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第1章 一周目
第16話 そして、九年前に戻る
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「うぅッ! なんですの。この黒い渦のようなものは? きゃあっ。来ないで、わたくし達に取り憑いて一体何がしたいんですのっ」
「落ち着いて、ヒルデ。大丈夫、大丈夫だよ。何があってもオレが守るからっ。記憶を消されようと、雷に打たれようと」
「フィヨルド……」
記憶を取り戻したフィヨルドは、いつもよりしっかりとしていて、不安がるヒルデをキュッと抱きしめた。ヒルデはフィヨルドの胸の中で震えながらも、芽生え始めてしまったジークへの想いに罪悪感を感じていた。
フィヨルドが記憶を取り戻すのと同時に、ヒルデもまた、夢の記憶を取り戻していたのである。残酷なまでに的確な、姿の見えぬ女性の声はヒルデの深層心理の奥に封じられたタブーに触れていた。
『じゃあヒルデ、もしジークがあなただけを愛してくれたら。フィヨルドのことを忘れて、あなたはジークの手を取るの?』
『えっ……それは。どうして、どうしてそんな意地悪な質問をするの? やめてよっ』
『意地悪じゃないわ。女の子にとって、とても大切なことよ。あなたは本当は……』
(わたくしは、バカだわ。こんな非常時に、あの夢のことなんか思い出して。ジークが他の女性を好きじゃなければ、なんだというの。わたくしを大事にしてくれるのはフィヨルドの方だわ。優しくてかっこよくて、ちょっと間が抜けている時もあるけど。彼と一緒にいるのが一番なのに)
不気味な渦の正体も分からず、怯えるヒルデをよそにジークや魔族医師が魔法で何とか瘴気を振り払おうとしていた。
「くそっ。こんな不思議な呪文、一体どこの誰が使っているんだ?」
「……こんな話をしたくはありませんが、もしかすると神殿かも知れませんね。滅亡のルートへ僅かながら傾いたため、歴史改変に入っているのでしょう」
必死に闇と戦うジークだが、振り払っても振り払っても闇は彼を襲い包んでいく。ヒルデもフィヨルドも、メイド達も……外の人達については状況が分からないが。もしかすると、神聖ミカエル帝国の市民すべてが、この闇に襲われているのかも知れない。
何処からともなく声が聞こえて来る。改変を告知するカウントダウンの機械音。
「神聖ミカエル帝国、市民の皆様。滅亡への可能性が五十パーセントを切ったため、これから歴史改変をスタート致します。分岐ルートとなる九年前まで遡りますので、魂と肉体が分離しないようお気をつけください」
予想どうりの展開だが、まさか十年前まで遡るつもりだとはつゆ知らず。およそ九年前といえば、ちょうどフィヨルドとヒルデが初めて会った頃である。まさか、あの出会いからやり直すつもりなのだろうか?
