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第3章 七番勝負の開始
第38話 カラスが五段の棋士と対戦したら
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「鈴香さんとクロさんはこちらへ、蔦本さんはこちら側に座ってください」
スタッフは第1局と反対の側に2人と一羽を誘導した。
もちろん2局目は先手と後手が入れ替わることで、画面映りを考慮したためだ。
「こんにちは」
鈴香の挨拶に合わせて、クロが「クワア」と鳴く。
蔦本も「こんにちは、今日はよろしくお願いします」と丁寧にお辞儀した。
ひと通りカメラや照明の具合を確認すると、1局目と同じく「始めましょう」の言葉で雰囲気が引き締まった。
読み上げ係を務める草野が一礼して口を開く。
「ぬばたまの闇より飛来せり漆黒の翼 クロ七番勝負の第2局を始めます。2局目はクロさんが先手です。どちらも持ち時間や考慮時間はありませんが、1分ごとに経過時間を読み上げます。それでは対局を始めてください」
蔦本五段と鈴香がほぼ同時に「よろしくお願いします」と頭を下げる。
クロも「クワア」と鳴いて頭を振った。
盤の左に立ったクロが7筋の歩をくわえて1つ前に出す。
「先手、角野クロさん、7六歩」
草野が手を読み上げる。
それを見た蔦本も角道を開ける。
「後手、蔦本浜辺五段、3四歩」
控室の佐倉がモニターを見つめる。
「さて、どうなるか…」
角頭歩を目指すなら、ここで8六歩と指す一手だ。
クロは盤の左側に立ったままで、7筋の歩をくわえる。
そのまま1つ前の升目に置いた。
「先手、8六歩」
草野は冷静に指し手を読み上げた。
数日前から棋士や女流棋士の間で、ある噂が広まっていた。
曰く『クロが角頭歩を指すかも』との噂だ。
それを聞いていなければ、1局目の愛媛がそうだったように草野も読み上げる声が詰まったかもしれない。
控室の佐倉は小さくガッツポーズをした。
「よし!」
少なくともクロが角頭歩を選んだため、自分の推測が当たったことになる。
蔦本も内心でガッツポーズしつつ、飛車先の歩を突いた。
「後手、8四歩」
研究手順が試せる展開になると確信したからだ。
クロは蔦本の角を駒台に乗せると、自らの角を成り込む。
「先手、2二角成」
蔦本は左の銀で馬を取る。
「後手、同じく銀」
クロは左の桂馬を跳ねた。
「先手、7七桂馬」
蔦本は左の金を上がり、離れ駒になりそうな銀に紐をつけた。
「後手、3二金」
クロも左の金を上がって自陣の隙を無くす。
「先手、7八金」
その後、様子見の意味でか互いに端歩を突いた。
「角頭歩戦法ですね」
控室にいた聞き手の増定喜多女流二段が、解説役の高村天地《たかむら てんち》八段に話を振る。
「そうですねえ」
「高村先生は予想してました?」
「1局目もそうでしたし、『変わった手を指すんじゃないかな』とは思ってたんですけど」
高村も日本将棋協会を通じて、棋譜や動画、佐倉メモを受け取っていたため、佐倉の目論見は知っていた。ただし、あからさまに話題へと上げるのは控えた。
「珍しい戦法ですよね」
「ええ、公式戦でも指されたことはありますが、確か10局もないと思います」
「私の知っているのでは、ここから振り飛車になるんですが…」
そう増定が飛車に触れた時だった。
トットットット
クロは盤の右側に移ると、飛車先の歩をくわえて1つ前に置いた。
コトン
「先手、2六歩」
控室の佐倉が立ち上がって「ええっ!」と叫ぶ。
「何か起こったの?」と言いたげに、馬場と歩美と菱子が視線を向けた。
「あ、申し訳ない」
佐倉は椅子に腰を下ろした。
