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籔入りの新月
しおりを挟む――令和四年八月――
街路樹に寒蝉の奏でる晩夏、暮れ始める日差しが一時の時間を待たせたように、世継ぐ縁は鈴音を揺らし続けていた。
「まったくクラスのヤツ等ときたら……双子なんだからしょうがないじゃないか、似てるのはなぁ千里」
「私もめんどくさかったからさ、その為に今日美容室でばっさりショートにしたんだからもう間違われないって、百合香ネェはロングのままなんだし……そういえば優さんって髪の毛も綺麗だよねぇ、美人さんだしさぁ。やっぱりお母さん似なの?」
「私の母親? ううん、私なんかと比べようがない程に……」
――平成元年七月十四日――
海からの湿気がひどく強い日、鹿児島県の郡山町に向かう父の車に背中を委ねていた。八歳を迎える祝賀だからと肩を揺らす父を案じ車窓に空を仰いだ。思えばこの頃に父は既に手遅れだったのだろう。私は物心が付く前に他界したと聞かさている母を切望していたけれど、当時に禁忌の如く写真ひとつすら無い様はまるで蜉蝣のようで胸中に殊更美化されていた。
憂鬱を抱える事ではない。祝いなのだから微睡み果てるまで菓子を取れる。子供にしてみればこの上ないはずだけど、私は迎え待っている母方の『生家』が随分と鬱屈だった。県道を逸れてから三十分程の集落に構える家屋は土間や囲炉裏まである平屋作りで、現代生活には存分不便な代物だ。ましてや知らぬ母の親というのだから、もはや謂われが無いと伺いを避けていた。祖父母に忌み嫌われていた私は故にだろうと幼心に捉えていたけど、今にしてならあの席は八歳になる手前に私を討つ謀りだったようだ。
迎えた祖父母に促された鴨居の先、十畳程の居間には長く垂れ下がる松廊蔭を灯さずに四隅に蝋燭を揺らがしていた。薄暗さの中で放っていた障子の月明かりに隠り世を映しているような白い鳥居が見える。近くにある常葉尾神社のものだ。平安時代の常磐御前所縁の場所らしく彼女はそこで二人の男子と一人の女子を産んだらしい。
呆と魅入る最中、覆うような匂いに打ち手が三度響き『祝いは終わりだから早く箸を取って食せ』と祖父母が畝らせた顎を向けた。慌て啜った椀の中にチクリ……ガリガリッと蟲のような違和感が襲う、何度も唾液を急がせたけれど、幾許持たずそれは月を隠す雲のように私の瞼を閉ざさせた。
カリッ……カリカリカリ……そんなものを食べるなんて随分な物好きだと微睡んでいた意識は、胸にのし掛かった違和感と父の怒号に還された。仕掛け人形のよう首を藻だれた先に父と言い争う祖父母。数え八っつ遮那のうちに鎮めないとダメだ、その血をもつのだと。刃物を握る祖父の姿と言葉は、受け入れようとする意識を保たなくした。
この頃既に随分と体力が落ちていた父だったけど、二人がかりとはいえ、祖父は敵うはずもなく刃物をこぼし床に手のひらを叩いた。その拍子、蝋燭立ち昇る朱が祖の裾を染めはじめ、祖母の悲鳴と共に背中まで響くようなおびただしい人数の足音がした。おそらく儀式のようなこの祝いに複数の人間が関与していたのだろう。
多勢に無勢、抗っているのは父一人だ。毒に侵され四節が利かない私は、まるで叶わず絶叫に落ちる父の膝を眺めた。次第祖母の裾から滲んだ朱は業火と立ち上がり、柱が熱に割れはじめる。ここまでかと喉元の熱が意識を奪いかけた時、突然鎌鼬の如く目の前が裂け、白煙と足音を消し去っていった。
朧に覗かせた継ぎ目からさらさらと黒髪が揺らぐと、塵いぶる白煙の中に蜜飴のような香りが漂う。常磐御前の血を継ぐ麗人……私の母、美穂さんだ。
しかしすでに熱と煙を吸いすぎていた意識は晦冥の霞よう私に漆黒を下ろさせた。母に抱え運ばれたのだろう、蜜の香りに睫毛を霞ませると黒髪の隙間から白い鳥居が覗いていた。天空向かう聳えた様は、まるで贖罪のごとく、修業を許されたようで、その安堵に私は再び瞼を落とした。
「……うん、ようやくだな。随分と待たされた」
虚ろに向けた先、座としていても長身が分かる腰のくぼみにさらさらと黒髪を撫ぞる母が居た。あちらこちらに軋む身体を這わせ囲炉裏の対に膝をおると、湯気香る赤黒な汁を差し出される。しかし見るからに不気味な椀に躊躇する私に「あかくろと言って毒抜き、死に代わりだ」と促した。
掬い終わってから幾分蝋燭が溶けたころ、喉を激しく掻く痛みに、真黒く水飴が溶けたような固りを吐き出すと「九泉の蟲だな、もう大丈夫だろう」と母が肩を抜いた。ひと安心という事だったのだろう。
余程だった父はもれなく救急車で運ばれたと聞かされている。家屋ひとつが全焼したのだから集落とはいえ、随分な騒ぎになったらしい。この時の私はベトナム国籍の美穂さんが母という事も父と血縁が無かった事も知る由がなかった。教えてもらえていたら……ともだけど身体があるウチは素直になりきれないというヤツだろう。私も目の前の二人に何ひとつ語れていないのだから。
この後すぐに私は “ 親族 ” なる家に引き取られた。だけど炎の中で父が足掻いていた姿は今も記憶に焼き付いている。母が私を委ねたのだから何分素敵な男性、間違いなく私の父なのだと。血脈を繋いでいる父は随分と周りくどく私を愛してくれたようだけれど、本当、鏡子さんいわく『どいつもこいつも捻くれていやがるっ』って感じだ。
翌朝、深く夢路を覚えた暁の月が消えぬ頃、さらさらと着物を羽織らされる。左前に廻された腕に母を見上げると、さも『これでいいの、大丈夫』と微笑み紅粉を彩していった。朝露渇かぬ中、紅唇に朱の着物を纏いきらきらと白い鳥居を戻る姿は随分な色彩だっただろう。
――「さあ、私達の愛を思い出して」
私になる僕を母はあの時、いや最初から知っていたのだろう、寒蝉の声を聞くと『鬼が居たり悪魔が居たりな、創造と想像さ。無になるのなら呼ばれ戻ってくるよ貴方の元に。ね、おひいさん』と微笑む記憶が蘇える。
この温かさは皆が記憶を繋げてくれたおかげ……だからね、ずっと一緒……いや、いつでも側に居るのだもの私達は。
ゆるり瞼を開くとカウンターを挟んだ百合香が緩んだ表情に首を傾げていた。どうやら二人の瞳に今だ取り憑かれているらしい。それはもう仕方がないだろう、惚れた呪いなのだから。
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