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第五章

30 姿を消した淫魔

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 主人が眠っている間に手を出したということで、マージェリィはレヴィメウスに接触禁止令を出した。
 深く反省し、しょぼくれている淫魔は顔の良さも相まってひどく可哀想に見えたものの、いくらなんでも寝込みを襲うのは金輪際やめて欲しいので厳しく当たることにしたのだった。


 レヴィメウスに抱いてもらえるようになって以降ずっと行為に耽っていた分、仕事や研究が長らくおろそかになってしまっていた。今後一切セックスをしないつもりでは当然なく、生活費を稼ぐため注文の品を作る作業と魔術の研究、そしてレヴィメウスとの性生活とでバランスを取っていかなければならない。
 魔女の身が衰え始めるまでの数百年もの間、ふたりでずっと仲良く過ごしていきたいから――。


 久しぶりに取り組んだ魔術や魔法薬の研究はとても楽しく毎日没頭してしまった。レヴィメウスとふたりで使う潤滑剤もまだまだ改良の余地があるし材料の効能をさらに引き出せそうな手応えもある。試したいこと、調べたいことは尽きることなく、寝落ちするまで机にかじりつく日々が続いていた。
 朝になって気が付くと肩掛けを掛けられた状態で机で突っ伏しているためいつも寝覚めが悪く、それまでレヴィメウスがベッドに運んでくれていたことがいかに有難いことだったかを実感した。しかし接触禁止令を出している以上、自分が寝落ちしたときだけは触っていいよなどと言ってしまっては主としてあまりに身勝手すぎる。なぜならそれを頼めばレヴィメウスは主人に触れるだけで我慢しなければならなくなるからだ。
 その状況はレヴィメウスが可哀想だと思い、マージェリィはなるべく寝落ちしないように心掛けたのだった――ほとんどの場合、無駄な努力に終わってしまっていたが。



 レヴィメウスと触れ合わなくなってしばらく経ったある日のこと。
 マージェリィが目覚めると、すっかり日が昇りきっていた。寝起きにカーテン越しの陽光があまりに眩しく、目をしかめつつ椅子の背もたれに寄りかかってめいっぱい伸びをする。

「いたたた……体がごわごわだあ」

 最後の記憶は外が仄かに明るくなり始めた頃だったので、だいぶ長いこと机に突っ伏して眠ってしまっていたらしい。痺れた手を机に突いてやっとのことで立ち上がり、椅子の座面に落ちてしまっていた肩掛けを背もたれに掛けてから、よろよろと洗面所へと向かう。
 廊下に出たところで、そこはかとない違和感を覚えた。

「あれ? レヴィメウス?」

 家の中がやたらと静かな気がして顔を洗うより先に台所へと向かう。いつもなら主人が起きる気配を察してレヴィメウスが茶を用意しようとしてくれているはずだった。しかしそこには誰もいなかった。

「レヴィメウスー、どこー? 私起きたよー」

 あてもなく呼び掛けながら居間へと向かう。きっとソファーで居眠りしているのだろうと思いきや、そこにも探し人の姿はなかった。

「あれ? レヴィメウスどこに居るの?」

 家中を歩き回ってすべての部屋を確認し、それでも見つからないので外に出て倉庫を覗き込む。そこにも誰もおらず、家の回りを一周して全方位を見渡してみた。魔女の森は木々のざわめきを響かせるばかりで、人影は全く見当たらない。

 愛しの淫魔が姿を消してしまった。

「まさか……」

 レヴィメウスが居なくなった理由を考える。すると即座にひとつの可能性に思い当たった。

「もしかして魔界に還っちゃったの!? 私がずーっと触っちゃダメって言ってたから? でもまだ魔力が枯渇するほどの日数は経ってないはずなのに。魔力不足になるのが二回目だから前とは違うってこと? 予想外に魔力が減るスピードが早くなったりしていきなり魔界に強制送還されちゃってたら……」

 途端に心臓が騒ぎ出す。 

「やだやだ、そんなのイヤだよお……!」

 たちまち視界が歪んでいく。

 絶対にレヴィメウスと離れたくない、このままお別れなんて絶対にイヤ――。

(もう一度召喚したらまた私の元に来てくれるかな、でも『魔力を与えてくれない召喚主なんてお断りだ』って言って、もう私の召喚には応じてくれないかも)

 そう思い至れば一気に涙が溢れ出す。
 涙を拭いもせず走って家の中に戻り、まずは居間へと向かう。せめてソファーにレヴィメウスのぬくもりが残っていやしないかと触れようとした矢先、テーブルの上に食事が用意されていることに気付いた。

