逃げて、追われて、捕まって

あみにあ

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1巻

1-1

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   プロローグ


 これで全てが終わる。
 私の思いも、意思も全て。
 最初から、私自身を必要としてくれる人はいなかったじゃない。
 王である夫も、親兄弟も、取り巻きも……
 そうわかっていたのに、どうして信じてしまったのかしら。
 本当に馬鹿よね……
 でもね、そんなのもうどうでもいい。
 私にとってはただ……愛する彼の願いを叶えることが、幸せなのだから。
 薄暗い部屋の中で満月を見上げ、ワイングラスを手に取る。
 血のように真っ赤なワイン。月へかざせば、キラキラと光って見える。
 その幻想的な光に酔って一気にあおると、熱い液体が喉を通り抜けていった。
 焼けそうなほどに熱く、痛い。
 息苦しさにその場に倒れ込んだ私は、ゆっくりと目を閉じていった。
 そのせつまぶたの裏に現れたのは……愛しい愛しい彼の姿。

(あなたが笑っていてくれる、それが私にとって何よりも幸せだわ)

 そのまま意識が遠ざかり、私の短い人生は幕を閉じた。


     † † †


 次に目を覚ますと、私は見慣れない部屋にいた。
 あれ……生きている……?
 まさかそんな。あの毒を飲んで生きているはずがないわ。
 それにしても、なんだか視界がぼやけているわね。それに……とてもほこりっぽいわ。
 ここはどこなのかしら……?
 そんなことを考えつつ体を起こそうと試みるが……うまく動かせない。
 なぜか自然に涙がこぼれ、私は大きな声で泣きわめいていた。
 感情をコントロールできずに戸惑う私の顔を、誰かが覗き込む。
 その視線は初めて自分に向けられた、慈愛じあいの光に満ちたもの――心が温まる優しい微笑ほほえみ。

「可愛らしい女の子だ。この子の名前は『私たちの王女』という意味を込めてサラにしよう」
「えぇ、とても良い名前ね。サラ、生まれてきてくれてありがとう」

 そうして月日が流れ、物心がついた私は、ようやく自分が置かれている状況を理解する。
 私の名前はサラ。平民地区にある、小さな商店の一人娘だ。
 母はしっかり者だけど、おっちょこちょい。父は優しくて頭が良くて、とっても頼りになるの。
 だけど、私には別の人間の記憶がある。
 の両親は、侯爵家の者だった。彼らは政略結婚だったせいか、仲は冷え切っていたようだ。
 父は私に無関心で、母は私を嫌っていた。
 あまりにも今と違いすぎる。
 そう……どうやら私は前世の記憶を持ったまま、生まれ変わったらしい。
 もっとも生まれたばかりのころは鮮明に覚えていたものの、物心がついた時にはもう一人の私が歩んできた人生の記憶は大分薄れていた。
 それでも前世で得た知識やマナー、そういったものは体に染みついていて……忘れることはない。
 かつての私は、この国の王妃だった。
 生まれは侯爵家でも下位のほうだったので、通常、この国では簡単に王妃になどなれない。
 それでも私は王妃になった。
 邪魔者を蹴落とし、だまし、おとしいれ、汚い手でのし上がったことをなんとなく覚えている。
 どうして王妃になりたかったのか……理由は思い出せないが、想像するに高飛車で傲慢ごうまんだった私は、きっとそのステータスにかれていたのだろう。
 そうしてようやく王妃になったのだが、その生活は幸せなものではなかった。
 王は愛人を作り、私に会うことはない。
 子をなすために体を合わせても、彼の心は私のそばになかったのだ。
 そんなみじめな自分を認められなかった私は、周りに当たり散らし、最後は一人になった。
 押しつぶされそうな心に、部屋で一人泣きわめく毎日。
 最期の記憶は月明かりが差し込む部屋で、一人酒をあおる姿だ。
 飲んだワインに毒が入っていたのだろうけれど……あれは誰かに入れられたのかしらね。
 のし上がるために……色々としていた気がするから、恨まれて当然。
 まさかそんな自分が平民に生まれ変わるとは、思ってもいなかった。
 正直……平民に生まれたと知った時は絶望したわ。
 汚いし、なんだか臭いし、マナーだって見られたものじゃない。
 でも今はそんな生活を楽しいと思っている。
 なんていったって平民は貴族とは違い、自由。
 前世では、勉強しろと部屋に閉じ込められ、外で遊ぶことなんてできず、友達だっていなかった。
 たまに開催されるお茶会では、皆自慢話に花を咲かせ、けんせいばかり。上辺だけの笑みがあふれていた。
 毎日毎日朝から晩まで、マナーやありとあらゆる学問、ダンスに楽器……今考えれば、昔の自分はよく頑張っていたと思うわ。
 加えて、自由な恋愛ができない。
 家のための結婚が当たり前だった貴族社会。周りで恋愛結婚する人は少数だった。
 でも平民は違う。
 自由を奪うくさりなんて、どこにもない。
 子供が子供らしくいられる世界。朝起きると、母が手料理を作って待っている。父はいつも私を優しく見守っていてくれる。
 上辺をとりつくろうことや意味のない勉強なんてしなくても良い。
 父はいつも「好きなことをやりなさい、父さんはサラの力になるから」と言ってくれるのだ。
 その言葉に私は救われているの。

