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第二章 婚約破棄の切り札
ウチの図書館には妙なものが飛んでくる
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1.善は急げ
王都タウンハウスのダイアナの部屋は、逃亡防止のために2階から3階に移された。ダイアナの傍には、常にチャニング伯爵家の侍女ミリアムが張り付いている。
だがそれぐらい想定内。伊達に本邸の不思議な図書室で知識を得ていない。普段はマンガとライトノベルばかり呼んでいるが、役立ちそうな専門書の知識もしっかり身につけていた。
就寝間際、ダイアナは行動に出た。まずミリアムの隙をついて両手両足胴体を縛り上げた上に猿轡を噛ませる。そして常に用意していたバックパックには、携帯食と金と水筒と小刀と寝袋が入っている。ダイアナは厚手のカーテンを手早くロープに編み上げ、3階の窓から脱出した。
目指すはリング伯爵邸の図書室。あそこへたどり着けば、人外変態美形のエーヴェルとの婚約破棄の手助けになりそうなものがあるかもしれない。いや、絶対にある。推測を確信と信じ込んで馬屋へ行くと、リング伯爵の命令で護衛がいた。恐らくダイアナの逃亡などお見通しだったのだろう。
「お嬢様、お部屋へお戻りをー」
そう言った護衛達3人に、刺激の強い乾燥ハーブを調合した袋をぶつける。独自調合の火薬も持っているが、家の者を起こしたくないし、そもそも馬が暴れて使い物にならなかったら、元も子もない。
ダイアナは馬屋から気性は荒いが俊足の馬を出し、鞍を付ける時間も惜しいので、騎乗するなりタウンハウスを飛び出した。気性の荒い馬を乗りこなすは困難だが、ダイアナは「馬肉にするぞ!」とドスの利いた声で馬を従わせた。馬は舐められたら終わりだと熟知している。
こうしてダイアナは、追手を巧みに巻きながら、休息も入れつつ領地ののリング伯爵邸へ戻った。既に急使が本邸にも飛んでいたが、堂々と玄関から家に入るつもりはない。疲れた馬を放牧場へ放つと、隠し通路を使って図書室に忍び込んだ。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
広い図書室を1人で管轄する司書が、抜け穴から出てきたダイアナに、顔色一つ変えずに挨拶した。
中年の茶髪の司書は、ダイアナを『ご主人様』と呼ぶ。リング伯爵には『旦那様』と言う。司書が主君と仰ぐのはダイアナのみで、以前その理由を尋ねたら「異世界語を理解できたから」だそうだ。
「この格好じゃ、汚すぎて本に申し訳ないわね。それと、携帯食だけで王都から飛ばしてきたから、お腹すいたわ」
抜け穴の入り口に座り込んだダイアナは、外套を脱ぐ気力もない。すると司書は一旦立ち去り、司書室から軽食を持ってきた。サンドウィッチとスープとリンゴとお茶の乗った盆をダイアナの前に置くと、猛烈な勢いでダイアナはそれらを平らげた。
「しばらく胃を落ち着けてから、司書室の入浴場を使ってください。着替えは、クローゼットのものでよろしいですか?」
脱走の常習であるダイアナは、ドレスや下着類の入った専用クローゼットを、司書室に置いていた。
「ドレスは目立つから、下男に変装するわ。まったく、門にうじゃうじゃ湧いた騎士どもは、人外変態野郎の仕業ね。お父様なら、私を追いかける真似はしないもの」
「おっしゃる通り、チャニング卿の騎士隊でございます。3日前から当家の兵営に駐留しております。ちなみに当家の兵長は、あのじゃじゃ馬姫を捕まえるのは、あんたらには無理だよ、と仰って決闘騒ぎを起こしておりました」
「当然、勝ったのはウチの兵長よね?」
「聞くまでもありません。王都近くの領地で、平穏に暮らすチャニング卿の騎士隊と違い、当家は野党退治や狩猟で鍛えておりますから」
リング伯爵領に限らず、王都から離れるほど野党の出没は多い。大抵は作物や家畜狙いだが、他国へ売り飛ばす人身売買に組みした組織も暗躍している。それゆえ、王都から距離のある地方領地の兵団は強く、団結力もある。近隣領と共同で野党を追いかけることも珍しくなく、地方の兵団はもちろん、伯爵家以下の貴族も、国王よりもその土地の辺境伯に従っていた。辺境伯は名前こそ伯爵だが、地位は侯爵と同等であり、国王の許可なく軍を動かせる地方一帯の自衛権も持っている。
そんなわけで、王都一帯の貴族と地方貴族の騎士隊もしくは軍隊との折り合いは悪い。付け加えると、貴族同士も地方と王都近辺で偏見を持ち合わせていて、表面上は親しくしているが、水面下ではバチバチ火花を散らしている。
「今回のご主人様とカイル様との一方的な婚約破棄、ご主人様を国王陛下の甥にあたるチャニング卿との無理矢理な婚約に、南部地方は憤っておりますよ」
「うわぁ、お父様、帰ってきたら針の筵だわ。可哀想に。そのためにも、私はあの人外変態と婚約破棄しなくては!」
ダイアナは立ち上がり、外套を脱ぐ。その外套を司書は受け取った。ダイアナは食べて元気が出たので、そのまま入浴することにした。
髪はタオルドライしたが、まだ湿っている。だが黒髪は目立つので、万が一を考えて、変装用の茶色いウィッグをかぶった。服も司書服を身につけている。
ここには資料が必要な伯爵領管轄事務官や娘達の家庭教師が資料を取りに来るぐらいで、滅多に人が滞在することもない。伯爵さえ資料の補給が必要か聞きに来るのに年に数回訪れるか否かで、夫人と長女に至っては近寄ろうともしない。
だからダイアナが、図書室の専用の小部屋に異世界の本をコレクションしたエリアを作っていても、司書以外は気づいていない。予定通りにカイルと結婚した後も、一番気に入っている数冊以外はここに置いていき、里帰りのときに異世界マンガやライトノベルを満喫する予定だった。グレイ子爵領は隣なので、頻繁に里帰りできたのに、王都のチャニング伯爵と結婚したらここに滅多に帰ることも出来ない。そんなのは絶対嫌だ。
「本当に、アテナ姉さまがチャニング伯爵と結婚して、私が家督を継げたらそれが一番なんだけどね」
レムリアン王国は、嫡男がいない場合は女性の叙爵も認められている。しかし男子より規定が厳しく、病弱等、よほどの理由がない限りは長女が婿を取って家督を継ぐことになっている。アテナとダイアナ、後継者に相応しいのはどちらかと問われれば、全員がダイアナと応えただろう。だが次女として生まれたダイアナは、嫁ぐか独身小姑で居座るかの選択肢しかない。
ダイアナが調べているのは、異世界の避妊薬調合方法だ。しかし読み始めてすぐに挫折した。薬草を煎じて飲めるなら、代替の薬草を探すことは出来る。植物は意外と異世界と植生が一致していたからだ。しかし書物に書かれた薬の作り方には複雑な機械が幾つも必要で、それはこの世界にはないものだった。
「漢方薬、コッチなら何とか作れそうかな。あの人外変態の絶倫に付き合ってたら、いつ身ごもるか恐々とした日々を送らなきゃならないもの」
