ふしあわせに、殿下

古酒らずり

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二 皇女アガーテについて

晩餐の挑戦状

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 エディング・エーデルシュタット准将との歓談は日暮れまで続き、帝都コルンの街並みはすっかり蜜色の夕陽に染まって、石畳に伸びる人々の影が長くなっていた。

 料理店「枝角亭」は貴族街の片隅に店舗を構える、知る人ぞ知るという鹿肉料理の名店だという。外装も内装も落ち着いた雰囲気ではあるが、よくよく観察してみれば使用されている建材はどれも帝国の最上級品ばかりで、店の矜持が窺えるのだった。

 看板には鹿の角をかたどった飾りがあるだけ。しかし、店がある通りに入った途端に、炭火で焼いた肉の香ばしい匂いがふわりと吹きつけてくる。これでもかと食欲を刺激する微風を吸い込んで、アウローラは陶然と頬が緩む。きゅうっと胃が縮むような空腹だ。

「いい匂いですね」

「でしょう? ここの鹿ローストは帝都一なのですよ」

 アウローラを案内するように先に扉を押し開けたエディングは、貴公子らしい面立ちを得意げに笑ませて胸を張った。からん、と木製の呼び鈴があたたかみのある音で鳴る。その横でヴァルフリードは「妻が行きたいと言ったからだ」と言い訳じみたことをこぼすが、唇の上がりを隠せてはいない。

 応対した店主の後について、三人は奥の個室へと通された。流石に貴族御用達とあっては、気配りが丁寧に行き届いている。重厚な樫の扉を開けると、質素ながらも品のいい設えの室内の中央には円卓が鎮座していた。

「おや、来たか」

 円卓の席には、一人の初老男性が座していた。冬の木立めいて威厳の中に枯淡をまとっているその人物は、三人が入室するなり、柔和に微笑んだ。

 アウローラは、一体誰だろう、と人物の素性が気になったが、すぐにその答えを知ることとなった。

「皇帝陛下……!」

 ヴァルフリードの吃驚の声によって、である。アウローラはそれを聞いて思考が一瞬止まりかけた。ヴァルフリードに「皇帝陛下」と呼ばれる人物など、一人しかいない。

──すなわち、デュランツェ帝国皇帝フィリベルト。

 ヴァルフリードは口を開けて彫像のように固まっていたが、一つ強めにまばたきしてその場へと恭しく跪いた。

「このような場所で陛下にお目通り叶うとは思いもよらず、おそれながら、このヴァルフリード、驚きを禁じ得ませぬ」

 ヴァルフリードに続いてアウローラも、いつも放置気味である行儀作法という単語を頭の隅の隅から引っ張りだし、膝折礼カーテシーをとった。

「驚かせてすまなんだ。だが、たまにはこういう趣向を巡らすのも、皇帝の特権というものだ」

 アウローラは視線だけを巡らして皇帝の護衛騎士を探したが、どうやら部屋の外に控えているようで、室内に姿はなかった。

「はっ」

 フィリベルト帝の面白がる声に、ヴァルフリードは、凛々しさと困惑の綯い交ぜになった声で、顔を伏せたまま短く返事した。

「なに。宮廷の毒味で冷めた食事ばかりしていると、熱々の鹿肉を食べたくなるときもある、ということさ」

 フィリベルトがそう言ってからから笑うと、ヴァルフリードは、床に視線を落としたまま言葉を選ぶように答える。

「陛下の私的外出をお邪魔してしまい、申し訳ございません。どうかお許しください、陛下」

 たちまち、フィリベルトは不満そうに顔をしかめる。

「ヴァルフリード、とぼけるな」

「と、おっしゃいますと」

「このまま立ち去ろうとしているだろう。元帥号を断るだけでは、事足りんか」

 どうやら、ヴァルフリードの思考は全てフィリベルトが読み切っていたようだった。

「滅相もございません」

「面を上げよ」

 ヴァルフリードが顔を上げた気配を悟って、アウローラはようやく緊張の糸がふっと緩んだ。

──くう。

「おや、お腹を空かせた王女殿下もいらっしゃることだ。早く席につきなさい」

 アウローラは、穴があったら今すぐ入って閉じこもりたくなった。

 注文からしばらくして、給仕が鉄の大皿の上でじゅうじゅうと湯気を立てる大きな肉の塊を円卓の中央に据え置いた。それと同時に赤ワインのグラスも並べられていく。
 
 なんと、フィリベルト自らが、野趣あふれる鹿肉のローストを専用の大きなナイフで豪快に切り分けていく。

 切り目が紅玉のように赤々と輝く、かぐわしいローストは、全員の食欲を刺激するにはあまりにも充分すぎた。

 フィリベルトがいつまで経ってもローストを食べる気配がないので、アウローラはヴァルフリードと顔を見合わせていた。

「王女殿下、先にお召し上がりなさい」

 それを汲み取ったのか、フィリベルトがそう促す。

「いえ、皇帝陛下が……」

 アウローラが躊躇していると、「私はいいから」とフィリベルトはますます譲らない。

「先に食べるご無礼をお許しください、陛下。……いただきます」

 アウローラは分厚い一切れを、恐る恐る口に運んでみる。

「……っ!」

 たちまち、舌の上で味が弾けた。ソースの香辛料が鼻に抜け、塩辛さが効いている。噛み締めるたび熱々の肉汁がじゅわりと口の中に広がっていく。

 アウローラの様子を微笑ましげに見届けてから、他の三人もローストを食べ始めた。

 アウローラは赤ワインを追うように味わってみる。言うまでもなく、二つの相性は抜群で、ワインの芳醇な香りと渋みが、肉の旨味やコクと複雑に絡み合い、滋味というほかない。

 エディングがこの私的な食事会を設けたのは明らかだったが、アウローラもヴァルフリードも、なぜ、とか、どうやって、とかを、ことさらは口にしなかった。代わりに、皇帝フィリベルトは次のような提案を切り出した。

「私がこの晩餐を設けたのは、他でもない」

 フィリベルトは、くすりと笑った。

「ヴァルフリード」

「はい」

「皇太子になど、なりたくないのだろう?」

 ヴァルフリードは考えを見透かされてか、うつむきがちに円卓の鉄皿の上へと視線を落とした。

「おそれながら、御意の通りでございます」

「はははっ」

 声を出して笑うフィリベルトに、ヴァルフリードの瞳が狼狽で揺れている。

「さて、アウローラ王女殿下」

 改めて正式に話しかけられ、アウローラは姿勢を正した。

「はい、皇帝陛下」

「あなたは、ヴァルフリードが、好きか」

「えっ……!」

 アウローラが答えられないでいると、フィリベルトは、ふふっと笑い皺をさらに深くする。

「アウローラ殿下。一つ、ゲームをしようか」

「えっ」

「あなたがゲームに勝ったら、ヴァルフリードは皇太子の任から降ろしてやる」

「…………」

「どういうことですか、陛下。おそれながら、父ジルヴァンが黙ってはいないはずですが」

 ヴァルフリードがアウローラの沈黙を断つように反駁すれば、フィリベルトは怪しげな笑みのまま、こう告げた。

「ヴァルフリード。……ジルヴァンのことは、気にするな」

「は、はあ……」

 フィリベルトはアウローラに向き直った。

「さて、王女殿下」

「はいっ!」

 アウローラは背筋を伸ばして反射的に返事した。

「ゲームの内容はこうだ──」

──デュランツェ皇家には三人の皇太子候補がいるが、三人の継承順をぴたりと当ててみせよ。

 そして、フィリベルトは、こうも宣言した。

──正しく当てたならば、レンゼル王国を返還する。
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