(今世は、なんて素晴らしいのかしら!)

 これには時代の違いもあるのかもしれない。平民として暮らしているここは、過去の私が生まれた地と同じ。でも時代は、かなり進んでいた。
 前世の私が暮らしていたころは、貴族と平民は同じ地域に交ざって住んでいたのに、現在のこの街は、貴族が住む地区と平民の暮らす地区が壁で仕切られている。
 城を中心に、西側が貴族のエリア、東側が平民のエリア。行き来するには、城の前に設置されている門を通らなければならない。
 門の通行は十八歳になるまで許されず、今の私が貴族街へおもむくことはなかった。
 だから、貴族の影響をほとんど受けないのだ。
 十五歳になった私は、今日も外で思いっきり体を動かし、広場で走り回ったり、友達とおままごとをしたり。生意気な少年にてっついを下したりね……ふふっ。
 ところが、そんなある日。私のもとへ一通の手紙が届いた。
 王都一有名な学園の名が記載されたそれには、入学テストを受けるための推薦状が入っていた。
 前世では平民が学校に通うことはなかったが、今では平民用の学校がいくつもあり、私はそこで優秀な成績を収めていた。前世で学んだ記憶があるおかげだが……
 それはともかく、今は貴族が独占していた知識を平民も共有できる。そんな素晴らしい制度は百年ほど前に作り出された。なんとそれを制定したのが、前世の夫であるアルジャーノン王だ。
 さて、推薦された学園の名前には覚えがあった。
 前世の私が通っていた、貴族のための高等教育が行われる学園だ。この学園の生徒であれば、特例として平民でも貴族地区に入れる。
 学園に良い思い出など一つもない。

(あの場所へ行くなんてまっぴらごめんよ)

 私は手紙を無造作にゴミ箱の中へ放り込むと、静かに部屋を後にした。
 けれど、父に捨てた推薦状を見つけられてしまう。
 父は部屋にやってくると、私の顔を見つめた。いつもの優しい瞳とは違う、真剣な瞳をして無言で紙を差し出す。

「お父様、どうして……?」
「ゴミの中に交ざっていたのを見つけたんだ。サラ、いいのかい? 王都一の学園への推薦状だよ」
「いいのよ。だって私は平民だもの。貴族様とご一緒だなんておそれ多いわ」

 そうごまかしながら笑みを浮かべると、父は私の隣に腰かけた。

「サラ、私はサラが決めた道がどんな道でも応援したいと思っているんだ。だけどね、もっと広く世界を見てほしいとも思っている。この学園でしか学べないことがきっと沢山たくさんあるはずだ。それは必ずサラの力になる」

 今まで決して私のやることに口を出さなかった父の初めての忠告。
 父は私に前世の記憶があることをもちろん知らない。
 ただ、王都一の学園を卒業するとステータスが得られる。そのチャンスを娘に与えてやりたいと考えたのだろう。

(……お父様の言う通りだわ)

 私は考え直した。
 あの学園を主席で卒業できれば、平民でも城で働ける。高収入を得られ、両親を助けられるのだ。

(過去は過去よね、私は今を生きているのよ。ここまで育ててくれた両親に恩返しをしたいわ)