ダイアナは震え上がる。漢方薬のデメリットは煎じて飲まねばならないので、見つかったら処分されそうだが、無いよりはマシだ。それに物を隠しすのは得意だ。
国王も王妃との間に6男2女を、エーヴェルの両親ウェルハーズ公爵夫妻も4男8女。そしてエーヴェルの実兄グランベリー侯爵も奥方との間に3人を儲け、夫人はいまもう1人懐妊中だ。国王は兄弟が多いが、弟妹夫妻は2人から3人程度しか子を持たない。四方を他国に囲まれた王国ならではの事情かもしれないが、エーヴェルの執着ぶりからしてダイアナも子沢山母になる未来しか見えない。
「冗談じゃない。先日読み終えたマンガのヒロインだって、馬鹿ヒーローとの間に子ができなくて、養女を育て上げてたってのに。でもあの浮気馬鹿ヒーロー、浮気性で色んな女性に出を出していながら、3人しか実子に恵まれなかったのよね。しかも1人は不義の子で、後年に不義の子を育てる因果応報を受けるザマァ展開になったけど。ほんと、あの浮気馬鹿ヒーローが目の前にいたら、拳で殴ってやりたくなるわぁ」
ダイアナはマンガを読みたいのを我慢して、机に広げた漢方薬の資料から、薬草を書き出していく。あとはこの薬草と似た植物を、図書室の植物コーナーから探した本と一致させて、薬草を買うか採取するかだけだ。
その時、図書室の一画が光った。また異世界から何か飛んできたらしい。避妊薬が飛んできたら嬉しいのだが。
ダイアナがペンを置いて小部屋から飛び出すと、そこには見慣れぬ格好の男女がいた。
「え?」
ダイアナも司書も言葉を詰まらせる。この図書室には本の他にも様々な異世界の小物も飛んでくるが、人が出現したのは初めてだ。しかも女性はともかく、男性。
「いやーん、須藤はじめ様!」
ダイアナ最推しマンガの主人公と顔立ちがよく似た、侍姿の男性に黄色い声を上げる。
「なんだ、ここは。俺、稽古場から出て自動販売機に行く途中だったのに」
異世界男性は困惑している。後で聞き出せば、マンガ原作の舞台俳優とのことだった。本名は富永敦史、芸名は斎藤賢人というらしい。
「私は…」
女性は口ごもる。水も滴るいい女だったが、本当に全身ずぶ濡れで、潮の匂いがする。青白い顔でガタガタ震えていたので、ダイアナは彼女を司書室の風呂場へ連れて行った。残り湯だが風呂に適温のお湯が溜まっている。ダイアナは熱い湯が好きなので、ちょうど適温になっていた。
ダイアナが手助けしながら入浴させがてら尋ねると、彼女の名前は中嶋翔子、研修医を経て外科医になって半年とのこと。しかも既婚者。だが大学病院の上司が義兄で、医療ミスの失敗を翔子に押し付けたことから、別の病院で働く外科医の夫から罵倒され、個人病院を営む両親からも勘当された絶望から、海に投身自殺を図り、気づいたらここに居たとのことだった。
「居場所がないなら、ここに居ればいいわよ。本当は私が何とか出来れば良いんだけどね」
と、ダイアナが自分の置かれた事情を話すと、根が正義感溢れる翔子が激怒。さっきまでの絶望感はどこへやら、全面的にダイアナを支えると誓った。
「あいにく、ウチの世界にはドライヤーがないのよね。製造過程マニュアルはあるけど、科学を急激に進ませると、そっちの世界みたいに紛争が多発して厄介なことになりそうだし」
ダイアナは翔子の髪を拭きながら言う。翔子はショートボブだったので、髪の乾きも早かった。
「科学の発展は良い面と悪い面がありますから、ダイアナ様の判断は正しいと思いますよ」
「いやーね、敬称なんて要らないから、ダイアナって呼んでよ。年齢は離れてるけど、私と友達になってちょうだい」
翔子は平均的日本人体型だったので、どちらかというと欧米体型のレムリアン王国のダイアナのドレスがピッタリだった。
(あれ、これって瞳さえ隠せば、私の身代わりが出来るんじゃない?)
日本人はただでさえ童顔だ。顔はまったく似ていないが、エーヴェルや家族ならともかく、チャニング伯爵騎士隊は充分に騙せる。まあ、傷心の翔子にそんな真似させるつもりもないが。
司書室には、少し早めの夕食が4人分、用意されていた。召使い用の食事だが、司書が料理人に交渉して人数分を用意させたのだ。ちなみにチャニング伯爵騎士隊は未だ気づいていないが、リング伯爵邸の召使いや兵士の殆どが、ダイアナが帰還して隠れているのを知っていた。そりゃあ、放牧地にリング伯爵一行と共に王都へ行った駿馬が居れば気付かないはずもない。そして横柄ないけ好かない王都の騎士たちに、召使い一同は教えてやるつもりもない。
召使い用の食事なのでコース料理ではなく、定食形式だが、若鶏のハーブステーキやシャキシャキサラダ、デザートに紅茶のパウンドケーキも付いていたので、皆は大満足だ。
一番喜んでいたが司書だったのは、普段はここで孤食しているため、賑やかな食卓が楽しいのだろう。
「普段は気付かなかったけど、野菜って美味いな。俺、野菜は基本的にトマトとキュウリとジャガイモぐらいしか好きじゃないんだけど」
司書の服を借りて着替えた俳優の敦史も感嘆の声を上げる。
「こうして落ち着いて食事するのも久しぶり。このところ食欲が全く無かったのもあったけど、医者になってから、食事は餌同然だったし。特に研修医時代は酷いものだったわ。食べる時間はおろか睡眠さえ充分に与えられず、ひたすら酷使されてきたから」
「ふーん、医者ってもっと優雅な暮らしを想像していたけど、意外と大変なんだな」
「俳優も大変なのねえ。斎藤賢人(敦史の芸名)といえば、芸能界に疎い私でも知っているのに、裏事情は過酷なのね。てっきり、もっと優雅で華やかな世界の人かと思ってた」
敦史と翔子は、業界あるある話で盛り上がる。
ダイアナは司書と、今後について話し合っていた。敦史については、生活に慣れるまで、当面は図書館司書として働かせることで一致した。問題は翔子だ。翔子はダイアナの専属召使になるという。だが医者のスキルを持つ翔子を、単なる召使にするのは惜しいとダイアナは思う。
「翔子もやっぱり領地に残ってもらって、ゆくゆくは領民の治療に従事してもらいたいのだけど」
「ごめん、医者はもう嫌。もともと医者になりたいからなったわけでなく、実家を継ぐのが一人娘の私の使命だと思っていたから、両親に従っていただけ。その両親からも見捨てられて、私のいままでの人生って何だっただろうって自暴自棄になっちゃたのよ。夫だって恋愛じゃなく、家同士の見合いで決められたからだったし。医者で、そこそこ顔がいいから、結婚前から浮気していたどうしよもない奴だったわ」
翔子はグサリと憎しみを込めて、チキンステーキにフォークを刺した。
「そっか。なら、取り敢えずはギリギリまでコッチの世界のことを学んで、私が王都に連れ戻されることになったら付いてきて。避妊薬の漢方茶を淹れてもらう役割をお願いしようかな」
「避妊薬か。半月分なら持ってるわよ」
翔子はドレスのポケット(ダイアナ特注品)から、小瓶を取り出す。密封された瓶に入っていたので、中身は濡れずに済んだ。嫌いな夫の子供を産みたくないのと、仕事が多忙で子供どころでなく、避妊薬を友人の婦人科医に内緒で処方してもらっていたとのことだった。