蔦本は「うわあああっっっ!!!」と叫ぶ。
ただし頭の中で。
「うわあああっっっ!!!」
対局動画を見ていた
「後手番でクロに勝つ会」
「後手番でクロに勝とう会」
「後手番でクロに勝てたらいいな会」
「後手番の対策を考えよう会」
「後手番で食い下がろう会」
「後手番で引き分けを目指そう会」
「後手番は捨ててクロをかく乱しよう会」
「後手番っておいしいのかい?」
の会員達からも叫び声が上がった。
・
・
・
「1分経過しました」
・
・
・
「2分経過しました」
草野が2分の経過を知らせたところで、蔦本が動く。
蔦本は前のめりになって左手で痛くなるほど膝頭を握りしめると、右手を伸ばしてゆっくりと左の銀を上がる。
「後手、3三銀」
その後は相居飛車での駒組が続いた。
「私のひと言がフラグになったんでしょうか」
控室では、大盤の飛車に触れつつ増定が苦笑いする。
「うんうん、そうかもしれませんねえ」
高村からも笑みがこぼれた。
「こうなると定跡から外れて力戦型になりそうですが…」
「ええ、クロさんと蔦本さんの殴り合いが見ものです」
会員達から、蔦本ら研究会における角頭歩振り飛車のことを聞かされていた高村。それでもやはり口にすることは無かった。
コトン
パチッ
カコン
ピシリ
コトッ
クロは左の金銀を銀冠に組み上げつつも王は九段目の低い位置に置いたままとした。その上で右の金銀はバランス良く配置し隙を見せない。
蔦本は3三銀と3二金の構えから矢倉模様をみせつつ王は4筋、つまり金の左に上げただけに留める。そしてクロと同様に右の金銀を細かく動かして角を打ち込まれる隙を作らなかった。
「地力勝負か」
蔦本のつぶやきが聞こえたようで、盤上を見つめていた鈴香が顔を上げる。
鈴香が見ているのに気づいた蔦本は一瞬だけ唇の端を上げて微笑むと、再び真剣な表情になった。
パシッ!
蔦本が駒音高く歩を突く。
コトン
クロは突かれた歩を取ることなく、別の筋の歩を突いた。
ピシリ
2か所でぶつかった歩をそのままに、蔦本は別の筋の歩を突いた。
結果、盤上の3カ所で歩がぶつかった。
どこかを取れば、そこから戦端が広がる可能性が大きい。
クロが盤面を見つめる。
「1分経過しました」
草野の時間読み上げを合図としたように、クロは「クワッ」と鳴いて駒台から持ち駒の角をくわえる。
そのまま自陣深くに「コトッ」と置いた。
それを見た蔦本も2分ほど考えて、自陣角を打つ。
パチン
「カア」
クロは先ほどよりも強く鳴くと、蔦本の顔を見上げた。
「クロが見た」
「見たね」
「見たなあ」
「見ちゃったかあ」
控室で佐倉達が声をあげる。
クロが優勢を自覚すると相手の顔を見る。
そんなクロの癖について、佐倉や馬場から歩美や菱子は聞かされていた。
やはり対局動画を見ていた
「後手番でクロに勝つ会」
・
・
・
中略
・
・
・
「後手番っておいしいのかい?」
の会員達からも声が上がった。
「クロがー!」
「見た!見ぃたー!」
「クロがー見たー!」
「あ、ヨイヨイっと!」
その中には踊り出す会員もいた。
蔦本も「うーん」とうなり声をあげた。
『まずった…のか?』
既に事前の研究範囲からは遠く離れており、直感で浮かんだ手を少考の後に選択した。
角打ちは受けにしっかりと効かせた手。
『…のはずなんだけど』
「ここで角の打ち合いとなりましたけど、クロさんに500点ほど振れましたね」
控え室では増定が角を動かす。
「どちらも受けに効かせたような角打ちですが、蔦本さんの方が…」
高村が言葉を濁す。
「疑問手ですか?」
増定の問いかけに、高村が蔦本陣の角を外す。
「クロさんに合わせて打ちたくなる角なんですけど、ここは飛車寄りの方が良かったかなと」