 差し出された推薦状を父から受け取ると、私はギュッと強く握りしめた。
 そんな私に、父はいつもと同じ優しげな笑みを浮かべる。それを見て、自分の決心が間違っていなかったとほっとした。
 推薦状と一緒に入っていた案内に目を通すと、試験に高得点で合格すれば、特待生として入学できるとも書かれている。学費は免除され、制服や教科書など、必要なものは学園が負担してくれるそうだ。
 この条件なら、両親に迷惑をかけることもない。
 私は綺麗に折りたたまれた入学願書を広げ、サインをした。


 学園に入学すると決め、私は指定された試験を受けた。そして無事に合格通知が届く。
 当たり前だ、百年前といっても、一度入学した学園。テストの傾向は大体わかる。
 そうしてしばらくすると、生活に必要な道具が送られてきた。
 その中に制服がある。
 昔と変わらないデザインだったせいで王妃であった自分の姿が頭にチラつき、私は不安になった。

(違う……今は貴族ではない。きっと大丈夫。私はあんな嫌な女にはならない)

 前世の自分を振り払い、入学祝いに父がプレゼントしてくれた茶色いカバンを視界に入れる。
 平民にはぜいたくすぎる丈夫な革のカバン。
 私のために父と母が無理をしてくれたのだろう。

(だから……)

 だからきっと大丈夫、今度は静かに穏やかな学園生活を送るのよ。
 心の中でそう決意すると、みがかれたカバンを強く胸に抱きしめた。



   第一章


 学園の入学式当日。
 気を引きしめ登校した私は、学園長室に呼び出され、学園長から新入生代表のあいさつをお願いされた。
 それを聞いて懐かしくなる。

(貴族だった私もこのあいさつを任されたわね)

 これは入学テストで一位を獲得した者に与えられる名誉なのだ。
 けれど、平民の代表は初めてだとも説明される。
 過去の私であれば、飛び上がって喜んだろうけれど……今は全く嬉しくない。
 あいさつをしたら目立つことは間違いなかった。

(平民が貴族社会にしゃしゃり出て、良いことは一つもないわ)

 私は静かに、そして平穏な学園生活を送りたいの。
 断ろうと口を開こうとしているのに、学園長がマシンガントークを続ける。
 その圧倒的な押しに、私はグッと言葉を呑み込んだ。

(今はダメね。もう少し様子を見て……)

 学園長の顔色をうかがい、ようやく話が一区切りつきそうになったところで、静かに息を吸い込み顔を上げた。
 そのせつ、シーンと部屋が静まり返る。断ることなど許さないと言わんばかりの威圧的な瞳と視線が絡んだ。

「これは伝統的な行事だ。……もちろん受けてくれるだろう?」

 学園長は微笑ほほえんでいるが……瞳の奥は笑っていない。

(これは無理ね。断って特待生を外されても困るわ。……当たりさわりなくあいさつをして、さっさと終わらせましょう……)

 私は学園長を見つめて苦笑いを浮かべ、コクリと深くうなずいた。


 生徒が集まる広間に向かうと、そこは昔通っていたころそのままの姿だった。
 壁には美しい金の装飾がほどこされ、天井にはシャンデリアがいくつも並べられている。

(学年によってネクタイの色が違うのも同じね。変わったものといえば……生徒たちの雰囲気くらいかしら)

 あのころ、平民はいなかったため、学園は貴族たちの社交場になっていた。

(ふふっ、懐かしいわ)

 辺りを眺めながら進むと、その先に演壇が見える。両脇に色とりどりの花が飾られていた。
 前世の私もあの壇上に立って、あいさつをした。
 あのころは自分がトップであることを当然と思っていたけれど、今は平民。できる限り貴族に目をつけられたくはない。

あいさつは短く簡潔にね……ふぅ……)

