朱の緊縛

物の怪

　扉の鈴が揺らぎを止め、先程までの事変がまるで嘘のように静まる店内。窓に激しく打ち付ける雨音だけが響いている。乱雑に倒れた椅子を戻した平田さんがウィスキーを注文した。私はロックグラスを手に取り、砕いた氷にウィスキーを注いだ。何かを言わなくてはならないはずだけど収まらない鼓動と膨らんだままの不安はこの気配に口を開く事を許さなかった。

　鏡子さんの吐息がゆっくりと右側から流れていた。思案しているように眼を閉じて呼吸を整えている。その気配に掛ける言葉も見つからないまま、いつものようにマドラーを廻し、氷を溶いたウィスキーをカウンターに乗せると、平田さんがそれを傾けて音を鳴らす。氷の音と雨音だけがまるで時間を拒絶するように響ていた。

「信じがたいだろうがな。柏木スミレ、亀山。鏡子は知ってるんだろ、ヤツらの “ 特異体質 ” を。冷静に考えろ、そんなヤツらが公安の監視対象じゃない訳がないだろ……もちろんここに居るお前ら三人もな」

　思考が振り乱される。公安の監視対象って……確かに鏡子さんも奴代ちゃんも人並み外れてはいるけど、だからと言って亀山さんが連行されたりピコさんが行方不明になったりした事と一体何の関係が……と言うか、わ、私も監視対象って

「聞け鏡子、これは最悪世界戦争にまで繋がり兼ねない事案だ。お前ら全員の協力、力が必要なんだ」

　世界戦争って……いったい平田さんは何を言っているの？　店内の空気がぐにゃりと捻れたような感覚に襲われる。理解不能とかの次元じゃない、だけどこの後から続いた平田さんの話しは店内に研ぎ澄ました空気を流し始めた。


――事の始まりは二週間程前のローマ教皇ヨハネパウロ二世の死去から始まった。彼の存在で多少の制圧があったイスラム主義の組織がその死去をきっかけに動きを始めたのだ。昨今の戦争はいわゆる “ 情報戦争 ” である。イスラム組織はそれまでも世界中のあらゆる情報を収集していた。そして未来を的確に予知できるピコさんの存在を知り拉致した。その能力を利用し戦争をする為に。その可能性も含め、私達は公安の監視対象となっていたのだが、皇居敷地内での犯行などと想像の範疇を越える事柄には全く身構えていなかったのだ。

「亀山はアメリカのバージニア州、国防総省。ペンタゴンに伊丹と向かわせた。手錠は単なる手間省きだ。そこで亀山はハッキング能力を使って俺たちに指示を出してもらうのだが、俺達や軍隊だけじゃ埒があかないヤツが敵さんに居るんだよ。お前らじゃなきゃ恐らくヤツに裁判を下せない。イスラム組織、カオダボ教の支配者だ。鏡子……ヤツはな、恐らくお前の世界で言う所の “ モノノケ ” なんだよ」