蔦本の飛車を1つ右に動かした。
「角打ちは悪くはないんですけど、ちょっと……窮屈に見えるんですよね」
「なるほど」
コトン
ちょっと考えたクロは自陣に打った角を斜め前に1つ上がる。
「うーん」
蔦本は先ほどよりも大きくうなる。
頭の中で『そうか!』と大声で叫ぶ。
現在、クロも蔦本も100点の態勢だ。
つまり先に動いた方が劣勢になることが多い。
クロの角上がりは100点を100点のまま維持する手。
蔦本にはそれに見合ったマイナスのない指し手が見つからない。
現状を100点とすれば、98点や97点、もしくは95点になってしまう手しか見当たらない。
98点になる手を指すと、ぶつかった歩の1つをクロから取り込まれて苦しくなる展開が予想される。
コトッ
蔦本は先んじて3カ所でぶつかっていた歩の1つを取って駒台に置いた。
さらに駒音をパチン!と大きく立てて歩を進めた。
こうなると開戦は必至。
カタッ
クロも別の場所でぶつかっていた歩を取って駒台に置く。
トコトコトコ…
コトン
空いた升目にクロの歩をくわえて進めた。
ピシッ
カタッ
パチン
激しい駒の交換が続く。
先に動いたことで、蔦本陣に生まれた小さな隙をクロが正確に突いてくる。
次第に蔦本側の指しすぎがはっきりしてきた。
「一気に開戦です」
控室の増定が対局の手順を追った。
「ええ」
増定から手渡された歩を高村がクロの持ち駒に加える。
「歩の取り込みからは、本譜と違った手順もありそうですけど、どれも激しい戦いになるのは変わらないですね」
高村が局面を戻して解説する。
「形勢判断はどうでしょう?」
増定に聞かれた高村は「クロさんが指しやすいと思います」と、ぼかしながらもクロ有利の判断を下した。
コトン
クロが蔦本陣にあった角の頭に歩を打つ。
そのまま取られては駒損が大きすぎるので角を逃げる一手ながら、どこに逃げても隙が大きくなりすぎてしまう。
『飛車を成り込まれるか、両取りに桂馬を打たれるか、再度の歩打ちでと金を作られるか…』
どれも厳しい枝分かれなのだが、蔦本は自陣へのダメージがなるべく少ないものを考える。
パチン
角を右に逃がして、再度の歩打ちからと金を作られる手順を選ぶ。
コトン
蔦本の読み通り、クロは歩を打つ。
その後のと金作りは自然な流れ。
ピシリ
カタン
パチッ
コトッ
「ここでは、はっきりクロさんの優勢から勝勢です」
解説役の高村が言い切る。
「AIの形勢判断も1000前後、クロさんの有利になっています。ここから逆転は難しいですか?」
増定が尋ねると、高村は首を振る。
「その辺りは私が身を持って知ってます。終盤のクロさんは強いですよ」
自嘲気味に笑う高村に、増定も「そうですかあ」とうなずいて、さらに尋ねる。
「辻井八冠の終盤力とでは、どっちが上ですか?」
「うーん」
高村は上を向いて考える。
「単純な比較は難しいですねえ。私の力量では、どちらも強いとしか…」
「高村先生で『どちらも強い』なら、私から見たら、どっちも神でしょうか」
高村は「ハハハ」と大笑いする。
「ここからはクロさんの収束を見守りましょう」
高村の言葉通り、そこからのクロの指し手は緩まなかった。
蔦本も懸命に反撃できそうな筋を探すものの、クロの王に届きそうな手は見つからない。
パチン
カタン
パチリ
コトン
蔦本の王を守っていた金がクロの竜に取られる。
持ち駒には守りに効きそうな金駒もなく、これ以上の受けは困難となる。
「負けました」
蔦本は駒台に手を乗せると、潔く頭を下げた。
これまた対局動画を見ていた
「後手番でクロに勝つ会」
・
・
・
中略
・
・
・
「後手番っておいしいのかい?」
