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終 祝われた子
見ていたよ。
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赤黒い塊があった。皇子とも呼ばれている。包帯を何度替えようとも、布の白が鮮血の緋に染まった。
「おまえが『血だらけ殿下』と敵から吐き捨てられる理由が分かる気がするよ」
のちに昇進して准将となるエディング・エーデルシュタット大佐は誰に聞かせるでもなく独りごちた。実際には、この昏睡して生死の境を今もさまよっている皇子に聞かせてやりたいのだが、相手が目覚めを拒否し続けるのだから、そうもいかない。
自分は決して、死体のような皇子を何も助けてやれぬ無力に打ちひしがれながら、ただ眺めているために生きているわけではなかった。
ああ、「見ているだけ」とは、あまりにも酷い響きだ。
皇子が両親から無視され続けるのを、見ているだけ。
皇子が剣槍の世界へ身を投じていくのを、見ているだけ。
皇子が与え損ねられた愛を女たちに求めるのを、見ているだけ。
──こうして、皇子が無謀な突撃で死にかけているのを、見ているだけ。
「それでも、おまえを『見る』のが、おれの仕事だった……」
エディングはフィリベルト帝に「皇子を見てくれないか」と依頼されたのだ。エディングの母は皇子の乳母であった。だから、皇子へ自然に接近し、幼馴染として誰にも怪しまれず、フィリベルト帝に代わって皇子を監視し続けられる。
見てみたい……この皇子がいつか、白昼を堂々と歩ける幸せな世界を。皇子を心から愛してくれる恋人を。目が覚めた皇子が、水をくれ、と図々しく頼んでくる瞬間を。
──皇子は二日後に目覚めた。
「水をくれ」
「はいよ」
そんな会話が交わされたことをエディングが帝宮におわすフィリベルト帝に報告すると、帝は目に光るものを浮かべた。
「そうか、目を覚ましたか」
「ええ。脇腹の深い刺傷です。医者からは、全治三ヶ月ほどと」
動脈と内臓をかろうじて避けていたのが、幸いした。もしそうでなかったら、助からなかっただろう。
「ヴァルフリードは、何か私に言っていたか」
「はい。『ご心配には及びませぬ。すぐに前線へ復帰いたします。我が身は陛下と帝国の勝利のため、砕身をお誓いいたします』……との由」
「……そうか」
フィリベルト帝はもう一度、そう言った。
「そなたには苦労をかけるな、エーデルシュタット准将」
「おそれながら、陛下、私は大佐でございます」
「今このときをもって、そなたは准将に昇進だ」
「は、はあ……」
エディングが恐縮していると、本当は階級を言い間違えたのか、それとも最初から昇進させるつもりだったのか、帝は誤魔化すように冗談を付け加えた。
「齢二十二で『閣下』と呼ばれる名誉を享受するといい」
「陛下、身に余る責でございます」
「なに、あの子の友人というだけで、千金にも勝ろう」
今までエディングがこの若さで大佐という階級でいられたのは、帝の特別な恩寵があってこそだったのだ。それが、准将。高位将校の仲間入りである。
「これからもあの子の行く末を『見続けて』くれるか」
「はい、この身は陛下の目として」
エディングが謁見の間を辞そうとしたとき、フィリベルト帝はエディングの背中にぽつりとこぼした。
「エーデルシュタット准将」
エディングは振り返って、まだ涙の残る帝の目を見た。
「はい、陛下」
「あの子は、いつか、幸せになれるだろうか」
「それは……」
本来であれば、分からない、と答えるべきだった。……が、今までも、これからも、エディングは肩を落としている帝を励ますことしかできなかった。エディングは、帝の問いにこう返した。
「いつか、ヴァルフリード殿下を心から愛してくれる女性が現れたのなら」
「現れたのなら?」
「そのときは、私が全力でその恋路を応援いたしましょう」
「……ありがとう」
♢
──三年後、エディングは二十五歳になっていた。
「私は、健康自慢ですから、きっと健康な子を産めますっ!」
レンゼル城の謁見の間で縄に縛られ跪かされていた王女は、やたらと生きがよかった。王女は放たれた矢のように猟場へと続く山道を往く。エディングが軽く息を弾ませながら山道を登り切れば、王女は山中にぽっかりと空いた草原の只中で、短弓を構え、半月のように引き絞っていた。
そして、風切り音が、一つ唸る。あっという間に立派な雄の鴨を仕留めていた。
ヴァルフリード皇子がようやく追いついて、王女の弓技に目を丸くしている。
「鴨は晩餐のローストにいたしますか。それとも、日持ちするパストラミにいたしますか」
笑う王女へ呆気に取られている皇子を、エディングは感心しきって見つめていた。この王女、なかなかやる。
「さては……射止めたのは皇子の心の方か」
エディングは、やはり誰にも聞こえないように、唇で無声音を震わせていた。口笛でも吹きたい気分だ。
この娘だ、皇子を救えるのはこの娘なのだ、という謎の確信がエディングの胸中に湧きあがる。
『陛下、ついに見つけました。
殿下を真に愛してくれる者を。
レンゼル王女アウローラ殿下です。
彼女なら、きっと。
我が弓、放たれるそのときを今か今かと待ちわびております。
