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エニグマ
しおりを挟むドアノブの上部に設置されたカバーに覆われているテンキー。鏡子は一人都内の一角にある雑居ビルのエレベーターに乗り、三階で降りると呼び鈴も鍵穴も見当たらないドアの前に立っていた。
『切り口を見つけたらすぐ連絡するさ。それまでは身軽の方が都合がいいんだよ』
天久と奴代にそう言葉を預けてきた鏡子は、至極当たり前に暗証番号を入力しそれを解錠させる。扉の向こうは、あの男 “ 波岡 ” が居た “ トゥーハンドレットアルファ ” だ。
鏡子の知る普段のこの部屋は、異質とはいえ多少なりともの気配がある場所だった。が、まるで人間だけが別の世界に消えてしまったように乱雑さを残し、部屋は体温を消している。その光景にドアノブを握ったまま一時爪先を止めていた鏡子だったが、遠く視界に捉えた “ それ ” にまるで吸い込まれるように駆け寄った。
“ それ ” とは部屋の一番奥の机。そう、いつも空にした大量のビール缶を並べて一人チェスの盤の前で頬杖をついていた波岡の指定席だ。
主人が消えたせいなのだろう、盤に上の駒はまるで無造作だ、中には倒れている駒までがある。それは慌て席を棄てざるを得なかった混迷が故なのだろう……しかし鏡子は混迷の残骸に慌て取り乱す事も無く “ 無造作 ” に乱れるチェスの盤をただ静かに眺め、二本目の紫煙を揺らがせた。
「鏡子様っ」
チェスの盤の前で随分の時間を立ち竦み没入する鏡子を背中の声が引き戻させる。入室の際、鏡子が自動的に施錠されないように床に俯いていたグラスを脚で転がし咬ませておいたドアが突然切らした息と共に大きく開かれ、スーツ姿の男性が喚呼を上げたのだ。
鏡子は濃い紫色とも漆黒とも見えるような眼差しをゆっくりと声の主に向け「あぁ……忠国。すまない、また世話をかけそうだ」と至極穏やかに微笑む。その穏やかさはまるで無理矢理氷結させた猛炎のようだった……それは忠国から言葉を失わせ、佇む脚にしばらくの時間を忘れさせた。
『クイーンがポーンとビショップに囲まれ……ルークが倒れたキングとナイトに……』
佇んだままの忠国を余所に鏡子はチェスの盤に意識を戻すと二本目の紫煙を揺らがせながら小声で呟き始める……と、唐突に紫煙をチェスの盤で揉み消すと身体を翻し、まるで扉までの距離を瞬間的に移動したかのように忠国の肩を叩くと「青森の六ヶ所だっ行くぞ、忠国っ」とニヤリと口角を上げ、愛車のキーを指先でくるくると遊ばせた。
僅かな時間も惜しむように三階からの階段をカツカツとかけ降りる鏡子の背中を、忠国は慌て追いかける。二人は親子程に離れた年齢の差だが、その関係はまるで相変わらずだった。
――朱いイタリア車、街路樹の影を映しながら銀色に光るフロントグリルは、口を大きく開けてまるでその牙を見せびらかすように主人の帰りを待っている。それはインド神話、ビシュヌを乗せ朱い翼を拡げるガルダが牙を剥いているかのようだ。
ヒールの音を止め、おもむろに立ち止まると色を変え始めた空に顎を向け「黒揚羽……か」と鏡子がポソリ囁く、そして何か眼を細めながらガルダの頬をすーっと撫で上げ、いつものように鏡子はその翼を開き腰を降ろした……至極当たり前のよう、何事もなかったように。
「鏡子様、私が運転席ではなくて良いのですか?」
忠国は鍵を廻しかける鏡子の首筋に問い掛けた。ここから目的地の青森までは悠に七百キロはある、どれだけ無理をしたとしても八時間を要する距離だ。途中で運転の交代と言うのが普通だが、鏡子の “ 性格上 ” それが難しい事だというのを忠国は過去に何度も思い知らされていたのだ。しかし、忠国が耳にした言葉は意外なものだった。
「んあぁ、すまないが帰り道を頼む。さすがにキツいと思うんだ、アレに慣れるまでは」
鍵が廻され夕刻の街路樹が音圧に揺らぐ……少し首を傾げた忠国を助手席に乗せた銀牙は車体の朱い残像を白煙に消し、高速道路へと向かった。
夕刻の日射しが車体に跳ねてオレンジ色に変わる。しかし渋滞を抜けようやく川崎ジャンクションから東北道に乗った頃には道路を照らす照明に鏡子の愛車はすっかり朱を取り戻していた。