の会員達も「負けました」「ありません」「ここまでです」などと、それぞれに頭を下げた。
「ありがとうございました」
「クワッ」
鈴香とクロも頭を下げた。
「まで、95手でクロさんの勝ちとなりました」
読み上げの草野も一礼した。
「クロさんの勝ちですが、この局面で即詰みはありませんよね」
控室では増定に聞かれた高村が「はい」と確認する。
「ただし、効果的な受けが見当たらないんですよね。強いて言えば…」
高村がクロ陣にあった蔦本の馬を引き付ける。
「このくらいなんですが、クロさんからの攻めがそれ以上に厳しい」
高村がクロの龍を1つ引く。
「これは一間龍と呼ばれる形です」
「ああ、分かりやすい寄せの形ですね」
「金駒があれば何とか受けられるんですが、持ち駒に金も銀もないですからね」
増定がクロの王に視線を移す。
「反対にクロ陣に迫る手はない、と」
「その通りです」
「分かりました。高村先生、解説ありがとうございました。では対局室で感想戦に加わっていただきます」
「はい」
高村と増定は正面に向かって頭を下げた。
1局目と異なり場慣れした鈴香はクロの頭を撫でつつ、感想戦が始まるのを待つ。
本当なら控室に持ってきたカニカマを上げたいところなのだが、さすがにこの場で食べさせる気にはなれなかった。
やがて高村と増定が対局場に来る。
「お疲れ様です」
「蔦本先生、いかがでしたか?」
開口一番、増定に聞かれた蔦本は「うーん、全然ダメで」と厳しい顔をした。
「……いろいろ考えてきたんですが、早々に予想外の局面になってしまって…」
冒頭の「いろいろ考えて」は声が小さかった。
「とりあえず最初から並べてみましょうか」
高村の言葉で、蔦本と鈴香が駒を並べ直す。
クロの代わりを務める鈴香の7六歩から感想戦が始まった。
「角頭歩戦法は珍しい戦型ですね」
高村の言葉に、鈴香が「はい」と、蔦本が「ええ」とうなずく。
そこから言葉が続かないのを感じ取った高村がフォローする。
「ネットが発達したこともあってか、こうしたレアな戦法も、いろんな人が研究や発表されていますよね」
高村から「研究」の言葉が出ると、蔦本の顔がわずかにゆがんだ。
角交換から相居飛車のまま進み、互いに王を囲う。
「この辺りはいろいろありそうですが、まだまだ互角でしょう」
高村の言葉に蔦本も納得した表情を見せる。
そして歩が3カ所でぶつかった局面。
鈴香が自陣角を打つ。
「ここで飛車寄りはどう?」
高村がそう言うと同時に、クロが蔦本陣の飛車を1つ横に動かす。
「おお!」
「クワッ!」
高村が声をあげると、クロもひと鳴きした。
1人と一羽の視線が合う。
「クロさんは『そうだよ』って言ったんですか?」
増定の問いかけに、鈴香が「えーと」と迷ったところで、高村は自嘲気味なコメントを返す。
「いや、『お前も強くなったな』かもしれません」
それを聞いた蔦本も笑ったことで、対局の場がほぐれた。
飛車寄り以降は高村と蔦本を中心に、ほぼ互角の形勢が続くことを確認する。
「こう指すべきでしたねえ」
蔦本は残念そうな顔を隠さなかった。
その後は局面を本来の手順に戻すと、中盤から投了図までをひと通り並べた。
「受け無しですね」
「はい」
蔦本がうなずいたのを見た増定が「ありがとうございました」と感想戦の終わりを告げた。
最後に草野が締めくくる。
「ご覧の通り、ぬばたまの闇より飛来せり漆黒の翼 クロ七番勝負の第2局、角野クロさん対蔦本浜辺五段の一戦はクロさんの勝ちとなりました。通算成績はクロさんの2勝です。第3局の福岡葉菜《ふくおか はな》女流五冠との対局は来月10日に放送予定です。皆さま、楽しみにお待ちください」
草野が言い終わるのを待って全員が頭を下げる。