「わー、嬉しい。この避妊薬が自在にコッチの世界へ飛んできてくれたらなぁ」
ダイアナは歓喜しつつもため息をつきながら、小瓶を受け取る。
「コッチに召喚魔法とかないのか?」
アニメやゲーム好きの敦史が尋ねる。
「そんな便利なものがあったら、とっくに使ってるわ。この世界に魔法はないの。ただウチの図書室はね、何故か異世界の本が飛んでくるの。稀にあっちの世界の小物も飛び込んでくるけど、人間が来たのは初めてよ」
「例えば?」
「サバイバルナイフとか、寝袋とか、コッチの世界とは雲泥の差の美味しい携帯食とか。あとは汚水を飲水に変えるボトルとか。ピストルやライフルが飛んできたら、いま直ぐにでも他国へ亡命するんだけど」
「なんでサバイバル用品ばっか飛んでくるんだ。ダイアナ、もしかして無意識にそれらを召喚しているんじゃないのか?」
「盲点。それは考えたことなかったわ。食後、早速試してみる!」
「近代武器はやめてよ。せめてエクスカリバーとか聖剣に抑えてちょうだい」
翔子は忠告する。小中高と大学時代に上辺だけの友人しか居なかった翔子の楽しみもまた、マンガ、ライトノベル、アニメ。ゲームは一度、ハマりすぎて法外な課金額が親にバレて以来、自制している。
食後、図書室に一同は集まる。ダイアナは、「避妊薬、避妊薬」と唱えながら召喚を願う。
召喚は成功した。しかしそれは翔子と敦史好みのアチラの世界の衣服、靴、お菓子だった。翔子と敦史は大喜びだが、ダイアナはガックリと床に手をつく。
「なんで一番欲しいものが手に入らないのよー」
ダイアナが叫ぶと、目の前に物が現れた。またしても目当ての避妊薬ではなかったが、アチラの世界の激レアなプレミアム価格が尋常でない推しの未開封フィギュアだった。
「こ、これは『鮮血幕末終焉談』の須藤はじめ様のフィギュア!なにこの格好良さ、躍動感!私、いま生涯で一番幸せなんだけど」
ダイアナはフィギュアの箱を抱きしめて、喜びの涙を流す。
「あー、ズルい。俺もそれ欲しかった!」
「私は『鮮血幕末終焉談』は好みじゃなかったのよね。それより『王宮ザマァ悪役王子の脱走冒険魔法物語』のルシエル・リリエンタール様のビッグアクリルスタンドが欲しい。あの美形をフィギュアにすると、どうしても違和感が半端ないのよね」
「もしかしたら、鮮明に欲しいものが思い浮かべられる分だけ、2人のが召喚出来るのでは?」
ダイアナが指摘すると、2人は早速、「フィギュア、フィギュア」、「アクリルスタンド、アクリルスタンド」と必死で願う。ブツは来た。だが2人とも喜ばなかった。
「なんで俺の大嫌いな『吸血鬼マリア姫の聖女伝説』のマリアのフィギュアなんだよ!俺、コイツの不幸だけど負けないって、迫害されながらも人を助ける博愛精神に反吐が出るんだ!あー、ここに伊豆屋があったら速攻で売ったのに!」
「げー、なんでルシエル様の敵役のミカエル・ローズウッドなのよ!このキザな王子、マジで大嫌いなのよ!伊豆屋があったら、速攻で売るのに!」
敦史と翔子は喚き嘆く。両方とも中古アニメグッズ店で売れば、高額買取間違いなし。だが2人して嫌いな方のアニメグッズが出るとは。召喚って難しい。
「取り敢えず、2人も召喚出来ることが分かったんだし。あとは練習でコントロール法を私らでマスターするしかないわね!」
ダイアナは最推しフィギュアの箱を片手に抱えて、拳を作る。
エーヴェル・チャニング伯爵自らが、リング伯爵邸に当主一家もろとも突撃してくるまで、3人は召喚の練習をした。そして判明した。欲しいものを願っても、それは絶対に飛んでこないことに。
「なんで、私の嫌いなアニメキャラのグッズしか出てこないよ!」
「俺だって、嫌いなフィギュア勢揃いだ。あー、伊豆屋に売り飛ばしたい」
翔子と敦史の溜まりに溜まった要らないグッズは、図書室の地下物置に山積みとなった。
ダイアナも避妊薬を必死で願ったが、下剤だのビタミン剤だの不要なものばかり飛んでくる。まあ、使えないものではないので、これらは一部を除いてボストンバッグに収納して異世界部屋に置いている。たまに飛んでくる『当たり』は、アニメグッズ。それは自分の推しだけでなく、翔子や敦史の推しも混じっていたので、ダイアナは2人の異世界人から崇拝の念を向けられている。
この図書室の秘密がバレるわけにはいかないので、エーヴェルと家族が戻ってきた時には観念して変装を解き、邸に戻った。敦史はそのまま司書助手として図書室に残ることになったが、翔子は約束通り、ダイアナにくっついてきた。客人応対用ドレスを着て着飾ったダイアナと、リング伯爵家のメイド服に着替えた翔子。
翔子はエーヴェルの美貌に目を見張ったが、エーヴェルがダイアナをロックオンするなり駆け寄り、圧死させるほど抱きしめながらキスの雨をダイアナの顔中降らせている姿にドン引きした。
(こりゃ、避妊薬が必要なわけだわ)
翔子はエーヴェルの執着心について、ダイアナの誇張かと思っていた。しかしエーヴェルのダイアナへ執着愛は予想を軽く超えていて、鳥肌が立った。我に返って止めに入らねば、ダイアナは肋骨骨折の上に、下手したら昇天していたかもしれない。既に顔は青を通り越して白くなっていた。
「どきなさい!アンタ、彼女を殺すつもり?」
翔子は渾身の力でエーヴェルを突き飛ばし、ダイアナを床に寝かせる。どれだけ強く抱きしめられたのか、呼吸がない。脈は早すぎるが、幸いある。翔子は人工呼吸で、ダイアナの口に息を吹き込む。それを見たエーヴェルは女同士とはいえキスに錯乱したが、事態を把握したリング伯爵が背後からエーヴェルを止めたお陰で、翔子はダイアナの人工呼吸に専念できた。間なくゲホゲホと咳をして、呼吸が戻った。
「しばらくそのまま横たわっていて。あ、誰かクッションを幾つかちょうだい。頭を高くして背もたれできるようにしないと、呼吸が安定しないから」
翔子よ適切な指示で、呆然とする伯爵夫人とアテナ伯爵令嬢を他所に、リング家の執事と侍女がクッションをありったけ持ってきて、ダイアナを寄りかかれるようにする。その間、翔子は触診でダイアナを調べる。幸い、骨は折れていないようだ。
「あの、冷めていますが、紅茶をお嬢様に飲ませてもかまいませんか?」
侍女の1人が、テーブルの上の口をつけていない紅茶をソーサーごと持ってきて膝まづく。
「有難う、ちょうど飲み物を頼もうかと思ってたの。ダイアナ、ゆっくり嚥下して。気道に入らないよう気を付けて」
翔子はゆっくり、ゆっくりとダイアナに紅茶を飲ませる。紅茶を飲み干して暫くしてから、脈も正常に戻った。
「翔子、有難う。お陰で助かったわ」
ダイアナは大きくため息をついた。皆から「わっ」と称賛の声と拍手があがる。だが険しい顔を崩さない者が2人いた。
「チャニング卿、貴方様が国王陛下の甥御様とはいえ、危うく我が子が死神に連れて行かれるところでした。このような暴走は許しがたい。婚約は破棄させてください!」
まさかリング伯爵から婚約破棄宣言が出るとは。ダイアナは驚きを隠せない。
