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第2章

第2章 第22話 前世の因果は船旅の果てに

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 アヤメのギルド入団試験の会場となる夢幻の塔は、湖中心部分の小島に鎮座している。
 屋根付きボートで漕ぎ出したアヤメと黎明の船旅は、一見すると順調に見えた。だが、後わずかで夢幻の塔というところで、この湖のヌシ様が行く手を阻むように現れた。

 巨大ナマズに似た外見のヌシ様はぬめりと身体をくねらせながら、アヤメの瞳をじっと見つめてため息をつく。『可哀想に……』と意味深長なセリフとともに、夢幻の塔へ立ち入らせるわけには行かないと引き返すように警告しに来たのだ。

「タイムリープの影響って何? 私って一体、今どういう状態なの。たまに見る怖い悪夢……それと関係があるの?」

 ヌシ様の指摘は、アヤメがこれまで見て見ぬ振りをして生きてきたものズバリだった。異変を感じたのは去年の夏頃から、夢か現実か分からぬような悪夢を頻繁に見る。
 夢の中におけるアヤメの住まいは洋館の家神荘ではなく、現在では封じられているはずの山ふもとの家。従兄であるはずのスグルとの関係は、実妹のツグミと一緒に本当の兄妹として育てられていた。
 いつも面倒を見てくれる猫耳御庭番メイドのミミちゃんは、ごく普通の白猫で、可愛い遊び相手。アヤメが哀しい時は、白い体毛で優しく寄り添ってくれるお姉さんのような愛猫だ。

 幸せな暮らしは、突然打ち破られた。スグルのことを密かに思っていたらしい近所の少女ルリが、家神一家を惨殺しに来たのだ。
 おそらく、家神一家がスグルの許嫁であるスイレンを迎え入れたことで、ルリの反感を買ったのだろう。

(まさか、タイムリープによる影響って。あの悪夢は架空の話じゃなくて現実に起こったことだというの?)

「知る必要はない……恐ろしい記憶と対峙する必要があるからな。悪夢としてそれを見るのと、真実としてすべてを知るのでは訳が違う。少なくとも、今ここで真実を知るのは危険だろう。なんせ、一歩間違えると三途の川へとコース変更を促されるだけじゃ」

 ヌシ様は首を横に振り、この場ではアヤメが置かれている状況を教えることは出来ないと伝える。しかも、三途の川へとコースを変えられる可能性があるなんて不吉なことまで言い始めた。

(どうしよう……私の悪夢は、自分自身が殺される前に途切れてしまう。今ここで真実の記憶を知ったら、完全に自分の死を受け入れたら……何かの反動で三途の川へと送り込まれるのかも知れない)

「でも、すでに水鏡のギルドからは姫様に会っていいって許可をもらっているし。従兄のスグルお兄ちゃんたちも塔へと辿り着いているはずなのっ。悪夢が現実だとしても、その解決は後でも出来るわ! 私のためのテストに付き合ってもらっているのに」

 真実を知ったとしても自分は大丈夫だから、とにかく先へと進ませて欲しかった。これ以上、家神一族の中で自分だけが足手まといになるのは嫌だから。

「おそらく、そのために黎明をお目付役として与えたのだろう。のう、黎明……お主はどう考える?」
「多分、セツナ様はこの展開を承知の上で我々を合流させたのかと。夢幻の塔は夢を現実化させるチカラを持つ特別な場所です。悪夢を再現させるわけにはいかない、けれどそれでもなお進みたいのなら……ある契約をしなくては」

 ヌシ様と黎明君の推測が正しければ、水鏡のギルドマスターであるセツナさんは湖の途中でストップがかかることを想定していたことになる。ある契約というのが、一体どんなものかは彼の口から今すぐ聞くことは出来ない様子。

「もしかして、この展開もギルドテストの一貫ってことなのかしら? でも、どうして何のために」

 てっきり夢幻の塔の中でギルド入団試験が行われるのだと思い込んでいたが、とっくに試験は始まっていたのだ。

「ねぇアヤメちゃん、ここはヌシ様の助言に従って一旦引こう。まだ夢幻の塔の中で、姫様にお会い可能性が消えたわけじゃない。それに、君の中にある違和感やチグハグな記憶というものは、そのうち君にとっての大きな障害となる。対処出来るうちに、手を施さないと……」
「黎明君……分かったわ。心のどこかで悪夢や記憶の変化が引っかかっていたのは事実だし。陰陽師デビューしたいのなら、見て見ないふりして生活するのは限界なのかも」

 本当は、アヤメを取り巻く環境に不審点が多いことは気がついていたことだ。だけど、余計なことを言って姉やスグルたちに迷惑をかけたくなくて、自分の中の奥深くに疑問も何もかも封じ込めていた。
 何も出来ない代わりに家族の邪魔をしないことで、ようやく陰陽師一族の中で呼吸が出来ていたのだろう。