「ダメだっ! せっかく、ヒルデとの思い出を取り返せたのにっ。今度は全部、なかったことにする気なのかっ」
「フィヨルド、けど。僕が選ばれなかった場合は、キミが必要となるわけだから、おそらく出会いそのものは否定されない。問題は、その間の九年間だ」
ジークとフィヨルドが、あれこれ話し合っているうちに、ヒルデの記憶はどんどん遠ざかっていく。朦朧とする意識の中で、ヒルデは自分のこれまでの人生がどれほど虚しかったかを振り返っていた。フィヨルドが側にいてくれなかったら、絶望で死んでいたかも知れない。
そんな人生をもう一度、やり直すなんてあんまりなのではないだろうか。
「フィヨルド、ジーク、わたくし……これ以上は……。嫌だ、もう一度、同じ人生なんて嫌……」
願い虚しく、ヒルデはついに意識を失った。魂や肉体がみるみるうちに過去へと遡っていく。神の禁呪はヒルデの魂を霊界へと誘い、彼女はそこでもう二度と会えないはずの実母と再会した。
母は綺麗なお花畑に優しくたたずんでいて、ヒルデの頭をそっと撫でてくれた。
「お母様! 聞いて下さいな。神殿が、滅亡を回避するためにもう一度やり直すって。わたくし、またあの苦しい人生を送るなんて、嫌ですわ!」
「まぁヒルデ。あなたは、今までの人生の何がそんなに不満だったの?」
「何って、ほとんど。ほとんどですわっ。わたくし、別にジークになんか気がないのに、彼の側室候補達から嫌がらせされたり。不吉なことがあると、すべてわたくしのせいにされたり。フィヨルドと結婚したいのに。ジークから逃げ出したいのに、お告げのせいでジークからは逃れられなくて」
母はずっと黙って、ヒルデの話を聞いていたが、ヒルデが欲しい言葉はくれなかった。それどころか、思わず耳を塞ぎたくなるようなことを語り始めた。
「実はね、神殿のお告げは本人達が好き同士になれるか否かで判断されているの。だから、ヒルデはジーク君のことを心の何処かで好きなはずよ。ただ……気づいていないだけ。もう一度、聞くわよヒルデ。あなたは、もしジークがあなただけを愛してくれたら。フィヨルドのことを忘れて、あなたはジークの手を取るの?」
母から発する言葉は、例の神殿がらみの不思議な声が話す内容とまったく同じだった。もう一度聞くという言い回しからしても、おそらくあの声は母のものだったのだろう。
残酷な展開に、ヒルデは思わず耳を塞いで、泣き始めた。
「嫌よ、いやいや。あなたはお母様じゃないっ。お母様は、そんな意地悪なことを言わなかった。本物のお母様を返してっ」
「いいえ、ヒルデ。私はあなたの母よ。ただし、神殿と同化していて……人間だった頃のように、あなたの百パーセントの母ではなくなっているだけ」
「神殿と同化……あぁお母様は、あの神殿に取り込まれていたのね。どうして、どうして……」
母であって母でない、その女性は、再びヒルデの頭を撫でた。
「さあ、もうすぐ時の審判が終わる。滅亡の分岐点まであと少し。ヒルデ、いいこと? 次の人生は、素直に生きるのよ。運命の男性の手を離してはダメ。それが、辛い人生だとしても……」
「まってお母様、行かないで。お母様っ」
母とヒルデは、いつしか大きな川に隔てられて、その手に触れることすら叶わなくなっていた。深い、深い暗闇がヒルデを底へ、底へと、落としめていく。
「助けて、誰か助けて……。お父様、フィヨルド……ジークっ」
* * *
1人の少女が、自宅の階段から転びそうになっていた。どうやら貧血で気絶しそうな様子……すかさず、彼女の側にいた歳上の少年が、彼女の手を取った。
「大丈夫、ヒルデ。良かった怪我がなくて」
「ジーク……ありがとう。助けてくれて」
少年の年頃は、小学五年生くらいで黒い髪に青い瞳の美少年だ。少女よりも3歳くらい年上であるせいか、内面までしっかりとしている。ジークと呼ばれた少年に助けられた少女の名は、ヒルデ・ルキアブルグ。このお屋敷に住む公爵令嬢で小学二年生。
「わっ……ヒルデちゃん。また、立ちくらみを起こしたの? 駄目だよ、寝てなきゃ。まだ熱が下がっていないんだよ」