「そうですわね。貴方様は加減を知らないようですし、そもそもウチの娘を拉致していかがわしい事をした前科もございます。この婚約は白紙にするべきですわ」
リング伯爵夫人も、夫に追随する。ダイアナは両親に愛されていることに感動した。
「申し訳ない!つい、嬉しさのあまり加減を忘れてしまった。二度とこのようなことはしないので、婚約破棄だけは勘弁してくれ!」
エーヴェルは、リング伯爵夫妻に誠心誠意謝罪する。しかし2人の顔は厳しいままだ。
「あの、ですから私がエーヴェル様の婚約者にー」
「君のことは興味ない。引っ込んでいたまえ!」
早速アピールを始めようとしたアテナに、エーヴェルはピシャリと拒絶する。そして尚も言葉を尽くして、リング伯爵夫妻に謝罪する。
「先ずは席に着きましょう。ダイアナ、コチラの侍女殿はお前か雇ったのか?」
リング伯爵は、見慣れぬ小柄な侍女に向いて尋ねる。
「ええ。彼女は医療知識を持つ博識で、私とも気が合いますの。ですから専属メイドにしようかと」
「メイドでは格が低すぎる。お前の命の恩人だ。いまこの時から、お前の侍女頭とするように。侍女頭殿、娘を助けてくださり、有難う御座いました」
リング伯爵は、翔子に頭を下げた。翔子は慌てふためくが、ダイアナが軽く腕を叩くと落ち着きを取り戻した。
「当然のことをしたまでです。むしろ、私の方こそが、ダイアナ様に命を助けていただきました。溺れて死にかけていたところを、ダイアナ様が助けってくださったのです。その時から、私はダイアナ様に忠誠を捧げると誓いました」
翔子は滑らかに言葉を並べるが、ダイアナは「あ、これってマンガのセリフのパクリじゃん」と気づいていた。
そしてエーヴェルと、リング一家は応接室のソファに腰掛ける。お茶と茶菓子はメイドが新たなものに取り換えた。その際、手つきは優雅だがエーヴェルを睨みつけるメイドの目は冷ややかだった。翔子はダイアナの背後に立っている。
「さてチャニング卿、今日のところはこのままお帰りいただきたい。そもそもこの婚約は突然過ぎて、私もトワイニング辺境伯閣下に相談も出来ず、その上、友人のグレイ子爵の顔に泥を塗る結果となってしまった。そしていまの一件だ。国王陛下とウェルハーズ公爵閣下には大変申し訳ないが、トワイニング辺境伯閣下とグレイ子爵を交えて協議し、改めて婚約は考え直させてもらいたい」
リング伯爵が毅然とした口調で言うと、執事が扉を開けてエーヴェルに「お引き取りを」のジェスチャーをした。
エーヴェルは唇を噛み締めながらも、この場は引き下がった。だがその横顔は怖いほど冷静だった。
(うわー、あいつ、何かヤバいこと考えやがるな。どうかなにも起こりませんように。そして婚約破棄が無事に完了しますように)
ダイアナは心の中で神に祈った。
「翔子、『僕の女神は龍神姫』のセリフ、そのままパクったわね?」
ダイアナと翔子は夕食後、図書室の一画にある司書室で寛ぎながら、司書と敦史に事の顛末を話してから、ダイアナは翔子に言った。
「あ、バレちゃった。あのアニメも最高にイカしてたのよねぇ。コッチの世界で残念なのは、アニメが見れないことね」
翔子はテヘペロと仕草する。
「しかし、チャニング卿がこのまま大人しくしてくださるだろうか?」
司書は難しい顔をして顎に手を当てる。司書室の居住スペースでは、飲み物はコーヒーも決まっている。仕事部屋だとコーヒーの匂いが書物についてしまわないか、零してシミになってしまわないかの用心だった。
「そこなのよね。あいつ、帰るとき凄く嫌な顔をしていたのよ。何か企んでそうな。とりあえず、お父様が出したトワイニング辺境伯閣下への面会の要請の返事が来たら、グレイ子爵と共に辺境伯城へ赴く予定になってるけどね」
レムリアン王国の国王は1人。だが四方を他国に囲まれた王国では辺境伯の軍事力頼りで、その分、辺境伯の権威も上がっている。レムリアン王国の代表は国王だが、実質は東西南北地方それぞれの辺境伯の守備エリアが国みたいなもので、王国というより連合国の方が合っているかもしれない。大国ほどではないが、そこそこの国土があれば国王の目が行き届かないのも仕方がない。
2.この卑怯者が!
トワイニング辺境伯邸で、リング伯爵とグレイ子爵、そして主だった貴族も参加して、協議に入った。
「ダイアナ嬢では、王都の貴族夫人には荷が重すぎる。なんというか、彼女は元気すぎるからな」
トワイニング辺境伯は言葉を濁しながら言う。ダイアナは顔立ちは地味だが、やることが大胆で、薬草を摘むために子供時代に辺境伯領の森まで野営しに来たことのある豪胆な娘だ。トワイニング辺境伯は、年頃の息子がいたら、ぜひ嫁に迎えたいと思っていたが、生憎と息子たちは皆、年の離れた既婚者だった。
「なんとも。グレイ子爵家でなんとか引き取ってもらう手はずだったのに、何がどうして、王都の華に目をつけられてしまったのやら」
リング伯爵は、このところ一気に老け込んだ感じだ。グレイ子爵は、そんな友人を罵倒するどころか、同情を禁じ得ない。
「ウチの息子もクソガキで、ダイアナ嬢とは気が合うので、出来れば元の鞘に収まってくれるのが一番なのだが」
「しかし、ダイアナは、そのー」
「息子のカイルは、ダイアナ嬢は犬に噛まれたようなものだからと、むしろ結婚には意欲的だ。ライバル出現で、やっと友達目線から恋人目線に昇格したらしい。敵に取られてから恋に目覚めるとは、馬鹿もいいところだが」
その時、辺境伯の執事がドアをノックせず血相を変えて飛び込んできた。片手には書状が握りつぶされている。
「たったいま、国王陛下の急使が参りました。トワイニング辺境伯閣下、貴方様の辺境伯の地位を返上させると」
「なんだと!」
トワイニング辺境伯は吠えるように叫び、書状を執事から奪い取る。そこにはトワイニング辺境伯には侯爵を叙爵して、王都近くのマロー侯爵領を授ける。代わりにマロー侯爵をトワイニング辺境伯に任命して派遣すると、書かれていた。
「あんな軟弱者に、南の辺境を守れるものか!」
四方の辺境でも特に好戦的な国は南の大国だった。トワイニング辺境伯は、何世代にも渡って、幾度となく南の大国の侵攻を撃退している。
「仮に閣下が、引き続きこの国を守る条件が、こちらです。急使は直ちに返答するよう、城門に待機しております」
執事の後を追ってきたトワイニング辺境伯騎士団長が、もう一通の書状を主君に渡す。
「ダイアナ・リング伯爵令嬢を速やかにチャニング伯爵に戻せば、引き続きトワイニング辺境伯に南の辺境を任せる、か。なんて卑怯な手段を使うことやら」
トワイニング辺境伯は怒りよりも呆れた。この一件がエーヴェルが仕組んだことは、火を見るより明らかだ。
「国王陛下も焼きが回ったのだ。南の辺境の守備がどれほど大変か、全く分かっていない」
他の貴族達も呆れ果てる。
「閣下、忌々しいことですが、娘はチャニング伯爵へ渡します。南の辺境、ひいては我が国を危機に落とすわけには参りませんので」
リング伯爵は悔しげに、血がにじむほど唇を噛み締めた。