「そうだね。まずは、落ち着ける場所へと移動しよう。僕が借りている拠点があるから、そこで立て直しをしてから改めて夢幻の塔へ行くか決めればいい」

 ヌシ様に会釈をして、後ろ髪引かれる思いを我慢して、ボートを夢幻の塔とは別の方向にくるりと変える。ボートはスタート地点に戻るわけではなく、黎明の拠点を目指すのであった。


 * * *


 自らの祠を失った龍神様たちの共同住宅の一室が、黎明の現在の拠点。住宅に入居するには、この界隈の水神として務めを果たすのが条件だ。
 本来なら水先案内人の仕事中でありボートを降りてアパート内部にお客様を入れるのは緊急時のみだが、管理人の許可を得てアヤメを入室させる。

「狭いところだけど入って! 何だか、思っていたより大変な状況だったみたいだね」
「お邪魔します。へぇ……随分と綺麗に片付けてあるのね。私も見習わなくっちゃ」

 こざっぱりとした1DKで、家具も少なくミニマリストの部屋といった雰囲気。異界の住宅は現世の基準と近しく作ってあるのか、一見するとごく普通のアパートのようにも見える。

「いきなりヌシ様からストップが入って疲れているだろうし、ちょっと休むと良いよ。冷たい烏龍茶でいいかな?」
「ありがとう……せっかく付き添ってくれたのに、目的の場所まで行けなくてごめんなさい。お仕事の成績に響いたりしない?」
「お客様の安全を守るのが、僕たち水先案内人の役目だからね。むしろ、夢幻の塔へ入る前に、危険性に気がつけて良かったよ」

 ガラスのコップに烏龍茶が注がれていくのをぼんやりと眺めるアヤメは、心ここに在らずに見える。やはり、一旦船を降りたのは正解だったのだと確信する黎明。

「ねえ、黎明君っていわゆる龍の神様なんでしょう? 私の今の状態ってどんなだか、分かるってことだよね。死に戻りをしているってことは、本当は私の肉体って死んだものなのかな?」
「いや、ぱっと見は肉体と魂がきちんと融合した状態で、生きている人間に見えたよ。ただ……夢幻の塔は、夢を再現するチカラが強くてね。君がただの悪夢だと思い込んでいた出来事が、現実だとして……完全にその時の状況を認識してしまったら」

 黎明が、続きを言おうとしていた自らの口元に思わず手を当てる。アヤメを傷つけないように、言葉を切ったのだろう。

「私の肉体は、もう一度死ぬってことか。ううん、本当はあの時に死んじゃっているのだとしたら今生きていることがおかしいんだわ」
「正確には、死にかけて戻ってきたって感じかな? 三途の川を渡りきった経験があるのなら、受付で狐の姐さんが照合した時に、そのことが記載されていたはずだからね。だけど、君が死に戻り経験者だってことは気づいていたみたいだ」

 しばらく、双方無言になる。結局、霊感を持たないアヤメが陰陽師になろうなんて考えは無謀だったのかも知れないと、アヤメ自身も思い始めていた。
 だが、それとは別にゾンビのような状態でいつ再び死ぬとも分からない自分の状況にぞくっとするのも事実。この試験を受けることになったおかげで、自分が死に戻っていることを知ることが出来たのだから。

「例えば、このまま今回の試験や陰陽師になることを諦めて、普通の生活に戻ろうとしたところで、何かの弾みで術が切れたら私って死んじゃうんだね。知らなかった……ただの悪夢だと思っていたから。もしかすると、このまま現世に戻ったらその瞬間に私……死んじゃうのかも知れないね」

 ポタポタと、アヤメの大きな瞳から涙が零れ落ちる。突然、自分の死を受け入れるなんて、この若さでは出来ないだろう。
 実のところ……【神との婚姻】という方法による解決策はあるのだが、それを行うには彼女の年齢はほんの少しだけ若い。自分との婚約が解決策になると切り出したかったが、わずかに足りない年齢を告げるのは残酷に感じた。
 けれど、もう時間がない……思い切って黎明は自分の思い当たる前世の因果を語ることにした。

「泣かないで、アヤメちゃん。君が泣くと、遠い昔に死に別れた婚約者のことを思い出す。数えで16歳になったら夫婦になろうと約束して……彼女は15歳のうちに天に召された。死んで生まれ変わったら、一蓮托生の魂として一緒になろうと誓った彼女の名前も【アヤメ】だったから」

 黎明がポツリポツリと語り始めた500年前の婚約者は、まるで家神アヤメ自身の前世の話のよう。

 まだ、2人の船旅は終わりを迎えていなかった。船の進み具合は水のうねりとともに次第に速くなり、運命の約束を果たすために……2人を結びあわせようとしていた。
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