 私は演壇の裏へ静かに移動する。すぐに入学式が始まり、学園長から新入生たちへの歓迎の言葉が耳に届いた。
 しばらくして、同じことを何度も繰り返す長い話が終わる。在校生のあいさつになり、制服姿の貴族が壇上に姿を現した。
 もちろんこのあいさつも、学園でもっとも優秀な者が選ばれる。声を聞く限り男性だろう……
 私はこっそり陰からその姿を覗いてみた。
 とおるように美しい顔立ちの男子生徒が、さわやかな笑みを浮かべて話している。
 風貌ふうぼうや立ち振る舞いを見る限り、かなり高位の貴族で間違いない。

(はぁ……ゆううつだわ……)

 昔と変わっていないのであれば、彼は生徒会の一員だ。平民が彼と同じ壇上で話すなんて、生徒会にあこがれている生徒たちにしっされるに決まっている。
 私がそんなことを考えている間にあいさつが終わったらしく、会場から盛大な拍手が湧き起こり、あいさつを終えた男子生徒が私に近づいてきた。
 私は慌てて姿勢を正し、彼の邪魔にならぬように数歩後退あとずさる。
 頭を下げ通り過ぎるのをじっと待っていたのに、彼は私の前で足を止めた。

「ご機嫌よう、君が平民初の新入生代表かな?」

 頭上から響くその声に顔を上げると、青い瞳に私の姿が映っている。
 映り込む自分の姿になぜかゾクリと背筋が凍り、胸の奥からモヤッとした何かが込み上げた。

(何かしらこの気持ち? 苦しい……いえ悲しい?)

 わけのわからない感情に戸惑うものの、彼の青い瞳から視線をらせない。
 王妃姿の自分が脳裏をよぎり、鈍器で殴られたみたいな激しい頭痛に襲われた。
 あまりの痛みにその場でうずくまった私を、彼が支える。

「どうしたんだい? 気分が悪いのかな?」

 触れた彼の手から温もりが伝わってくる。私はとっにその手を振り払った。
 パシッと乾いた音に我に返る。

(私は……今何を? 貴族になんてことをしてしまったの!?)

 焦って、何度も深く頭を下げる。

「申し訳ございません、私は……」
「いや、僕のほうこそごめんね。それよりも大丈夫かな? そろそろ君の出番だけれど」

 柔らかいその声に恐る恐る顔を上げる。舞台では学園長が私の名を読み上げていた。
 私はもう一度深く頭を下げ、呼ばれる声に歩き始める。男子生徒は頑張ってと言い、舞台の袖へ消えていった。

(彼は一体なんなの? どうしてこんなに胸が苦しくなるの?)

 幸い徐々に頭痛が治まっていく。私は気持ちを切り替え深く息を吸い込む。
 壇上に立つと、何百人もの視線がこちらへ集まった。
 平民丸出しの姿だからだろうか、生徒たちがざわつき始める。私はそっと口角を上げ、淑女の礼をした。

(大丈夫、王妃だったころはもっと大勢の観衆が見ていたわ。さっさと終わらせて、静かな学園生活を送るのよ)

 集まる視線を眺めつつゆっくりと話し出すと、騒がしかった会場はシーンと静まり返った。


 無事にあいさつを終えた私は、舞台袖に下がった。
 先ほどの男子生徒の姿がないことを確認する。そのまま脇目も振らずに通路を通り、会場の一番後ろに移動した。
 すると、平民の学校で一緒だった長年のライバル兼親友のソフィアが走り寄ってくる。

「おつかれさま、さすがサラね。なんでも完璧にこなしちゃうんだから」
「そんなことないわ。これでもとても緊張したのよ」
「あら、そんなふうには見えなかったわ。それよりもすごいじゃない。あなた入試で満点だったのでしょ?」
「ふふっ、当然じゃない。でもソフィアも上位に入ったのではなくて?」
「まぁね~、ふふふ。次は負けないわよ」

 そんな他愛のない話で笑い合う。もっともすぐ新入生を歓迎する音楽が響き始めたので、私たちはその音に耳を傾けた。
 そして、入学式は何事もなく終了となる。
 私はソフィアと並び、ズラズラと流れる人の波に乗って教室に移動した。すでに多くの生徒たちが集まっている。
 制服に高価なアクセサリー、ブローチやスカーフ、ネクタイピンなどをつけている人がほとんどだ。やはり大半が貴族なのだろう。

(私も貴族だったころは、毎日、派手なネックレスと髪留めをしていたわ……懐かしいわねぇ)