クロも「クワア」と鳴いて頭を下げた。
スタッフは第1局と反対の側に2人と一羽を誘導した。
もちろん2局目は先手と後手が入れ替わることで、画面映りを考慮したためだ。
「こんにちは」
鈴香の挨拶に合わせて、クロが「クワア」と鳴く。
蔦本も「こんにちは、今日はよろしくお願いします」と丁寧にお辞儀した。
ひと通りカメラや照明の具合を確認すると、1局目と同じく「始めましょう」の言葉で雰囲気が引き締まった。
読み上げ係を務める草野が一礼して口を開く。
「ぬばたまの闇より飛来せり漆黒の翼 クロ七番勝負の第2局を始めます。2局目はクロさんが先手です。どちらも持ち時間や考慮時間はありませんが、1分ごとに経過時間を読み上げます。それでは対局を始めてください」
蔦本五段と鈴香がほぼ同時に「よろしくお願いします」と頭を下げる。
クロも「クワア」と鳴いて頭を振った。
盤の左に立ったクロが7筋の歩をくわえて1つ前に出す。
「先手、角野クロさん、7六歩」
草野が手を読み上げる。
それを見た蔦本も角道を開ける。
「後手、蔦本浜辺五段、3四歩」
控室の佐倉がモニターを見つめる。
「さて、どうなるか…」
角頭歩を目指すなら、ここで8六歩と指す一手だ。
クロは盤の左側に立ったままで、7筋の歩をくわえる。
そのまま1つ前の升目に置いた。
「先手、8六歩」
草野は冷静に指し手を読み上げた。
数日前から棋士や女流棋士の間で、ある噂が広まっていた。
曰く『クロが角頭歩を指すかも』との噂だ。
それを聞いていなければ、1局目の愛媛がそうだったように草野も読み上げる声が詰まったかもしれない。
控室の佐倉は小さくガッツポーズをした。
「よし!」
少なくともクロが角頭歩を選んだため、自分の推測が当たったことになる。
蔦本も内心でガッツポーズしつつ、飛車先の歩を突いた。
「後手、8四歩」
研究手順が試せる展開になると確信したからだ。
クロは蔦本の角を駒台に乗せると、自らの角を成り込む。
「先手、2二角成」
蔦本は左の銀で馬を取る。
「後手、同じく銀」
クロは左の桂馬を跳ねた。
「先手、7七桂馬」
蔦本は左の金を上がり、離れ駒になりそうな銀に紐をつけた。
「後手、3二金」
クロも左の金を上がって自陣の隙を無くす。
「先手、7八金」
その後、様子見の意味でか互いに端歩を突いた。
「角頭歩戦法ですね」
控室にいた聞き手の増定喜多女流二段が、解説役の高村天地《たかむら てんち》八段に話を振る。
「そうですねえ」
「高村先生は予想してました?」
「1局目もそうでしたし、『変わった手を指すんじゃないかな』とは思ってたんですけど」
高村も日本将棋協会を通じて、棋譜や動画、佐倉メモを受け取っていたため、佐倉の目論見は知っていた。ただし、あからさまに話題へと上げるのは控えた。
「珍しい戦法ですよね」
「ええ、公式戦でも指されたことはありますが、確か10局もないと思います」
「私の知っているのでは、ここから振り飛車になるんですが…」
そう増定が飛車に触れた時だった。
トットットット
クロは盤の右側に移ると、飛車先の歩をくわえて1つ前に置いた。
コトン
「先手、2六歩」
控室の佐倉が立ち上がって「ええっ!」と叫ぶ。
「何か起こったの?」と言いたげに、馬場と歩美と菱子が視線を向けた。
「あ、申し訳ない」
佐倉は椅子に腰を下ろした。
蔦本は「うわあああっっっ!!!」と叫ぶ。
ただし頭の中で。
「うわあああっっっ!!!」
対局動画を見ていた
「後手番でクロに勝つ会」
「後手番でクロに勝とう会」
「後手番でクロに勝てたらいいな会」
「後手番の対策を考えよう会」
「後手番で食い下がろう会」
「後手番で引き分けを目指そう会」
「後手番は捨ててクロをかく乱しよう会」