そしてトワイニング辺境伯とリング伯爵は、国王の急使に数日以内に必ずエーヴェル・チャニング伯爵のもとへ、ダイアナ・リング伯爵令嬢を引き渡すことに同意の念書を書いた。
王都タウンハウスのダイアナの部屋は、逃亡防止のために2階から3階に移された。ダイアナの傍には、常にチャニング伯爵家の侍女ミリアムが張り付いている。
だがそれぐらい想定内。伊達に本邸の不思議な図書室で知識を得ていない。普段はマンガとライトノベルばかり呼んでいるが、役立ちそうな専門書の知識もしっかり身につけていた。
就寝間際、ダイアナは行動に出た。まずミリアムの隙をついて両手両足胴体を縛り上げた上に猿轡を噛ませる。そして常に用意していたバックパックには、携帯食と金と水筒と小刀と寝袋が入っている。ダイアナは厚手のカーテンを手早くロープに編み上げ、3階の窓から脱出した。
目指すはリング伯爵邸の図書室。あそこへたどり着けば、人外変態美形のエーヴェルとの婚約破棄の手助けになりそうなものがあるかもしれない。いや、絶対にある。推測を確信と信じ込んで馬屋へ行くと、リング伯爵の命令で護衛がいた。恐らくダイアナの逃亡などお見通しだったのだろう。
「お嬢様、お部屋へお戻りをー」
そう言った護衛達3人に、刺激の強い乾燥ハーブを調合した袋をぶつける。独自調合の火薬も持っているが、家の者を起こしたくないし、そもそも馬が暴れて使い物にならなかったら、元も子もない。
ダイアナは馬屋から気性は荒いが俊足の馬を出し、鞍を付ける時間も惜しいので、騎乗するなりタウンハウスを飛び出した。気性の荒い馬を乗りこなすは困難だが、ダイアナは「馬肉にするぞ!」とドスの利いた声で馬を従わせた。馬は舐められたら終わりだと熟知している。
こうしてダイアナは、追手を巧みに巻きながら、休息も入れつつ領地ののリング伯爵邸へ戻った。既に急使が本邸にも飛んでいたが、堂々と玄関から家に入るつもりはない。疲れた馬を放牧場へ放つと、隠し通路を使って図書室に忍び込んだ。
「お帰りなさいませ、ご主人様」
広い図書室を1人で管轄する司書が、抜け穴から出てきたダイアナに、顔色一つ変えずに挨拶した。
中年の茶髪の司書は、ダイアナを『ご主人様』と呼ぶ。リング伯爵には『旦那様』と言う。司書が主君と仰ぐのはダイアナのみで、以前その理由を尋ねたら「異世界語を理解できたから」だそうだ。
「この格好じゃ、汚すぎて本に申し訳ないわね。それと、携帯食だけで王都から飛ばしてきたから、お腹すいたわ」
抜け穴の入り口に座り込んだダイアナは、外套を脱ぐ気力もない。すると司書は一旦立ち去り、司書室から軽食を持ってきた。サンドウィッチとスープとリンゴとお茶の乗った盆をダイアナの前に置くと、猛烈な勢いでダイアナはそれらを平らげた。
「しばらく胃を落ち着けてから、司書室の入浴場を使ってください。着替えは、クローゼットのものでよろしいですか?」
脱走の常習であるダイアナは、ドレスや下着類の入った専用クローゼットを、司書室に置いていた。
「ドレスは目立つから、下男に変装するわ。まったく、門にうじゃうじゃ湧いた騎士どもは、人外変態野郎の仕業ね。お父様なら、私を追いかける真似はしないもの」
「おっしゃる通り、チャニング卿の騎士隊でございます。3日前から当家の兵営に駐留しております。ちなみに当家の兵長は、あのじゃじゃ馬姫を捕まえるのは、あんたらには無理だよ、と仰って決闘騒ぎを起こしておりました」
「当然、勝ったのはウチの兵長よね?」
「聞くまでもありません。王都近くの領地で、平穏に暮らすチャニング卿の騎士隊と違い、当家は野党退治や狩猟で鍛えておりますから」
リング伯爵領に限らず、王都から離れるほど野党の出没は多い。大抵は作物や家畜狙いだが、他国へ売り飛ばす人身売買に組みした組織も暗躍している。それゆえ、王都から距離のある地方領地の兵団は強く、団結力もある。近隣領と共同で野党を追いかけることも珍しくなく、地方の兵団はもちろん、伯爵家以下の貴族も、国王よりもその土地の辺境伯に従っていた。辺境伯は名前こそ伯爵だが、地位は侯爵と同等であり、国王の許可なく軍を動かせる地方一帯の自衛権も持っている。
そんなわけで、王都一帯の貴族と地方貴族の騎士隊もしくは軍隊との折り合いは悪い。付け加えると、貴族同士も地方と王都近辺で偏見を持ち合わせていて、表面上は親しくしているが、水面下ではバチバチ火花を散らしている。
「今回のご主人様とカイル様との一方的な婚約破棄、ご主人様を国王陛下の甥にあたるチャニング卿との無理矢理な婚約に、南部地方は憤っておりますよ」
「うわぁ、お父様、帰ってきたら針の筵だわ。可哀想に。そのためにも、私はあの人外変態と婚約破棄しなくては!」
ダイアナは立ち上がり、外套を脱ぐ。その外套を司書は受け取った。ダイアナは食べて元気が出たので、そのまま入浴することにした。
髪はタオルドライしたが、まだ湿っている。だが黒髪は目立つので、万が一を考えて、変装用の茶色いウィッグをかぶった。服も司書服を身につけている。
ここには資料が必要な伯爵領管轄事務官や娘達の家庭教師が資料を取りに来るぐらいで、滅多に人が滞在することもない。伯爵さえ資料の補給が必要か聞きに来るのに年に数回訪れるか否かで、夫人と長女に至っては近寄ろうともしない。
だからダイアナが、図書室の専用の小部屋に異世界の本をコレクションしたエリアを作っていても、司書以外は気づいていない。予定通りにカイルと結婚した後も、一番気に入っている数冊以外はここに置いていき、里帰りのときに異世界マンガやライトノベルを満喫する予定だった。グレイ子爵領は隣なので、頻繁に里帰りできたのに、王都のチャニング伯爵と結婚したらここに滅多に帰ることも出来ない。そんなのは絶対嫌だ。
「本当に、アテナ姉さまがチャニング伯爵と結婚して、私が家督を継げたらそれが一番なんだけどね」
レムリアン王国は、嫡男がいない場合は女性の叙爵も認められている。しかし男子より規定が厳しく、病弱等、よほどの理由がない限りは長女が婿を取って家督を継ぐことになっている。アテナとダイアナ、後継者に相応しいのはどちらかと問われれば、全員がダイアナと応えただろう。だが次女として生まれたダイアナは、嫁ぐか独身小姑で居座るかの選択肢しかない。
ダイアナが調べているのは、異世界の避妊薬調合方法だ。しかし読み始めてすぐに挫折した。薬草を煎じて飲めるなら、代替の薬草を探すことは出来る。植物は意外と異世界と植生が一致していたからだ。しかし書物に書かれた薬の作り方には複雑な機械が幾つも必要で、それはこの世界にはないものだった。
「漢方薬、コッチなら何とか作れそうかな。あの人外変態の絶倫に付き合ってたら、いつ身ごもるか恐々とした日々を送らなきゃならないもの」
ダイアナは震え上がる。漢方薬のデメリットは煎じて飲まねばならないので、見つかったら処分されそうだが、無いよりはマシだ。それに物を隠しすのは得意だ。