エーデルシュタット准将』
返信は、一言だけであった。
『見事、的中させてみせよ。
フィリベルト』
「おまえが『血だらけ殿下』と敵から吐き捨てられる理由が分かる気がするよ」
のちに昇進して准将となるエディング・エーデルシュタット大佐は誰に聞かせるでもなく独りごちた。実際には、この昏睡して生死の境を今もさまよっている皇子に聞かせてやりたいのだが、相手が目覚めを拒否し続けるのだから、そうもいかない。
自分は決して、死体のような皇子を何も助けてやれぬ無力に打ちひしがれながら、ただ眺めているために生きているわけではなかった。
ああ、「見ているだけ」とは、あまりにも酷い響きだ。
皇子が両親から無視され続けるのを、見ているだけ。
皇子が剣槍の世界へ身を投じていくのを、見ているだけ。
皇子が与え損ねられた愛を女たちに求めるのを、見ているだけ。
──こうして、皇子が無謀な突撃で死にかけているのを、見ているだけ。
「それでも、おまえを『見る』のが、おれの仕事だった……」
エディングはフィリベルト帝に「皇子を見てくれないか」と依頼されたのだ。エディングの母は皇子の乳母であった。だから、皇子へ自然に接近し、幼馴染として誰にも怪しまれず、フィリベルト帝に代わって皇子を監視し続けられる。
見てみたい……この皇子がいつか、白昼を堂々と歩ける幸せな世界を。皇子を心から愛してくれる恋人を。目が覚めた皇子が、水をくれ、と図々しく頼んでくる瞬間を。
──皇子は二日後に目覚めた。
「水をくれ」
「はいよ」
そんな会話が交わされたことをエディングが帝宮におわすフィリベルト帝に報告すると、帝は目に光るものを浮かべた。
「そうか、目を覚ましたか」
「ええ。脇腹の深い刺傷です。医者からは、全治三ヶ月ほどと」
動脈と内臓をかろうじて避けていたのが、幸いした。もしそうでなかったら、助からなかっただろう。
「ヴァルフリードは、何か私に言っていたか」
「はい。『ご心配には及びませぬ。すぐに前線へ復帰いたします。我が身は陛下と帝国の勝利のため、砕身をお誓いいたします』……との由」
「……そうか」
フィリベルト帝はもう一度、そう言った。
「そなたには苦労をかけるな、エーデルシュタット准将」
「おそれながら、陛下、私は大佐でございます」
「今このときをもって、そなたは准将に昇進だ」
「は、はあ……」
エディングが恐縮していると、本当は階級を言い間違えたのか、それとも最初から昇進させるつもりだったのか、帝は誤魔化すように冗談を付け加えた。
「齢二十二で『閣下』と呼ばれる名誉を享受するといい」
「陛下、身に余る責でございます」
「なに、あの子の友人というだけで、千金にも勝ろう」
今までエディングがこの若さで大佐という階級でいられたのは、帝の特別な恩寵があってこそだったのだ。それが、准将。高位将校の仲間入りである。
「これからもあの子の行く末を『見続けて』くれるか」
「はい、この身は陛下の目として」
エディングが謁見の間を辞そうとしたとき、フィリベルト帝はエディングの背中にぽつりとこぼした。
「エーデルシュタット准将」
エディングは振り返って、まだ涙の残る帝の目を見た。
「はい、陛下」
「あの子は、いつか、幸せになれるだろうか」
「それは……」
本来であれば、分からない、と答えるべきだった。……が、今までも、これからも、エディングは肩を落としている帝を励ますことしかできなかった。エディングは、帝の問いにこう返した。
「いつか、ヴァルフリード殿下を心から愛してくれる女性が現れたのなら」
「現れたのなら?」
「そのときは、私が全力でその恋路を応援いたしましょう」
「……ありがとう」
♢
──三年後、エディングは二十五歳になっていた。
「私は、健康自慢ですから、きっと健康な子を産めますっ!」
レンゼル城の謁見の間で縄に縛られ跪かされていた王女は、やたらと生きがよかった。王女は放たれた矢のように猟場へと続く山道を往く。エディングが軽く息を弾ませながら山道を登り切れば、王女は山中にぽっかりと空いた草原の只中で、短弓を構え、半月のように引き絞っていた。
そして、風切り音が、一つ唸る。あっという間に立派な雄の鴨を仕留めていた。
ヴァルフリード皇子がようやく追いついて、王女の弓技に目を丸くしている。
「鴨は晩餐のローストにいたしますか。それとも、日持ちするパストラミにいたしますか」
笑う王女へ呆気に取られている皇子を、エディングは感心しきって見つめていた。この王女、なかなかやる。
「さては……射止めたのは皇子の心の方か」
エディングは、やはり誰にも聞こえないように、唇で無声音を震わせていた。口笛でも吹きたい気分だ。
この娘だ、皇子を救えるのはこの娘なのだ、という謎の確信がエディングの胸中に湧きあがる。
『陛下、ついに見つけました。
殿下を真に愛してくれる者を。
レンゼル王女アウローラ殿下です。
彼女なら、きっと。
我が弓、放たれるそのときを今か今かと待ちわびております。
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『見事、的中させてみせよ。
フィリベルト』
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