お姫様抱っこでジークがヒルデを二階の談話室まで運ぶと、下宿人の少年フィヨルドが、ヒルデをやんわりと叱る。まるで実の兄妹のような素振りだが、実のところ彼はヒルデの許嫁である。
「フィヨルド、ごめんなさい。ジークが遊びにきてくれたから、わたくしドラゴン退治の御伽噺を聞きたくて」
「仕方ないなぁ。無理しちゃダメだからね。ありがとうジーク。ヒルデを助けてくれて」
ヒルデの手を繋ぎ、フィヨルドは立ち去るジークを見送る。
「あぁ別に世話ないよ。ヒルデ、軽いし。今日はもう帰る……またな」
ぼんやりとした気分で、小さなジークの後ろ姿を見送るヒルデは、再び意識を失った。
3人の二周目の人生が、静かに始まる。
「落ち着いて、ヒルデ。大丈夫、大丈夫だよ。何があってもオレが守るからっ。記憶を消されようと、雷に打たれようと」
「フィヨルド……」
記憶を取り戻したフィヨルドは、いつもよりしっかりとしていて、不安がるヒルデをキュッと抱きしめた。ヒルデはフィヨルドの胸の中で震えながらも、芽生え始めてしまったジークへの想いに罪悪感を感じていた。
フィヨルドが記憶を取り戻すのと同時に、ヒルデもまた、夢の記憶を取り戻していたのである。残酷なまでに的確な、姿の見えぬ女性の声はヒルデの深層心理の奥に封じられたタブーに触れていた。
『じゃあヒルデ、もしジークがあなただけを愛してくれたら。フィヨルドのことを忘れて、あなたはジークの手を取るの?』
『えっ……それは。どうして、どうしてそんな意地悪な質問をするの? やめてよっ』
『意地悪じゃないわ。女の子にとって、とても大切なことよ。あなたは本当は……』
(わたくしは、バカだわ。こんな非常時に、あの夢のことなんか思い出して。ジークが他の女性を好きじゃなければ、なんだというの。わたくしを大事にしてくれるのはフィヨルドの方だわ。優しくてかっこよくて、ちょっと間が抜けている時もあるけど。彼と一緒にいるのが一番なのに)
不気味な渦の正体も分からず、怯えるヒルデをよそにジークや魔族医師が魔法で何とか瘴気を振り払おうとしていた。
「くそっ。こんな不思議な呪文、一体どこの誰が使っているんだ?」
「……こんな話をしたくはありませんが、もしかすると神殿かも知れませんね。滅亡のルートへ僅かながら傾いたため、歴史改変に入っているのでしょう」
必死に闇と戦うジークだが、振り払っても振り払っても闇は彼を襲い包んでいく。ヒルデもフィヨルドも、メイド達も……外の人達については状況が分からないが。もしかすると、神聖ミカエル帝国の市民すべてが、この闇に襲われているのかも知れない。
何処からともなく声が聞こえて来る。改変を告知するカウントダウンの機械音。
「神聖ミカエル帝国、市民の皆様。滅亡への可能性が五十パーセントを切ったため、これから歴史改変をスタート致します。分岐ルートとなる九年前まで遡りますので、魂と肉体が分離しないようお気をつけください」
予想どうりの展開だが、まさか十年前まで遡るつもりだとはつゆ知らず。およそ九年前といえば、ちょうどフィヨルドとヒルデが初めて会った頃である。まさか、あの出会いからやり直すつもりなのだろうか?
「ダメだっ! せっかく、ヒルデとの思い出を取り返せたのにっ。今度は全部、なかったことにする気なのかっ」
「フィヨルド、けど。僕が選ばれなかった場合は、キミが必要となるわけだから、おそらく出会いそのものは否定されない。問題は、その間の九年間だ」
ジークとフィヨルドが、あれこれ話し合っているうちに、ヒルデの記憶はどんどん遠ざかっていく。朦朧とする意識の中で、ヒルデは自分のこれまでの人生がどれほど虚しかったかを振り返っていた。フィヨルドが側にいてくれなかったら、絶望で死んでいたかも知れない。
そんな人生をもう一度、やり直すなんてあんまりなのではないだろうか。
「フィヨルド、ジーク、わたくし……これ以上は……。嫌だ、もう一度、同じ人生なんて嫌……」
願い虚しく、ヒルデはついに意識を失った。魂や肉体がみるみるうちに過去へと遡っていく。神の禁呪はヒルデの魂を霊界へと誘い、彼女はそこでもう二度と会えないはずの実母と再会した。