国王も王妃との間に6男2女を、エーヴェルの両親ウェルハーズ公爵夫妻も4男8女。そしてエーヴェルの実兄グランベリー侯爵も奥方との間に3人を儲け、夫人はいまもう1人懐妊中だ。国王は兄弟が多いが、弟妹夫妻は2人から3人程度しか子を持たない。四方を他国に囲まれた王国ならではの事情かもしれないが、エーヴェルの執着ぶりからしてダイアナも子沢山母になる未来しか見えない。
「冗談じゃない。先日読み終えたマンガのヒロインだって、馬鹿ヒーローとの間に子ができなくて、養女を育て上げてたってのに。でもあの浮気馬鹿ヒーロー、浮気性で色んな女性に出を出していながら、3人しか実子に恵まれなかったのよね。しかも1人は不義の子で、後年に不義の子を育てる因果応報を受けるザマァ展開になったけど。ほんと、あの浮気馬鹿ヒーローが目の前にいたら、拳で殴ってやりたくなるわぁ」
ダイアナはマンガを読みたいのを我慢して、机に広げた漢方薬の資料から、薬草を書き出していく。あとはこの薬草と似た植物を、図書室の植物コーナーから探した本と一致させて、薬草を買うか採取するかだけだ。
その時、図書室の一画が光った。また異世界から何か飛んできたらしい。避妊薬が飛んできたら嬉しいのだが。
ダイアナがペンを置いて小部屋から飛び出すと、そこには見慣れぬ格好の男女がいた。
「え?」
ダイアナも司書も言葉を詰まらせる。この図書室には本の他にも様々な異世界の小物も飛んでくるが、人が出現したのは初めてだ。しかも女性はともかく、男性。
「いやーん、須藤はじめ様!」
ダイアナ最推しマンガの主人公と顔立ちがよく似た、侍姿の男性に黄色い声を上げる。
「なんだ、ここは。俺、稽古場から出て自動販売機に行く途中だったのに」
異世界男性は困惑している。後で聞き出せば、マンガ原作の舞台俳優とのことだった。本名は富永敦史、芸名は斎藤賢人というらしい。
「私は…」
女性は口ごもる。水も滴るいい女だったが、本当に全身ずぶ濡れで、潮の匂いがする。青白い顔でガタガタ震えていたので、ダイアナは彼女を司書室の風呂場へ連れて行った。残り湯だが風呂に適温のお湯が溜まっている。ダイアナは熱い湯が好きなので、ちょうど適温になっていた。
ダイアナが手助けしながら入浴させがてら尋ねると、彼女の名前は中嶋翔子、研修医を経て外科医になって半年とのこと。しかも既婚者。だが大学病院の上司が義兄で、医療ミスの失敗を翔子に押し付けたことから、別の病院で働く外科医の夫から罵倒され、個人病院を営む両親からも勘当された絶望から、海に投身自殺を図り、気づいたらここに居たとのことだった。
「居場所がないなら、ここに居ればいいわよ。本当は私が何とか出来れば良いんだけどね」
と、ダイアナが自分の置かれた事情を話すと、根が正義感溢れる翔子が激怒。さっきまでの絶望感はどこへやら、全面的にダイアナを支えると誓った。
「あいにく、ウチの世界にはドライヤーがないのよね。製造過程マニュアルはあるけど、科学を急激に進ませると、そっちの世界みたいに紛争が多発して厄介なことになりそうだし」
ダイアナは翔子の髪を拭きながら言う。翔子はショートボブだったので、髪の乾きも早かった。
「科学の発展は良い面と悪い面がありますから、ダイアナ様の判断は正しいと思いますよ」
「いやーね、敬称なんて要らないから、ダイアナって呼んでよ。年齢は離れてるけど、私と友達になってちょうだい」
翔子は平均的日本人体型だったので、どちらかというと欧米体型のレムリアン王国のダイアナのドレスがピッタリだった。
(あれ、これって瞳さえ隠せば、私の身代わりが出来るんじゃない?)
日本人はただでさえ童顔だ。顔はまったく似ていないが、エーヴェルや家族ならともかく、チャニング伯爵騎士隊は充分に騙せる。まあ、傷心の翔子にそんな真似させるつもりもないが。
司書室には、少し早めの夕食が4人分、用意されていた。召使い用の食事だが、司書が料理人に交渉して人数分を用意させたのだ。ちなみにチャニング伯爵騎士隊は未だ気づいていないが、リング伯爵邸の召使いや兵士の殆どが、ダイアナが帰還して隠れているのを知っていた。そりゃあ、放牧地にリング伯爵一行と共に王都へ行った駿馬が居れば気付かないはずもない。そして横柄ないけ好かない王都の騎士たちに、召使い一同は教えてやるつもりもない。
召使い用の食事なのでコース料理ではなく、定食形式だが、若鶏のハーブステーキやシャキシャキサラダ、デザートに紅茶のパウンドケーキも付いていたので、皆は大満足だ。
一番喜んでいたが司書だったのは、普段はここで孤食しているため、賑やかな食卓が楽しいのだろう。
「普段は気付かなかったけど、野菜って美味いな。俺、野菜は基本的にトマトとキュウリとジャガイモぐらいしか好きじゃないんだけど」
司書の服を借りて着替えた俳優の敦史も感嘆の声を上げる。
「こうして落ち着いて食事するのも久しぶり。このところ食欲が全く無かったのもあったけど、医者になってから、食事は餌同然だったし。特に研修医時代は酷いものだったわ。食べる時間はおろか睡眠さえ充分に与えられず、ひたすら酷使されてきたから」
「ふーん、医者ってもっと優雅な暮らしを想像していたけど、意外と大変なんだな」
「俳優も大変なのねえ。斎藤賢人(敦史の芸名)といえば、芸能界に疎い私でも知っているのに、裏事情は過酷なのね。てっきり、もっと優雅で華やかな世界の人かと思ってた」
敦史と翔子は、業界あるある話で盛り上がる。
ダイアナは司書と、今後について話し合っていた。敦史については、生活に慣れるまで、当面は図書館司書として働かせることで一致した。問題は翔子だ。翔子はダイアナの専属召使になるという。だが医者のスキルを持つ翔子を、単なる召使にするのは惜しいとダイアナは思う。
「翔子もやっぱり領地に残ってもらって、ゆくゆくは領民の治療に従事してもらいたいのだけど」
「ごめん、医者はもう嫌。もともと医者になりたいからなったわけでなく、実家を継ぐのが一人娘の私の使命だと思っていたから、両親に従っていただけ。その両親からも見捨てられて、私のいままでの人生って何だっただろうって自暴自棄になっちゃたのよ。夫だって恋愛じゃなく、家同士の見合いで決められたからだったし。医者で、そこそこ顔がいいから、結婚前から浮気していたどうしよもない奴だったわ」
翔子はグサリと憎しみを込めて、チキンステーキにフォークを刺した。
「そっか。なら、取り敢えずはギリギリまでコッチの世界のことを学んで、私が王都に連れ戻されることになったら付いてきて。避妊薬の漢方茶を淹れてもらう役割をお願いしようかな」
「避妊薬か。半月分なら持ってるわよ」
翔子はドレスのポケット(ダイアナ特注品)から、小瓶を取り出す。密封された瓶に入っていたので、中身は濡れずに済んだ。嫌いな夫の子供を産みたくないのと、仕事が多忙で子供どころでなく、避妊薬を友人の婦人科医に内緒で処方してもらっていたとのことだった。
「わー、嬉しい。この避妊薬が自在にコッチの世界へ飛んできてくれたらなぁ」
ダイアナは歓喜しつつもため息をつきながら、小瓶を受け取る。
「コッチに召喚魔法とかないのか?」
アニメやゲーム好きの敦史が尋ねる。