頃合い、鏡子の指先に動く回転計も落ち着きヘッドライトだけが頼りになった時、珍しく忠国から疑問の言葉が出た。一連の事態を全く知らされていない事を考えれば、それは至極当たり前の話しなのだが、それは忠国の “ 鏡子に向ける信頼 ” なのだろう、これまでに忠国が鏡子に疑問、質問の言葉を投げる等と言う事はめったに無かったのだ。
「鏡子様……ところで何故突然 “ 青森 ” なのですか? というか一体何があったのです」
今日一日。いや、たった半日で起きた事の重大さ、重要さ…… “ 縁 ” そして廻し始めてしまった “ 宿命、輪廻 ” ……際限無く続く鏡子の言葉に殊更眼を見開き、無言のまま聞き入っている忠国。鏡子が全てを話し終えた時は福島県郡山の看板を背中にした頃だった。
「波岡さんの残したチェスの配置。あれな、六ヶ所村の核処理施設だ」
始まった説明に忠国は度肝を抜かれていた。確かにそう想像すれば青森というのは合点がいくのだろうが、あくまで想像の範囲を出ていない。いわゆる妄想のはずなのにここまで確信出来るというのは二人がお互いの能力を認めているということだろう。
しかし濃縮された放射性廃棄物に身柄を拘束させるとは余りにも突飛だと忠国は不安気にステアリングを握る鏡子を見做ていた。忠国が呼び出されてから八時間だ。その間ステアリングを握っていた鏡子の横顔はその気配を微塵も覗かせなかった……それは後の運命を知った覚悟が既にあったのかもしれない。
――三沢十和田下田インターを降りてから僅か賑わう幹線道路の道沿いで鏡子はおもむろにホームセンターに車を立ち寄らせた。ケタケタとした笑顔で「随分経費がかさむ仕事だ」とまるでピクニックにでも行くような雰囲気だが、そこでやたらと積み込みれた大量の荷物は尚更忠国の表情に不安を映す。
後の小一時間で二人は六ヶ所村の放射性廃棄物処理場に脚を着ける。手筈は伊丹、平田の伝で既に済んでいたのだろう。朱い唸りはすんなりと構内奥の処理前保管棟に進んだ。
そこで天空届くような処理棟はまるで浮き世を拒むよう強靭に構えていた。
「車で待っていろ、忠国には大切な仕事をしてもらわなくてはならない」
そう言い残し背中を見せる鏡子。先ほど仕入れたビニールやらテープやらで狭いリアシートを天井まで被い尽くせと忠国に指示したようだが『ここに魚を放つつもりで隙間無く頼む』等と無茶を言われた忠国は随分な手間を取られていた。
三十分程経った頃、周囲の砂が朱いガルダを激しく叩き着ける中に埋もれ掻き消された僅かな声と業火のような気配に忠国がその手を止めて振り返ると、まるで異世界から得体の知れぬ “ 塊 ” を引き摺り出してきたような鏡子の姿があった。尋常ではない程に凋落した鏡子の相貌は言葉と共に忠国から智見を奪う。
ぬめりと音を立て囲われた養生に鏡子が塊を放ると僅か隙間から茹だる波岡の顔が覗いた。大丈夫かと撫でる鏡子の指先は鍵盤を弾く如くに跳ねている。余程煩雑であったのだろう……その様はまるで奈落から這い出て来たようだった。
「皇居だ。奴代に託け手を回してある。遠慮なく飛ばせっ手遅れになる」
私は寝ると背中を落とすまでに忠国が聞いた話だと、毒を飲んでも大丈夫という波岡の特異は崇められ役にはもってこいだからとカオダボ教の人身御供を担っていたようだ。しかし波岡が承諾した理由は邪気等では無く、娘の身柄が神弥宮に握られているが為だった。境遇に在りながらも波岡はカオダボの暴走を止めようとしたが、人質を捕られていてはおいそれと漏洩するような事は出来なかったようだ。もしかすると川崎モトキの件は波岡の仕業だったのかも知れないと鏡子は言った。
「戦争……経済を撹乱し武器弾薬、医療そして世界の宗教総合。旗を振ったのはカオダボだ、それに神弥宮は乗ったのだろう。大丈夫だ、波岡さんの免疫力は伊達じゃないさ。私は……多少やられてしまったがな。行くぞ忠国っ、波岡の娘さんを救い神弥宮……義平を完封に討ち取る」
事切れた様に瞼を閉じ背を委ねる鏡子を隣に忠国は朱いガルダの銀牙を再び唸らせた。
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