「あれ、なんでさっき気付かなかったんだろう……」

 それほど焦っていたらしい。パンもスープも冷めていて、作ってから時間が経っていることを窺わせる。

「置き土産、ってことなのかな……」

 自分が口にした言葉の響きがあまりに寂しくて、ますます涙が止まらなくなる。ようやく手の甲で頬を拭った直後、皿の傍らにメモが置かれているのを見つけた。
 恐る恐る拾い上げて、書かれている文字を読む。


『おはよう、主。
 買い物がしたいので少し街へ出掛けてくる』


「え? レヴィメウスがひとりで買い物?」

 今まで共に過ごしてきて、一緒に近場の街へと買い出しに出掛けたことはあったが、レヴィメウスが単独で街に出たことは一度もなかった。
 それのみならず、そもそもレヴィメウスの字を見るのも初めてだった。

「綺麗……」

 古い手書きの書物で見るような流麗な筆致に見とれてしまう。指先で何度も文字をなぞりながら、ひとり疑問を声に出す。

「買い物って何だろう?」

 独り言と共に視線を巡らせ始めた直後、ソファーの片隅に本が置いてあるのを発見した。それはマージェリィのお気に入りの恋愛小説だった。
 とはいえ最後に読んだのは恐らく十年以上前で、タイトルを見てもおぼろげにしか内容を思い出せない。

(これってどういう話だったっけ。確か神様と人間の乙女、種族違いのふたりが大恋愛して……)

 物語について記憶を探り始めた矢先、ドアが開かれる音がした。

「レヴィメウス!?」

 本をソファーに放り投げて全速力で玄関へと向かう。そこには小振りな白薔薇の花束と布の被せられた籠を手にした愛しの淫魔が立っていた。全身を覆い隠す簡素なローブを纏い、フードを目深に被っていて表情が読めない。
 しかし今のマージェリィにはそれらを気にする余裕は一切なかった。

「レヴィメウス、よかったあ……! おかえりなさい!」

 主人を迎える形に腕を広げてくれたレヴィメウスに遠慮なく抱きつき、硬い胸板に何度も頬ずりする。レヴィメウスは、ローブの下はいつぞやマージェリィが変身魔法で着せた冒険者風の服一式を纏っていた。
 不意に、ふわりと薔薇の甘い香りと焼き菓子の芳ばしい匂いが鼻先に漂い始めた。
 顔を上げてすんすんと鼻を鳴らす。するとレヴィメウスの申し訳なさげな眼差しと視線がぶつかった。

「……泣かせてしまったか。急に出掛けてしまってすまない、主よ」
「ううん。私がすぐにメモに気付かなかったから」

 首を振っていると、レヴィメウスが籠を持った手に花束を持ち替えて、フードを取った。
 いつも通りの温かな笑顔が見えて、マージェリィはほっと胸を撫で下ろした。安堵感に脱力するに任せて再び体重を預けた途端、レヴィメウスが空いた方の手でぐっと腰を抱き寄せてくれた。
 その力強さに胸を高鳴らせつつされるがままでいると、屈み込んできたレヴィメウスが目尻にキスしてきた。そこにはまだ涙の雫が残っていた。
 優しい唇のくすぐったさに笑いながら、小首を傾げてみせる。

「起きたら居なくて本当にびっくりしたよ。急にどうしたの?」
「驚かせてしまってすまぬ。主は今日が何の日か憶えているか?」
「何の日?」

 全く思い当たる節はなかった。しかしいわゆる【特別な日】と呼ぶものと言えば――。

「あ! もしかして今日ってあなたの誕生日なの? プレゼント何も用意してないよ!?」

 悪魔にも誕生日があったんだと自分の至らなさにあたふたとし出した矢先、苦笑いに制された。

「否、誕生日ではない。今日はわれあるじに召喚され、主と出会えた記念すべき日だ」
「ええ!? そうだったっけ!? ごめん憶えてなかった……!」

 レヴィメウスと出会ってちょうど一年。それは確かに大切な、記念すべき日と言える。当時緊張しながら召喚を行い、魔方陣の中央に淫魔が出現した瞬間。そしてその姿を目にしたときの胸のときめきは今でもはっきりと思い出せる。

「そっかあ、もう一年経ったんだ」
「召喚されてすぐに暦を見て日付を確かめたのだ、前回召喚されてからどれくらい経っているかを確認するために。我が呼び出された部屋に暦書が開いてあったろう」
「あ、うん! 運勢が最高の日に召喚しようと思ってたから」

 暦書に書かれている占いを吟味し、その年で一番運勢が良い日にレヴィメウスを召喚したのだった。悪魔召喚を決行した際、確かに暦書は開きっぱなしだった憶えがある。

「さあ、主よ。主と我が出会えた日を盛大に祝おうではないか」
「うん! 嬉しい……!」

 まさか出会った日を憶えていてくれて、しかもこっそりお祝いの計画を立ててくれていたなんて――マージェリィはもう一度レヴィメウスに全力で抱きつくと涙を浮かべた。

 今度の涙は嬉し涙だった。
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