「そんな便利なものがあったら、とっくに使ってるわ。この世界に魔法はないの。ただウチの図書室はね、何故か異世界の本が飛んでくるの。稀にあっちの世界の小物も飛び込んでくるけど、人間が来たのは初めてよ」
「例えば?」
「サバイバルナイフとか、寝袋とか、コッチの世界とは雲泥の差の美味しい携帯食とか。あとは汚水を飲水に変えるボトルとか。ピストルやライフルが飛んできたら、いま直ぐにでも他国へ亡命するんだけど」
「なんでサバイバル用品ばっか飛んでくるんだ。ダイアナ、もしかして無意識にそれらを召喚しているんじゃないのか?」
「盲点。それは考えたことなかったわ。食後、早速試してみる!」
「近代武器はやめてよ。せめてエクスカリバーとか聖剣に抑えてちょうだい」
翔子は忠告する。小中高と大学時代に上辺だけの友人しか居なかった翔子の楽しみもまた、マンガ、ライトノベル、アニメ。ゲームは一度、ハマりすぎて法外な課金額が親にバレて以来、自制している。
食後、図書室に一同は集まる。ダイアナは、「避妊薬、避妊薬」と唱えながら召喚を願う。
召喚は成功した。しかしそれは翔子と敦史好みのアチラの世界の衣服、靴、お菓子だった。翔子と敦史は大喜びだが、ダイアナはガックリと床に手をつく。
「なんで一番欲しいものが手に入らないのよー」
ダイアナが叫ぶと、目の前に物が現れた。またしても目当ての避妊薬ではなかったが、アチラの世界の激レアなプレミアム価格が尋常でない推しの未開封フィギュアだった。
「こ、これは『鮮血幕末終焉談』の須藤はじめ様のフィギュア!なにこの格好良さ、躍動感!私、いま生涯で一番幸せなんだけど」
ダイアナはフィギュアの箱を抱きしめて、喜びの涙を流す。
「あー、ズルい。俺もそれ欲しかった!」
「私は『鮮血幕末終焉談』は好みじゃなかったのよね。それより『王宮ザマァ悪役王子の脱走冒険魔法物語』のルシエル・リリエンタール様のビッグアクリルスタンドが欲しい。あの美形をフィギュアにすると、どうしても違和感が半端ないのよね」
「もしかしたら、鮮明に欲しいものが思い浮かべられる分だけ、2人のが召喚出来るのでは?」
ダイアナが指摘すると、2人は早速、「フィギュア、フィギュア」、「アクリルスタンド、アクリルスタンド」と必死で願う。ブツは来た。だが2人とも喜ばなかった。
「なんで俺の大嫌いな『吸血鬼マリア姫の聖女伝説』のマリアのフィギュアなんだよ!俺、コイツの不幸だけど負けないって、迫害されながらも人を助ける博愛精神に反吐が出るんだ!あー、ここに伊豆屋があったら速攻で売ったのに!」
「げー、なんでルシエル様の敵役のミカエル・ローズウッドなのよ!このキザな王子、マジで大嫌いなのよ!伊豆屋があったら、速攻で売るのに!」
敦史と翔子は喚き嘆く。両方とも中古アニメグッズ店で売れば、高額買取間違いなし。だが2人して嫌いな方のアニメグッズが出るとは。召喚って難しい。
「取り敢えず、2人も召喚出来ることが分かったんだし。あとは練習でコントロール法を私らでマスターするしかないわね!」
ダイアナは最推しフィギュアの箱を片手に抱えて、拳を作る。
エーヴェル・チャニング伯爵自らが、リング伯爵邸に当主一家もろとも突撃してくるまで、3人は召喚の練習をした。そして判明した。欲しいものを願っても、それは絶対に飛んでこないことに。
「なんで、私の嫌いなアニメキャラのグッズしか出てこないよ!」
「俺だって、嫌いなフィギュア勢揃いだ。あー、伊豆屋に売り飛ばしたい」
翔子と敦史の溜まりに溜まった要らないグッズは、図書室の地下物置に山積みとなった。
ダイアナも避妊薬を必死で願ったが、下剤だのビタミン剤だの不要なものばかり飛んでくる。まあ、使えないものではないので、これらは一部を除いてボストンバッグに収納して異世界部屋に置いている。たまに飛んでくる『当たり』は、アニメグッズ。それは自分の推しだけでなく、翔子や敦史の推しも混じっていたので、ダイアナは2人の異世界人から崇拝の念を向けられている。
この図書室の秘密がバレるわけにはいかないので、エーヴェルと家族が戻ってきた時には観念して変装を解き、邸に戻った。敦史はそのまま司書助手として図書室に残ることになったが、翔子は約束通り、ダイアナにくっついてきた。客人応対用ドレスを着て着飾ったダイアナと、リング伯爵家のメイド服に着替えた翔子。
翔子はエーヴェルの美貌に目を見張ったが、エーヴェルがダイアナをロックオンするなり駆け寄り、圧死させるほど抱きしめながらキスの雨をダイアナの顔中降らせている姿にドン引きした。
(こりゃ、避妊薬が必要なわけだわ)
翔子はエーヴェルの執着心について、ダイアナの誇張かと思っていた。しかしエーヴェルのダイアナへ執着愛は予想を軽く超えていて、鳥肌が立った。我に返って止めに入らねば、ダイアナは肋骨骨折の上に、下手したら昇天していたかもしれない。既に顔は青を通り越して白くなっていた。
「どきなさい!アンタ、彼女を殺すつもり?」
翔子は渾身の力でエーヴェルを突き飛ばし、ダイアナを床に寝かせる。どれだけ強く抱きしめられたのか、呼吸がない。脈は早すぎるが、幸いある。翔子は人工呼吸で、ダイアナの口に息を吹き込む。それを見たエーヴェルは女同士とはいえキスに錯乱したが、事態を把握したリング伯爵が背後からエーヴェルを止めたお陰で、翔子はダイアナの人工呼吸に専念できた。間なくゲホゲホと咳をして、呼吸が戻った。
「しばらくそのまま横たわっていて。あ、誰かクッションを幾つかちょうだい。頭を高くして背もたれできるようにしないと、呼吸が安定しないから」
翔子よ適切な指示で、呆然とする伯爵夫人とアテナ伯爵令嬢を他所に、リング家の執事と侍女がクッションをありったけ持ってきて、ダイアナを寄りかかれるようにする。その間、翔子は触診でダイアナを調べる。幸い、骨は折れていないようだ。
「あの、冷めていますが、紅茶をお嬢様に飲ませてもかまいませんか?」
侍女の1人が、テーブルの上の口をつけていない紅茶をソーサーごと持ってきて膝まづく。
「有難う、ちょうど飲み物を頼もうかと思ってたの。ダイアナ、ゆっくり嚥下して。気道に入らないよう気を付けて」
翔子はゆっくり、ゆっくりとダイアナに紅茶を飲ませる。紅茶を飲み干して暫くしてから、脈も正常に戻った。
「翔子、有難う。お陰で助かったわ」
ダイアナは大きくため息をついた。皆から「わっ」と称賛の声と拍手があがる。だが険しい顔を崩さない者が2人いた。
「チャニング卿、貴方様が国王陛下の甥御様とはいえ、危うく我が子が死神に連れて行かれるところでした。このような暴走は許しがたい。婚約は破棄させてください!」
まさかリング伯爵から婚約破棄宣言が出るとは。ダイアナは驚きを隠せない。
「そうですわね。貴方様は加減を知らないようですし、そもそもウチの娘を拉致していかがわしい事をした前科もございます。この婚約は白紙にするべきですわ」
リング伯爵夫人も、夫に追随する。ダイアナは両親に愛されていることに感動した。