「後手番っておいしいのかい?」
の会員達からも叫び声が上がった。
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「1分経過しました」
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「2分経過しました」
草野が2分の経過を知らせたところで、蔦本が動く。
蔦本は前のめりになって左手で痛くなるほど膝頭を握りしめると、右手を伸ばしてゆっくりと左の銀を上がる。
「後手、3三銀」
その後は相居飛車での駒組が続いた。
「私のひと言がフラグになったんでしょうか」
控室では、大盤の飛車に触れつつ増定が苦笑いする。
「うんうん、そうかもしれませんねえ」
高村からも笑みがこぼれた。
「こうなると定跡から外れて力戦型になりそうですが…」
「ええ、クロさんと蔦本さんの殴り合いが見ものです」
会員達から、蔦本ら研究会における角頭歩振り飛車のことを聞かされていた高村。それでもやはり口にすることは無かった。
コトン
パチッ
カコン
ピシリ
コトッ
クロは左の金銀を銀冠に組み上げつつも王は九段目の低い位置に置いたままとした。その上で右の金銀はバランス良く配置し隙を見せない。
蔦本は3三銀と3二金の構えから矢倉模様をみせつつ王は4筋、つまり金の左に上げただけに留める。そしてクロと同様に右の金銀を細かく動かして角を打ち込まれる隙を作らなかった。
「地力勝負か」
蔦本のつぶやきが聞こえたようで、盤上を見つめていた鈴香が顔を上げる。
鈴香が見ているのに気づいた蔦本は一瞬だけ唇の端を上げて微笑むと、再び真剣な表情になった。
パシッ!
蔦本が駒音高く歩を突く。
コトン
クロは突かれた歩を取ることなく、別の筋の歩を突いた。
ピシリ
2か所でぶつかった歩をそのままに、蔦本は別の筋の歩を突いた。
結果、盤上の3カ所で歩がぶつかった。
どこかを取れば、そこから戦端が広がる可能性が大きい。
クロが盤面を見つめる。
「1分経過しました」
草野の時間読み上げを合図としたように、クロは「クワッ」と鳴いて駒台から持ち駒の角をくわえる。
そのまま自陣深くに「コトッ」と置いた。
それを見た蔦本も2分ほど考えて、自陣角を打つ。
パチン
「カア」
クロは先ほどよりも強く鳴くと、蔦本の顔を見上げた。
「クロが見た」
「見たね」
「見たなあ」
「見ちゃったかあ」
控室で佐倉達が声をあげる。
クロが優勢を自覚すると相手の顔を見る。
そんなクロの癖について、佐倉や馬場から歩美や菱子は聞かされていた。
やはり対局動画を見ていた
「後手番でクロに勝つ会」
・
・
・
中略
・
・
・
「後手番っておいしいのかい?」
の会員達からも声が上がった。
「クロがー!」
「見た!見ぃたー!」
「クロがー見たー!」
「あ、ヨイヨイっと!」
その中には踊り出す会員もいた。
蔦本も「うーん」とうなり声をあげた。
『まずった…のか?』
既に事前の研究範囲からは遠く離れており、直感で浮かんだ手を少考の後に選択した。
角打ちは受けにしっかりと効かせた手。
『…のはずなんだけど』
「ここで角の打ち合いとなりましたけど、クロさんに500点ほど振れましたね」
控え室では増定が角を動かす。
「どちらも受けに効かせたような角打ちですが、蔦本さんの方が…」
高村が言葉を濁す。
「疑問手ですか?」
増定の問いかけに、高村が蔦本陣の角を外す。
「クロさんに合わせて打ちたくなる角なんですけど、ここは飛車寄りの方が良かったかなと」
蔦本の飛車を1つ右に動かした。
「角打ちは悪くはないんですけど、ちょっと……窮屈に見えるんですよね」
「なるほど」
