いノートと、小型の音量計を手に取った。

ノートのページは、ところどころ黒ずんでいる。
蒸気に濡れ、煤に焼け、何度も書き直された跡がある。
その中央に、小さく書き残されている言葉があった。

風が鍵だ。
だが、まずは火を——。

イオリはページをそっと閉じた。
何度読み返しても、この行だけが他のどれより鮮明に残ってしまう。


「……行くよ、祖父(じい)さん。」

工房の窓から見える街は、相変わらず風ひとつ吹かない。
煙突から上がる蒸気だけが空を押し広げ、
ゆっくりと溶けていく。

イオリは革の鞄に必要な道具を詰め、
肩にかけた瞬間、またあの音がした。

——チリ……チ……

工房の外だ。
街の奥に潜む、熱の偏りが呼んでいる。

胸の奥に、ほのかな緊張が走る。
だが怖さよりも、
もう少しだけ強いものがある。

知りたい、という欲求。

祖父が追い求めた“音”。
あの教会の、世界を満たした風の響き。
消えてしまったはずの四つのエレメント。

その一端が、今まさにイオリのすぐ手の届くところにある。

イオリは工房の扉に手をかけ、
深く息を吸い込んだ。

油と蒸気の匂いの奥に、
ほんの一瞬、焦げた金属の匂いが混じった気がした。

扉を開ける。

光が差し込み、影が動いた。
静止していた世界が、わずかに揺れた。

今日から、工房の外で音を探す。

イオリは歩き出した。
風のない街へ。
熱の閃光が呼ぶ方へ。

Episode 2 — Scene 2
「熱の裂け目」

街の外れは、いつも灰色だった。
風が吹かない世界では、埃も煙も沈殿していく。
陽の光は届いているはずなのに、
地面はどこか薄暗く、眠った鉄のように重い。

イオリはゆっくりと足を進めた。
熱の揺らぎは、工房を出たときよりも強まっている。

——チリ……チ、チ……

耳の奥で火花が跳ねる。
金属片が擦れ合ったときのような尖った音。それが、一定の間隔で繰り返される。

「……近い。」

イオリは立ち止まり、視線を下げた。
地中を走る蒸気管のひとつが、赤く脈動している。
通常の蒸気は白い光だ。
赤は——“暴走”の色。

しかし、今イオリが感じている赤は、
ただの負荷ではなかった。

生きていた。


……呼吸している。

そう思った瞬間、蒸気管の奥が震え、
ドン、と鈍い衝撃が地面を打った。

地面の亀裂から、赤い光が一筋、
まるで心臓の鼓動のように明滅する。

イオリは息をのんだ。
それは火炉の熱さとも、溶鉱炉の暴れとも違う。

もっと細く、もっと鋭い。
“熱の記憶”が漏れている音だった。

地面に膝をつくと、音がより鮮明に聞こえた。

——パチ、パチ、……ッ。

乾いた木を燃やしたわけでもないのに、
炎が上がる前の“最初の爆ぜ”だけが、繰り返し響いている。

イオリは亀裂に手をかざした。

熱い。
触れていないのに、皮膚がじり、と焦げるような錯覚が走る。

「……ここにいるんだね。」

亀裂の奥で、何かが蠢いた。

蒸気が逆流し、赤い光が地表へ向かって一気に噴き上がる。

イオリは思わず後ずさった。
だがその瞬間——音が変わった。

——チ……チリ……
まるで炎が言葉にしようとしているような、
不器用な“呼びかけ”に聞こえた。

イオリの胸に、祖父が遺した一文が浮かぶ。

「まずは火を——」

世界のどこかで止まっていた何かが、
今、イオリの目の前で再び動き出そうとしていた。

Episode 2 — Scene 3
「火の記憶」

赤い光が地面を走り抜けた瞬間、
街の奥にある蒸気管が、一斉に“呼吸”を始めた。

——シュウウウ……ッ。

蒸気が逆流し、
熱だけが脈のように打ち続ける。

イオリは目を凝らし、地面の裂け目を覗き込んだ。

暗闇の奥で、
何かがゆっくりと“瞬いて”いた。

炎ではない。
光と熱と記憶が混ざり合ったような、不思議な脈動。

それは——まるで心臓だった。

——パチ……ッ。

乾いた火花がひとつ跳ねた。
イオリは反射的に手を伸ばし、
熱の波が弾ける直前で止めた。