「申し訳ない!つい、嬉しさのあまり加減を忘れてしまった。二度とこのようなことはしないので、婚約破棄だけは勘弁してくれ!」
エーヴェルは、リング伯爵夫妻に誠心誠意謝罪する。しかし2人の顔は厳しいままだ。
「あの、ですから私がエーヴェル様の婚約者にー」
「君のことは興味ない。引っ込んでいたまえ!」
早速アピールを始めようとしたアテナに、エーヴェルはピシャリと拒絶する。そして尚も言葉を尽くして、リング伯爵夫妻に謝罪する。
「先ずは席に着きましょう。ダイアナ、コチラの侍女殿はお前か雇ったのか?」
リング伯爵は、見慣れぬ小柄な侍女に向いて尋ねる。
「ええ。彼女は医療知識を持つ博識で、私とも気が合いますの。ですから専属メイドにしようかと」
「メイドでは格が低すぎる。お前の命の恩人だ。いまこの時から、お前の侍女頭とするように。侍女頭殿、娘を助けてくださり、有難う御座いました」
リング伯爵は、翔子に頭を下げた。翔子は慌てふためくが、ダイアナが軽く腕を叩くと落ち着きを取り戻した。
「当然のことをしたまでです。むしろ、私の方こそが、ダイアナ様に命を助けていただきました。溺れて死にかけていたところを、ダイアナ様が助けってくださったのです。その時から、私はダイアナ様に忠誠を捧げると誓いました」
翔子は滑らかに言葉を並べるが、ダイアナは「あ、これってマンガのセリフのパクリじゃん」と気づいていた。
そしてエーヴェルと、リング一家は応接室のソファに腰掛ける。お茶と茶菓子はメイドが新たなものに取り換えた。その際、手つきは優雅だがエーヴェルを睨みつけるメイドの目は冷ややかだった。翔子はダイアナの背後に立っている。
「さてチャニング卿、今日のところはこのままお帰りいただきたい。そもそもこの婚約は突然過ぎて、私もトワイニング辺境伯閣下に相談も出来ず、その上、友人のグレイ子爵の顔に泥を塗る結果となってしまった。そしていまの一件だ。国王陛下とウェルハーズ公爵閣下には大変申し訳ないが、トワイニング辺境伯閣下とグレイ子爵を交えて協議し、改めて婚約は考え直させてもらいたい」
リング伯爵が毅然とした口調で言うと、執事が扉を開けてエーヴェルに「お引き取りを」のジェスチャーをした。
エーヴェルは唇を噛み締めながらも、この場は引き下がった。だがその横顔は怖いほど冷静だった。
(うわー、あいつ、何かヤバいこと考えやがるな。どうかなにも起こりませんように。そして婚約破棄が無事に完了しますように)
ダイアナは心の中で神に祈った。
「翔子、『僕の女神は龍神姫』のセリフ、そのままパクったわね?」
ダイアナと翔子は夕食後、図書室の一画にある司書室で寛ぎながら、司書と敦史に事の顛末を話してから、ダイアナは翔子に言った。
「あ、バレちゃった。あのアニメも最高にイカしてたのよねぇ。コッチの世界で残念なのは、アニメが見れないことね」
翔子はテヘペロと仕草する。
「しかし、チャニング卿がこのまま大人しくしてくださるだろうか?」
司書は難しい顔をして顎に手を当てる。司書室の居住スペースでは、飲み物はコーヒーも決まっている。仕事部屋だとコーヒーの匂いが書物についてしまわないか、零してシミになってしまわないかの用心だった。
「そこなのよね。あいつ、帰るとき凄く嫌な顔をしていたのよ。何か企んでそうな。とりあえず、お父様が出したトワイニング辺境伯閣下への面会の要請の返事が来たら、グレイ子爵と共に辺境伯城へ赴く予定になってるけどね」
レムリアン王国の国王は1人。だが四方を他国に囲まれた王国では辺境伯の軍事力頼りで、その分、辺境伯の権威も上がっている。レムリアン王国の代表は国王だが、実質は東西南北地方それぞれの辺境伯の守備エリアが国みたいなもので、王国というより連合国の方が合っているかもしれない。大国ほどではないが、そこそこの国土があれば国王の目が行き届かないのも仕方がない。
2.この卑怯者が!
トワイニング辺境伯邸で、リング伯爵とグレイ子爵、そして主だった貴族も参加して、協議に入った。
「ダイアナ嬢では、王都の貴族夫人には荷が重すぎる。なんというか、彼女は元気すぎるからな」
トワイニング辺境伯は言葉を濁しながら言う。ダイアナは顔立ちは地味だが、やることが大胆で、薬草を摘むために子供時代に辺境伯領の森まで野営しに来たことのある豪胆な娘だ。トワイニング辺境伯は、年頃の息子がいたら、ぜひ嫁に迎えたいと思っていたが、生憎と息子たちは皆、年の離れた既婚者だった。
「なんとも。グレイ子爵家でなんとか引き取ってもらう手はずだったのに、何がどうして、王都の華に目をつけられてしまったのやら」
リング伯爵は、このところ一気に老け込んだ感じだ。グレイ子爵は、そんな友人を罵倒するどころか、同情を禁じ得ない。
「ウチの息子もクソガキで、ダイアナ嬢とは気が合うので、出来れば元の鞘に収まってくれるのが一番なのだが」
「しかし、ダイアナは、そのー」
「息子のカイルは、ダイアナ嬢は犬に噛まれたようなものだからと、むしろ結婚には意欲的だ。ライバル出現で、やっと友達目線から恋人目線に昇格したらしい。敵に取られてから恋に目覚めるとは、馬鹿もいいところだが」
その時、辺境伯の執事がドアをノックせず血相を変えて飛び込んできた。片手には書状が握りつぶされている。
「たったいま、国王陛下の急使が参りました。トワイニング辺境伯閣下、貴方様の辺境伯の地位を返上させると」
「なんだと!」
トワイニング辺境伯は吠えるように叫び、書状を執事から奪い取る。そこにはトワイニング辺境伯には侯爵を叙爵して、王都近くのマロー侯爵領を授ける。代わりにマロー侯爵をトワイニング辺境伯に任命して派遣すると、書かれていた。
「あんな軟弱者に、南の辺境を守れるものか!」
四方の辺境でも特に好戦的な国は南の大国だった。トワイニング辺境伯は、何世代にも渡って、幾度となく南の大国の侵攻を撃退している。
「仮に閣下が、引き続きこの国を守る条件が、こちらです。急使は直ちに返答するよう、城門に待機しております」
執事の後を追ってきたトワイニング辺境伯騎士団長が、もう一通の書状を主君に渡す。
「ダイアナ・リング伯爵令嬢を速やかにチャニング伯爵に戻せば、引き続きトワイニング辺境伯に南の辺境を任せる、か。なんて卑怯な手段を使うことやら」
トワイニング辺境伯は怒りよりも呆れた。この一件がエーヴェルが仕組んだことは、火を見るより明らかだ。
「国王陛下も焼きが回ったのだ。南の辺境の守備がどれほど大変か、全く分かっていない」
他の貴族達も呆れ果てる。
「閣下、忌々しいことですが、娘はチャニング伯爵へ渡します。南の辺境、ひいては我が国を危機に落とすわけには参りませんので」
リング伯爵は悔しげに、血がにじむほど唇を噛み締めた。
そしてトワイニング辺境伯とリング伯爵は、国王の急使に数日以内に必ずエーヴェル・チャニング伯爵のもとへ、ダイアナ・リング伯爵令嬢を引き渡すことに同意の念書を書いた。
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