コトン
ちょっと考えたクロは自陣に打った角を斜め前に1つ上がる。
「うーん」
蔦本は先ほどよりも大きくうなる。
頭の中で『そうか!』と大声で叫ぶ。
現在、クロも蔦本も100点の態勢だ。
つまり先に動いた方が劣勢になることが多い。
クロの角上がりは100点を100点のまま維持する手。
蔦本にはそれに見合ったマイナスのない指し手が見つからない。
現状を100点とすれば、98点や97点、もしくは95点になってしまう手しか見当たらない。
98点になる手を指すと、ぶつかった歩の1つをクロから取り込まれて苦しくなる展開が予想される。
コトッ
蔦本は先んじて3カ所でぶつかっていた歩の1つを取って駒台に置いた。
さらに駒音をパチン!と大きく立てて歩を進めた。
こうなると開戦は必至。
カタッ
クロも別の場所でぶつかっていた歩を取って駒台に置く。
トコトコトコ…
コトン
空いた升目にクロの歩をくわえて進めた。
ピシッ
カタッ
パチン
激しい駒の交換が続く。
先に動いたことで、蔦本陣に生まれた小さな隙をクロが正確に突いてくる。
次第に蔦本側の指しすぎがはっきりしてきた。
「一気に開戦です」
控室の増定が対局の手順を追った。
「ええ」
増定から手渡された歩を高村がクロの持ち駒に加える。
「歩の取り込みからは、本譜と違った手順もありそうですけど、どれも激しい戦いになるのは変わらないですね」
高村が局面を戻して解説する。
「形勢判断はどうでしょう?」
増定に聞かれた高村は「クロさんが指しやすいと思います」と、ぼかしながらもクロ有利の判断を下した。
コトン
クロが蔦本陣にあった角の頭に歩を打つ。
そのまま取られては駒損が大きすぎるので角を逃げる一手ながら、どこに逃げても隙が大きくなりすぎてしまう。
『飛車を成り込まれるか、両取りに桂馬を打たれるか、再度の歩打ちでと金を作られるか…』
どれも厳しい枝分かれなのだが、蔦本は自陣へのダメージがなるべく少ないものを考える。
パチン
角を右に逃がして、再度の歩打ちからと金を作られる手順を選ぶ。
コトン
蔦本の読み通り、クロは歩を打つ。
その後のと金作りは自然な流れ。
ピシリ
カタン
パチッ
コトッ
「ここでは、はっきりクロさんの優勢から勝勢です」
解説役の高村が言い切る。
「AIの形勢判断も1000前後、クロさんの有利になっています。ここから逆転は難しいですか?」
増定が尋ねると、高村は首を振る。
「その辺りは私が身を持って知ってます。終盤のクロさんは強いですよ」
自嘲気味に笑う高村に、増定も「そうですかあ」とうなずいて、さらに尋ねる。
「辻井八冠の終盤力とでは、どっちが上ですか?」
「うーん」
高村は上を向いて考える。
「単純な比較は難しいですねえ。私の力量では、どちらも強いとしか…」
「高村先生で『どちらも強い』なら、私から見たら、どっちも神でしょうか」
高村は「ハハハ」と大笑いする。
「ここからはクロさんの収束を見守りましょう」
高村の言葉通り、そこからのクロの指し手は緩まなかった。
蔦本も懸命に反撃できそうな筋を探すものの、クロの王に届きそうな手は見つからない。
パチン
カタン
パチリ
コトン
蔦本の王を守っていた金がクロの竜に取られる。
持ち駒には守りに効きそうな金駒もなく、これ以上の受けは困難となる。
「負けました」
蔦本は駒台に手を乗せると、潔く頭を下げた。
これまた対局動画を見ていた
「後手番でクロに勝つ会」
・
・
・
中略
・
・
・
「後手番っておいしいのかい?」
の会員達も「負けました」「ありません」「ここまでです」などと、それぞれに頭を下げた。
「ありがとうございました」
「クワッ」
鈴香とクロも頭を下げた。