母は綺麗なお花畑に優しくたたずんでいて、ヒルデの頭をそっと撫でてくれた。
「お母様! 聞いて下さいな。神殿が、滅亡を回避するためにもう一度やり直すって。わたくし、またあの苦しい人生を送るなんて、嫌ですわ!」
「まぁヒルデ。あなたは、今までの人生の何がそんなに不満だったの?」
「何って、ほとんど。ほとんどですわっ。わたくし、別にジークになんか気がないのに、彼の側室候補達から嫌がらせされたり。不吉なことがあると、すべてわたくしのせいにされたり。フィヨルドと結婚したいのに。ジークから逃げ出したいのに、お告げのせいでジークからは逃れられなくて」
母はずっと黙って、ヒルデの話を聞いていたが、ヒルデが欲しい言葉はくれなかった。それどころか、思わず耳を塞ぎたくなるようなことを語り始めた。
「実はね、神殿のお告げは本人達が好き同士になれるか否かで判断されているの。だから、ヒルデはジーク君のことを心の何処かで好きなはずよ。ただ……気づいていないだけ。もう一度、聞くわよヒルデ。あなたは、もしジークがあなただけを愛してくれたら。フィヨルドのことを忘れて、あなたはジークの手を取るの?」
母から発する言葉は、例の神殿がらみの不思議な声が話す内容とまったく同じだった。もう一度聞くという言い回しからしても、おそらくあの声は母のものだったのだろう。
残酷な展開に、ヒルデは思わず耳を塞いで、泣き始めた。
「嫌よ、いやいや。あなたはお母様じゃないっ。お母様は、そんな意地悪なことを言わなかった。本物のお母様を返してっ」
「いいえ、ヒルデ。私はあなたの母よ。ただし、神殿と同化していて……人間だった頃のように、あなたの百パーセントの母ではなくなっているだけ」
「神殿と同化……あぁお母様は、あの神殿に取り込まれていたのね。どうして、どうして……」
母であって母でない、その女性は、再びヒルデの頭を撫でた。
「さあ、もうすぐ時の審判が終わる。滅亡の分岐点まであと少し。ヒルデ、いいこと? 次の人生は、素直に生きるのよ。運命の男性の手を離してはダメ。それが、辛い人生だとしても……」
「まってお母様、行かないで。お母様っ」
母とヒルデは、いつしか大きな川に隔てられて、その手に触れることすら叶わなくなっていた。深い、深い暗闇がヒルデを底へ、底へと、落としめていく。
「助けて、誰か助けて……。お父様、フィヨルド……ジークっ」
* * *
1人の少女が、自宅の階段から転びそうになっていた。どうやら貧血で気絶しそうな様子……すかさず、彼女の側にいた歳上の少年が、彼女の手を取った。
「大丈夫、ヒルデ。良かった怪我がなくて」
「ジーク……ありがとう。助けてくれて」
少年の年頃は、小学五年生くらいで黒い髪に青い瞳の美少年だ。少女よりも3歳くらい年上であるせいか、内面までしっかりとしている。ジークと呼ばれた少年に助けられた少女の名は、ヒルデ・ルキアブルグ。このお屋敷に住む公爵令嬢で小学二年生。
「わっ……ヒルデちゃん。また、立ちくらみを起こしたの? 駄目だよ、寝てなきゃ。まだ熱が下がっていないんだよ」
お姫様抱っこでジークがヒルデを二階の談話室まで運ぶと、下宿人の少年フィヨルドが、ヒルデをやんわりと叱る。まるで実の兄妹のような素振りだが、実のところ彼はヒルデの許嫁である。
「フィヨルド、ごめんなさい。ジークが遊びにきてくれたから、わたくしドラゴン退治の御伽噺を聞きたくて」
「仕方ないなぁ。無理しちゃダメだからね。ありがとうジーク。ヒルデを助けてくれて」
ヒルデの手を繋ぎ、フィヨルドは立ち去るジークを見送る。
「あぁ別に世話ないよ。ヒルデ、軽いし。今日はもう帰る……またな」
ぼんやりとした気分で、小さなジークの後ろ姿を見送るヒルデは、再び意識を失った。
3人の二周目の人生が、静かに始まる。
応援ありがとうございます!
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