「……君が、暴れてるの?」

問いかけるように言ってから、
自分でもその言葉がどこから出たのかわからなかった。

でも——返答があった。

——パチ、パチ……
小さく、幼い呼吸のような音。

イオリの胸に、
祖父のノートに残された言葉がよみがえる。

火には記憶がある。
それは熱ではなく、“焦がしたい願い”だ。

その瞬間、
裂け目の奥の光がふっと形を変えた。

球体だ。

金属でも鉱石でもない。
熱そのものが固まったような、不思議な赤い核。

内側には、
炎のような模様がゆらぎながらうごめいている。

イオリの喉が鳴った。

「……アーティファクト……?」

球体が一瞬だけ脈動を止めた。
イオリの声が届いたように。

次の瞬間——
光が弾け、地面から吹き上がった。

イオリはとっさに腕で顔をかばう。
熱波が肌を焼くように押し寄せる。

蒸気管が破裂し、
赤い光がいくつもの筋となって空へ伸びた。

——パチッ……!

金属が焼ける、鋭い悲鳴。

「暴走してる……?」

違う。

イオリはそれが“怒り”でも“狂気”でもなく、
もっと別の“感情”だと気づいた。

求めている。
呼んでいる。
探している。

それが何かはわからない。
ただイオリだけに、その“焦がれる音”が聞こえていた。

イオリは熱の噴き上がりをかいくぐり、
球体へと手を伸ばす。

「……大丈夫。怖くない。」

届くはずなんてなかった。
熱は皮膚を焼き、汗が蒸発していく。

だが次の瞬間、
光がふっと静まった。

まるで火が、イオリの呼吸に合わせて落ち着いたかのように。

球体はひとつ、かすかに鳴いた。

——チリ。

触れた指に、
温度ではなく“鼓動”が伝わる。

イオリはそっとその核を抱き上げた。


「……君も、探しているんだね。
 風を。」

球体は弱く、しかし確かに答えた。

——パチ。

世界のどこかで止まっていた時間が、
ゆっくりと動き始める。

イオリと火のアーティファクトの、最初の出会いだった。



Episode 2 — Scene 4
「選択」

暴走が収まったあとも、空気にはまだ“熱の残像”が漂っていた。
鉄路は赤く燻り、天井のパイプからは細かい蒸気が吐き出されている。
けれど、その中心に落ちている小さな歯車だけが——
世界のどこよりも静かだった。

熾天歯車《Ignis Gear》。

イオリはゆっくりと膝を折り、歯車を拾い上げた。
さっきまで凶暴な光を撒き散らしていたとは思えないほど、軽い。
手のひらに触れた瞬間、わずかに脈動した。

「……まだ、生きてるのか」

火傷しそうな熱さはない。
けれど、鼓動に似た規則正しさがある。
触れているだけで、なぜだか呼吸が合わされていくような感覚がした。

暴走の原因はわからない。
制御できた理由もわからない。
ただひとつ確かなのは、歯車が“イオリを恐れていない”ということ。

——違う。

イオリの胸の奥で、何かが小さく揺れた。

恐れていない、ではない。

選んでいる。

ふっと、歯車から光が溢れた。
真紅の光は花びらのように開き、静かに舞い上がる。
暴走の炎とは対極にある、やわらかい温度の光。

その光が、イオリの胸元へ吸い込まれていく。

「……っ」

胸が熱くなるわけではない。
痛くも、苦しくもない。
ただ、呼吸の深さが一段変わった。

世界がほんの少しだけ“音を取り戻した”ような感覚。

イオリは、手の中の歯車を見つめた。
欠けていた外歯が、いつの間にか綺麗に修復されている。
先ほど暴走で破損したはずの部分が——完全な形に戻っていた。

まるで、
「これでいいんだよ」
とでも言うように。

イオリは小さく息を吐いた。

「……お前、俺を選んだのか」

返事をするはずのない歯車が、ひときわ強く脈打った。

その瞬間、イオリは気づいた。

祖父が探し続けた“最初の音”。
その入口に、自分はようやく触れたのだと。
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