「まで、95手でクロさんの勝ちとなりました」
読み上げの草野も一礼した。
「クロさんの勝ちですが、この局面で即詰みはありませんよね」
控室では増定に聞かれた高村が「はい」と確認する。
「ただし、効果的な受けが見当たらないんですよね。強いて言えば…」
高村がクロ陣にあった蔦本の馬を引き付ける。
「このくらいなんですが、クロさんからの攻めがそれ以上に厳しい」
高村がクロの龍を1つ引く。
「これは一間龍と呼ばれる形です」
「ああ、分かりやすい寄せの形ですね」
「金駒があれば何とか受けられるんですが、持ち駒に金も銀もないですからね」
増定がクロの王に視線を移す。
「反対にクロ陣に迫る手はない、と」
「その通りです」
「分かりました。高村先生、解説ありがとうございました。では対局室で感想戦に加わっていただきます」
「はい」
高村と増定は正面に向かって頭を下げた。
1局目と異なり場慣れした鈴香はクロの頭を撫でつつ、感想戦が始まるのを待つ。
本当なら控室に持ってきたカニカマを上げたいところなのだが、さすがにこの場で食べさせる気にはなれなかった。
やがて高村と増定が対局場に来る。
「お疲れ様です」
「蔦本先生、いかがでしたか?」
開口一番、増定に聞かれた蔦本は「うーん、全然ダメで」と厳しい顔をした。
「……いろいろ考えてきたんですが、早々に予想外の局面になってしまって…」
冒頭の「いろいろ考えて」は声が小さかった。
「とりあえず最初から並べてみましょうか」
高村の言葉で、蔦本と鈴香が駒を並べ直す。
クロの代わりを務める鈴香の7六歩から感想戦が始まった。
「角頭歩戦法は珍しい戦型ですね」
高村の言葉に、鈴香が「はい」と、蔦本が「ええ」とうなずく。
そこから言葉が続かないのを感じ取った高村がフォローする。
「ネットが発達したこともあってか、こうしたレアな戦法も、いろんな人が研究や発表されていますよね」
高村から「研究」の言葉が出ると、蔦本の顔がわずかにゆがんだ。
角交換から相居飛車のまま進み、互いに王を囲う。
「この辺りはいろいろありそうですが、まだまだ互角でしょう」
高村の言葉に蔦本も納得した表情を見せる。
そして歩が3カ所でぶつかった局面。
鈴香が自陣角を打つ。
「ここで飛車寄りはどう?」
高村がそう言うと同時に、クロが蔦本陣の飛車を1つ横に動かす。
「おお!」
「クワッ!」
高村が声をあげると、クロもひと鳴きした。
1人と一羽の視線が合う。
「クロさんは『そうだよ』って言ったんですか?」
増定の問いかけに、鈴香が「えーと」と迷ったところで、高村は自嘲気味なコメントを返す。
「いや、『お前も強くなったな』かもしれません」
それを聞いた蔦本も笑ったことで、対局の場がほぐれた。
飛車寄り以降は高村と蔦本を中心に、ほぼ互角の形勢が続くことを確認する。
「こう指すべきでしたねえ」
蔦本は残念そうな顔を隠さなかった。
その後は局面を本来の手順に戻すと、中盤から投了図までをひと通り並べた。
「受け無しですね」
「はい」
蔦本がうなずいたのを見た増定が「ありがとうございました」と感想戦の終わりを告げた。
最後に草野が締めくくる。
「ご覧の通り、ぬばたまの闇より飛来せり漆黒の翼 クロ七番勝負の第2局、角野クロさん対蔦本浜辺五段の一戦はクロさんの勝ちとなりました。通算成績はクロさんの2勝です。第3局の福岡葉菜《ふくおか はな》女流五冠との対局は来月10日に放送予定です。皆さま、楽しみにお待ちください」
草野が言い終わるのを待って全員が頭を下げる。
クロも「クワア」と鳴いて頭を下げた。
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