 改めて彼らを見渡すと、もうすでに貴族社会での戦争は始まっているようだ。
 爵位の高い貴族のご機嫌をとりに行く者、家の自慢話に花を咲かせている者。
 誰も相手のことなど見ていない。
 背景にある家や地位、それが自分に利用価値があるか、後は金や権力。
 そんなことばかり考えているのがわかる。

(あぁ~やだやだ)

 バチバチと火花を散らして争うみにくい貴族たちを横目に、私は彼らから離れた席へ腰かけた。
 どうやら九割が貴族だ。
 残りの一割の平民は、私の周辺に身を小さくし集まる。

(不思議な光景ね)

 前世の私が生きていた時代、この学園に平民が通うことなんて想像もできなかった。
 色々と変化しているのね……、などと考えながらのんびり雑談を楽しむ。すると突然、私の前へ一人の男が現れた。
 服装を見る限り、貴族で間違いない。
 女性に騒がれそうな男らしい端整な顔立ちで、情熱的な赤い瞳に、短い紺色の髪の彼は、無言のまま私をじっと見つめ続ける。すると教室内が次第にざわめき始めた。

「あれって、大公爵家のブラッドリー様じゃない?」
「そうよね……どうしたのかしら?」
「あんな平民の女に、どうしてあのお方が……?」
「ありえないわ、ブラッドリー様が平民風情ふぜいに近づくなんて」
「もしかしたらあの平民、何かしでかしたんじゃない?」
(――大公爵!?)

 とんでもなく高い爵位に、私は目を見開く。

(ちょっと、なんなのよ。初めて会うはずだし、私……何かした!? いや……してない、してないわ!)

 そう心の中で叫び、うかがうように視線を上げる。やはり会った記憶はない。
 燃える情熱的な赤い瞳に映し出された自分の姿を見て、私は慌てて視線をらした。

(なんなの……? どうして私を見るのよ! 何かあるならさっさと話してほしい。沈黙は耐えられない!! もしかしてこれは……私が話しかけるべきなの? いやいや、平民ごときが話しかけられるお方じゃないわ)

 昔の私ならともかく、今は平民。選択を誤り、大公爵家の怒りを買えばどうなるか……容易に想像できる。
 なかなか動かない彼に冷や汗が流れる。やがて教室内に異様な空気がただよい始めるころ、彼はようやく口を開いた。

「――俺の婚約者になってくれないか?」

 突拍子もない言葉に、口が半開きになる。そのまま顔を上げると、力強い赤い瞳と視線が絡んだ。


 何を言われたのか理解できぬままに、私はその場でフリーズする。逆に教室内は、ドカンッと一気に騒がしくなった。
 ねたみや悪態、平民をさげすむ言葉があちらこちらから耳に届く。

「嘘でしょう、平民に求婚するなんて!?」
「ちょっと聞き間違いよね?」
「ありえないわ、……あぁブラッドリー様がそんな……」
「冗談でしょ。きっと平民をからかっているのよ」

 そんな騒がしい声にようやく我に返り、私はそっと目を伏せた。

(この男は何を言っているの? 私が平民だとわかっていないのかしら?)

 ……いやいや、先ほどの言葉だけでは判断できないわ。
 ここで冗談だと決めて流すのは、立場上危険……それなら――

「申し訳ございません、平民ごときが貴族様の婚約者になどなれるはずもありません」

 そうなんとか言葉を絞り出し、私は教室から逃げ出した。
 教室から離れ、外へ出ておもむろに校舎を振り返る。
 先ほどの彼が追ってきている気配はない。
 そのことにほっと胸をなでおろした私は、その場にしゃがみ、ズキズキと痛む頭を押さえた。

(一体なんだったのかしら。代表者のあいさつの時といい、貴族がどうして話しかけてくるのよ!? その上、婚約者にしたいって……何が目的なの?)

 貴族が平民に求婚するなんて聞いたことがない。私の知る貴族は平民を視界にさえ入れなかった。
 明日から始まる学園生活がゆううつになり、ため息が漏れる。
 私はそのまま壁にもたれかかり、晴れ渡った真っ青な空を暗い気持ちで見上げたのだった。


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